dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

久々に2本連続で観てきました。

久々に時間と金ができたので。

「フォードVSフェラーリ」と「リチャード・ジュエル」の2本を。

 

「フォードVSフェラーリ」はですね、冒頭の真っ暗な、ややもやがかかったコースを車のライトが照らしながら走行するあのシーンからのマット・デイモンの顔アップで涙腺に来た。

なんというかこう、無垢な美しさといえばいいのでしょうか。あの表情とあの路面が観れただけでかなり満足してしまった。

あと、何気にあそこまで空港(?)の発着場を綺麗に描いた映画ってあんまりないんじゃなかろうか、とか考えてしまった。

空港でのアクションは多々あれど、記憶にある限りだとほとんど夜中の真っ暗なシーンだったりあるいは真昼間とまでは行かずともとても明るかったり。

それに対してこの映画でチャンベール親子が寝そべってるシーンの空のコントラストと背景に徹する遠くの建物が放つ丸い光の点。

美しい、というよりも綺麗というべきだろうか。ジェームズ・マンゴールドの映画は「アイデンティティ」と「ナイト&デイ」と「ウルヴァリン」シリーズくらいしか観ていないのだけれど、こんなに綺麗な光景を撮れる人だったかしら。これはむしろ撮影監督のフェドン・パパマイケルの手腕によるところが大きいのかもしれない。

ウルヴァリン」シリーズの撮影監督は別の人らしいし(アイデンティティとナイト&デイはこの人だけど)。

あとバストサイズや顔面のアップが多いのといい、役者の顔を撮ろうとしているところに個を切り取ろうとする意志を感じる。

それは企業VS企業というような分かりやすい二元論に持ってかれそうなところを、しかしそのタイトルに反してこの映画が映しとるのは徹底してチャンベールとデイモン。

だからル・マンの24時間耐久レースで、チャンベール以外にもチームのドライバーがいるはずなのにそのシーンはほぼ全カット。

それくらいこの二人(とその周辺人物)の顔を撮り続ける。そこからラストのコーナー前のチャンベールの横顔が流す涙。

7000回転を超えた者だけがみることのできる光景。それはこの映画の冒頭でデイモンのモノローグが添えられたあの暗闇の道に通じるのだろう。だからのあの光景は綺麗だったのだ、と。

けれどそれをみることができたのはチャンベールだけだ。7000回転を超えた世界で彼が何を観たのかは観客はわからない。だから彼がどうしてフォードの思惑を受け入れたのかを観客に知る由はない。それは彼だけのものだからだ。

 

 

この映画は、そういう光景を描いた(あるいは描かない)映画なのかもしれない。

企業云々とか、友情云々とか、そういう風に語る余地は十分にある映画なのかもしれないけれど、ここまでピュアな「光景」を描いた映画でそういう分かり切ったことを語るのは野暮な気もするのです。

 

 

さて、お次は「リチャード・ジョエル」です。

ゴーンさんによって世界的に明るみになった日本の司法制度の悪辣さといいオリンピックイヤーといい、やけに日本にタイムリーなネタ。

とはいえイーストウッド映画。「運び屋」を未だに観ていないわたくすの不徳はともかくとして、相変わらずの観照者な振る舞いを撮り続けるイーストウッド翁。

リチャードが観ていないのなら爆発の瞬間も映すことはない。彼の背後で、タワーの向こうで淡々と爆発する。過剰に演出するピーター・バーグなど歯牙にもかけない怜悧な視線。

きっちりかっちと適材適所にパーツを当てはめていく。リチャードとバーバラの涙ながらのやりとりのシーンで感動げなBGMを流し二人のやり取りが終わるや否やすたこらさっさとフェードアウトするそのBGMといい、少し笑ってしまうほどです。

だからことさら寄り添ったりはせず、あるいは劇中でのアクションがすべて劇中で必ずしも物語に意味を付与するというわけでもない。

ただ淡々と撮るのみ。ここ数年は実話ベース+英雄と称される人間とそう呼ばれるようになった出来事を撮ってきていたイーストウッドでございますが、今作もそれに連なる部分がある。といってもイーストウッドのスタンスは英雄という存在を反証するために英雄を題材にしている節がありますが。

ほとんどシミュレーション再現映画の様相を呈していたのが「15時~」で極に至った後の本作(「運び屋」どうだったのかわからないのが気になる)で、何かが劇的に変わったような気はしないのだけれど、その不変不動、不滅にして不死のイメージを未だに体現しつづけるイーストウッド

「グラントリノ」で自己清算したにもかかわらず、今なおイーストウッドが最強のジジイであり続ける所以が、この不変不動のまましかし時代に適応しようとする凄まじい姿勢にあるのかもしれない。そう思った一本でした。

 

場外でのことですが女性記者の描き方がステレオタイプであると批判されているようですね。まあイーストウッドだしあそこは多分脚色とかではなくそのまま情報ソースから抽出したのではないかと思のですが、どうなのでしょう。