dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

パラサイトと1917観てきた

うーん・・・ちょっと前までは3本連続で観てもここまで疲れなかったんですけど、今日は2本連続で観ただけでかなり疲れてしまった。まあインターバルなしなのとカロリーの高い映画を観たから、というのもあるのでしょうが。

パンフレット買うのも忘れちゃうし、入場前にチケット紛失するし、今日はさんざんでございました。んでもってそこに「パラサイト~」ですよ。

のっけから余談で申し訳ないのですが「パラサイト」と言えばロバート・ロドリゲス監督イライジャ・ウッド主演のSFホラーの方を思い出す人も多いのではなかろうか。
今見ると「ワイルド・スピード」でおなじみジョーダナ・ブリュースターや旧X-menジーン役でおなじみのファムケ・ヤンセンとか出てるし純粋に映画として面白いんですけど(ロドリゲス監督なのでオマージュ多めだし)、「パラサイト半地下の家族」との題名かぶりで検索汚染されてしまうのではないかとちょっと不安になったりならなかったり。まあ「イライジャウッド」でサーチエンジンに入力するとサジェストで「パラサイト」が出るくらいなので大丈夫かとは思いますが。

 
もう十分に語りつくされた後なので言いたいことは他の人がほとんど言ってくれているんですが、まあポン・ジュノは本当に欺瞞を暴き出す監督だなぁ、と。「母なる証明」でも書いたけど、その欺瞞の炙り出し方が容赦ない上に表現として本当に優れている。

格差の描き方としてのいくつかのモチーフ。今回で言えば階段(や坂道を使った「上下」の表現)や、「母なる~」でも重要だった窓ガラスはとりわけ分かりやすいものでした。
階段は、まあ明確に階梯=階級を想起させるものでありますし。実は宮崎駿もその上下のモチーフをかなり取り入れている人(「未来少年コナン」「天空の城ラピュタ」などはかなり分かりやすい)なので、宮崎アニメに慣れている人なんかは直感的に感じ取りやすいのではないでしょうか。

その上下(というか高低差)モチーフは、本作においては明確なヒエラルキーを映し出す。それはキム一家とパク一家という別々の家族の中だけでなく、キム一家のあの半地下の家の中にさえも存在する。

冒頭のWi-Fiのくだりを見れば一目瞭然ですが、あの半地下の家の中でWi-Fiが繋がる唯一の空間は、「階段」を「上った」ところにある。その空間がトイレ、というのが容赦ないポン・ジュノクオリティ。唯一の救いの場所が汚わいの溜まり場て。

そんでもってパク一家の中にも見える形の上下と見えない形の上下が存在する。
実はさらに下があった、ということもそうなのですが、見えない差別の形というのはもちろん女性差別の構造でございます。まあ見えないというと語弊はあるわけですが、パク・ドンイクと妻()の間にある明らかなヒエラルキーはトロフィーワイフとしての関係性以上のものを見出すことは不可能だろう。

金持ち一家の家は坂を「上った」ところにあるのも露骨なのですが、その格差が実は思っていたよりも大きいものだったというのがわかる、キム一家全員が寄生に成功してパク家のリビングで騒ぎ始めたあのシーンの直後。

どうにかこうにか脱出したキム一家の三人が豪雨の中家に戻る道程。彼らはひたすらに道を下っていく。ほとんど地面と平行に走っているカットはないくらいにひたすら道を下っていく。
何度も何度もそういった階段による高低差を横からの分かりやすいアングルで捉えたりするわけですが、後述するように実はこの階段を撮るアングルというのも結構重要なのではないかと思いまする。


ポン・ジュノ映画における窓(ガラス)の使い方は相変わらず。
窓ガラスの向こう側とこっち側。向こう側が見えない壁とは違い、対岸をありありとみることのできる窓ガラスという透明な障壁はむこうとこっちが連綿と繋がっていることを嫌でも意識させる。

それは「ガラスの天井」や「ガラスの地下室」と呼ばれるスラング(?)があることからもよくわかる。
そして、映画におけるアクションとして粉々に割られることの多いガラスは、しかしこの映画においてはその匂いすら付け入るスキがない。まあ、単純にそういう風に見せるアクション映画ではないというだけではあるのですが。

あとインディアン、というのもかなり意味深(というか露骨すぎるきらいはありますが)で、その歴史性を考えればギテクがインディアンの格好をすることや同じくドンイクがインディアンの格好をするということのまったく異なる意味合いが生じる対比的多層性は、窓ガラスによって敷居られるレイヤーの違いという描写と一体である。

そうやっていくつもの対比を執拗に重ねることで、むしろ両者が同質化していくように見える。

で、ここでさっきの階段のアングルという話が出てくるわけなんです。

というのもキム・ギテクがドンイクを刺殺した直後に階段を下って逃げていくカット。あそこは真上からのアングルで撮られているんですよね。

それがもたらす視覚効果というのは何か、と考えたときに「上下」感覚の消失なのです。階段(というか段差、高低差)というのは横から見るからこそそこに上下の関係が見えるわけで、それを真上から撮ればそんなものは消失する。

だからあの瞬間のキム・ギテクには上下も何もなかったのではないか。「上」であるパク・ドンイクを殺し「下」であるグンセが死んだ今、もはや上下など何もないのだと。相対化されるべき他者が喪失されれば、そこには上下なんてものはない。

だけれど、それはとても荒涼とした景色だ。

そこで終わらず、わずかばかりの救いのようなものを提示して終わるわけだけれど、果たしてあんな「三人でやる大富豪の都落ち」を観ているような奇妙なループの感覚を抱いたままの救いを救いと言っていいのか。チェ・ウンクの顔も彼がいる空間の暗さも、あまり希望に繋がっているとは思えないのだけれど。


と、ここまで書いたところでもう一つ重要なモチーフとして「におい」があることを忘れていた。なので書く。

観ればわかるとおりキム一家の「におい」と彼らよりもさらに「下」の臭いを発するムングァンの「におい」、そしてそれに対するドンイクの反応。それがどういう帰結をもたらすのか。

それにしても、なぜポン・ジュノは「におい」を選んだのか?
におい、というのは映画というメディアにおいて観客には到達しない情報である。4DXならば、という人もいるかもしれませんがあれは広告で「Scent」と謡っていることからもわかるように地下の住人のようなにおいを造り出そうとはしていない。
そりゃそうです。わざわざ映画を観に来て金払って不快な臭いを嗅ぎたい人はそうはいない。

それこそが、ポン・ジュノが観客の中の欺瞞を抉り出そうとしていることの証左にほかならない。キム・ギテクがドンイクを殺すに至ったその大きな撃鉄を引いたのは、ほかならぬ「におい」によるものだった。

けれど、どれだけ観客がキム(一家)・ギテクに感情移入したところで、殺害に至る大きなきっかけである「におい」を感じることは決してない。そしてその「におい」がわからなければそこに向けられるドンイクの侮蔑的な態度に本気で憤ることはできない。
いや、憤ったところでそれは欺瞞でしかない、それらをまるごとひっくるめて理解できなければどうあがいたところでキム・ギテクに感情移入することは許されない。そんなことはない、などと言える人はそれが自己欺瞞だと気づいていないだけだ。

もちろん、この映画内において、というか映画というメディアでは少なくとも今のところは観客がギテクと同化するための術を持たない。だから、のうのうと映画館に来て映画を観ることのできるような「裕福」な人間がキム一家に、グンセらに感情移入することはそれ自体が大きな欺瞞なのだとポン・ジュノは突きつける。

だから私は、グンセがついに動き出したときに、暴れまわったときのその「真っ当な怒り」を原動力に暴れまわる姿に感動したにもかかわらず、それが欺瞞であることを突きつけられて居心地がとても悪かった。

それは、映画の持つの力を最大限に使って映画の持つ力を否定しているようなものなのではないかと思うのだけれど、そんな映画がアカデミー賞を獲得するというのもなんだか凄まじくアイロニカルな状況である。

とはいえそれこそがポン・ジュノの尖鋭さなわけで。劇中の倫理や論理を超えて私たち観客の中に潜在する認識という現実を通じて映画という虚構とリンクさせて地続きの欺瞞を暴きだす。

ムァングンが便器にゲロを吐いた直後にギジョンの便器の中から汚物が噴出するカットバック演出とか、思わず(引きながらも)笑ってしまうクオリティがたくさんあって確かにブラック・コメディではあるのだろうけれど、しかしこれを笑うことはやはり自分の浮薄さを笑うことのような気がする。
そして、キム・ギウの「笑い」を考えるとポン・ジュノ的にはそこまで織り込み済みなのではないかと考えてしまう。

 

相変わらずポン・ジュノは恐ろしい映画を作る人だなぁ、と。
世界が欺瞞の上にあるということ。それを描いた映画がここまで大きく取り沙汰されてなお、そのことに大衆が無自覚であること。
そこまで含めて、ポン・ジュノの映画は「炙り出し」なのでせう。

 

 

さて続いて「1917 命をかけた伝令」(サブタイ・・・)。

全編ワンカットということを前面に押し出すことにした東宝東和の広報戦略がどの程度効いているのかわかりませんが、初日ということもあって結構客が入っておりました。
「前代未聞の全編ワンカット」という触れ込みもありますが、全編ワンカットの先行事例として「バードマン」という作品があるのにそれでいいのかと思わなくもない。この映画自体あまり話題に上ることは少ないから前代未聞をつけてもいいだろう、ということなのだろうか。一応アカデミー賞も取ってるんだけれども、「バードマン」。とはいえ5年前のアカデミー賞の映画のいくつを覚えているか、ということを言われるとまあ意外と印象に残らなかったりします。

あと全編ワンカット(風)というには明らかに一か所ぶった切ったというか文字通りブラックアウトする場面があるので、ちょんぼな気がしなくもないですが、まあ時間経過を表現するための苦肉の策だったのでしょう。

 
サム・メンデスはなぜ第一次世界大戦を舞台に選んだのだろう? 祖父の話からインスピレーションを受けたから、ということでそれ以上のことは特に何も言ってはいないのだけれど、でも第一次世界大戦でなければならなかった理由はわかる。

だってこの映画は「伝える」ことの大切さを伝えようとしているのだから。

しかし、「伝える」ことがこれほどまでに手軽に気軽にできるようになった現代を舞台にそれを誠実に描くことなんて不可能だ。それこそパロディになってしまう。

だからサム・メンデスは人の身体それ自体をメディア(媒体)とする状況を作り出すために第一次世界大戦を選んだのだろう。

何故なら情報伝達技術がまだ発達していないからこそ、人の身体それ自体を情報伝達のメディア(媒体)として違和感なく描くことができるのだから。
そうでなくとも、ミステリー界隈では携帯電話というメディアの登場でトリックの作り方が劇的に変わってしまったというのはよく知られた話であるのだから。

戦争は描きたいが、戦闘は描きたくない。そういう宮崎駿的な二律背反がサム・メンデスの中にあったのかはわからないけれど、この映画はヒロイックな戦闘が存在しない。さもありなん。再三書いたように、これは第一次世界大戦という戦争を舞台にしてはいても戦闘を描く映画ではなく、「伝える」ことそのものを描いているのだから。

人が、人に、人の身体を通じて情報を、言葉を届けるというその重み。

「指先で送る君へのメッセージ」なんて歌詞が氾濫するような、携帯電話が普及して以降の恋愛ソングなどでは考えもつかないような(いやYUIは嫌いじゃないですが)、情報を伝えることが命がけだった時代までさかのぼることで「伝える」ことそれそのものがいかに重要なことなのか、ポスト・トゥルースの今だからこそこの映画の「伝え」ようとするものが価値を持っている。

誰もかれもがスマホやらパソコンやらから気軽に情報を発信できるおかげで、「伝える」ことが本来はどれだけの力が必要なものなのかということを忘れてしまっている。

だからこそデマゴーグがこうもやすやすと垂れ流される。それがどうやって他者に届き痛みを植え付けるのかという想像力を欠いたまま。


だからカメラは徹底的に一人(二人)だけを追い続ける。一つの情報を一人の人間が届けることの重みを、絶えず、線として、膨大な情報を膨大なまま、デジタルな点の連続としてではなくアナログな線の連綿として描き続ける。そのためのワンカットだ。

それはすさまじくアナログ(連続の量としての線)な技法だ。しかしそれを達成するためにはデジタル撮影による編集技術が必要だった。この、手法と技術の間に介在する二律背反がなければ到達しえなかった極致。

そうでもしなければウィリアムという個人に寄り添い続けることができない。多分サム・メンデスはそう考えたのだろう。誠実というか馬鹿正直というか。


おかげで、この映画は他にはないものを、それこそ「バードマン」にもないものを見せてくれる。それはワンカットで映し出される戦場。

まず冒頭からしてかなりガツンとくる。二人をとらえていたカメラが回り込むと塹壕が目の前に広がっている、恐ろしいまでの現実。どこか牧歌的な(それでいて寒々としている)草原の風景から少し歩いたところにある塹壕という戦場の局地。それをカットを割ることなくシームレスに写し取ること。それがここまで暴力的な驚きになるとはちょっとびっくらしました。

そうやってカメラは彼らを捉え続ける。捉え続けるしかない。なぜならこれは「人の身体が伝える」映画なのだから。

そして、それが逆説的にある事実を提示する。カメラが命綱だということを。
この映画ではカメラに切り取られた部分だけが存在を許される。そういう、きわめてゲーム的なルールがそこはかとなく立ち込めている。

思えば、ある特定の人物にのみカメラが寄り添い続けるというのは、いかにもゲーム的ではないだろうか? そうやって、これはロジャー・ディーキンスのカメラというインターフェースと一体化した観客の視線が存在を画面内に括り付けるのだ。

逆に言えば、カメラのフレームから外れた者は死ぬかもしれないということだ。思い出してほしい。明らかに主人公として配置されていたはずの「彼」が、二人に注がれていたカメラの視線が、二人がばらけたことでウィリアムにのみそのカメラが向けられたことで、何が起こったのか。

カメラの外にこそ「死」が立ち込めている。一つのカメラ=綱で永らえることのできる命は一つだけ。この映画がゲーム的システムを採用している(せざるを得ない)以上、それは必然。プレイヤーが操作できるキャラクターは一度に一つのみなのと同じ原理だ。

そしてカメラの視線を一身に負うことで彼は、「1917」という映画をウィリアム・スコフィールドという個人の物語に収斂させることで生存の権利を得る。

だからカメラがウィリアムとともにあり続ける限り、ウィリアムがカメラと在り続ける限り彼は死なず、それどころか死をも切り取ることができる。

だからこそ最後の300メートルの激走にかたずをのみ心の中でウィルに声援を送るのだ。「足を止めるな、カメラから離れるな、さもなくば死んでしまう」と。カメラのレンズが捉える光から外れた瞬間に、これは彼の物語ではなくなってしまい、彼に死をもたらすことになる。だから、カメラから彼が遠のいてしまう瞬間に恐ろしくなり、彼が再び走り出し始めたときに安堵する。

そうしてカメラは、軍人としてのメディアの役目を果たしたーーもう一つ、戦友のメディアの役目を果たしたーー彼の顔を捉えて終わる。

それにしてもジョージ・マッケイの顔の変貌ぶりが凄まじい。ほとんどこの映画は彼の独壇場なわけですが、それを破綻なく成立させる彼の表情の機微は本当に良い。

脇にベテランを配置するのもグッド。しかしコリン・ファースが最初どの役だったのか全く分からなかったんですけど、あんな最初の方に出てたとは・・・あんなロヴィン・ウィリアムスみたいな顔だったっけ、コリン・ファース

あとマーク・ストロング最高。

一つのカメラで捉えられるのは一人の物語のみ。その極北として「1917」の手法がある。それはゲームというニューメディアがなければ気づけなかったシステムではないだろうか、とメディアというものいついて考えたり。

そしてマーク・ストロング最高。