などと、みつを風トートロジーなタイトルにしてしまって本当に申し訳ない。後悔はしていないけれど。
まあ実際、この映画は「しょうがない」ので。
そんなわけで坪田義忠監督の「だってしょうがないじゃない」観てきました。
「当事者にフォーカスしたドキュメンタリー」というあやふやな情報以外は前情報は一切なしで臨んだため、映画の途中で開陳される「とある事実」には、ちょっとした驚きはありました。
ただ、驚きはしても、実のところ映画冒頭の改札場面と、製作も担当している池田さんが撮影に加わってからの同じく改札のシーンで観られるように、その「とある事実」については周到に伏線(?)が張られていたりするので、驚きというよりはむしろ得心がいった、という表現の方が正しいのかもしれない。
この映画はドキュメンタリーですが、そういうギミックも使われていたりする映画だったりします。というか、坪田監督はもともと劇映画監督らしいので、そういう演出も得意なのでしょう。
とか書くと、なにやらウェルメイドだったり、もしくはマイケル・ムーア(に限らないけれど)のようにイデオロギーをバンバンに主張して観客を誘導していくタイプの、ある種の偏向性、といって悪ければ恣意性を含んだ映画と思われかねないのだけれど、そうではない。そもそもドキュメンタリーだろう劇映画だろうが「撮った」瞬間に恣意が介在するものだとは思いますが・・・ってこれ毎回同じようなこと書いてますな。
とはいいつつも、ある意味では確かに偏っている映画ではあるかもしれない。「全肯定」という意味において。
元々、編集段階ではタイトルが「大人の発達障害」だったらしいのですが、編集作業の中でまことさん含め「しょうがない」という言葉が頻出していたことから、この「だってしょうがないじゃない」になったとかなんとか。
しょうがない。それは一つの諦めの言葉のように聞こえるかもしれないけれど、しかし本編を観るとそういうものとも違うように思える。
「だってしょうがないじゃん、ねー?」と二人仲良く顔を見合わせて笑い合うようなイメージ、とでもいえばいいだろうか。諦観、というよりまむしろ達観に近いのかもしれない。気の抜けるトロンボーンも相まって、この映画は暖簾に腕押し・柳に風といった、負荷を受け止めるのではなく受け流すしなやかさを湛えているように見える。
けれど一言に「全肯定」とはいいつつも、そこに至るまでには葛藤はあったはず。それは劇中でも「とある事実」とそれに連なる物事という形で監督が自己開示しているし、副読本的なパンフレットからも読み取れる。そういった、観客に伝わるナラティブ以外にも色々とあったに違いない。
だからこそ、この映画は肩ひじを張らずにあけっぴろげにしてしまう。
考えておくんなしい。肩ひじ張った神妙な映画のどこにJKのパンツ写真集をどアップにするシーンが出てこようか。
深刻な社会問題を考えようと訴えるような映画のどこに、「お茶のみに行こう」と言った人物が次のカットでは酒を飲んでいるなどというとぼけたシーンを入れるだろうか。
いい年したおっさんたちが「隠してたエロ本が見つかってしまった」という話題を出汁に、高校生の放課後の益体のない駄弁りじみた井戸端会議を展開するシーンのどこに格調高いものがあるだろうか。第一、元はあんな大胆に鎮座させていたエロ本なのに、それが叔母に見つかったという事実がもうすでにくだらなすぎるわけで。
(ただまあ、よく考えるとこのホモソーシャル空間を公衆の面前にさらすのは些か別の問題を含んでいそうな気もしなくもないのですが)
要するにこの映画、極めて卑近なのである。映画そのものが。
障碍者・・・にかぎらず、社会的にマイノリティ・弱者とされる人々を「扱う」映画では、往々にしてその当事者が背負わされてきた負の側面を描き出し、我々が考えなければならない「深刻な問題」として突きつける鋭さを持っているように思える。
近年であればそれこそ是枝監督や彼が尊敬するケン・ローチ監督なんかはその筆頭だろうし、ポン・ジュノにしたって前者に比べればフィクション性やエンタメ性が強いにしてもその映画が問題を提起しようとする際の鋭利さは劣らない。
翻って、この映画はどうだろうか。そんな鋭利なものは感じさせない。
精神や知的とされる人を描いた映画は目につく限りでも、直近だと「ザ・ピーナツバター・ファルコン」や「500ページの夢の束」なんかはライトな作風ではあったけれど、それにしたって「だってしょうがないじゃない」ほど気負っていなかったか、といえばそんなことは全くないわけで。まあ劇映画なので物語が要求されるのは仕方ないことではあるかもですが。
では「だってしょうがないじゃない」はどうしてそんなことが可能だったのだろうか。それは多分、監督自身が当事者である(という自覚を獲得した)からだ。
当事者としてカメラを持ち、またもう一人の当事者としてまことさんと一緒にフレームに収まることで、発達障害/知的障害といったものを客体化させず自身の延長として捉え直すことができたからこそ、ここまで影を絶つことができたんじゃないかなーと。
でも個人的にドキュメンタリーで監督に限らず作り手が前面に出てくるものは(主となる被写体が監督自身だとかのセルフドキュメンタリーとかはともかく)抵抗があるタイプだったりする。
というかまあ、映るかどうかというよりも「どう介入するか」とか、それがもたらすものが何かを本当に考えているのか、ということに無頓着なものが嫌いなのだす。具体的な名前を挙げると「ソニータ」のことなんですけど。あの映画における制作側の著しくボーダーを踏み越えた介入は、「それ以外の他者」を排他してしまう結果をまったく引き受けていないように見えて、それ以来どうにも作り手の介入に対して敏感になっているのでせう。
「だってしょうがないじゃない」ではむしろその逆で、当事者としての監督が積極的に出てくることでむしろそれを引き受けている。パンフレットでも監督が言及しているように、その身体性によって。
「ザ・ピーナツ~」にしてもザック・ゴッサーゲンという当事者をメインに据えてはいても監督は当事者ではなかったし、「500ページの~」だって監督は松葉づえを必要とする「身体」障害当事者ではあったけれど、映画で描かれる「精神」の分野として扱われる自閉症の少女とは違う(その違い自体が一つのグラデーションではあるけど)。
先に挙げた鋭さを持つ映画というのは、しかしその映画が持つ鋭さがとても非日常的な体験を観客にもたらし、かえってその問題から距離を置かせるようにすら思えてしまう。
だからこそ、この映画が持つ卑近さというのは、すぐ隣に彼らがいるという、観客の地続きの日常の存在であると意識させる点において、前述した映画たち以上にその映画たちの視座する位置にある(かっこつけてかっこよく「脱構築されている!」、とか言えればいいのですが、いかんせん私は哲学とか美術とかに疎い人間なので)。
そんなふうに影を見せずにいながらも、ケン・ローチ的なイデオロギーを図らずも体現しているようにすら見える。
ケン・ローチは是枝監督との対談で「弱い立場にいる人を単なる被害者として描くことはしません。なぜなら、それこそ正に、特権階級が望むことだからです。彼らは貧しい人の物語が大好きで、チャリティーに寄付し、涙を流したがります。でも、最も嫌うのは、弱者が力を持つことです。」と言ってたけど、それは何も貧困層と富裕層にとどまらなず、障碍者と健常者の間にも適用されうる。
つまり障碍者を弱者とみなし、だから助けなければならないと、一見すると思いやりに見えるそれも、その実は当事者から主権を奪う「簒奪」にほかならないわけで。
実際、この映画の中でも後見人たる叔母さんとまことさんの関係が、家をめぐる問題が浮上した際にそのような上下の関係があることが見えてくる。
それは今の複雑な制度が敷かれた社会においては仕方のないことで、正当性があること自体は間違いないのだけれど、でもやっぱりそこに何か気持ち悪い権力構造が働いているように思えてくるのは、私がそういう人たちと距離の近いところにいるから、というだけではないはずだ。
そもそも、その正当性はだれが与えているのか、ということになりますし。
ではまことさんは弱者として描かれているか? 論ずるまでもなく、そんなことはない。むしろその逆で、まことさんはまさにその肉体でもってそんな視線をはねのける。
この映画ではまことさんの裸体がまあまあな頻度で登場する上に、ラスト近くでは入浴シーンに至るのですが、その肉体は還暦を超えてなお筋肉がついているのがわかる。それはおそらく、まことさんがかつて自衛隊にいたころの名残(マッスルメモリーとか運動学習とかとか)なのだろう。あにはからんや、意図せずしてまことさんは弱者として客体化されることをその身でもって否定するのである。
卑近でありながらも、しかし問題は問題として提起する。これはもはやケン・ローチや是枝監督以上に彼らの目指す先を行っている・・・気がします。
そもそも私自身は、はなから「~障害」を引き受ける身体を弱さと直結するような考え方をしていなかったというのもある。
以前、ここで↓書いた最後の一文に連なるのだけれど、
https://dadalized.hatenadiary.jp/entry/2019/02/14/220115
まさにその体現者として、むしろ、社会の要請する成長・適応を否定する彼ら障碍者の身体性は、存在それ自体が現代社会への批判を含んでいるのではないか、とすら思っているので。存在自体がロックな人(なんだか甲本ヒロトみたいでかっこいい)。そう考えると、劇中で都度都度写し撮られるまことさんの「こだわり」も、妥協を許さぬ職人の一挙手一投足を捉えたものとして再定義できまいか。
というか、単純に私は発達障害というのがうらやましくもあったりする(これって不謹慎でしょうか?)。
というのも、自分が「この人面白いなぁ」とか「この人頭いいなぁ」と憧れる人の多くが発達障害であることが多く、その障害特性というのはこの社会においては生き辛さではあるかもしれないけれど、その「力」は持たざる者にとっては同時に大きな魅力としても映るのです。それなりにーーーヒキニートやってたこともあるしそれ以外でもいろいろとアレなこともあったので、あくまで「それなり」。人並みではないかもーーー社会に順応できてしまっている自分としては。
だけんど、順応とは屈服の末の従属を言い換えたようにも聞こえてしまう。
とはいえ、この考え方はルサンチマンからくる歪みが大きく関与していることは自覚しているし、一歩間違えば「障害」というものを免罪符にして自分の愚鈍さや怠惰さを育んでしまいかねない。
これはそれこそ「自己責任論」みたいに、どこまでが自分のものでどこからが世界とのかかわりの中で生じる葛藤なのかがいまいちわからない、明瞭さを欠いた問答だからかもしれない。
精神疾患にしてもそうだけれど、これまでは心を病むことを弱さとして受け止められてきた部分が少なくないと思う。けれど、私にしてみれば心を病むことができるというのは繊細な強さの表出として映る。
無論、これは私がそういう人たちに投射する身勝手な視線でしかないことは重々承知しているし、少なからず当事者と接することの多い身でもある(現在進行形でADHDかつASDの人ともかかわりがある)から、当事者の誰もかれもがその「強さ」を坪田監督やその他多くの私がリスペクトする人たちのように「表現」として発露できるわけではないことも分かっている。
それに何より、この考え方やこの映画の「全肯定」というものには危うさもある。
宮口幸治さんが「ケーキの切れない非行少年たち」で指摘するように、「褒める教育だけでは問題は解決しない」といった問題点にも通じるものがあるし、それにさっきはああ書いたけど、叔母さんとエロ本にまつわるエピソードは「エロに厳しい口うるさいママンにがみがみ言われて七面倒くさいから男だけでだべる」といった呑気なものとしてだけ受容するのは無理だろう。
でも、パンフレットで森さんがまことさんとのやりとりから「寅さん」を見出すように、その「成長しないこと」というのはやはり現代に在っては一つの強度を持っていると思う。
そもそも、(森さんは知ってか知らずか・・・さすがに知ったうえで書いてるのかな。そこまでパンフでは言及してないだけで)「フーテンの寅さん」のフーテンとは元をたどれば瘋癲(ふうてん)のことであり、その言葉は精神疾患を意味していたものだ。しかし「瘋癲」という言葉は寅さんというキャラクターを通じて「フーテン」という言葉へと転化され、「まったく『しょうがない』奴だなぁ、あの人は」といった、相手の認識を融解させ肯定的なものへと再構成してきた歴史がある。ように見える。
なればこそ、やはり精神障害/精神疾患というものが、私が憧憬するような「世界を変える力」を持っているというのは、あながち間違いではないと思う。
だから甘い汁をすする人は恐れるのかもしれない。福祉とか、そういうのを。
ほかにも傾聴ボランティアのこととかについても自分の経験に引き付けて書きたいこともあるのですが、あんまり自分のことを知られるのは嫌なのでこの辺にしておきませう。
最後に余談、というかすごくどうでもいいことなのですが、まことさんの棚に飾ってあったライダーのフィギュアは平成の物が多かったわりに、家のカレンダー?のとこに一緒にかけてあった手描きと思しき絵は初代の1号だった気がするんですけど、まことさんは平成と昭和のどっちの方が好きなんだろうか。
あ~幸せになりたい。