dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

2020⑤月

「REBOOTED」

12分ほどの短編映画。過去のものとされるストップモーションアニメのキャラクターの悲哀と再起を描いた涙腺もの。主人公の髑髏は「タイタンの戦い」というより「アルゴ探検隊の大冒険」かしら。

手書きのアニメーションやアニマトロニクスジュラシック・パークオマージュ)、着ぐるみ、あとT-1000のようなCG?キャラクターなどなどと協力して破壊工作をもくろむというのが本筋なのですが、この潜入・破壊シーンがたまらない(まあ妄想落ちなんだけれど)。

潜入シーンにおいてそれぞれのキャラクターがそれぞれのマテリアルを生かして(セルアニメであればそのセル自体で窒息させたり、セルの薄さを利用して角度限定で風景に溶け込んだり、アニマトロニクスの恐竜であれば、それ自体が作り物であるということを利用して欺いたり)警備員を出し抜くシーンが本当にすごいです。CGという実体をもたないデータではなしえないことをフィクションの中で描いて見せるというのがなんともはや、その実体性・・・あるいは身体性みたいなものに非常によくコミットした傑作。

技術的にかなり卓抜した映像なのは言わずもがななんですが、ともかく傑作でございますこれ。

 

「夢の丘」

こちらも短編。高橋洋が監督なので、ホラーです。ええ。

妹の顔がうっすらと姉の顔にオーバーラップするところ、絶妙に顔が気持ち悪くてかなり怖かったです。

 

「Planet of the Humans」

マイケル・ムーアが監督。したわけではなくあくまでエグゼグティブとして参加しているドキュメンタリー映画

一言で表すなら「グリーン(クリーン)エネルギー」を取り巻く欺瞞について。

環境問題が語られる際によくSave earth的な文言が使われることがあるような気がしますが(ラブロックの影響とかもあるのだろうか?)、地球は死なない。

死ぬのは人類だけ。だからスーサイドという言葉が劇中で使われるのだろう。

やはり資本主義は悪ではないだろうか、という思いに一足飛びで行ってしまいそうになる程度にはこの映画がつまびらかにするクリーン(笑)エコロジー(笑)グリーン(笑)という言葉が陳腐であり虚構であり欺瞞の産物以外の何物でもないことは伝わる。少なくとも資本主義体制の下でそれらの用語が使われる限りは。

無論、この映画自体が一種のプロパガンダでありアジテーションである(ラストのオランウータンのくだりなどは本当にきつい)ことは承知しなければなりませんが、今のご時世にノンポリなどと言って逃げ回っている場合ではないわけで、イデオロギーを選択するしかないのではないか。

https://courrier.jp/news/archives/198622/?ate_cookie=1588579347

まあこんな批判記事出るくらいには今回の映画のつくりはおざなりだったらしいですが、ムーアが監督に回ってたらもうちょっと突き詰めてたりするのだろうか?

 

ぼくはうみがみたくなりました

「やさしいせかい」の話。もちろんフィクションなので「優しい世界」ではあり得ないのだけれど、しかしそこかしこに不可視化されている人々が画面を占めている。

冒頭の母と兄の振舞いは自閉症とか以前にデリカシーなさすぎですが。あとあのマンション柵低すぎて怖いんですけど。

この家族の関係で面白いのは、疎ましく思っている弟の方が保護しているつもりの母親よりも兄を分かっているところ。まあ、弟の方をあまり掘り下げられてないのはちょっと気がかりではありますけどね。いや、回想とかで兄弟に自閉症がいるということの辛さみたいなものは表現しているんですけど、そこから先にもう一歩踏み込めれば「やさしいせかい」感をもうちょっと払しょくできたのではないかなと。

あと旅館でのあれはちょっと相手がコテコテすぎるのはうーん。まあその前にアンタの息子が並べてるミニカーも普通の邪魔になるけどね、とかとか。ミニカーのくだりは結構共感することが多い。

 

「夜の訪問者」

不思議な関係性の映画でした。

登場人物の関係性が不思議。確かにロスだけがあの状況で銃を持っていてカタンガに対応できる人物だったとはいえ、どう観たって助からない相手を、しかも自分に銃を向けた相手をあそこまで介抱できるのだろうか。

ブロンソンもしかり。そこに何か上官に対する情感(激寒)のようなものがあったのではないか。

割とさくっと観れるタイプの映画だと思うんですけど、にしても何か考えてしまうようなシーンががが。

とってつけたようなカーアクションは007シリーズの監督ですし、まあ小屋の方の刺すペンディングな場面をもたせるための繋ぎのようにも見えるわけですが、あれはあれで結構観ていて危ない感じがして観ていて楽しめました。

あとすっごいどうでもいい部分なんですけど死体を遺棄するシーンで二人組がナンパしてくるじゃないですか。あそこで夫がいるとわかるやアクセル踏み出すあの二人組が同時に両手ばんざーいポーズするのがいやにツボなんですけど、あれなに。

 

「レッド・ダイヤモンド」

 いや、まあ、トマトの評価は知りませんが私は結構楽しめました。

ただまあ、なんというかですね、明らかにこれテレビシリーズの劇場版的な作りになっておりまして、観終わった後にテレビドラマ版があるのだろうとばかり思ってググってみたらねーでやんの!そういう意味で、この映画はあまり優しいつくりではないというか、シーンの飛ばし方とかあまり親切でないというか適切ではない感じもするのですが、それでも結構楽しめました。

一点突破としてのブルース・ウィリスの悪役はコテコテですけど、まあ観れますし、ステゴロシーンの後にちゃんと拳に傷を作ってたり壁に弾痕を作ってたり、そういう細かい部分でのディテールが凝っていて、かなり好感を持てる。そこに力入れるなら別のとこに注力しろ、と言われればぐうの音も出ないのですが。

クレジットのNGシーンはまあ、なんか正直あまり好きではないのですが、ブルースが出てなかった(はず)あたりは逆に溜飲が下がるというか。

それにあまりこの手の映画では描かれない男女の友情を最後まで保つのもいい。ジャックとローガンの本当に性を感じさせない(しかしジェラシーはある、という萌え)関係性は本当に良いです。

話はありきたりだしキャラクターはステレオタイプだしブロンドの扱いとか性差別的と言われても反論しにくい描写なんかもありますし、ダイヤを奪還するシーンなんかの雑さはもうアレではありますが、それでもランニングタイム分はなんとか牽引してくれる程度には楽しめました。ローガンがいいんです、ローガンが。

 

「マローダーズ」

最後の切れ味は良い。

 

「ロードオブモンスターズ」

天狗て。そして海なのに火と大地の化身とは。天狗から発想されるのは往々にして空なはずですが…ここまでねじれると返って清々しい。

まあアサイラムプレゼンツなのでそんなもんでしょう。それに怪獣のCGは結構頑張っていますし、頑張っているところは。「アップライジング」でカイジュウ呼びが不足していて不満という人はこれを観るとよろし。カイジュウ連呼なので。

 

大列車強盗

アメリカンニューシネマ的、と言えばいいのでしょうか。「さらば冬のカモメ」的と言うか。

にしても、最初からあの三人の結末が提示されているようなもので、普通に見ているとほとんどそろいもそろって自殺しに行っているようにしかみえない。いや実際、一人は自殺しちゃうんだけど。

だからこう、やるせない映画としてしか見れないのが辛い。

 

「インべージョン」

「ボディスナッチャー」の2007年版リメイク。

まあ、オリジナルから足した要素のおかげでサスペンディングはありつつややチープというかハリウッド的な大味感が増した気も。アイデンティティの問題とかすっ飛ばすあたりとかも。

自殺で感情あぶりだしとかは割とショッキングな展開で良かったですけど、平和と言う割に葛藤なしに自殺できるというのはやはり人間的ではないでせう。

 

「ビリー・リンの永遠の一日」

問題系としては「ハートロッカー」や「アメリカン・スナイパー」に通じるのですが、ただ映像の耽美さというか寄り添い方はだいぶ思いやりがある。

これ劇場公開されてなかったんですね。結構な良作だったと思うんですけどね。

武力、ホモソーシャル、英雄論、資本主義、(「エニー・ギブン・サンデー」が示したような)アメフトの問題。それらをひっくるめてバーマン的に言えば精神分裂的精神(それはベトナム戦争から続くPTSDの問題を過分に含んでいるはず)およそアメリカの病理を包括して提示してみせたのがこの「ビリー~」だと思う。

ともかく主演のジョー・アルウィンくんが良い。顔がね、やや幼さを残しつつそれを筋肉の衣で覆い隠してその筋力の外圧で己を駆動させているような危うさを湛えていて非情に良い。

ヴィン・ディーゼルはまあ、なんというかファミリー感の象徴としてあるのかな、と。しかしそれはマッチョイムズなホモソーシャルでつながったダイムと対置させられるアンチアメリカンファミリズムな体現としているのではないか、という感じ。

無論、それは「ワイルド・スピード」=ヴィン・ディーゼルな印象から導出されるものなのですが、あのシリーズにおけるファミリー感というのをアン・リーがどう受け止めているのかによって印象が異なるのだけれど、まあ少なくとも彼にキリスト教ではなくヒンズー教の話をさせ(ガネーシャの置物ががが)ていたりするのも、アメリカのマジョリティーな価値観に対するカウンターとしてあるのは言わずもがな。

で、ビリーはその二つの価値観に揺れ動かされ、ダメ押しにチアガールからの発破によって戦場に舞い戻ることを決意するわけです。

かなりバランスを意識しているような気がする。今書いたような二つの価値観の体現者として一方ではダイムとチアガールを、他方ではシュルームと姉を。またビリーの「英雄的行為」を捉えた土管?でのカメラワークなど。もちろんそれはビリーにとってのトラウマ場面としてでもあるわけだけれど、刺殺した「敵」の顔面がアップで映し出され、じっくりと、血液が広がるまで捉えたあとにカットを割ることなくビリーの顔を映す。それによって「英雄的行為」の英雄性が相対化されるという両義性。

テレビなので120フレームとかほとんど関係なかったのですが、あれがどうなるのかはちょっと気になるところ。

 

どうでもいいのですが吹き替え版ってヴィン・ディーゼルの声をたいてむがやってるんですね。あの人はドウェイン・ジョンソンのほぼフィックスでもあるので、役者ネタとしてちょっと笑ってしまいました。

 

飢餓海峡

たっぷり3時間かけて描かれる義理と人情×犯罪。ていうかこれテレビで特番組まれるサスペンス映画の定型ですよね。

この映画の白眉は杉戸八重(左幸子)が犬飼の爪で辛抱堪らん状態になっているシーンであることは全会一致のことだと思う。あのシーンは、なんだか見てはいけないものを見てしまったような(それは鏡像として自分に反射されるから)、むき出しの多幸感がひしひしと伝わってくる。

犯罪側とそれを追う側との対決構造のなかで、犯罪側はほぼほぼ情念のようなものだけが現出していて、それが前述の杉戸の悶えるシーンに代表されていて、私的には彼らのシーンはどろどろしていて楽しいのですが、反面警察側ときたら高倉健に代表されるようにお堅い。それは義務と使命感に突き動かされているにすぎないからだ。

んが、しかし、である。それが突き抜けることで義理と人情のエモーショナルな方面へと傾く警察側のキャラクターがいるのである。それが弓坂さん。

物語的にも彼の執念が決め手になって事件が解決するわけで、これはつまり犯罪側との弓坂のシンクロが事件を解決に導いたという構造を見出すことができるのでありあす。

何が言いたいのかと言うと義務より義理こそが真に優れた動機なのではないかということです。それが人間相手であればなおのこと。

 

「キリング・フィールド」

本当すみません。色々と書きたいことはあるんですけど(マルコヴィッチ若っ!とか)・・・

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これで全部持ってかれた。ラストのハグといい、なんというかこう、尊いショットが多すぎて脳みそが完全にそっちにスイッチしてしまいましてね、ええ。

いや、凄惨な物語であることは承知しつつ、しかしやはりそれを超越するだけのボーイズ(って年齢じゃないんだけどこの人たち)ラブロマンスがあって、なればこそあのハッピーエンド(少なくとも二人にとっては)なわけで。

もう尊い

 

「名探偵ピカチュウ

思ったより面白かったです。まあ劇場で観たかったか、というとうーんですが。

まあこれは予告編の時点でわかってはいたことですが、毛が生えてるポケモンの質感って基本的にぬいぐるみなんですよね。だからかなり馴染みやすい。半面、毛がない奴らのテクスチャと来たらきもいのなんのって。

でもこの辺、よく考えたら不思議な話ですよね。まあ実写版ソニックの件もそうなんですけれども、今まで実写映画でファンタジーな生物なんて腐るほど見てきたはずなのに、どうしてポケモンはきもく見えるのか、と。この辺は認知心理学とかの分野になってくるのだろうか。まあデフォルメの具合、という問題も過分にあるのでしょうけど。

だからこそ毛のあるポケモンは「ぬいぐるみが動いているように見える」のでしょうね。

ポケモンと人間の関係についても一考の価値はあるとは思うのですが、いかんせんそこまでモチベーションががが。

 

「緋牡丹博徒

情が濃ゆい。胃もたれする。女と男が明確に分かたれ切った張ったと血みどろ騒動。

不義理と人情と高倉健高倉健てキムタクがキムタクでしかないくらい高倉健でしかないんだな、と。悪いかどうかは別として。この人出るだけで叙情になっちゃいますもんね。

 

「バッド・ジーニアス 危険な天才たち」

サスペンディングはあって面白いです、確かに。カンニングのアイデアも中々秀逸でしたし、ピアノのハンドリングを土壇場で回収するのとか描写も気を遣ってるのは分かりますし。

ただ人間のキャラクターがいまいち飲み込めないというか感情の流れがわからないところがちらほら。特にリンちゃんの父さん。あれ、リンちゃんからは謹厳実直な教師として映ってるらしいのですが、家でのコミュニケーションの取り方とかを見るにつけ本当にそうなのだろうか?も思えてくるのですよね。普通、娘の顔面にテッシュなげるかね?あれを子煩悩描写として親子のスキンシップとして許容される土壌があるのだろうか?タイには。死体を喜んで消費する国の連中の考えることはわかりませんな(偏見)。

よしんばリンの逸脱的気質を父親のそういうところを受け継いだのだとしても、やっぱりラスト付近の心変わりようとかちょっと別人すぎて連ちゃんパパな不気味ささえあるのですが。

リンちゃんの禊はわかるんですけど、バンクくんが闇落ちしてフォローなしというのもモヤモヤする。彼、完全に被害者の立場ですし、大使館?でのリンとバンクのやりとり(画像削除は決別の意味合いなのでしょうが)の後に闇堕ちで勧誘してくるバンクというのもなんだが。

手離して絶賛するほどではないかな、と。

ただまあ、グレースちゃん役のイッサヤー・ホースワンちゃんがあまり邦画や洋画などではお目にかからないタイプの可愛い女の子で、正直彼女が画面に映るだけでだいぶ個人的にはオッケーでした。いや、役所はまあまあクズなんですけど、バカでクズだけど顔は可愛いというレアキャラなのですよ。そのクズ度もオツムと同程度であるがゆえに愛嬌(顔ありきですが)に転化しているというのがすごい(当社比)。

あとバンクくんがナイツの塙に似てる。顔のパーツが。骨格はかなり違うけど。