dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

太陽系を癒そうとする男=ホドロフスキーの最高マジック!

久々に映画館に行ってきました。最後に劇場で観たのが「ハーレ・クイーン」で3月末だったことを考えると、ほとんど三カ月ぶりですか。そりゃミニシアターは支援がなきゃやってられませんですよ。

本当は近所のシネコンに行ってリハビリに(?)軽めの映画でも観ようかと思ってたんですけど、先にネット通販でパンフを買っていたり、数量限定でトリエンナーレで配布されたものを配ってる、というのもあって(我ながらゲンキンである)アップリンク行ってきました。

で、何を観てきたかと言えば「ホドロフスキーのサイコマジック」

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ついでにアリ・アスター関連のものも一つ買ったり。

 

癒し系の最高峰、その名もホドロフスキー。「太陽系を癒す」とまで言ってのけたホドロフスキー翁でありますから、そんじょそこらの癒し系などでは足元にも及びますまい。

この映画、構成がすごく単純で、相談者の「傷」を提示→それをホドロフスキーがセラピーする→後日相談者の晴れ晴れとした姿がカメラに収められる、の連続なのですね。

これ、ともするとカルトor通販番組の「入信したら彼女ができました!」「シックスパットで二の腕に力こぶできました」な勧誘・広告的なものに見えてしまってもおかしくない(それくらい清々しい)のですが、もちろんホドロフスキーがそんな損得・拝金主義的な動機でサイコマジックを行うはずがないわけで。

そもそも、劇中で行われるサイコマジック=セラピーでホドロフスキーはお金は取っていないのですから。

じゃあなんのためにこんなことを?

無論、癒すために。

何を?

当然、世界を。(そして世界を構成する人を)

じゃあ世界って何?

という話になるわけですが(というか私が勝手にそういう話にもっていきたいだけ)、多分、ホドロフスキーの視座、芸術による癒しというのはモリス・バーマンが言うところの「世界の再魔術化(Reenchantment of the world)」に近いのではないかと思う。

再魔術化、というのはまあ、端的に言ってしまえば象徴としての秩序だった世界へ戻ろうとする運動(昨今の魔女活動なんかもその一種でしょう)でしょうか。で、ホドロフスキーはそれによる癒しを施すわけです。

しかし、癒しと言っても、必ずしもそれは牧歌的・子宮的安心感を与えてくれるものだけではない。むしろ、積極的に暴力を解放・発動させることも含む。それは劇中の処方箋の一つである南瓜をハンマーで砕きそのかけらを送り付けるという行為にも代表される。とは言いつつも、一方ではやはり子宮的優しさによる包摂を処方することで「生まれ直し」、不全だった親との繋がりを書き換えるようなこともなされる。

劇中の処方箋のすべては象徴としての行為であり、そこには意識することによる気づきを与える精神分析的な論拠はない。そもそも、ホドロフスキーが言うようにサイコマジックは無意識に働きかけるものだ。

それは、象徴としての世界ともう一度繋がることだと言ってもいいのではないだろうか。近代化(=合理化)された世界において神は死に、世界はカオスとなり、実存は揺らぎ、自分の生が空疎なものだと感じざるを得なくなってしまった。

象徴としての世界に接続できなくなった人々は、そのおぞましい合理的な世界観に直面することを避け、その逃避先としてドラッグやアルコールやらに依存し、あるいは精神疾患という形で(まあ依存症自体が精神障害の一つなのですが)表出させる。

自殺問題は日本だけの専売特許というわけではない。アメリカでは1966年~67年の間にティーンエイジャーの自殺は三倍に増加してたし、77年は西海岸に住む9歳から11歳の子供を対象とした調査ではその半数がアルコールを常用し毎日酔った状態で登校する子供も多かったという。それにドイツやフランスでも似たような問題はあって、それはつまり近代化以降の世界の病理そのものなのである。思うに、日本で最近になって自殺が取りざたされるようになったのは、単に周回遅れでようやく問題に直面するようになっただけなのではないかと、最近の政治や経済の状態を見るにつけ思う。

かといって、今更アニミズムやら魔術やら錬金術やらをそっくりそのままの意味合いで受容することは難しいだろう。けれど、それは表層的な意識、理性的思考のレベルにおいてである。

かつて世界は神の、あるいは大いなる自然の意思による秩序ある、まとまったものだった。しかし科学的合理性は、そんなものはないと断じ、秩序ある世界は無秩序で恐ろしいもの、まとまりを欠いたものへと変わってしまった。

たとえるなら近代化以降の世界はゲシュタルト崩壊した認識の世界みたいなものなのだろう。人は、点が三つ集まれば、それを人の顔だと認識するようにできている(シミュラクラ現象)。それは意識的にそう見ているのではなく、その点の三つの集まり全体を見るという無意識がそう見させているのである。近代化以前はそういう世界観を自明として生きていたのが、科学のメスによって転倒させられてしまった。

けれど、それは転倒させられたわけではないのではないか? だって、「そういう風に見えるだけ」であったとしても、私たちの脳は依然として三つの点の集まりを「無意識のうちに」人の顔に見立ててしまうのだから。

そう、だからホドロフスキーは無意識に働きかける。それが劇中におけるサイコマジックにほかならない。象徴的行為によって、ある種の変性意識状態に持っていき、世界との繋がりを取り戻させ、癒すのである。

 

そして、後半においてホドロフスキーはそのある種の変性意識を個人から社会にまで敷衍しようとする。

それがソーシャルサイコマジックであり、ある女性のがんの治療と死者の日のメキシコにおける抗議活動だ。

んが、パンフレットの解説やホドロフスキーのインタビューの言葉の中にはカウントされおらず、そしてまた劇中でも一切の説明がないまま行われるソーシャルサイコマジックがもう一つあって、実は個人的にはそれが一番キたのでちょっと書きたいのと、その象徴が何の象徴なのかを理解してないとわからないので自分のためにも付記しておきたいのでござい。まあ、別に意味など分からなくても問題ない、というのがサイコマジックではあるのですが。為念。

神輿のように担がれるクローゼットが燃やされ、二人の男性が衣服を切り取られていき、やがてパンツ一丁になった二人は抱き合いながら、リアルなペニスの形状を模したキャンディ?を舐める。このソーシャルサイコマジックはいわゆるセクシャルマイノリティへの癒しだ。クローゼットはクローズ、つまりアウティングしていないセクシャルマイノリティの隠喩であり、それは社会的外圧によって閉じ込められざるを得ない彼らの状況そのものでもある。だからこそそれを担ぎ、盛大に燃やすことで彼らを癒す。

象徴との接続が不全であるがゆえの病理が現代社会であるとはいえ、象徴とは、必ずしも人にとって良いものであるというわけではない。しかし、だからこそ、その象徴を破壊することで(南瓜の破壊と同じ)癒すことができるのもまた道理である。

 

つまり、癒し系アーティスト。それがホドロフスキーなのである(適当)。

 

余談ですが、なんとなく世界を再魔術化しようとしている映画作家でいえば、アリ・アスターもそうなんじゃないか、と思っていたりする。二人の違いは端的に言って規模の違い、内界か外界か、セルフセラピーかどうかでしかないと思います(そして多分、そこには世代的な要素がかなり絡んでいると思う)が、やはり癒しを求道するという点では同じなのかな、と。

まあアスターを癒し系とは口が裂けても言えませんが。