dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

2020 7月

クォ・ヴァディス

この時期の叙事詩映画ってどれもこれも似たようなものに見えてしまうんですけど。

いや、かなり豪華なんで話自体はぶっちゃけ退屈でもともかく金をかけているので釘付けにはなるんですよね。これに関してはスタントにしもて危ないシーンがありますし。

ペトロとヘラクレスを除くと男連中はそろいもそろってうざすぎるし(将軍はまあ)、ああいう価値観をよしとしていたという時点でまあどうなの、と思わなくもないのですが。

でも画面は豪華なんですよねー。

 

「ハリーの災難」

いや、これ「サイコ」より登場人物がサイコ(ネットスラング的に)っぽいんですが。

まあ音楽の調子といいやたらもカラフルな画面といい、明らかにコミカルに描いているわけですが、にしてもである。

衣装がいいなーと思ったらイーディス・ヘッド。いいですねぇ。

 

炎のランナー

通して観るのは初めて(こういうの多いなぁ)ですが、なんか期待値あげすぎたのは否めない。

冒頭とラストの繋ぎは泣けるんですけど、それは間違いなく史実を知らされたことによるものであるからして…。

 

ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男

相変わらずだっさいサブタイトルな邦画センスでございますが、内容はとても素晴らしい。今年観た中でトップクラス。

というか、やはりNHKBSプレミアムはある程度テーマを組んで流す映画決めていますな、これ。「グラン・プリ」も同じような映画だったし。

もっと言えば、テニス版「聖の青春」と言うべきでしょうか。つまるところ、その世界の頂にいる二人にしかわからない二人だけの世界。

ことこの「二人だけの世界」を描く映画というのは、実世界の人物しかも勝敗を決するアスリート/プロフェッショナルばかりがモチーフとされている気がする。

この手のタイプの映画が好物なのとシャイアが好きというだけでもう私としては万々歳なんですけど、この映画かなりストイックというか、とても抑えた演出を貫くんですよね。もっと盛り上げてもいいような場面でも静かな音楽で抑制しますし、決して説明的にしない。

ただ氷の男と炎の男(ほんとださい、これ)という両極端な選手という世評に対し、二人の過去の出来事を描くことそれだけで実は二人が同じ性質な人間であることをあらわにしてしまう。

だからマッケンローは決勝で、ボルグとの試合では試合にだけ集中することができたのだ。なぜならそれは、ようやく分かり合える相手と巡り合うことができたから。

二人は孤独である。それはほかのプレイヤーにもいえることで、コートに立ってしまえば頼れるのは己だけ。

けれど、この二人の抱くそれは、その才能・実績ゆえに他の選手よりも遥かに重いものなのです。以前、「エニー・ギブン・サンデー」についてチームスポーツゆえの高揚感があると書いたのだけど、もちろんそれがあるということは個人スポーツにしかない、彼らにしか感じえない世界も確実にあるのであります。

それを如実に表現しているのがこの映画なのでせう。

試合後のラストシーンで、二人が会話をする場面でマリアナは彼らを真横からしか見ることができない。真に分かり合えるのは顔を突き合わせ対面し、ネットを挟んでコートに対峙した二人だけにしかわからない。たとえ彼女が同じくプロテニスプレイヤーであったとしても(劇中でボルグからも言われることである)。

けれど、観客はその世界の一端を、2人にしか分からない世界のかけらを、映画というフィクションによって我々凡夫に垣間見せてくれる。アングルだったり、ストーリーだったり「グラン・プリ」がそうであったように、最高峰のトップアスリートに直接届かずとも、彼らの周囲の人物を数珠繋ぎにして描いていくことで観客は彼らの観る世界の一部を感じることができる。

これこそがフィクションでなくてなんであろうか。

 

ミネソタ大強盗団

ジェシー・ジェームズ強盗団映画だとこれかなりすきかもしれない。

しかしまあ、市中引き回しじゃありませんが、時代背景を忠実に再現したがゆえであrのでしょうがやることが野蛮すぎる。

ノワール、と言っていいのかわかりませんが、ホモソーシャルの快楽と友情の妙がすごいいい味を出している。

あと何と言っても(?)ジム・ヤンガー!口元をマフラーで覆うあれ!実写であんなにかっこよくてお茶目なのはなかなかいませんよ!

画面で起きてることの凄惨さに対して間の抜けたような音楽といい、なんだか奇妙な外し方でそれがかえって面白いというか。

正直ジムだけでも十分すぎるくらい楽しめた。

 

翔んだカップル

こういっちゃなんですが、大林宣彦よりも相米信二の方が薬師丸ひろ子を魅力的に描けていよるのでは。制服一辺倒な「時かけ」よりも都度都度衣装替えさせる相米を見ればそれはわかることである。

思うに、大林はロリコンとして少女を求めているのであり、一方で相米はそこから先を見ようとしているのではないだろうか。そうでなきゃベッドシーン(ベッドに隠れていますが)を描きますまい。

カットを中々割らないわ自転車ツッコミ(これもノーカット)を本人にやらせるわ道路のど真ん中に置くわ、今考えるとコンプラ的に問題ありまくりな演出があってハラハラする。「あ、春」が初めて見た相米映画だったのですが、あちらは登場人物がみんな大人だったこともあり、比較的落ち着いていたのですが、こっちは高校生がメインでありますゆえそうはいかんざき。

テイストは軽いのに恋愛関係の中に潜む(人間関係というと軽く聞こえるのであれば、人間と人間のかかわりといってもいいかもしれない)暴力性が見え隠れする。監督はもっと冗談ぽく軽めにすればより悲しさが際立ったはず、とは言っていますけど、これでも十分すぎるくらいだと思う。

思春期のあの反動形成と自意識、それが引き起こす自傷。悶々きゅんきゅんする。一見してコミカルでありながら表出する暴力性・破壊性(自転車のシーン、びんた合戦、そもそもボクシングという殴り合い、グローブでガラスガシャーンなどなど)。それがこの映画の魅力なのでせう。

さすがに相米の演技指導は今じゃ到底無理でしょうが(インディーズだと割とありえるらしいですが)、しかし是枝監督が応えていたように、ああいう風に追い込むことでこそ到達するものもある。尾美としのりのひねくれた感じも、石原真理子の理知的でありながらその内実に衝動的なものを抱えている感じも本当にいい。あと真田広之の屑男っぷりも。なんか詳しい情報出てこないんですが絵里訳の前村麻由美もすごくいい(ボキャ貧)。ていうかみんないい。

モグラたたきのシーンとか最高。あそこでカット割って変に薬師丸の顔をアップにしたしりしないのがすごくいい。アフレコなのもよい。

この映画には徹底して大人が不在である。それはたとえば、少年マンガライトノベルなどにありがちなご都合的主義な設定として飲み込むには、あまりにも自然なのである。圭・勇介・秋美の一人暮らし勢の家(空間)は描きながら、わたるの家は描かない。なのに閉じてるわけでも閉塞しているわけでもない世界。なんというか、ジョン・ヒューズを想起したりもする。

 

どうでもいいけど「家族ゲーム」を思い出したのはやっぱりこのモグラたたきのせいだろうか。

くじらといい立ちしょんの撮り方といい、ともかく他の人はやらんでしょう、というシーンが目白押しで、まあそれをみるだけでも割と楽しかったりする。

 

丹下左膳 百万両の壺(2004年)」

柳生パートとトヨエツパートがなんだか乖離してる気が。

オリジナル版がどういう感じなのかわからないんですけど、多分「銀魂」好きな人は好きなんだろうなーと思う人情とユーモアもの。しかしトヨエツの顔。

しかし麻生久美子顔変わらないですね。

 

「アバウト・タイム~愛おしい時間について~」

 

      ,.r''´      ; ヽ、
    ,ri'  、r-‐ー―'ー-、'ヽ、
   r;:   r'´        ヽ ヽ
  (,;_ 、  l          ::::i 'i、
 r'´    i'   _,   _,.:_:::i  il!
 ヾ ,r  -';! '''r,.,=,、" ::rrrテ; ::lr ))
  ! ;、 .:::;!    `´'  :::.   ' .::i: ,i'
  `-r,.ィ::i.      :' _ :::;:. .::::!´
     .l:i.     .__`´__,::i:::::l
     r-i.     、_,.: .::/
      !:::;::! ::.、     .:::r,!
     l::::::::ト __` 二..-',r'::::-、
     l;::i' l:     ̄,.rt':::::::/   ` -、
    ,r' ´  ヽr'ヽr'i::::::::;!'´

 ソレナンテ・エ・ロゲ[Sorenant et Roage]
     (1599~1664 フランス)

 

まあふざけたAAを張っておきながらアレなのですが、このAAを使うべきは「ミスターノーバディ」だったな、と。

ただシャーロットと再会したあたりの展開がちょっとそれっぽかった(エロゲというかレディコミだろうか)ので勢い余って使ってしまった。スマンカッタ。

しかしこれだけ魅力的な女性がいながら最萌えはデズモンド叔父さんという転倒っぷり。あたし、そういうの嫌いじゃないから!

というおふざけはこの辺にしておくとして。ユーモアのセンスが凄まじくイギリスっぽい(曖昧模糊)なーと思ったら監督はリチャード・カーティス。とか知った風な書き方しておきながらこの人の監督作はこれが初めてという相変わらずな体たらくな私でございますが、「ミスタービーン」の脚本とか手掛けてるしそういう言い方も許してほしい。でもオーラルセックス(原語ではクンニリングスとかいう直球っぷり含め)のくだりとかイギリスっぽいし。

 

タイムトラベルものの割に何か大きなインシデントがあるわけでもない、というのがちょっと珍しいかも。タイムトラベル自体がそうだろ、と言われてしまえばその通りなのですが、それすらも素っ気なく描く。暗がりに行って目をつぶったらポンである。SEだけで演出する省エネの巧みさなど、その辺も割と英国風味であるように感じる。

「メッセージ」との共通点を上げている人もいましたが、確かに「時間」の不可逆性と可逆性についての話と言う点では共通していますな。当然っちゃ当然なんですけど、そこに含まれるのは身近な人間の「死」であり、そうなると私などはキューブラー=ロスの死の需要過程じみたものも感じてしまう。

 

で、先に述べたようにこの映画には劇的な何かがあるわけじゃない。たとえば妹の事故にしても、時間を戻さずとも命に別状はないことが判明するし、その事故そのものよりもジミーというクズな彼氏と別れることが主題とされているわけですし。

であるからこそ、ともすれば教訓的で説教臭い「何気ない日々が大切」なのだというテーマを抵抗感なくすっと受け入れらるわけです。

 

個人的に一番ぐっと来たのは、最後に父親と卓球をしに行く場面。あそこで卓球部屋に行くまで主観になるのですが、部屋に入って見るとそこには主観の主であるはずのティムの姿もあるわけなんですね。つまり、ティム自身がティムを見ているという構図になっているわけですよね。

それは、ある種の解離した自分(乖離ではなく)を見ること。その断絶性。それから彼はタイムトラベルをしないことを決める。

そういう細かな演出がそこかしこにみられる。全編通してカメラは揺れ続けるし、終盤でティムが朝食を作ろうと起床したあたりで、メアリーの寝返り動作を微妙に異なるアングルで4回ほどカットバックしてみたり。

つまり「同じ」でありながらも「異なる」「時間」「空間」に置かれた「不安定さ(落ち着かなさ)」を、ついにはティムが受容する話なのでせう。

 

だからこの映画は素っ気なく終わる。日常は素っ気ないものだから。そこにこそ価値を見出すこと。何か劇的なものを経験せずともそこに共感できるのは、身近な人の素っ気ない死と地続きに繋がっているから。

それと選択の話でもありますね。もちろん、その選択はごくごく限られた選択でしかなくそこに自由を見出すのは「マトリックス リローデッド」的なおためごかしでしかないわけですが、それを受け入れたうえて選択をするということが重要なのだということ。

 

「劇場版 Fate/stay night[Heaven's Feel] Presage Flower」

 

こういう、どう見ても一見さんお断りの映画というのは初見の人がどれくらいいるのだろうか。いや別に私は一見さんじゃないし、むしろそこいらのにわかや新参にくらべればFateというコンテンツに親しんできた人間だもんで、だからこそどう考えても初見の人間には説明が足りなすぎる(サーヴァント? セイバー? アサシン? 何それ?)のがちょっと見ていて気になった。

まあ明らかにこれまでお布施をしてきた既存のファンに向けたボーナスステージでございますから、そういうのは気にするだけ野暮なのでしょうが。

なんて偉そうに古参ぶっていますが私自身もHeaven's Feelのルート(移植版)をやったのは10年前でございますから、細かい部分は憶えてないんですが。

というか、Fateを筆頭とする型月まわりに関してはなんといいますか、あまり積極的に触れたくない気がしないでもないのでございます。型月というのは私にとっては別れた恋人のような存在というか。

 


しかし守銭奴な私はタダで観れるとなれば観てしまうショミン・センシズな持ち主ゆえBSでやっていたのを観てしまいました。タダ観には勝てなかったよ・・・。

 

前置きだらだら書くのもあれなので本題に入ります。

三部作の一作目ということでたっぷり2時間かけてようやく物語が動き出したところで終わるので、何とも言い難い消化不良感は否めない。まあ、それなりに上手く(調教厳選されたファンにとっては)スタートダッシュは切れている気はするので、「わくわくしかしねぇー!」とも言えるのですが。

キャラデザはまあ、Zeroのころからこんな感じなので今更言うのも詮無いことではあるんですが、鼻梁だけ曲線一本で表現するあのキャラデザって正面とかだとそこまで気にならないんですけど、角度が付くとちょっと違和感出たりするんですよね。あと顔のパーツのバランスがカマキリっぽいというか。中割とかそいうのじゃなくて桜の顔とかちょっと気になる部分もありました。まあこれは好みの問題ですし、言うほど気になってるわけではないですけど(じゃあ書くなよ)。

 

劇場版だけあって間の取り方とか贅沢なので、おかげて緩急がついている。序盤の日常だけでかなり尺を取ってましたし。その割にはルール説明とか劇場版UBWDEEN制作だったかしら?)並みの省き方で、とにかくまあ桜を描写したいのだな、と。

ただですね、これはもう本当にできてないアニメが割とあるんですけど、台所にキャラクターを立たせるなら服の袖は捲らせてくれませんかね、マジで。言っておきますけど、こんなのは小学生の家庭科で習うことですからね。押井じゃありませんが、映画の神は細部に宿るんですよ(よく細部を見逃すことがありますが私は)。

 


いやね、キャラクターの関係性とかに関しては描写は細かいんですよ(慎二と桜と士郎周り)。だけどこれ原作か移植版やってないと伝わんないよね絶対。10年前に移植版をプレイしたきりだったので私もまあまあうろ覚えですが。

 

さてFateのっていうかufoの売りの一つであるアクションシーンですが、「空の境界」のころからカメラをすんごいぐりぐり動かしてエフェクトモリモリにするんですよね。これはもう監督というよりは会社の色と言ってもいい感じで。まあ主要スタッフだいぶかぶってますから当然っちゃ当然なんですけど。

ただまあFPS高い箇所とかはもうちょっと厳選していいのじゃないかとも思わないでもない。あと撮影。ほとんどは問題ないですし戦闘も(バーサーカーとセイバーまわりはちょっとディーンのUBWと似てるような気が)すごいことやってるんですけど、終盤のセイバーとアサシン(部屋の内側から描いた部分)の揺れ方がちーっと安っぽい気がしました。

 

個人的に一番良かったのは黒桜の出現と消失演出。これはなかなか良かったです。気づいたらいる感じと、カットを割るといなくなるのとか。特に寺での消え方の、士郎が黒桜のいたところに画面外から入ってくるところ。ジャパニーズホラーな感じがして。CGの描画のおかげでかなーり異物感はなっておりましたし。自動車のCGとかもそうですけどCG班がかなりいい仕事しています。

 


桜に関してはなんていいましょうかね。まあ桜ルートなので桜を魅力的に描きたいという思いはビシバシ伝わってくるんですけど、こんなにあざとかったっけ? 表現メディアの違いかこれ? それとも監督の愛情の注ぎ方の違い?

冬に薄手の半そではさすがに狙いすぎだし雪降ってるんだから靴下くらい履いて出てきなさいよ、という感じが。アピールすごいよ本当。という所感。

 

個人的には津嘉山さんをあまりアニメでは聞かない(観てないだけでもありますが)ので、津嘉山さん声のアニメキャラというだけで結構ポイントが高い。いやキャラはきもいんですけど。氏はクモ膜下出血やら脳梗塞やら脳卒中やらで活舌が明らかにアレなのですが、コンスタントにドラマなどにも出ててそっちだと割と問題なく聞こえたりするんですけど、やっぱり声だけのときと身体が画面に映るのとでは違うのだろうか。まあ唇の動きもあるから違うのだろうか、やっぱり。

 

あとものすごいどうでもいいことなんですけど第三章の副題がspring songでちょっと悲しい笑いが。コロナがなければ予定通り4月に公開できてたのになぁという哀愁が。

 

HFルートで映像化するなら言峰がイリヤを抱きかかえて走るシーンがいろんな意味で好きなので、それを期待。

一応2章も録画してあるので気が向いたら感想書く。書かないかも。

 

 「戦場」

前半は割とコミカルなので後半との落差にびっくりする。

後半の爆撃食らうシーンで倒壊に巻き込まれて死んでしまう兵士のカット。片目が手前の木材に隠れているあのカット。あのカットを筆頭に、爆撃を受けるシーンはともかく凄まじい。

 

「モンスターズ 新種誕生」

「モンスターズ」に続編があったことすら知らなんだ。監督はギャレスではないので(時期的にゴジラを監督してたはずなので当然)、かなり毛色は違うような気もするのですが、ただまあモンスターが背景的に使われつつ(画面には頻繁に登場しますが)メインとなる人間ドラマと連動していく、というのは実のところギャレスの方と同じだったりして。

 

ナイロビの蜂

なんだか撮りかたが「シティ・オブ・ゴッド」ぼいと思ったら監督同じフェルナンド・メイレレスだし撮影監督セザール・シャローンで同じだった。この人はなんかこう、ジモティー感(あくまで感。というのも私が現地を知らないので)を出すのがすごい上手い気がする。まあ「シティ~」は現地の素人をメインに起用しているという手法もかなり影響しているのではあろうけれど。

「シティ~」でもあったけれど、「途上国」への問題意識と怒りを確かに湛えながらも、しかし安易な救いに結び付けず現地の在り方・現実の在り様に従うのがジモティーっぽさなのだろうか。

ややおセンチなくどさがないわけではないですが、実際にありそうな(というか原作者リサーチと体験から導出された話なので現実にあるわけですし、スウェーデン制作の「国連平和ミッションの闇」というドキュメンタリーがほぼこんな感じの話)サスペンスとしても単純に面白い。前半のメイン二人の部分はややかったるくなりそうな部分も時系列を細かく入れ替えてささっとスタートダッシュを切って興味を持続させてくれるし編集もなかなか凝っています。

あとロケーションも良い。最後にジャスティンが自死を選ぶあの場所とかね。

それとすごい余談なんですけど、「ジョン・ウィック」のホテルコンチネンタルと同じところ思われるロケ地が中盤のバーナードとの食事のシーンで出てきたような。

 

Fate/stay night [Heaven's Feel] II. lost butterfly

文字に起こすことのほどはなかったんですが、桜が調理のシーンで腕まくってたので前章で気になってたところはOKです。しかしそのあとで遠坂と料理するシーンで遠坂は袖まくってないのなんなんですか。まくれ、袖を。てめーの特異な中華料理なんて油飛びまくるんだぞ。
相変わらず黒桜周りのホラー演出はよござんす。逆に言えばそれ以外はそこまで前作と同じ感じ。仕方ないとはいえ色々と省いているところもあったり、編集のつなぎ方がちょっとどうかと思う部分もあったり。
しかし黒桜がああなってしまった以上は第3章でのホラー演出は望めないでしょうし・・・うーん。
あとはまあ、これは何というか、原作が発表された年代や当時のエロゲー旺盛時代を考えれば仕方ない(?)とはいえ、桜のキャラクターってすさまじく男の欲望の投射だなーとこうして見返してみると思う。ボンテージでキャラ付けするのもやむなしというか。
エロシーンは空の境界がちゃんと描いていたのに対してこちらは濁している(TV版だから?)あたり、作り手の意図がよくわからない。こっちエロゲーであっちは一応小説なのですが。別に望んじゃいないけど。
そういうシーンでハイライトめっちゃ盛ったりとか、まあ桜のあざとさは相変わらず。桜ってセリフのトーンと種類が少なくて(「先…輩…」大杉)単調なので、それくらいあざといほうがいいとはおもいますけど、ちょっと笑っちゃいますね。
電車の心理描写とかも「おいおいこの時代にエヴァかよ」と。桜側からの心理描写とはいえ遠坂家の人間が電車乗ってるのってなんかシュールですしね。本当に優雅な人間は電車とか乗らないでしょっていうね。
第2章でここまでやったということは第3章は戦闘メインで進めていく感じなのでしょうね。お姫様抱っこ言峰VSアサシン、セイバーVS腕士郎&ライダー、腕士郎VS黒バーサーカー、姉妹対決、この辺消化しなきゃいけないわけですし、かなり食傷気味になりそうな。
慎二も退場しちゃいましたしねぇ。正直、HFの面白いところとして桜を介した士郎と慎二のホモセクシャル手前のホモソーシャル感も個人的には結構好きだったので、今回でかなりおいしいポイントが削られてしまった感じ。その辺は映画は結構わかりやすく描いていた感じ(まあ基本的なキャラ設定を知っていないと伝わらないでしょうが)もしますしね。
それと稲田さんの高いキチ声は結構好きです。前回あんまり意識しなかったけど。どっしりした重みのあるイケボだと東地さんと稲田さんが好きなんですけど、稲田さんのキチ声って結構レアな気もする。
あーあとですねー、Fateにエメは合わない気がします。というか、前作のはともかく今作のは歌詞的にエメのねっとりしたボイスは合わないでしょ。キャラソンとして下屋さんに歌わせて別バージョンとしてリリースするのか知りませんが。
 
「harmony」
基本的には原作をなぞった感じでしたね、はい。
記述言語の表現とそれを出力する端末のデザインはどことなくリンゴっぽく墓標っぽかったり、建築デザインの有機的な感じや色合いなどはかなり良かった。オーグ上のタグの表現なんかも微細でしたし、こういう全体的なデザイン設計は良かったです。ガジェットはまあ、こんなとこなのかな。しかし螺旋監察官の制服のデザインがappendミクのほぼトレースなのはどうなのだ。
それとですね、一番気になっていたジャングルジムのくだりや冴木博士の部屋の知性天井をどうやって表現するのか、というのがまさかの全オミットというところにかなり不満が残る。ミァハがかなりファンタジーでファンシーなキャラ造形になっていて、回想も含め彼女が登場する場面は抽象的なイメージで表現されているのですが、ジャングルジムのくだりは世界のやさしさを表すためには必要だったような気もします。まあ、なんとなく絵面としてはバカっぽい気がしなくもない、というのはわかりますけど。
あと音響デザイン。これがすんごい良い仕事しておりまして、下手にBGMを入れないのは良し。これのおかげでかなり格を保っている感じがする。どことなくゲームっぽいですけどね。SF系とか神話モチーフのアクションゲームのラストステージ付近に流れていそうな。
ただ、一本の映画を観た時の満足感はあまりない。なんというか、映画というよりも小説の映画化、コミカライズ的なメディアミックスの産物に収まってしまっている気がする。
原作を読んだ時のセンスオブワンダーがあったのに、なぜか同じストーリーラインをなぞった映画版を観終わった後では妙な虚無感が残った。それが映画の世界観に浸ることができたからなのかどうか。
まあ原作読み直していて思ったのですけど、これあんまりアニメーション映画には向いてないかもしれない。いや、「イノセンス」くらいの言語量ならあるいは、とも思わなくもないのだけれど、とにかく会話のシーンの演出に苦慮している気が。かといって会話やモノローグも絶対省けないところはあるし。俳優の身体を介してならあるいは、という意味で実写映画ならまた違ったかもしれないけど。
あと百合成分がかなり強く、エモーショナルな方向へとセリフも細かく映画化にあたって変わっている部分もあり、原作者がエモーション部分が苦手という自白をしていたことからカバーしたのだろうか?
と思ってインタビュー読み直したらなかむらさん「当初は原作に感情移入できなかった」とか書いてるし、やっぱりエモーション成分強めにしたんだろうなぁ・・・。
映画を観終わったあとの虚無感がそのエモーションの喪失であるならばこの映画は確かに勝利しているのだろうけど、本当に私の感じた虚無感がその手のものなのかどうか正直疑わしくはあるのですよね。
私は原作・・・というより原作者が好きなので、五年前のこの映画を含めたメディアミックスに比べて、現在や10回忌にあたる去年に何もなかったことなど、早川まわりも含めて、結局のところ本人が望んだ「語り継がれる」ことができているのだろうか、と、この映画を観て、この映画がまったく語り草にならないことなんかを考えながら思ってしまった。
それに対する虚無感だったりするのではないだろうか、と。
 
陽暉楼
五社英雄の映画を観るのは何気に初めてなのですが、これ傑作でしたね。
原作がどうなのかは未読につきよくわかりませんが、そもそも浅野温子のキャラクターがいなかったということもあり、かなり原作とは違うみたい。まあ結果的に傑作になっているのでむしろ良いとは思いますが。
これ、浅野温子演じる珠子(浅野温子めっさ若く、観月ありさ松嶋菜々子を足して割ったような顔)がいなかったらここまでにはならなかったでしょうしね。
女ダブル主人公といった感じで、しかしウーマンスとも異なる、もっとどろどろした情念によって結び付いた二人の関係と、その元凶であるダブルミーニングの「父」である緒形拳演じる勝造の因果なつながりとその応報。
 
ともかくこの映画は女性が輝いている。いや、輝いていると書くとやや語弊があるかもしれないし、たとえ輝きと形容できたとしても、それがどぶ底をさらうことでしか見えない輝きでしかないかもしれない。んが、書割的な男性諸兄に比べて芸妓も女郎も魅力的であることは否定できないでせう。唯一、書割的でない勝造(緒形拳に依るところは大きいですが)ですら、生き生きとした(後ろ暗さがあっても)女性たちを彩るためのサブテキスト的人物でしかない。
無論、彼女たちはすでにからして抑圧され搾取される世界に生きている。芸妓だろうが女郎だろうが、桃若だろうが珠子だろうが、実娘だろうが愛人だろうが、彼女たちに自由はない。下種な男根的絆で自縄自縛する男どもの縄に一緒に巻き取られているのだから自由などあるはずもない。
それでもなお彼女たちに自由を見ようというのならば、それはどう生きるかというないに等しい生き様の選択をすることだけ。生き様とはすなわちどう死ぬかという死にざまであろう。
男に囲われることを拒み苦しみに死んだ桃若と死臭を放つ男を慕いながら孤独に永らえる珠子。どちらがいい、なんて話じゃない。対置こそすれ比較するようなものではない。
ただ、情のもたらす因果の結実でしかない。
それでも、家に囲われていた忠がラストカットで房子の娘と外の世界をおう歌していた。
 
とにもかくにも情である。人間の。女の。
芸子たちが医者(男性)に診察されるときのヴァギナに関する会話など、女性の本音というか女性の身体性というものがとかく強調される。それは職業的に当然なのだけれど、ここまで包み隠さない人間の意地汚さというか生き汚さは「ハスラーズ」のような金に括られた価値観では不可能でしょう。まあ昭和初期の日本を描いた、この時代の邦画だからというのと、新自由主義&資本主義的価値観が根底にあるアメリカにしてみれば金はかなり切実な問題ではあるのでしょうが。
 
温泉での取っ組み合いもあるし「ゼイリブ」に負けずとも劣らない主人公二人の取っ組み合いもあり、なんというかもうその念と情の熱量がすごいっす。
「大奥」と並べても遜色のない女の世界を描いた傑作ではなかろうか。