「ローグアサシン」
暗殺者といえばまだNINJAだったころですか。なんかこう、いろいろと惜しい感じというか。これをむりやり「ジョン・ウィック」世界にぶちこんでリーチあたりに監督させたらもっと面白くなりそうな気がしなくもないのですが。
そこまでひどくないけど良くもないというか。あのラストとか、せめてもう20分くらい尺があればあんな「え、これで終わり?」とはならなかった気もするし、目新しいアクションがあったわけでもないとはいえ、残り20分くらいなら付き合ってやってもいいと思えるくらいにはそこそこ楽しんではいたので、その辺は惜しい。
「怪物はささやく」
ファンタジーな映画かと思ったら全然そんなことなかった・・・。
ナラティブ映画だった。しかしリーアム・ニーソンのラストの粋な使い方(本編では未登場)はグッとくる。継承の話でもあったという。「あれはイマジナリーフレンドでぇ~」などと誰でもわかるような無粋な解説をするつもりもない。
ありがちな鬱屈(を発露させるため)のメタファーとしての怪物ではない、というのが個人的には新鮮だった。「キャリー」でも「クロニクル」でもなんでもいいけれど、ナウなヤング(死語)のフラストレーションやリビドーの力としての怪物や超能力という、ある種の破滅願望・破壊衝動のような力はあの怪物にはない。
あの怪物は、怪物自身が言明するように徹頭徹尾、コナーひいては人間の二律背反した心の写し鏡でしかない。だからどんなに空想の中で破壊を行っても、いじめっこを殴りつけても、コナー自身を超越する結果をもたらすことはない。なぜならこれは解放のカタルシスは徹底的に抑えられた、不全の映画だから。
コミュニケーションの不全、フラストレーション(その発露)の不全。コナーはそれらを表出するにはまだ幼い(それゆえにイマジナリーフレンドを創り出す)。だから怪物として、超能力として発散することはできない。
ではどうするか? 語る、そして受け入れる。自己(怪物)との対話を重ね、自分を受け入れたその先に他者(祖母。そして母親の死)という「現実」がある。
そうやって自分を受け入れたからこそ祖母を受け入れることができたのだし、母親の死を受け入れることができたのでせう。
祖母は登場した時点ではちょっと嫌な感じ(ってわけでもないんだけど、ちゃんと見れば)に描写されているのに対し、後半の描き方は大きく違っている。
これ、シガニー・ウィーバー以外だとかなり難しかったのではないだろうか。彼女の強権的な顔面力で嫌な感じを醸し出しながら、それが表面的なレベルで留まっているというのは中々。
この監督が「ジュラシックワールド」の続編に選ばれた理由はスピルパーグ味がそこはかとなくあるからでしょうか?
怪物が登場する際に家が揺れるのとか「未知との遭遇」っぽいですし、怪物のニュアンスとか「BFG」ぽい。父親は健在ですけど確執を抱えていなくもないですし。
しかしリーアム・ニーソンとシガニー・ウィーバーの子どもがフェリシティ・ジョーンズってどんな世界線なんですかこれ。下手な殺し屋一家よりも最強でしょこの家族。
「新・ガンヒルの決斗」
これ最後の最後までフラストレーション貯める感じで結構イライラするかも。
びんたされた方向と逆の方向はさすがにどうかと思ったけど。
「動いてる庭」
ジル・クレマンについては何も知らなかったのですが、なんかラブロック臭がするというか。
放射線ときのこのくだりとかは、「蟹の惑星」の吉田さんに比べるとかなり直感的でサイエンスというよりはスピリチュアルというか、そっちよりな気がするのですが、どうなのだろう。
が、しかし文化としての保全と動く庭としての二律背反などはかなり興味深い話ではありました。植物とて動くということ。その自明性にあまりにも無頓着だったことに思い至る。でもそれは何となく当然の話で、文字通り植物と人間ではライフサイクルのスケールが違う。スケールと言って語弊があればスピードといえばいいだろうか。
植物の動くスケールというのはアハ体験的で、だからこそ人間というのは時間をかけて徐々に動いていくものを認識することが困難なのでせう。人間は連続性で物を見るから。
植物に限らず、この星そのものもそうだろうし、自然物、あるいはその流れを汲むものというのは遠大な時間をかけて徐々に変化していくものなのではないだろうか。
動きすぎてはいけない。人間はどんどん加速しているが、それによって認識に弊害をもたらしている可能性を考えなければならない。
ところで澤崎 賢一・山内 朋樹・松井茂のアフタートークが面白かったです。
「第三風景」「物騒な共存」
「あゝひめゆりの塔」
青酸カリ牛乳といい、最後まで救いがない。「野火」のサイドA`というか。
「あやしい彼女」
うーん。リメイク元はどういう感じなのだろう、これ。
妙な長回しはまあ、銭湯の構造をわかりやすく図示していたりするので効果的っちゃ効果的なのでしょうが。
これ「21世紀少年」の問題をクリアしていない気がするんですけど。笑えないことはないんですけど、最後のあれは蛇足な気がする。
「ガス燈(1944)」
観たつもりだったのですが全編通して観るのは初めてだったことに今更気づく。
しかしセットにやたら既視感があるのは何故だろうか・・・。たしか「ガスライティング」の語源はここからだった希ガス。
イングリッド・バーグマンの上品な服装と、それに締め付けられることで立ち現れるボディラインのエロさは、しかし物語と同じように夫から圧迫されたものであるかのように見えてしまう。
これは同じ年代の「若草物語」にも言える女性の閉塞感と同じ類だと思う。ジョージ・キューカーは実際に1933年に「若草~」を撮っているし。まあ私が観た「若草~」は別の監督のでしたが、しかしそこにある基本的な構造は変わりますまい。
してキューカーはおそらくそういう女性を・・・というかそういう風に女性を囲う話が好きなのかもしれない。
正直、この映画に出てくる男性陣はブライアン含め誰一人として信用ならんのですが。
「クレイジー・リッチ」
何か目新しいものがあったか、と言えばアジア系アメリカンが~ということは言えるのでしょうが、テンプレを逸脱する何かがあるかと言えば「うーん」である。
ヘンリー・ゴールディングの細マッチョなやさおなルックは個人的にどんぴしゃりなので、まあそれでも十分と言えば十分ではあるのですが。麻雀の駆け引きとかは確かにアジア(というか中華圏)テイストではあったりするし、メインストリーム=白人ヘテロ向けのこてこてテンプレとはディテールは違うし、そこを楽しめないこともないのではあろうけれど、しかし「現代の金持ち」を描くとどうしても似たり寄ったりになってしまうのは制作側の想像力の限界なのか実際にあの程度の金持ちというのはああいうことしかしないのか、ド平民な私には存ぜぬところではありますが、面白みに欠けなくもない気がしなくもない。
いや、まあまあ楽しくは観てましたけどね。料理おいしそうなものも結構ありましたし。
アストリッドにしても、もうちょっと上手くできたのではないかと思うんですよね。まあ原作との絡みもあるのかもですが。
まああとアジア系というくくりもそれはそれで危険な気もするんですが。キャストの多国籍っぷりを見ると。この辺はちゃんと指摘されているようですが。
恥ずかしながらウディ・アレンを観たのはこれが初めてなのです。別に積極的に避けていたわけではなく、かといって積極的に観ようとも思っていなかったのでこうして偶発的に遭遇するまで接触することがなかったという。
これが彼のいつも通りの作風なのかはわかりませんが、思ったより全然楽しめました。なんだかもっと癖の強い映画をイメージしてたのですが、全然すんなり楽しめた。
まず役者が個人的に好みだったのもある。面白いAGOことオーウェン・ウィルソンの佇まいはギルにぴったりだし、レイチェル・マクアダムスの「ザ・マス」的な退屈さ・・・というか凡庸さも見事ですし、20年代の人たちもいい具合にカリカチュアされたウィットを含んでいる。
現代におけるレア・セドゥはむしろ20年代パリの住人のような妖艶さを醸し出していて、それがマクアダムスとの対比になっている。朝と夜、というのはまあ明確に対比的に使われていて、それがまあ「夜の女」というシニフィアンが醸し出す性的な表象(実際、夜の街で娼婦が描かれる)というのはウディ・アレンの視線なのかどうか。
しかしレア・セドゥって笑うと口まわりの皺がすごい。正直彼女に笑顔は似合わないと思う。というか、イメージが完全に反転する。「スペクター」のときは全然笑わなかったし、気づかなかった。
懐古主義の否定、ではあるのだけれど。なんだかギルのフィルターを通すと絶妙に言い訳がましく、というか未練がましく聞こえなくもない。
「追想」
これ結局のところ真偽とは別のレベルで受容し合う、ということでは。
本物か偽物かは関係なく、ただお互いが求め合うのであればそれで良い(母娘の物語だけど)。
そこには言うまでもなく欺瞞があるわけですが、むしろこれは欺瞞こそが二人を結び付けているとも言える。
美しいなどとは口が避けても言えない
けれど、そもそも他人の愛にあーだこーだ言うことが無粋なのでは。
まあラストがあれな時点で無駄な考えな気がする。