dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

2020/9

オペラ座の怪人

うわー今思えばシュマッカー監督の映画を観るのは初めてでしたよ。「バットマン」すらも観ていない。

んが、なんというかこの「オペラ~」だけをとってみると、そのフリークへの眼差し(とセットの感じとか)がバートンのそれと非常に似通っている。

しかしなんというか、全編通してセリフも含めて歌ってみせるというその過剰さや全編にわたってクライマックスな絵面といいカット割りの豪胆さといい、なかなかどうして面白い映画である。

印象的な音楽の力もあって、ひたすらにパッショナブルでありながらフリークスの悲哀が貫いている。それはさながら青い炎。

画面全体が豪奢なのも、すべてはその画面の裏に充満し続ける怪人の悲しみの裏返しなのではないか。

 

わたしは、ダニエル・ブレイク

黒澤明「生きる」のような哀愁をまとう寄る辺すらなく、ただただ宙ぶらりんな悲観しかもたらさない。だからダニエルの死すらもあっけなく、余韻など微塵もなく、トイレで突然死して終わり。死ぬ瞬間すらも画面のフレームから剥奪され、死に顔一つ画面に場を与えられない。

未来世紀ブラジル」における戯画化された官僚制・・・すなわちモンティ・パイソン(ていうかギリアムなんだけど、まあ一緒でしょ(暴論))の茶化しが機能していなかったのか、イギリスのセクショナリズムたらいまわしっぷりは文字通り生殺しである。あるいはセーフティネットへのアクセシビリティの格差という問題もある。

つまるところ、これは構造の問題であるわけで。彼女がポン引きに捕まってしまったのも貧富・性的な抑圧の構造によるもの。逆差別だ、などとのたまうつもりはないが一方でダニエルは性的なサービスによって金銭を得ることはできない。

女性の性風俗産業それ自体が女性を抑圧する構造の賜物である。それで救われる人もいる、という言説もあるし誇りを持っているだとか職業に貴賤はないだとか言う人もいるのだろうが、それがどれだけの「嫌嫌・渋々・仕方なく」従事せざるを得ない人の声の上に覆いかぶさるノイジーであるのかと考えたことはあるのだろうか。それは単に内面化しているだけに過ぎないのではないか。

 

若干話がズレたが、要するに役所はちゃんと仕事しろ、ということである。というかこういうことはどこにでもあって、それこそ障碍者の分野にも当たり前のようにはびこっておりまして、本来なら回数制限のないサービスを勝手に回数付きにされたりなどなど、こっちが知らないと思い込んで勝手に適用範囲を捻じ曲げることもままある。

んで、そういう貧しい人というのは情報へのアクセシビリティ(ダニエルがITに特段疎いのは年齢的なものばかりではないだろう)も低く、情報格差によってそれをうのみにしてしまうこともある。

こう見ると生活保護の制度があるだけ日本はまだいくらかマシなのかもしれない、とすら思えてくる。無論、それは単なる需給のしやすさという意味に限るわけだけれど、すくなくとも身近な生活保護受給者を見る限りでは衣食住は確保できているし。

しかしまあ是枝監督のようなお行儀のよさよりも怒りをしっかりと発露させてくる分ケン・ローチの方がかなり好印象である。

 

「クラウン」

ジョン・ワッツらしく大人コエーな映画。

すってんころりんとか噴き出してしまいそうなディテール、オチも含めてB級な佇まいでありながら結構な力作。

無垢な子どもも意地悪な子どもも等しく死ぬ、その心意気やよし。スパイダーマンが「スパイダーマン」でなければ殺されていたのではないかとすら思う。

 

 IT/イット THE END “それ”が見えたら、終わり。

前作の細かいところ覚えてなかったのですが、それでもまあ楽しめましたかね。

ただまあ、今回は解決編でもありますので倒さなければならないために、ホラーというよりもむしろファンタジー路線というか。セルフも含めパロディや確実に笑かしに来ている描写が結構あり(前作もあったとは思うけど)、特殊効果もふんだんに使われていて退屈はしないのですけれど、それにしても終盤のバトルはステージも含めてゲーム感がもりもり。「イドリス・エルバ呼んできて」といった風情。

解決方法はグレート・スピリッツ的で(まあ武井さんはキング読んでるだろうけど)、そういう意味でも前作から一貫して心の(葛藤、どうあるか)問題であり、Jホラー的な理不尽さはない。

ある意味でわかりやすい映画ではある。

 

ロミオとジュリエット

こんな笑える映画だとは思わなんだ。

これが作られた時点ですでに擦られまくった後なのでしょうが、だからこそパロディっぽいというか小学生並みの恋愛(ごっこ、とは言いませぬが)をそのままお出しされた感じで実に可笑しい。と言って差し支えあれば微笑ましい。

異様に胸を寄せているのも精一杯の艶美さを出そうとしているようにしか見えない。寝巻きなのだろうけども。

ロミオの友人たちのからかい方も小学生のそれ。ジュリエットの乳母への悪態(原語はたぶんWhoreと言ってたのでかなりアレなのですが)にいたっては保育園レベル。

カメラワークといいジュマンジ並みの下手くそキス合戦といい、笑うなという方が無理である。まあ人のセックスを笑うと怒られるらしいので彼らの恋愛も笑ってはならないのかもですが、ポエムもなんか稚拙な感じがする。

 

んが、その後の両家の人間の死にまつわる洗練さのかけらもないドタバタ(字義通り)を見るにつけ、しかるにこれは赤いナントカが言うところの若さゆえの云々であり、それがもたらす悲劇=喜劇であると。

しかしその必死さに胸を打たれるような気もしてくる。

超どうでもいいのだけれど、ロミオのケツとジュリエットの一瞬映る乳首になんというかどうでもいいこだわりを感じるのですが。

 

「誘拐犯」

マッカリーの過去作。こう見るとデルトロってやっぱりブラピに似てる。

コーエン兄弟+アメリカンニューシネマ的な。

 

ネバダ・スミス」

16歳・・・は無理がある。とまあそれはともかく「復讐は何も生まない」系をハリウッド映画で見るのは私初めてでございまして、ラストシーンのあれで「ダーティ・ハリー回避」と心の中でツッコミを入れていたのであった。

殺しはしないけど手足は撃つ、というのは個人の落としどころとしてはいいのかもしれませんがそれでいいのかと思わないでもない。

一か所、序盤で気になったカットがあったのだけど、あれは何か意図があったのだろうか。

 

「セブンイヤーズ・イン・チベット

これ原作がどうなっているのかわからないのだけれど、ンガプーに対するハラーの反応というのが、あまりにマッチョイズム的というか取り付く島もなかったのが、あれ自体が戦争被害な気がしなくもない。

無論、ナチに入るような人だしもとからああいう気質だったのだと言えなくもないのだけれど。やっぱりどこかこの映画にはアジアに対するエキゾチズムが鳴りを潜めている気がしてならない。

 

「夜霧よ今夜も有難う」

石原裕次郎の主演映画ってもはや沈黙シリーズのようにすら見えるのですが。

ソフトフォーカスで裕次郎のリップピカピカは流石に笑う。

あとボクシングの存在感というか、ごく当然視されている感覚、というのも時代なのかなぁ。

 

「レッドサン」

ブロンソン×三船という垂涎モノの映画があったとは思わなんだ。

にしてもブロンソンの軽さは素晴らしいですな。

とにもかくにも三船とブロンソンのブロマンス的な、しかしあまりべたつかず、しかし締めるところは締めるという素晴らしさ。

三船よりもブロンソンのすばらしさ。あんなオス臭い男でありながらコミカルであることを全くいとわない軽さ。

対峙するのがアラン・ドロンというのも良い。素晴らしすぎる。

 

「バニー・レークは行方不明」

これ面白いですね。バニーが顔見せされないことで信頼できない語り手的な構造が浮かび上がってくるという。

「え、それ本当にそうなるの?!」という感覚はちょっとシャマランに近いかもしれない。

明らかにミスリードな人がいるにしても、メイン二人の言動に齟齬が出てくる感覚とか、だんだん奇妙になってくるのが面白いのですが、これはこれで精神障害に対する偏見を増長するものな気がするのですが、人種とかジェンダー的なことにはうるさいのにそういうツッコミを入れる人はあんまり見かけないんですよね。

あの狂気的なやりすぎ顔演技とか見どころはかなりある。