dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

2020/10

 

オールドボーイ(2003)」

あの長回しは決して洗練されているとは言い難いのですが、それこそがオ・デスの復帰戦である。横スクロールを思わせる真横からのあの観方は、なんだかゲーム的である。というのは、この映画の話そのものが彼とイ・ウジンのゲームであるので。そう考えるとマリオとピーチとクッパの関係性にも見えてくる不思議。

というのは冗談ですが、原作と結構違っています。細かいギミック(ギョーザの味とか)は原作からですが、こっちでは割とわかりやすい復讐の理由ではある。

まあ教会系の学校というのもありますし、近親相姦(インセスト)は確かタブー扱いだった気がしますので、それゆえでしょうか。

冒頭の音楽の切り替わり方がカッコいい。姉さんエロい。

 

エデンの東

困ったことに傑作ではありながらいかんせん騙された気がしないでもない。

カインとアベルの話をモチーフに父と息子の愛をめぐる話で、観てる最中は最高に盛り上がりジェームズ・ディーンが父親に拒絶されたシーンでは彼の演技に涙を溜めたのですが、最終盤に至り「・・・あれ、これだいぶ歪んだ構造してない?」となり、観終わった後には妙なもやもやが残るのであった。

確かに、これは傑作と呼んでよろしいのでしょうが、しかしキリスト教的・父権主義的な歪みが構造的に潜んでいる。まあ、聖書の話がベースになっているので当然と言えば当然なのですが。

最後まで見ると、この親子は共依存的であることがわかる。それは父親の愛を絶対視することによって生じる屈折にほかならない。

なぜキャロとアーロンの母であるケイトはあれだけの存在感を与えられながら、物語的救済を一切与えられないのか。彼女はキーパーソンでありながら、アーロンと接触させられた後は画面上に出てくることすらない。さもありなん。なぜなら彼女の存在感というのは徹底して舞台装置化されたものであるからである。

父親の愛を得るための、踏み台としての母親の愛でしかないのである。キャルが同じ存在としてのケイトに共感していたのも、それは父親からの寵愛の欠如という「父親(夫)からの愛の欠如」という父権を絶対視することからくる極めてネガティブな絆によるものでしかない。今であれば、むしろ強い女性像としてケイトは描かれうるのだろうけれど、この映画ではキャロの悪性の根源として描かれている。

とはいえ、父親からの束縛・所有からの脱却をケイトが口にしているので、彼女の見地からの物言いが提示されてはいるのだけれど、やはりそれは建前的に映り、本当はその愛を受け取りたがっているように見えなくもない。そうでなくても結局はキャロが父親の愛情を獲得するための、道具としてのロールしか与えられないように見える以上、これは父息子のホモソーシャル的な絆から除外された女性像を思い浮かべてしまう。

 

そもそも、キャロはなぜ赦されなければならいのか。赦しを求めるようなことをしただろうか? 彼の悪徳の根拠はこの映画では母親に由来しており、その母親の悪性はそもそも夫(父親)からの束縛にあるわけで、キャロの悪性の大元である父親に赦しを得るために奮闘するというのはあまりにも倒錯した循環構造になっていると言わざるを得ない。

最終的に、悪徳を働く息子を愛することで父は息子から赦され()救済される。

つまるところ、これは父親の懺悔の物語であるはずなのだ。にもかかわらず、主人公として配置されているのは息子であるキャロなのであり、真正面からこの映画を、ラストのオチを見据えると息子が赦しを得るように見える。本来ならば父親こそが語り手でなければならないはずが、そのナラティブを息子に仮託し、彼の赦しを収奪しているところに父権による侵襲を見て取れてしまう。

父親による母と息子の略取。父親からのDVによる母と息子の歪んだ共鳴。聖女化された母の偶像を失ったもう一人の息子であるアーロン(彼こそが父親の理想でありダブルであることを考えると、やはりケイトの主張の真正さが強まるというのが救いだろうか)の発狂。

 

一見すると、これは倫理を説いてもいて、徹底して戦争を否定し(しかし父は選定する立場にあり、それは父という権力を行使できる特権階級であることの証左である)、その正しさによってキャロは否定される。この父の倫理というのは、それこそ最近になって話題になっているエシカル云々に繋がるものであるのですが、正しさの自明性を疑わない正しさというのは信用ならない。

 

とはいえ、役者の表情の機微、カメラワークやアングルなどなど、やはり傑作と呼んでよろしいのではないかと思わなくもない。

 

愛人/ラマン

方や貧民、方や金持ち。方や男、方や女。方や大人()、方や子ども()。立場の異なる男女の、共感可能性を両者に共通する家族のしがらみから試みようとする。愛飢え男な中国人青年とませたい年ごろの少女、彼女のモノローグで語られることで脱臭される権力の不均衡によって隠蔽されるものはともかくとして、常に欺瞞と韜晦によってつながる二人の行きつく先はまあ当然といえば当然で、一番エロいのは冒頭も冒頭のアバンだったりする(それは二人についてまだ知らなかったから)。

最後まで陶酔を貫き通してくれるのでまあ潔しとはいえるのだけれど、すさまじい何かの映画のジェネリック感ががが。

あとアノーがアジア(というか文化的他者)に向ける多分にエキゾチシズムを含んだ視線は先に観ていた「セブン・イヤーズ・イン・チベット」にもつながっているのだけれど、この監督のアジアに向ける視線というのがなんかなーと言いたくなる。

スラング的に言えば「こっちみんな」みたいな。

 

クリムゾン・タイド

これ多分キューバ危機におけるソ連側のB-59内部の出来事を参照していると思しいのですがどうなのでしょう。まあ「駆逐艦 ベッドフォード作戦」という映画がそのまんまらしいですが。

しかしデンゼル若いなぁ。しかしタランティーノが加えた(変えた)というセリフの唐突感がすごいんですけど、何なんだあれは・・・。いや「眼下の敵」だから一応脈絡がまったくないというわけではないんだけど。

まあトニー・スコットなのでディテールなんぞは脇においておくというのですが、それでもやっぱり何か楽しい部分というのがあって、それは実は多分に集合知的な、作家性がないからこそいいとこどりができるのではないか(ノンクレジットだとしても)という気がする。

 

「慕情」

語る余地は色々とあると思うんですけど、すみません、個人的には開幕の香港の風景がハイライトでした。というかそれくらい、あの感じがすごい良い。

 

「ウィンチェスターハウス アメリカで最も呪われた屋敷」

あーこれ「プリデスティネーション」の監督の映画だったんですね。この兄弟の監督作はほかに長編だと「ジグソウ」と「デイブレイカー」というのがあるらしいのですがどちらも観ておらず。ただ「プリデスティネーション」と「ウィンチェスターハウス」は結構被るところがある。回廊とかシステムに対する視座とか。

とはいえ「プリデスティネーション」に比べるとかなり安易というか。まあ史実をベースにしているのでどこまで脚色するかというのは難しいところではあったのでしょうが。

 

「クルードさんちのはじめての冒険」

クリス・サンダースとカーク・デミッコの共同監督。後者についてはまったく知らぬのですが、クリス・サンダースは最近でいえば「野生の呼び声」の監督でございんす。

そして音楽にアラン・シルヴェストリ

ところで、久々にドリームワークスのアニメーションを観て思ったのですが、キャラデザがディズニー系より絶妙にキモい気がする。いや、観てるうちにそんなのは全然気にならなくなってくるんですけど、おそらくCGアニメの製作会社として二大巨塔と呼んでも差し支えない両者の差を隔てる違いというのは結構探してみると面白いものがある気がするのです。

んで、なんとなく思ったのはディズニーはデフォルメが強く、ドリームワークスはカリカチュアが強めなのではないか、という感じ。ドリームワークスのキャラデザというのは遊園地なんかでよく見かける戯画化した絵を描いてくれる絵描きの人のようなキャラデザのような気がするんですよね。これ、三輪さんじゃないけどディズニー以上に人を選ぶ気がする。

でもテーマはわかりやすく人間の、というか人体のシステムにおける生存に必須の「恐怖心」と「好奇心」を原始時代にまで世界を遡って見せるというお話。

まあそういうテーマとかは正直どうでもよくて、冒頭から動き回りまくりのアニメーションとか素晴らしい美術の仕事だけで十分すぎますゆえ。

実はこの世界観も先述したディズニーとドリームワークスのキャラデザの違いにも表れているような気がする。そういう意味で、この「クルード~」のカリカチュアされた原始世界というのは、現実のデフォルメとしての世界に注力するディズニーでは見れないので、それだけでもう十二分すぎる。これ使ったオープンワールドゲームとかやってみたいなーと思いつつ久々にコンセプトアート集が欲しくなった映画でございました。

調べたら一応原語版は出てはいるんですけど、高い!

とてもじゃないけど手を出すにはかなり躊躇する値段なんですけお!

続編やるらしいので、その機会に日本で出してくれないかなぁ・・・

でもドリームワークスって日本だと微妙に弱いんだよなー立場が。

うわーマジでほしいなこのコンセプトアート

 

ワイルドカード

いつものステイサム映画なんだけど、ほんのりやさしみがあってよい。それ以外はいつものステイサムry

 

「ニコライとアレクサンドラ」

髭面多すぎ。

ラスプーチン狂気じみすぎ。今度の「キングスマン」にも出るらしいけれど、どうなることやら。撃たれても血が出ないラスプーチンは神(違)。

鑑賞中にアクシデントがあり最後まで見れず。

 

「わたしを離さないで」

 これ「ストーカー」の監督だったのですね。

ガーフィールドはともかくとして、キャシーとルースは観ている間「どこかで見たことあるけど誰だっけ」というのがちらついて正直集中して観られなかった。

で、後で調べたらルースがキーラ・ナイトレイキーラ・ナイトレイ!?

あんな可愛げないキーラが撮れるってすごいと思うんですけど。本当に。嫌味とかではなく。いやまあ、よく見ると目元とか鋭いし、こういう役どころもありっちゃありなのかもしれませんが、キーラのKAWAII最高打点が「はじまりのうた」である私にしてみるとすさまじい落差が。

キャシーはキャシーでキャリー・マリガンだと気づかなかったし。まあそもそもあまり彼女の出演作を観ていないというのがあるのだけれど、「野生の証明」と違ってこの時期のキャリーはそこはかとなくエル・ファニングみがあって、しかし彼女ほどには何か浮世離れした感もないちょうどいい塩梅であったりして、それがまた「この女優誰だっけ」感につながっている。

本筋にまったく触れてませんね。いや、まあイギリス映画っぽいなとは思う(曖昧模糊)。ファミレスでの笑いの誘い方とか。

原作未読だし地上波での放送のためCM枠でだいぶカットされているだろうから何とも言えないのですが、それを抜きにしても少なくともこの映画はクローンの倫理の問題そのものを突き詰める気はあまりなさそうな気がする。クローンの問題、というのはオリジナルとの対面においてアイデンティティの揺らぎというものが前景化してくると思うのですが、この映画の人物たちはそのオリジナルとの対面を果たさないし、自らの運命について先刻承知済みなのである。

ルースと彼女のオリジナルの人物と思しき女性をめぐるエピソードにしても、それはアイデンティティの揺らぎをもたらすような演出は一切ないし、海岸でのセリフのかけあいにしても「オリジナル」はそのまま「母親(父親)」と代替可能なものでしかない。

つまるところ、まあ最後のシーンでも語られるとおりなのですが、この映画はそういう生命倫理の問題よりも運命論的な「生」そのものについての抒情詩に観える。ていうか、劇中でもマダムがはっきり口にしてますしおすし。

もちろん、オリジナルのパーツに過ぎないという設定はその運命論的「生」をどう受け入れるかという問題を強調する役割を果たしてはいるけれど、どちらに比重があるかと言えば圧倒的に後者であろう。そしてそのことは「オリジナル」である(というかコピーではない)観客=私たちにも感情移入が可能な程度には、クローンである彼らとの代替可能性が担保されている(彼らのオリジナルが明確に登場しないのはそのためだろうし、それによってコピー側である三人の主観が相対化されることなく維持され観客の感情移入を容易にさせる)。そして、その代替可能性というのは、ポストモダンの状況にあって我々は代替可能な人的リソースとしてみなされていることにほかならない。

だからこそ逆説的に「生」を想起させるシーンが排されていたり、精彩を欠いたものになっているのだろう。たとえばルースとトミーのセックスにしても、正常位ではなく騎乗位であり、しかもなおトミーは明らかに不快感(とまでは言わずとも早く終わって欲しいとかは考えているだろう)を示すしぐさを取っている(このためのガーフィールド)し、優位であるはずのルースの喘ぎ声にしてもどこか空虚である。それはのちの展開が・・・というかキャシーのモノローグ通りトミーとルース(とキャシー)はすれ違っているから。エロ本のくだりもそのすれ違い。

食事のシーンがないのもそうだろう。全くない、ということはない。だからこそ食べ物が出てくるとき・それを彼らが口にするときに「生」気を帯びるのでせう。あるいはその逆説として、キャシーが一人で白い空疎な部屋で壁に向かって食事をとるシーンの生気のなさ。あれに比べれば、彼女がダークチョコレートをハンナ(だったよね?)に差し入れするシーンのハンナの方が(ベッドに寝かされ、チョコを口にしなかったとしても)随分と「生」気を帯びているし、ルースがオレンジが口にするシーンもそう。

 

代替可能なコピー、というかそもそも代替物であるコピー(それは現代における我々そのもの)が、代替不可能な「生」としての真の「愛」をめぐる話になるのは必然なのでせう。最終的にはコピーもオリジナルも何ら変わらない、というある意味では真っ当な帰着に達する。

これを世界情勢に敷衍させてコピーをいわゆる第三世界とか、その血をすすって生きる資本主義国(オリジナル)というような読みもできるでしょうが、それはそれでむしろ矮小な気もしなくもない。