dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

TOKYO TELEPATH 2020 from tokyo in シブヤ

ペンタクル、リバースペンタクル、フラクタル、リバースペンタクル、リバースペンタクル、スペクトル、以下∞略・・・

この映画にフュージョンして文章書こうと思ったのですがダメでした。失敗しました。フュージョン失敗です。解除まで30分待ちます。

 

中編ですし普段ならスルーしていた(というか気づかなかった)であろう映画なのですが、さるお方の激推しで観に行ってきました。凄い映画でした。

ただなんというかですね、言語化するのにはあまり向いていない映画というか、言葉をひりだそうとすると「映像がすごい(小並感)」といった具合でにっちもさっちもいかない感じになってしまう。のですが、それだとさすがにあれなので無い知を絞って書きます。

といっても問題系は割とシンプルで、アプローチは全く違いますけど楫野裕監督「阿吽」と並べてもそこまで違和感はないと思う。遠藤麻衣子監督の場合はもっと抽象的ですが。

映像がすごい、だけだとまるで〇痴なので無茶を承知で一番卑近な例に無理やり引き付けてアナロジーすれば、吉田大八監督「美しい星」(include「未知との遭遇」)の覚醒シーン(渡邊琢磨の音楽も含め)が全編にわたって全面展開している(しかし恐ろしく緩急がついている)、といえばいいだろうか。「美しい星」もある意味で電波系の映画ではありますし、遠からず近からずだと思う。いや「TOKYOTELEPATH」の方が遥かに超なのですが。

それにまあ宇宙人もオカルトの範疇ですし。だがしかし、これは何度でも書きますが、私は幼少期に友人と一緒にUFOを目視したことがあるので個人的には宇宙人というのはオカルトの埒外なのです。それでも一般的にはテレパスも宇宙人もオカルトのカテゴリでしょう。話はそれますが「虚空門GATE」観てないんだけど、こんなこと書いてる人間があの映画を観るというのはなんかまずい気もする。

 

それと、この作品の名前を出すと品性というか性癖を疑われそうなのと、「あんな低俗なものと一緒にするな」「持ち出すならタルコフスキーの「ソラリス」の首都高シーンだろ」とかお叱りを受けそうなので躊躇われるのですが、それを覚悟で名前を挙げると、ショタコンアダルトOVA(今となっては男の娘表記の方がしっくりくる)「シリーズぴこ」の第3作にあたる「ぴこ×CoCo×ちこ」にも、TOKYOという都市(を象徴するランドマーク)を逍遥しつつ「何か」が展開されるというのは結構通じるものがあると思うのですが、さすがに血迷っているだろうか。

 

かっちょいい画の連続、ノイジーで耳心地の良い頭が痛くなる音は、残飯監督の映画で使われたノイズとも違う。彼の映画のノイズはまさしくノイズであり露悪でしかないノイズ(だがそれがいい)なのだけれど、それとはまた違う。

 

物語らしい物語は、ない。辛うじてキョンちゃん・よ8888・お兄ちゃんの関係性から読み取ることはできようが、それも盲目・足のないの彼らがジャミングし上滑りさせているようにも見える。それはフリーメイソン的プリズムで光を掌握しようとも・よもや日常風景化したサンバイザー(=フェイスガード)によって光を遮断しようとも・数珠繋ぎの疑似龍脈で光を回折させようともしない、光を持たないがゆえに光を必要としない者たち。中心たるTOKYO・オリンピック、フェンスで囲われた国立競技場の外苑・パラリンピックに象徴される周縁。もとい、双方ともに外縁的。

ところがぎっちょんてれすくてん。パラリンピックは文字通りparaである。ゆえに中心たる彼らは並置され相克され物語は無化される。おお!そう考えるとドキュメンタリーであったからこそ相克できなかった佐々木誠監督の「ナイトクルージング」の先んじてはいまいか!?などと興奮する。 

物語はない。けれど意味はある。というか、意味しかない。虹色の階段上で、まるでビット単位で蠢くおよそ人影には見えない影を見ながら、距離を思う。距離によってその視線の対象物は姿形を変える。残飯監督の短編を観ていた思ったことと似ている。つかず離れず、適度にバランス、だから中庸。それが処世術。

だけど、それだとつまらないのも事実でありけり。だから超接近してみたり、離れてみてみたりして、あたかも形状変容しているように見るのである。

 

とはいえである。果たして、距離そのものを喪失させるテレパシーなるものが、テクノロジーなるものの誘惑を無根拠に受け入れていいものだろうか。

少なくとも私は「リジェクト」したい気持ちがある。ノーサンキューです。

 

どうでもいい個人的なことなのだけれど、キョンちゃんが見ていた風景を私も見たことがある。あのまま競技場が未完成だったらすごいいいのになーと思ったりもしたり。それはオリンピックに反対していたからというより、完成の退屈さとか、単純にオブジェクトに対する美的感覚が違うというだけなのだけれど、今になって思えば、生まれる前から死んでいたこの「中心」的建造物の、2018年の生まれようとする姿をその「外部」から観れるというだけでも、この映画の素晴らしさがあるように思える。