dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

11/2020

スターリンの葬送狂騒曲

いやー面白かったです。原作のグラフィックノベルは冒頭だけチラッと読んだ覚えがあるのですが、それだけだとここまで笑えるような内容だとはわからなかった。

私は自他ともに認める勉強できない劣等生なので当然ながら歴史も赤点取らなければ万々歳だったレベルゆえ、ソ連史についてもほとんど知らないのですが、この映画に関してはそういうのはほぼ不要でした。まあ歴史的には(あえて)間違っている部分もあるらしいので、むしろあまりソ連史に詳しくない人の方がストレートに楽しめるのかもしれない。

スターリンの死によって物語が駆動し始めるわけですが、彼の死を確かめるためにすらあれだけのごたごたが、というのは本当に滑稽で面白い。一転に集中していた権力が宙に浮くやいなやパワーゲームを始める委員会の姿は、スターリンの死そのものがあっけなく笑えるものであることからも明らかなように、巨悪というものが本来的には存在しえないということを、(まあこの映画を観るまでもなくどこかの国の惨状をみればわかることですが)改めて認識させてくれる。

あらゆる登場人物の一挙手一投足が笑いに転化されるこの映画において、しかしその本質は万人が恐怖による支配下にあるということの証左なわけで。例外的にヴァシーロフ元帥だけが恐怖心を垣間見せることすらないけれど、それはもちろん軍部という政治権力とはやや位相の異なるワイルドカードを掌握しているから。

笑える部分はたくさんあるのですが、マレンコフが「ロシアンアスにキスしろ」と言ったところで憲兵?が女の子の目を隠すところなんかが特に細かくて笑えました。

 

特に、人の死すらも笑えるようになっているのがさすがである、と言いたい。クーデター開始した委員会の部屋に入ってきたベリヤ側のNKVD(?)を追う軍部兵士のところとか、一連の銃殺シーンとか。スピルバーグイズムもある。なればこそ、スターリンとその他名もなき殺された人々が同じ地平に立たされることになるのであるから。

まあそもそも、そこまで徹底しないとこの映画のスタンスとしてあり得ないというだけではあるのだけれど。

 

 「ブラック・シー

冒頭のアバンでめちゃくちゃ期待したんですけど、アバンから予測される映画とは全く違ったでござる。

細かい部分を考えだすとキリがないので目をつむって観てましたけれど、なんか昔話的なある種の理不尽さみたいなものがある。

しかしジュード・ロウは海に出ると死にますね。

 

「ワイルド・バレット」

だ、だせぇ!カット割りからカメラワークまで全部だせぇ!この時期から本格的に使われはじめたデジタル撮影による擬似ワンカットの使い方の節操のなさといい、やたらズームしたがるしバストショットもださいしポールウォーカーの過剰な演技といい、彩度の調整といい、ハリウッドのメインストリームのエピゴーネン。これ見るといかにトニースコットが素晴らしいのかよく分かるし、キュアロンやフィンチャーの卓抜さがわかる。

でも吹き替えの売春婦?の悪罵はすごい直球で面白かったです。

 

しかし小杉十郎太のポールウォーカーって珍しい気がする。情けない小杉十郎太ボイスという意味では吹き替えで一見の価値ありかもしれない。

 

ハンバーガー・ヒル

ベトナム戦争を題材にした映画はいくつか観てきたけれど、まあベトナム戦争に限らず戦争における戦場を切り取った場合、どれも描き出そうとするものは似たものになってくる。年代によっては戦意高揚のために戦争を肯定的に描いたりする映画もあるけれど、戦後においてそれはもはや機能しないことは言うまでもない。

要するに、戦争というものの避けがたい引力がそれなのだろう。あるいは、戦争に対する人間の想像力の限界と言ってもいいかもしれない。

似たようなものと言っても、どう撮るかということによって大きく変わってくるし、戦場によっては何がどう過酷だったかというものも変わってくるだろう。それは地形だったりテクノロジー(兵器)の差によっても違ってくる。

ハンバーガー・ヒル」においては、合衆国の兵士ではあってもそこには明確に黒人と白人の軋轢(と戦場の絆による超克)が抽出されていて、ここはほかのベトナム戦争の映画ではここまで強調されることは少なかったかもしれない。や、そんなにベトナム戦争映画は観ていないけれど。

あるいはフレンドリーファイヤーの描写。味方のヘリから掃射され次々に死んでいくチームメンバー。ここもかなり大仰に描いているのだけれど、やはりほかの映画ではあまりないように思える。歯ブラシのくだりも初耳だった。

 

少なくともほかの戦争映画とはちゃんと区別できている気はする。

 

 「恐怖の報酬」

フリードキンによるリメイク版。1977年に公開されたのに今回観たオリジナル完全版が日本で公開されたのは2018年ということらしいのですが、そんなに待たされていたのかと。オリジナル版も原作も知らないのですがリメイク版によって加えられたのが「トラックで運ぶというオリジナルの設定に加え、主人公たちの行く手を遮る泥濘、雨、ぼろぼろの吊橋、反政府ゲリラなど、オリジナルにはなかった@Wikipedia」ということで、むしろこれなしでどうやってオリジナル版は緊張感を持たせたのかが気になる。

というか、フリードキンの映画ってガチすぎてビビるのですが。豪雨の橋とか脱輪とか、爆発もマジですし。

ちょっとした人情はあれど、「それはそれとして世界は回るよ(残酷に)」。ピンチを知恵で切り抜けようとも、「それはそれとして世界は回るよ(残酷に)」。

それはほとんど喜劇的ですらあり、実際私は何度か噴き出してしまいました。

フリードキンの野蛮さというのはヤバイ。

 

花のあと

うむ、なかなかどうして悪くないと思います。

昨今のべたべたした恋愛主軸にした者に比べてほんのり桜色の淡い慕情は、恋愛というギトギトしたものよりももっと「人間として」尊敬できる相手という、より大きなものであるし。

殺陣はもうちょっとカット割らずにとか色々物足りない部分はあれど、飾り気なく髪を結んだ北川景子の顔は良し。手弱女のように振る舞う(というよりも、手弱女として戯れているようにも思える)のとのギャップにグッときます。

いや、いいんじゃないかしらこれ。というか、21世紀の時代劇って割ととっつきやすいうえに割とバラエティに富んでいたり、現代を舞台にするとどうしても何かしらのエクスキューズが必要になってくる刀やらを自然に出せるし、あるいは「シグルイ」的なものも描こうと思えば描けるし、かなりおいしいジャンルなのでは?

 

「西部魂」

 フリッツ・ラングの監督映画。

西部劇としてカテゴライズされるであろうこの映画。開幕から西部の荒野なのだけれど、何かが違う。大地と空のコントラストが妙にはっきりとしていて、その境目が線としてはっきりとわかるようですらあった。

ともかく、何か細かいところが違うのである。エドワードが馬から倒れこみ湧き水をすするときの左手が掴む地面に食い込んだ石。石、というよりもそれを握るディーン・ジャガーの左手なのである。これはたとえば「ダークサイドムーン」において目覚めさせたセンチネルに押し倒されたオプティマスが立ち上がる際に拳を地面につきながら親指をさらにその支えにしている、あの手の動きを想起させる「何か」。それは単に私のフェティシズムである、と言い切ってしまえばそれまでなのかもしれないけれど、手指の動きというのは、やはりそれ自体が人間ひいては多くの生物が外界に触れるためのインターフェースであるということを考えると、このエロティシズムというのは根源的なものであるように思える。

あとはスクリーンプロセスらしき背景。それはあまりに唐突に背景が「造られた背景」として前景化してくる(それがスクリーンプロセスのもたらす作用の一つだとは思うのですが)のですが、なにゆえなのかが分からない。ただ、背景が「造られた背景」としてその存在をぼやかすことでむしろ画面全体、その背景の前に立つ役者の存在が強烈に浮かび上がってくる。

別にスクリーンプロセスなんて珍しいことでもないのに、なぜなのだろうか。そもそも、あれは本当にスクリーンプロセスだったのだろうか、とすら思う。

あるいは人間の距離の近さ。これはまあ、別にこの映画に限ったことではないのだろうけれども、初めてそれを意識した、ということは言える。要するにこの時代はまだスタンダードサイズというアスペクト比による撮影のために、人物を画面に収めるためには人物同志を密着させるしかない、というだけの話なのだろうけれど、それが妙に意識される。

もしかすると、このご時世ですから、自分でも無意識のうちにそーしゃるでぃすたんすが刷り込まれていたのだろうか。自分では全く意識していなかったのだけれど。

そういえば、真正面からのバストサイズがあったような気がするのだけれど、あれもなんだか不思議で、小津じゃないけれど、妙に気になる部分だった。

なんか不思議な映画だった。あと「先住民」はどうなの。

 

「運び屋」

イーストウッドはやっぱりイーストウッドなのだった。

もはや映画のテクニック的なことを指摘することが(まあ指摘できるほど知識ないですが)馬鹿らしくなってくるようにきっちかっちりと収めるべきものを収めていく。初めて紹介された場所に行ったときはカメラの揺れ(とイーストウッドの所作)で緊張を表現し、二度目は手持ちだがほぼ揺れない。あるいは窓ノックの意趣返しなどの反復。あるいはジェームズ・スチュアートの天丼。

どこまでが脚本でイーストウッドがどこまで手を加えたかわかりませんが、まあ映画を観ればイーストウッドの映画であることには間違いないというか。

 

これは利他が巡り巡って自己を救う話である。しかし、そこには明瞭な善悪の二元は存在しない。社会的悪とされるマフィアだろうが、それを取り締まるDEAであろうが、イーストウッドはどちらをも殊更あくどく描いたりはしない。もちろん一般的な市民としての善良さ以上の善性も描かない。ただ、各々の人物は各々の(それは狂言回し的な位置に自ら収まるイーストウッド=アーロが主)関係の中で生じる個々の人間性を発露するにすぎない。

だから音楽はあまり強調されないけれど、それでも感傷的なときにはそれを表現するための音楽が流れる。

 

アーロは分け隔てなくかかわった人間を助けようとする。金、というのはそのための手段であって目的ではない。

スマートフォンへの度重なる言及は、やっぱりイーストウッドが手を加えたところなのだろうか。だとしたら、人間だけでなく、その文明の利器に対してもイーストウッド観照的に見定めようとしている。確かに便利で、それに順応しようとする。一方で、それによって失われえるものの可能性(逆説的に得られるもの=愛する他者との時間)を提示してみせる。

マスキュリニティを明らかに虚仮にしていたり、価値観をアップデート(イーストウッド風に言えばcatch up withだろうか)しようとしている。

某デザイナーは「グラン・トリノ」をしてマスキュリニティを継承させてしまっているとも指摘していたけれど、しかしそれからもはや10年が経過し老いさらばえたイーストウッドの身体はそれを表現しえないことを考えると、自身を以てマスキュリニティの老衰を現出させようとしているのではないか。

しかしいくらなんでもおさかんすぎるでしょう、クリント御大。

 

若草物語

四姉妹が可愛い。のだけれど、保守的過ぎるのが難点のど飴。

四女だけが可能性を秘めており、そこに配役されているのが和泉雅子というお転婆な漢字というのがせめてもの救いだろうか。

掛け合いの妙は好きです。

 

 

シャレード

アバンが妙にオシャレで、どことなくソールバスっぽいというかヒッチコック映画っぽくもあってシリアスな雰囲気かと思ったのですが、そうでもなかった。いや、人は数人死にますけど。ボサノバ?なbgmも相まって全体的に洒落てはいるのだけれど、どちらかというとコメディ寄りか。

それにしても、あんな典型的なダイイングメッセージが本当に創作物の中に存在するとは思わなんだ。なんかこう、隔世の感があるというかアンモナイト化石を発見したような感があるというか。

 

ガンジー

この映画はガンジーの死から始まる。それは彼の偉業を際立たせる狼煙となる。