dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

ワンダーウーマン1984

すごい久しぶりにシネコン行ってきました。というか新作自体まともに観るのは半年ぶり以上な気がする。正確には短編やらオンライン試写会やらで片手で数えられる程度には観ているのですが。まあそれは生活スタイルが大きく変わったから、というのがあるのですが・・・ってこれ前も同じようなこと書いた気がする。

 

それはさておきワンウーである。

 この手の映画にしてはランニングタイムが二時間半と結構長めで、前日にまともに寝ていなかったこともあって中盤で少しダラついたような気もしました。アバンのSASUKEは普通にもっと短くできたと思うのだけれど。序盤のバーバラとダイアナの出会いのシーンとか編集というか脚本でもうちょっと場面転換抑えられたんじゃないかとか、とってつけたというかテリーマンが犬を助けるとき並みの弱者救出演出とか、まあ細かいことを言えば気にならない場面がないわけではない。

とか書きつつも劇場で5回くらい涙ちょちょぎれてしまいました。というのも、これは完全に自分自身の問題で、ここ一週間ほどかなりメンタルが不安定で、平時ならば「ちょっとクサくない?」とか感じ得る場所ですら、そのストレートさに普通に涙流してしまうほどで、つまり自律神経が不安定であるがゆえにもとから緩い涙腺がさらに緩くなっているというのはあるえる。

だっていつもの私だったらガル・ガドットクリス・パインのカメラぐるぐるでさすがにやりすぎじゃないですか、とか思うところで泣いちゃったし、別れのシーンで、ガル・ガドットの顔を撮り続けながら背後の柱の陰に残したクリス・パインは映さず彼の言葉による激励に背中を押される撮影で涙出てきてしまいましたし。いやここは平時でもグッと来てたか。

クリスティン・ウィグ演じるバーバラのルサンチマンが自分の中のルサンチマンとダブって泣いてしまいましたし(あんだけ能力あるのにルサンチマン発動するとか富める者の悩みでしょうが!と普段なら逆切れしているパターン)、アリスタくんがパパの幸福を願う何気ないシーン(すれ違いなのがまたくる)で泣いちゃいましたし、マックスが息子のために願いを取り消す(に至る回想も含め)シーンで泣いちゃいましたし、ワンダーウーマンのテーマのアレンジが底抜けに前向きな感じなのも来ましたし、なんだかメンタル不安定なせいでともかく感情的になってしまっていた。

無論、泣ける映画がイコールで良い映画などというわけではないでしょう。

それでも、(これは、もしかするとペギオ氏的な天然知能なものに接続可能なのかもしれない。全然理解してないけど)というその姿勢は、劇中の暴動と現実のそれが重ねられているにもかかわらずーーだからこそーー迷いはすれど世界をありのまま受け入れるというその姿勢は称揚せずにはいられない。

中盤でデバフがかかったワンウーの走る姿のダサさ(JLにおけるフラッシュのそれには及ばないが)は、しかし決別によりその力を取り戻した際のガル・ガドットの疾走の助走であったと考えるならばそれはすべてが必然であり必要なものだったのだと思える。

この映画はネオリベ的なものの否定をする。しかしそれは左派的なものでは決してない。そうではなく、人であることに対する信頼をその否定材料にしているように見える。

たしかこれも伊藤氏が言っていたことだと思うのだけれど(違ってたらすまそん)、ジョージ・オーウェルが今もなお読み継がれているのは監視社会がどうこうではなく、それは人がシステムそのものに組み込まれてしまうことの恐ろしさ(超絶意訳)にあるということだったはず。そうしてみると、「ワンダーウーマン1984」というタイトルのオーウェルへの目配せは、複数のテレビによるそういう絵面ではない(けど映画版の「1984」は意識していそう。本人は関係ないと言ってるけど)。そうではなく、人々の欲望それ自体がシステムを駆動させる燃料になってしまうということにあるのだろう。

だからこそマックスは劇中で人でなくなり、システムそのものとなってしまった。この映画におけるオーウェルの要素は多分そこにある。

そして、極めて社会力学的で冷徹なその視座に対し、パティ・ジェンキンスは人なるもので対置した。もっとストレートに、極めて俗的な言い方をすれば愛なのかもしれない。その臆面のなさ、バカらしいまでに率直なそれに、私はもう一回泣いてしまった。

そして最後の最後に現れるリンダ・カーターa.k.aワンダーウーマンもといアステリアに泣いた。


余談ですが80年代ディテールでまさかレオタードを推してくるとは思いませんでした。クリスティン・ウィグにまるで恥じらいが感じられないのは彼女がコメディアンだからだろうか。

そういうディテールも含めた臆面のなさ。その、青臭さともいえてしまうような、それこそすれた私のような人間が唾棄したがる人ほど見るべしなのかもしれない。