dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

得意球:ナックルなのに。中身:ストレートな映画

久々に劇場に行ってきました。試写会だったんですけれど、最後に劇場で映画観たのがワンウーだったことを考えるとすでに一月以上も観ていなかったことに。なんというか、まあ、昔と違って映画以外のものが多様になってきているから、というのは経験則から考えると根拠としては結構強いような気がしなくもない。

あ、あと試写会の日にちが2月14日ということでプレスシートのほかに野球のボールをイメージしたクッキーもいただきました。ありがとうフィルマークス!独り身にはウレシイずぇ!これもらったチョコレートとして換算してよろしいか?

 

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で、試写会で観たのは画像のプレスシートからもわかるように「野球少女」という韓国映画だったのですが、まあ内容もストレートならタイトルもどストレート(原題でもBASEBALL GIRLと英語表記されていたので韓国語でも同意なのではないかとおもわれ)で捻る箇所などあろうもない、という気概を感じます。その意気や良し。

 

これ、本当にフォーマットとしては直球のスポ根路線なので、ちょっと驚きます。特訓モンタージュとかも捻った部分はまったくないし、BGMの使い方(あと音量)もなんかすごい印象に残る楽曲ではないのだけれど場面としては多分適切なのだろうと思われる添え方だし、なんというかこう、演出や物語において何かが突き抜けるものというものがないのではないか。
ところで、この映画はちょいちょいズームインするのだけれど、個人的にズームインってよほどの卓抜さがなければダサく見えてしまうんですよね。これって私だけなのだろうか。いや、スピルバーグみたいなドリーズームとかなら問題ないのだけれども。

閑話休題

だがしかしである。この、良くも悪くも極めてドストレートな映画において、ある変数を代入することで社会性を意識させるものとなっている。その変数とは無論、「女性」である。これ自体が異化効果として作用してしまうということそのものがこの社会の持つ歪んだ病理であるということはともかくとして、そう見えることを意図している以上は作り手の勝利なのでしょう。

特に私が心を打たれたのは女性と社会の繋がり以上に、女性(というか性そのものにまつわる)の身体性の部分なのだったりする。これ、たとえば集英社の某ワンピースの初期も初期に出てきた「くいな」というキャラクターが持っていた葛藤そのままなのですね。だから感動した、というわけではもちろんなくて(そもそもワンピース読んでないし)、それは私自身の経験則として、とても痛感していることだからなのですね。
特に彼女と対置させられる幼馴染でプロになったイ・ジョンホくんと手を重ねるところ。あれは本当に来るものがある。というのも、ある意味で社会とのつながりというものは、それが事実上どんな困難を抱えていたとしても変革可能性を秘めているものであるのに対し、身体性というものは(とりわけ性を含めて個人の資質としての才覚)どうあがいたところで越境の限界があり頭打ちになることが見えている。だからこそ、その不可能性を乗り越えようとする姿に感動するのでせう。いやまあ、日々のテクノロジーの進歩を見るにつけ、越境というのも実は容易になりつつあるのではないかとも思うのだけれど。まあ「ガタカ」ならともかく「野球少女」でそういう話になるはずもなく

そして、そのための根拠としてのナックルボールという「彼女だけ」の資質を伸ばすというのも理にかなっている。まあ、どうして高校の終わりまでその長所を発見・成長させられなかったのか、というツッコミも入らないではないだろうが、それも「スインが女性だから」ということで一蹴できてしまうところがまたお辛い。監督は人が好さそうで面倒見もよさそうなだけに、そんな彼ですらも男根主義的な社会の中で偏見を無意識のうちに内面化してしまったのだろうかと考えてしまう(え、単なる作劇上の都合だろって?)。

まあちょっと気になった点でいえば最後の契約のシーンなんですけれど、なんかあそこの契約内容変更の部分だけややもするとあまりにご都合すぎはしないかという気もするのですね。それは作り手も理解しているのか、2軍でのデビューということで手打ちとなった感がすごい。

実のところ少女の投手が主役の映画でいえばすでに傑作(?)の「がんばれ!ベアーズ」という先駆者があるですが・・・とか書いておきながら、そもそもからして並列して並べることは難しかったりする(じゃあなんで名前だした)。
というのも、「ベアーズ」の方は先に述べた成長に伴う身体性の現出以前の話であり、なおかつこれからがモラトリアムに突入するのだという「始まりの始まり」を告げるものであるのに対し、「野球少女」に関してはむしろその逆。それはリアリストとして登場させられるスインの母が示すようにモラトリアムの終焉つまり「終わりの始まり」の話であるからですね。

無論、この映画はそれと同時に「始まりの始まり」でもあるわけではあるのですが、やはり全編を貫くはそのモラトリアムのリミットまでの自己実現VS現実的着地との葛藤であることは言うまでもない。

そしてその現実に敗北を喫した先達としてのジンテコーチやスインの父(はまあ、色々と盛り込もうとして失敗していると思うのだけれど)という人物がいる。なぜ敗北を喫したのが全員男性(そして葛藤なく成功を手にしたのもジョンホという男性)なのか。

それは男性というものが競争社会に否応なく駆り出される性であるからにほかならない。もちろん、二人にはそれぞれが抱く夢というものがあり、自発的な参戦であることには間違いないのだろうけれど、某仮面ライダー作品を引用するのならば「夢というのは呪いと同じ」なのであるわけで。

そして、スインの母が徹底してリアリストとして描かれるゆえんは、映画の中では描写されずとも、そもそも彼女が夢を見ることすら許してもらえない性であったからという推知をするのはヨム・ヘランの演技だけでも十二分だろう。作劇的にはどうなのかと言いたいこともないこともないけれど。

とまあそういうことは抜きにして食事シーンが結構多いのは好印象。もうちょっと凝ってくれるといいかな、という気もするけれど。あとラスト近くで球場全体が映されるカットはすごい良かったです。


個人的には大傑作とは思わないし、所々で気になる点ももちろんあるのだけれど、そうだとしても、ここまでドストレートなものを、そこに異化効果としての女性というものが立ち現れてきてしまうという事実を感じる必要はあるだろう。