dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

てなわけでエヴァ二回目行ってきた。

とりあえずIMAXで。本当は4DXの方が席がぐりぐり動いて楽しいんじゃないかなーと思てたんですけど時間が合わずに断念。

IMAXで良かったのはやっぱり音響。特にエンドロールの宇多田の曲は両方ともすごくよかった。すでにCD買って延々とループしていたのだけれど、「Beautiful World」のアレンジはイヤホンで聞いているときはオリジナルバージョンにスキップしちゃうときもあるくらい(逆に「One last Kiss」はこれ単体でループするくらい好きなんですが)そこまでだなーと思っていたのにIMAXの音響で聞いたら全然違った。da capoも良いじゃん!

 

本編についてはすでに散々擦られているので特に書くこともないのだけど、やっぱりエヴァンゲリオンのメタ映画として「シン・エヴァ」はあるなぁと。前も書いたけれど、セルフオマージュが過ぎてほぼほぼパロディになっている(そうでなくとも庵野さんはオマージュ大好きですし)ので笑ってしまう。

新劇になってから登場した新キャラクターたちは、既存のキャラへのメタ的な視点を持ち合わせているのはすでに知られているところではありますが、それによってうまくヘイトを分散させているなぁ、と。

マリ(=モヨコ)はともかくとして、ピンク髪(名前忘れた)の人の感情や巨大綾波を観た時のツッコミなどは、旧劇場版ではありえなかったはず。ツッコミ、というのはともかく客観的な視点に立たねばできないことであるからして。

しかし後半パートの出だしの音楽の詰め詰め感は本当に笑ってしまう。あれ鷺巣さんのスコアCDの1枚目のラスト(激突!轟天対大魔艦)と2枚目の2曲目(metamorphosisとparanoia)までの間隙はほとんどなかったんじゃなかろうか。ていうかスコアのライナーノート面白い。

 

エヴァはともかくエヴァを取り巻く環境とか、一部の映画人のスタンスというのもあまり好きではないのだけれど、しかしまあゲンドウのことを糾弾できる人って一体どんなメンタルの持ち主なのだろうかと考えてしまう。いや、あの男がマダオであることは一部の隙間もない正論であることは確かなのだが、じゃあそういうあなたはどうですか?と問い返されたときに、私はいまだに旧劇場版を参照してしまう程度には対人が苦手である。

だから今作で明確に成長(緒方→神木)してしまったシンジくんを観て、カヲルくんがシンジ君の成長を少し寂しいと言うのには同意してしまうのである。

 

話は戻りますが、メタ視点というのは、やっぱりどこかサムいというか白々しさというのが付きまとう。シンに関してあれだけの旧劇オマージュを畳みかけておきながら、旧劇にあったダウナーな感じや生理的なキモさが著しく後退しているのは単にCGがどうこうというだけではなくて、やはりそれはどうしようもない他者の存在が厳然とあるからだろう。

旧劇において補完が開始されると、そっから先はほぼすべてがシンジのモノローグとなってしまう。しかし今回は彼の内在世界と並行してその外部(=他者)が元気に活動しまくっている。そもそも、シンにおけるゴルゴダオブジェクトにユーガッタタッチしたあとの内在世界はシンジだけではなく彼にとっての他者であるゲンドウをメインにした他者(といってもこの時点では二人だけだけれど)も存在している時点で、ゲンドウが食われていなくなる(=拒絶)旧劇版とは明らかに異なっている。

そもそも、明確に「対話」することでの決着と言っている以上、コミュニケーションの発生は不可避であるわけで(その前座としての戦闘というディスコミュニケ―ション)。

それを臆面もなく描くことは、すなわち旧劇場版のメタ以外のなにものでもない。旧劇のあのダウナーな熱狂というのは、つまりはそこにツッコミを入れる他者の存在が欠けているがゆえに深く自己深層心理に観客が勝手に同調して(当時の時代を考えればさもありなん)いくことによって成り立っていたはずで。

だから、シンジがどれだけ自己嫌悪的なセリフを口にしたところでしょせんはポーズでしかなかった旧劇に対し、今回はピンク髪の人が「エゴじゃん」というように外部の視点を取り入れている。

それがゆえに、旧劇エヴァが好きな人はしらけるのだと思う。多分、伊藤さんが言っていたのもそういうことなんじゃないだろうか。

 

 

どうでもいいんだけれど誰かすべてのエヴァが刺し貫かれるシーンで量産型とか甲型とか書き加えるMADを作ってくれまいか。