「隠し剣 鬼の爪」
緒形拳はともかく、どちらかというと柔らかい空気感を持ってる役者たちの必死な演技が楽しい。
侍という矜持とかち合う鬼の爪。侍という、美しく()誇りある生き方を相対化する、ある種のカウンター。
朱に交われば赤くなる、ではありませんが組織のトップが汚穢に染まっているならば、下肢たる藩士の理想も汚れ、侍などという理想はないのだと開き直るほかない。切腹などともってのほか。だからこそ永瀬正敏は侍なるものに執心するのだろう。だからこそ鬼の爪という真剣試合という神聖な()果たし合いに使えない暗殺のための技を使うに至るのだ。
上も、友も、そして己自身も侍という理想に至れないことを知り、それでもなお清く生きることはできる。その象徴としての松たか子なのでせう。
アクションシーンがほぼワンカットで撮られていることに、かえってアクション映画におけるアクションの欺瞞さが見えてくるようであり、それって侍という神聖視されるものへの疑義なんじゃないだろうか。
「キングコング」
ピージャクの。3時間と聞いてずっと避けてた(長い映画は苦手で)のですが、モンスターバース版の公開延期の機会のついでに見ることに。それ髑髏島のときにしとけ、という話なのですが。
虫が苦手な人がこれ観たら卒倒するんじゃなかろうか、というくらい巨大虫映画でもあって、ナオミ・ワッツのムカデ触手プレイ(違)とかクルーの崖下での昆虫ワーム触手プレイ(違)とか結構キツかった。その辺はさすがピージャクというか、パンピーに配慮しない入れ具合である。
コングのイケメン具合がすごいよい。これに関してはジョーダンのよりも良い。というのも、それは一重にサイズに起因しているのだろう。この映画のコング(とか他の巨大生物)はでかいといってもせいぜいトランスフォーマーのやや大きめの奴らと同程度であり、それはすなわち人間とのコミュニケーションに最適化された巨大化なのである。それに加えて、頭身も相まってそこまで巨大には見えない(カット単位ではアングルの差異もあるし巨大感はある)のは、やはりあくまでコミュニティケート可能な存在としての、そして何よりフリークスとしてのコングがピージャクのコングなのだろう。だからこれは決して巨大怪獣映画などではない。オリジナルに近いのはもちろんこっちで、モンスターバースのとは明らかにジャンル違い。どっちの方が優れているとかではないのだけれど。そういう意味ではむしろティム・バートンの映画に近い。
でもそのくせそっちよりの描写もピージャクはやろうとしていて、そのせいでここまで長尺になってるような気がする。楽しいからいいのだけれど疲れるよ。
コングに向けて発泡(shoot)するクルーたちの横でコングを撮影(shoot)するジャック・ブラックなんかのオヤジギャグなど、そのくだらなさに笑いつつも、そこに同居する映画の持つ本質的な鋭利さ(高山羽根子の「暗闇にレンズ」を想起したり)みたいなものを意識させられたり。そのあとの神エイムで虫を射殺するのは純粋な笑いどころなのだろうけど。
あと何気に背景すごい綺麗。綺麗なのにまだ洗練されていないからやや浮いていて、それがかえって良い具合。
とはいえ公園でのクリスマスデートはやり過ぎでは。というか、それがオタクの理想のデートの想像力の限か・・・ロマンティシズムなのかもしれない。
「Last choice」
短編。題材に対してCGがすごいんだけれど。ラブマシーンをベースに顔の部分がガンダムがかっているのとかちょっと笑えるデザインではありますが。
ある意味では「レディ・プレイヤー1」とは逆の眼差しとでもいうべきか。基本的にこの手の社会的課題に限らず全否定も全肯定もできないとは思うのだけれど。
まあかつて当事者のあわいにいた人間としてはわからないこともない、という思いの一方で部屋の内装がちょっとクリシェすぎやしないかとか小奇麗すぎないかとか色々とあるのだけれど。
異なる可能性としてヴァーチャルというのは全然ありだけれど、しかしやはり身体性の放棄とも近接しかねないような気もするのがもやもやする。
その点では、やはりスピルバーグの「レディ~」は原作がどうかは知らないけれど少なくとも(それが映画的に映えるから、という身もふたもない表し方をしてもいいのだけれど)身体性を存分に発揮させていた。「結局かわいいじゃねーか!」というとこまで含めて。
「アルゲリッチ 私こそ音楽!」
はやく「母性のディストピア」読まないといかんなーと思い至る。
そうでなくとも積読本が多すぎてかなわんのですが。