dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

フィクションにおいて間諜はいくら持ってもよろしいものとする

忍者(NINJA)しかりセクターほにゃららしかり。まあ今更すぎるんだけれど。

てなわけで「ブラック・ウィドウ」

 

全体的にエモい、この映画。

エモい。この言葉を使ったが最後、あらゆるディティールは精彩を欠き本来内在していたであろう意味をはぎ取り「なんとなく」の「感じ」という、この言葉を投げかける相手への「共感」だけを頼りにしなければならず、なんとなく敗北感を覚えてしまうために、何かしらを相手に伝えたいときに使うのはなるべく避けているワードではあるのですが、それでもこの映画はなんかこう、エモい(敗北)。

オープニングクレジットの、映像だけでいえばポリティカリーサスペンス風味なのに、そこにボーカル付きの音楽を持ってくるのとか、なんかすごい食い合わせが悪いような気もする。
まあポリティカリーサスペンスというよりはスパイアクションなのだろうけれど。特にモロッコのセーフハウス(?)などの初期「ボーン」シリーズを思わせる空気感は多分意識していると思う。この手の馬鹿げたスパイアクション映画において、「ブラック・ウィドウ」の湿度と似通っているのはこれくらいだろうし。

しかしその狙いどころは分かりやすいというか、単純な足し算としてはさもありなんというところではある。のかもしれない。

つまり、エモさ。共感可能性。

フローレンス・ピューなんて、どう見てもエージェントには見えますまい。そう強く思ったのは演技力とかそういうことではなくて、まず彼女の苦悶の声というのは必死しぎるのである。これは多分、声質とかもあるのだろうけれど、スカヨハの平静を装った表情の中に堪えた何かを思わせる(スパイとしてはそう思わせてはいけないのかもだけど)二重性に比べ、ピューは感情が全面展開されている。表情にせよ声にせよ。まあ、物語上で洗脳が解かれているから、というのもあるのだろう。

で、ピューがその内面を惜しげもなく披露するため、観客は容易に感情移入をさせられ、「エモ」くなるのである。それがある種のラディカルさに繋がっていれば面白かったのだけれど、別にそういうわけではない。もちろんフェミニズムと人間の「非人間化」というお題目は正しいのだろうけれど、だったらキャスリン・ビグロージェシカ・チャスティンの組み合わせの方がよっぽど過剰に思える。

でも多分、それよりもまずこの映画が語りたいのは(というかこの映画を語りたい人?)家族についてなのだろう。

MCUが家族云々というものを掲げ始めたのはいつごろだろうか。映画シリーズだけしか追っていないし、何度も見返しているわけではないのだけれど、なんとなく「シビル・ウォー」あたりからだと思う。「アントマン」も家族を描いているとはいえ、それは大文字の「家族」ではなかった。
ではなぜ、「シビル・ウォー」からなのだろうか。それは多分、ドナルド・トランプの当選と、それに関連したアメリカの分断に、アメコミ原作であり、ファミリー向けハリウッド大作というマスとしてその内情と共振したからのではないかと今にして考えると思う。

「シビル・ウォー」からのMCUの大文字の家族押しというのは「GotG vol2」しかり「ラグナロク」しかり。アメリカという大文字の家族≒国家を再結合するために、大文字で家族を語らざるをえなかったのだろう。政治的正しさを錦の御旗として掲げざるをえなくなったMCU当然の帰結ではあったのかもしれない。
それでもこのころまでは「~とはかくあるべき」という規範性を壊そうという気概はあったと思う。

しかし、その大文字の「家族」を掲げてしまったがために、掲げざるをえなかったがために、「ブラック・ウィドウ」は「家族とは何か」という疑義を呈しそれに対する答えを提示してしまったがためにその多様性を失っているように見える。

だから男女や米露、白黒という単純な二項対立の図式にハマってしまっているように見えたのかもしれない。

この映画において、男は露悪的に描かれるか、囚人か、顔すらも出てこないモブ敵として描かれ、徹底的なマチヅモを担わされ、しかもそれが解消されることはない。

味方であるレッド・ガーディアンすら、エージェントであるにもかかわらず、デリカシーもなく知能指数が低そうな言動ばかりで、その上パワーキャラであるにもかかわらずそのパワーを発揮させてもらえるシーンはほとんどない。なぜならマチヅモ的なものはこの映画においては否定されているから。

それはかえって弁明にも見えてしまう。「男性=敵ではない」という弁明のためだけに味方サイドに配置されたような。ナターシャに物資を提供する彼にせよ。
それは「家族とは何か」と同じで、フレームを用意することはあってもそこから逸脱する何かをもたらすことはない。結局は規範の押し付けでしかない。いや、もっとラディカルで徹底していて、それこそバレリー・ソラナスくらいの極端さがあるならともかく。

あとこの映画のセルフツッコミスタイルはあまり好きじゃない。なぜならそれは、もはや免罪符としてしか機能しえないように思えてしまうから。

茶化せば許されるとか、もはやそういうレベルの推移ではないのではないか、今の社会というのは。

なんか批判的言葉が並んでいるようだけれど、アクション映画としてはランニングタイム中は割と楽しんだ気はするので、そこまで悪い映画ってわけじゃないと思います。