dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

エターナルズのどうでもよさ

最近、映画館に足を運ぶ理由がほぼMCUになってしまっている。まあ単純に近所のシネコンでやってるのがそれくらいだからというのと、寒くなってくると腰痛持ちの自分は2時間椅子に座りっぱなしというだけでも割とハードワークであるからして、というのもあるのだが。

 

こんなどうでもいい話から口火を切ったのは、この「エターナルズ」という映画が私にとってどうでもいい映画だったからだ。この映画を観ている間、ウジむ…雨後の筍のごとくぼこぼこと生えてくる高校生青春映画もとい柳下氏が言うところの青空映画を観させられているときのどうでもよさみたいなものを感じていた。

そんなどうでもいい映画ののくせに長い。この映画、なんと「トランスフォーマー 最後の騎士王」よりも長い156分もあるそうなのである。なぜ「最後の騎士王」を引き合いに出したのか。まあその理由は後述するとして、ともかくこんなどうでもいい映画に腰痛と尿意(どっちも自分のせいなのだが)と格闘しながら二時間半も付き合わされた身としては、もっとどうにかなっただろうという思いが沸沸と……。


端的に言って、この映画は「神々(の作った超人)が上から目線で人間の真似事をし、人間のいないところで人間の存亡の問題を独り相撲的(マッチポンプ)的に解決する」だけの話なのだ。それなのに、妙に叙情的に語るものだからその超人の自己陶酔・自己憐憫が前景化するという薄ら寒いことになっているのである。これは「マン・オブ・スティール」的などうでもよさともいえる。

そして、このどうでもよさーー鼻持ちならなさと言い換えていいかもしれないーーというのは、多様性というポリティカリーコレクトネスと結託することでその偽善性が極まり、おぞましささえ湛えるようになるのである。

誤解されないように断っておくが、私はレプレゼンテーションはすごく大事なことだと思うし、この映画に様々なマイノリティ(児童、有色人種、聾啞、ゲイ、またセラをスキゾ的・メランコリックな精神障碍のメタファーと受け取ってもいいだろう)が登場すること、それ自体はむしろ幅が広がるし良いことだと思っている。

第一、この超人独善映画の中でマイノリティ表象の一人であるファストスだけが観客にとっての拠り所足り得るわけで、その意味で彼のセクシャリティというのは究極的にはヘテロだろうがゲイだろうがバイだろうがどうでもいいのだ。だからこそファストスがゲイであることに何ら違和感は持ち得ない。というか、この間のスーパーマンの息子の件もそうだが、人間を超越した存在であればこそアセクシャルパンセクシャルバイセクシャルくらいはないとむしろ不自然だろうというのが個人的な見解なのだが、そういう矮小な問題ではなく単にファストスがほかのエターナルズのような内向き(そのくせ上から目線)さではなく、開かれ、人間味のあるキャラクターであるから私は彼のセクシャリティも含めてエターナルズで唯一彼だけが好きになれるキャラクターであったわけで。


とはいえ、別に感情移入できるかできないかというのはそこまで問題ではない。むしろ問題なのは、本来この映画の描こうとする話は叙事的に描くべきであるにもかかわらず、叙情的=感情移入させるように作ってあるために、ちぐはぐになり、かえってどうでもよくなってしまったのではないのかということだ。もっと壮大にすればいいのに、絵面は壮大な割に話は小さく縮こまっているのである。そういう意味ではアリシェムまわりは結構良かった。ラストの方の登場からの退場シーンでどことなく事象の地平面的な描写があったりしてスケールの違いを端的に表してくれていたし。

んなことはすでにマイケル・ベイが「ダークサイドムーン」で、エメリッヒが「インデペンデンス・デイ リサージェンス」でやっていることなので、別に目新しいことでもないし、自分はIMAXで観たので余計にその巨大さが強調されてアがったというのはあるけれど、普通のスクリーンサイズだと「こんなもんか」となるかもしれない。

まあ、この手のビッグバジェット映画、それもMCUというブランドを使って徹底して叙事的に描くというのはかなりリスキーであるというのはわかる。というか、それをやったのが「トランスフォーマー 最後の騎士王」(あと書いてて思ったが「エイリアン コヴェナント」もそうだったかも)だったのではないかと今でも思うし、公開当初に観た私も「最後の騎士王」に対する評価というのはボロクソであったし、実際、その結果はまあ惨憺たるものだった。まあそれ以前にマイケル・ベイの手腕それ自体が問題であると言われれば返す言葉もないのだけれど、今はもう少し「最後の騎士王」はまた別の見方ができるのではないかと考えている。

ちなみに、ほとんどの人は忘れているだろうが、この「エターナルズ」はストーリーの点においても「最後の騎士王」と似通っており、ある意味では双子的な存在と言っていいのではないかと思う。

閑話休題

この映画がポリティカリーコレクトネスとの結託によって獲得してしまったおぞましさ。それは、ヒーローという概念の持つ陶酔性をマイノリティにまで敷衍してしまっているところにあるのではないかと思う。

少なからず、マイノリティというのは我々に比べて自意識・プライドを過剰に持たなければならない。それは言うまでもなくマジョリティ側からの抑圧・疎外に対する適応であり、マイノリティ側に責などは一切ないのだけれど、彼女らの負った傷というのは、X-menがそうであるように、日本国内におけるなじみ深いヒーローたる仮面ライダー(というか石ノ森ヒーロー?)がそうであるように、傷があるからこそ「力」を持ち得る(傷=力)のだが、それゆえに逆差別的なナルシシズムに転化しうるというのもまた事実であろう。

それが悪いというわけではない。「エターナルズ」という映画がそういった人間性を踏まえているのであれば。

だがエターナルズにとって、本質的には人間のことなどどうでもいい(は言い過ぎだけど)ことであって、すでに書いたように彼らの問題意識というのは徹底的に内向きなのである。

映画を観た人ならばわかるだろうが、冒頭でエターナルズが地球に顕現するシーンで、一人の人間がディヴィアンツに食い殺され、その人間の子どもが食い殺されかける寸前で彼らが登場し撃退する。

ここで、彼らは悔悟の情など微塵も見せつけない。むしろどや顔で登場し一網打尽にして上から目線で「サルベーションしたった」と言わんばかりである。彼らが愛するところの人が一人殺されているというのに。あと数秒早ければ彼は殺されずに済んだというのに。これが陶酔でなくなんだというのか。

これが叙事として描かれきっていれば、あるいはその陶酔が極まるところまでいってしまえばそれはそれでかなり面白くなっていただろうけれど、すでに書いたようにクロエ・ジャオはエターナルズの葛藤を叙情的に、それも単にくどくどしく描いているだけなのである。イカリスとセルシの無駄にまぐわい度の高いアオカンとか、それ以前にイカリスが完全にストーカーであることとか、神にあるまじき湿度で普通に笑っちゃったんですけど。ていうか単純にキャラクター捌けてないでしょこれ。

一般人からしてみれば、まして指パッチン後の世界を生きるMCU世界のパンピーからすれば、超人たるエターナルズの造化としての悲哀というのも「いい気なもんですね」というそしりを受けても仕方のないものに思えてしょうがないのです。

「エターナルズ」が人間を排しているのは、たとえばセルシの現代の恋人(?)であるデインが、序盤も序盤でイカリスとの三角関係的当て馬にすらされない程度の存在に降格されてしまうことからも明らかである。そしてまた、これは逆説的にだが、デインはポストクレジットにおいて再度登場し、ヒーローとして再登場することをにおわせるような終わりかたをする。
これは「エターナルズ」ひいてはMCUにおいて、ヒーロー=力を持つ者でなければスポットを浴びることはできないという無慈悲さの表れに他ならない。これは「シャンチー」においても嫌なところだった(しかし「シャンチー」はそれを上手く誤魔化せていた)のだが。
そんな「ただの人間には興味ありません」と涼宮ハル○的な独善路線をMCUが突き進むというのならそれでいい。というか、そっち方向にぶっちぎったのならそれはそれで面白いと思う。

ただ、MCUの始まりが「アイアンマン」という何の力も持たない人間が知能と技術(と財力※ここ重要)でもって悪を打倒する話であったことを考えると、インフレも随分と遠くまで来てしまったものである。いや、「アイアンマン」も「アイアンマン」で多分に偽善を含んでいるのだけれど、少なくとも観客の拠り所としての人間性はトニー・スターク(ダウニー)にはあったわけで。

翻って今回の「エターナルズ」のエターナルズ=ヒーロー側は、人間を見下ろし、力を持たない者に座席を明け渡すことをしない一方で、彼らは人間=力を持たない者の真似事をするというド厚かましさ。その傲慢さがポリティカリーコレクトネスの名のもとにマイノリティにまで押し付けられてしまう歪み。
映画は過剰であるべきというのはそうなのだが、それは表現のレベルにおいてであって、政治的正しさという思想的なレベルでのみ展開されても困るというか……。

そもそも論として、造化としての悲哀でいうならばエターナルズよりもディヴィジョンの方が遥かに適任であろうに、終盤の処理の雑さっぷりたるや、アメスパ2におけるエレクトロ並みである。というかデザインといいやってることといいこれ「エイジ・オブ・ウルトロン」の焼き直しに見えるんですけど。ギルガメッシュを吸収したあとの中途半端に人間に近づいたキモさとかは割と良かったんだけども。その前の形態が「オールユーニードイズキル」のボスギタイや「ダークサイドムーン」のドレッズやらのスパゲッティコードの集積怪物みたいなのは何番煎じなのよと。

出てくる単語もなじみ薄いためキャラの名前すらmumbo jumboで、「どれがどいつで何がどれだ?」という混乱をきたしてしまう問題もある。イカリスにしたって普通にイカロスでいいじゃん!と思ったり、というか神話再現のために太陽に突っ込ませる「原作(神話の方)再現!原作(神話の方)再現です!」のやけくそっぷりとか、普通に笑ってしまったんですけど、そういうシーンでもないのに笑わせるなと。そういえばその辺の石ころで後ろから殴打してスプライトを気絶させるシーンも思わず吹き出してしまったので、そういう意味では笑える映画ではある。

あと編集どうなってるんだ、ということが結構あった。回想中に場所移動はなしだろ~とか、その回想シーンはエターナルズメンバーに開陳するときにすりゃいいだろ~とか、そもそも過去回想多すぎるだろ~とか、時系列をごちゃごちゃにしてわかりづらい部分も「マンオブ~」っぽいんですよね。

156分という腰痛持ちにとっては痛打なランニングタイムもその辺削ればもっと詰められただろうと思う。これ「ワンダーウーマン1984」でも思ったんだけれど、無駄に長いわりに観ていてそんなに楽しいわけでもないシーンが多いのはなんとかならんか。や、建築物のCGの作りこみとかはすんごい良かったんで、人物じゃなくてそっち方面にもっとフォーカスしてくれてたらもっと楽しかったなぁ。

あとはまあ、これは完全に好みの問題なのだけれど、MCUでスーパーマンやらバットマンやらのネタを使うということの白々しさは理解しておいた方がいいのでは。
まず第一に、それが程度の低いメタネタであるのにどや顔されても腹立たしいし、第二に、このMCUという世界においてスーパーマンバットマンという存在はおそらく我々の世界同様にコミックのキャラクターでしかないという扱いに成り下がっている(万に一つの可能性として、DCEUとのコラボの布石というのもありえなくはないが、まあ時系列とか矛盾がぼこぼこでるので無理だろう)ということも解せない。であるならば、同じく現実世界においてはコミックのキャラクターでしかないエターナルズひいてはMCUのヒーローたちとは、MCUの世界においてどのように受容されているのかという問題も生じる。それは物語世界への没入を著しく阻害する要因になりかねない。というか私はなった。

これは「ローガン」におけるX-menのコミックの扱いなどにも通じる(ドキュメンタリーや現実ベースのフィクションとしてのコミック、という解釈は成り立つが)のと、MCU中期から積極的に投入されるようになった会話中の映画ネタなども同様だ。なぜならそれらのネタというのは、彼らの世界=MCUで公開された「バックトゥザフューチャー」は我々の世界のそれと同じであるという共通認識・暗黙の了解の元に成立しているわけで、ではなぜ我々の現実世界に彼らヒーローは実在しないのか、といった世界観のズレが生じかねないし、メイス・ウィンドゥがフューリー長官なのはどういうことなのさとか色々問題が生じるだろう。そしてそのズレは、MCU世界において一般人の存在が希薄になればなるほど大きくなっていく。その点、この「エターナルズ」という映画はそのズレが超絶に開いた一作であると言っていいだろう。

神山健治攻殻機動隊SACにおいて「ライ麦畑で捕まえて」を引用した理由の一つに、現実にある創作物を引用することで、攻殻機動隊の物語世界が我々の現実世界とどこか地続きであることを意識させるためである、というようなことを書いていたのだけれど、「攻殻機動隊SAC」での引用はまったく違和感なかったあたり、おそらくは程度問題でしかないのだろうけど。

たとえば、すでに古典のレベルにまでなっている昔の作品は、それがすでに歴史の一部としてあるからこそ引用されても違和感がないというのはあるだろうし。

そんな私が個人的に一番興奮したのはエンドクレジットでエターナルズの元ネタがCGで再現されるところで、スプライトがフーディーニと組んでいたのではないかと匂わせるポスターのところだったりする。モンスターバースとかもそうですけど、こういうクレジットとかで遊んでるのを見るのが(本編よりも)楽しいというのはこういうビッグバジェットな映画ならではな気がするので、そういう意味では楽しんではいるのだけれど。


ここからは完全に余談なのですが、「最後の騎士王」との相似(双子)が気になった。
まず「エターナルズ」と「最後の騎士王」の結節点として、ジェンマ・チャンという役者の存在がある。彼女はこの「エターナルズ」においてセルシという主人公を演じ、そのセルシというのはいわば地球と人類の存亡を握るキーパーソンであるということ。
そして、「最後の騎士王」におけるジェンマ・チャンも同じような役どころであるクインテッサ星人を演じている。まあ大勢の人が「最後の騎士王」なんぞの記憶など遥か彼方の銀河系にすっ飛んでいるだろうし、ましてジェンマ・チャンジェンマ・チャンの顔でクインテッサとして劇中に登場したのは最後の2~3分だけなので、あんなどうでもいい映画の意味のない(だって続編匂わせるためだけのシーンなのに続編がポシャったんだもの!)シーンのことなど覚えていろというのが無理な話で、そんなこと覚えるくらいなピタゴラスの定理を覚えていた方が万倍もメモリの有効活用である。

じゃあなんで私が覚えているのかというと、「エターナルズ」観る直前に自宅で「最後の騎士王」をブルーレイで観ていたというのもあるのだけれど……まあそれはいい。

ストーリーのレベルでも似通っているというのは、「最後の騎士王」においても地球そのものがある超生命体であり、地球を中心に人類とほかの生命の存亡という対立軸が設けられているという意味で「エターナルズ」と同じであるというだけのことなんですけど。

似たような話でありながら方やリリカルに、方やエピックに描かれ、そのどちらもが異なる問題を孕んでいるという点が気になったのと、そのどちらにもジェンマさんがいるというのがなんかスピっていて気になった次第でござい。「最後の騎士王」の端々からにじみ出るレイシズムや男尊女卑的な思想と、それすらもどうでもよくなるような批評的・批判的言説も含めすべてを無化する過剰に突き抜けたごちゃごちゃと爆発を「食傷」と一笑に付すことは簡単だ。しかし、その爆風がすでにそよ風レベルに感じてしまうほどの突き抜けっぷりが一周回って面白いマイケル・ベイの映画に比べて、「エターナルズ」が目指した政治的正しさと、結果的に「エターナルズ」という映画が帰着したものとのギャップがもたらしたグロテスクさは、実はカイマー×ベイのタッグ映画や「ブラックホーク・ダウン」ーーというかリドリー・スコット的な叙事への傾倒がゆえにーーの劇中で語られる不誠実極まる正義観との乖離が行くところまで行ってしまったがゆえに面白くなってしまったことを考えるに、「エターナルズ」に足りなかったのは掲げた正義に対してあまりに誠実であるがゆえに映画的な過剰さが欠如していたことにあったのではないか。

それは多分、監督が生真面目であるがゆえの退屈さ(つまらない、というのではない)なのかもしれない。正しさとは、イコールで楽しさに繋がるわけではない。

個人的には木戸銭を払っているのだから、正しいものよりも楽しいものが観たいという気持ちがないといったらウソになる。しかし、正しさを蔑ろにした欺瞞を観るのも躊躇われる。フィクションなのだから、フィクションなればこそ楽しい嘘が観たいのであって。

メインストリームとしてのMCUが映画存在として担わなければならないものは、思ったよりも重いものなんじゃないか。なんてことを「最後の騎士王」との見比べで思ったのだった。

ていうかこの「エターナルズ」、「エイリアン コヴェナント」の流れから考えるとリドリー・スコットが監督してたら絶対にもっと面白い映画になったんじゃないかと思うんだけど、どうでしょう。
まあ絶対にMCUのカラーと合わないだろうけど。