dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

想定外の観客

f:id:optimusjazz:20211127103323j:image

まず、作り手がこの映画の観客として想定しているのはどのような層なのか考えてみる。重複もするだろうけれど、おおむね以下のようなものだと思われる。

1→2005年のテレビシリーズ「交響詩篇エウレカセブン」を(ほぼ)リアルタイムで観ていて、その続編やスピンオフ・ゲームなどのメディアミックス作品を熱心に追っている人。いわゆる「エウレカセブン」シリーズのファン。ガチ勢。

 

2→熱心なファンではないが過去シリーズ(主に1作目)を観ていて、この劇場版ハイエボリューションシリーズを1作目から追っていて設定や物語も理解している人。

 

3→リアルタイムで過去シリーズは観ていないが、ハイエボリューションシリーズから入ってエウレカセブンの過去シリーズなどにもハマった人。

 

3→BONES制作のアニメが好きな人。まあUFOや京アニほどの会社のカラーが出ているかと言われると怪しいですが。

 

4→ロボットアニメ好き。BONESゼロ年代に入ってもちょこちょこオリジナルロボットアニメを作っていたりするので、サンライズやトリガーほどではないにせよ、まあロボットアニメ好きは観たりするだろう。

 

5→パチンコ(スロット含め)のエウレカセブンで勝たせてもらったので祝勝気分で劇場に足を運んだ人。

 

大穴→FLOW好きな人。なおハイエボリューションシリーズで彼らの出番はない模様。パチスロアネモネの方はあるようですが。

 

とまあ、こんなところだろうか。

 

こんな書き出しからもわかるように、私はいずれにも当てはまらないタイプの観客である。なぜなら「交響詩篇エウレカセブン」というアニメの存在やアニメファン界隈での評判は知っていたけれど05年のテレビシリーズは観ていない(OPのSAKURAは好きだけど。主に笑っていいともの影響が大きい)し、そしてその評判を知っていたがゆえに「エウレカセブンAO」という続編だけはなぜかリアルタイムで完走してしまったりした。なのだが、エウレカファンの間で「AO」はなかったことにされがちな続編であるらしく、まあ黒歴史とまではいかないまでも積極的に俎上に乗せられることはない。悪い意味で名前を挙げられることはあるけれど。

加えて、このハイエボリューションシリーズもちゃんとした形では追っかけていなかったりするのでせう。

一作目はBSか何かでやっていたのを観た記憶はありますが、あれにしてもほぼテレビシリーズに新規カットを加えた再編集版のような形のようで、一見さんを掴む意図もあったのかもしれないけれど、テレビシリーズを観ていたことが前提であることは間違いないでしょう。二作目もちゃんと観れてはいないですしね、ええ。

まあつまり、私はエウレカセブンというコンテンツとはかなり歪な出会いの仕方をしてしまったわけですね。

 

さらに言えば、パチンコエウレカセブンシリーズともとんと相性が悪く、先日も遊タイム(パチンコ用語)まで突っ込んでラスト一回時の激アツでほぼ100%当たりをはずす(友人曰く「ありえない」「世界でお前ひとりだけ」「バグ」らしい)くらいで、まあ有り体に言ってしまえばヘイトを溜めこそすれ(エウレカセブンに罪はない。為念)、積極的にこの映画を観に行く理由というのはないわけで。

 

じゃあなんでわざわざ公開初日の初回を劇場に足まで運んで、しかもパンフレットも過去2作の分まで含めて3000円かけて売店で買って観たんだよ、という話になる。

 

まあ理由は極めてシンプルで、テレビでやってた「ANEMONE」の二か所にすごい良かったシーンがあったから、なのですな。

このテレビ放送版の「ANEMONE」は劇場公開されたものを分割してテレビで放送してたやつなのですが、私が観れたのは最後の30分のパートだもんで、やっぱり話はちんぷんかんぷんだったわけです。いやまあ、それでもセルルックのCGの出来栄えが凄くて、カット単位でモデルに細かい修正入れてるんだろうなーというのがわかる作りこみだったし、今書いたように、あるシーンが凄い良かったもんで劇場に足を運ばせるくらいの見どころはあったんだけれども。パンフに関してはまあ、ぶっちゃけモチベーション維持のためという意味合いが強いけれど。

 

で、一応書いておくと、そのシーンというのがエウレカアネモネが離れ離れになりかけるところで手を伸ばした瞬間にレントンのカットバックが挿入されるところと、ラストシーンの、エウレカの世界の空とレントンの世界の空が連綿と繋がっているような、それでいて一気にグワッと転換するところのダイナミックさ(とまあそれ自体のクリフハンガーもか)に、ゼメキスの「コンタクト」くらいの一足飛び空間越境に(どちらも「愛」が軸になっている)「うおおおおお」となったわけです。

前者に関してはテレビシリーズの方の映像を使っているようで、画面のアス比が異なっていて、レターボックス式なのですが、だからこその現実時間の越境を感じさせてくれてそれがめっちゃ良かったんですよね。こういう、モンタージュによる映画の原理的な面白さが画面の規格それ自体によっても作用する(少なくとも自分には)というのは思わぬ発見だったし(IMAXカメラを浸かったりしていてアス比がごろごろ変わるハリウッド大作はノーカン)、まあともかくそれらのシーンだけで、話は全然わからんけれど今回の「EUREKA」を観ようと思わせてくれたわけです。

 

だがしかし、この「EUREKA~」を観終わった今となっては、「なんでこれ観たんだ?」という思いが強まってしまっておりまする。

話が分からないから、というわけではないのです。いやまあ、わからないことだらけでちゃんと咀嚼できていないがゆえに重大な何かを見落としている可能性があるのであまり大声では言えないのは確かですし、明らかにテレビシリーズを含めたメタ構造になっているわけですし、そうなるとキャラクターに対する思い入れとかも明らかに違ってくるわけで。

たとえばデューイというキャラクターが口にするセリフは、パンフで藤津良太がコラムに寄せているようにアニメーションのキャラクター論としてのメタ・自己言及的なものであるとはいえ、デューイというキャラクターに全く思い入れがない自分としては彼が提起した疑義それ自体には特段の目新しさがあるわけでもないので、初対面の自分としてはいかんせん彼の悲壮や悲哀をそこまで感受できないのである。

あるいは監督自身がパンフで述べるようなアニメのキャラクター(虚構)と現実との接点という話にしても、なんというかそれはもう折り込み済みで、その先のレベルの話においてアニメーション(虚構)に何ができるのかということを提示しなければならないのではないか。現代においては、と思ったりするわけです。

というか、デューイのよくわからん力も、それを持っていながらあの短時間で何回も襲撃失敗するのとかも、まあ最後まで見れば彼のエウレカに対する二律背反の崇敬・信心のようなものが先走った結果のドジっ子アクションなわけですが、それにしてもアホっぽさが際立ってしまいシリアスさよりもシュールな笑いがこみあげてくるせいで、やっぱりキャラクター論とか、キャラそのものの悲哀とかそういった以前のレベルで没入が阻害されてしまう。愛嬌として受け取るにはCV含めて雰囲気が重すぎる。

あと「EUREKA」にとって良い観客ではない自分でなくとも、冒頭からあんなに時間も場所も行ったり来たりされて、それを字幕だけで処理されたら結構大変だと思うんだけれど、どうでせう。

 

じゃあ何を期待していたんだ、と言われると自分でもよくわからない。別に重厚なSFを期待していたわけではないとは思う……第一、BONESのロボットアニメってワードや設定部分では重厚なSFのにおいを立ち込めさせておきながら、その実はあんまりSFとしてのセンスオブワンダーはないというか、まあぶっちゃけガワだけハードSFっぽくして中身はむしろトリガーとかあっちのアニメの方に近いという印象。用語も含めて遊びとしてのオマージュ、という意味でも。

 

たとえば、第一幕の洋画のスパイ・ポリティカルアクション映画を思わせるライブアクション風味のカメラの手ブレ(画面の揺れが機械的に見えるのが惜しい)や、SF映画に起用された際の(ドゥニの「メッセージ」感よ)故ヨハン・ヨハンソン的なアンビエントなBGMなど、それ自体は良いのだけれど端々に出てくるおバカなスーパーロボットアニメ感や、もろもろのSF(以外も含め)オマージュ(デューイ3~4回目の襲撃時の、動画ですらないワンシーンでその撃退が処理される際の「ターミネーター2」の溶鉱炉のラストとか、まあ自分が知らないのも含めて結構そういう遊びがある)とか、グレッグ・(ベア)イーガンの名称とか、そういうどうでもいい部分であまりに遊びが過ぎるとちょっと鼻につくこともあるんですが、終盤の舞台となる背景の美術のラリィ・ニーブン「リング・ワールド」を想起させるビジュアルイメージなどは「お~」となったし、ニルバーシュの「まんまイリス(ガメラ3)じゃん!」かと思ったら学園戦記ムリョウのジルトーシュ+ジングウみたいな、もはやロボットですらない何かになったニルヴァーシュのビジュアルはまあ面白いといえば面白かったですけれど(その割にはなんかケレン味に欠けるのは残念。キャプテンアースからそこも後退させてどうする)。

しかしBONESのオリジナルロボアニメで受けているのは、やはりSF的な面白みではないのだろう、というのは「スタードライバー」「キャプテンアース」そして今回の「EUREKA」を観てつくづく思った。特に「キャプテンアース」などは随所に見られる「2001年宇宙の旅」の露骨なオマージュが作品の面白さに繋がっていないがゆえにかえってむかつくという逆効果を生んでいたりもするわけで(自分だけか)。

 

そもそもエウレカセブンで受けていたのってエウレカレントンのボーイミーツガールを中心としたキャラクターなのでしょうから、そういうSF的なセンスオブワンダーがどうこうという話ではない、というのはまあそうなのでしょう。光量子なんたらって単語で誤魔化してますけど、基本的にやってることは質量でぶっぱすることだったり、展開それ自体は90~ゼロ年代初期のハリウッド(おバカ)大作ですし。へぼいサクリファイスとか(とは言いつつもメカアクションは結構面白い部分もあるんですけどね。ウルスラグナの展開シークエンスとか)。

 

ではボーイミーツガールwithロボットアニメの「エウレカセブン」、そしてその後としての「EUREKA」は、招かれざる観客としての自分にはどう映ったのかという話になる。

察するに、このハイエボリューションシリーズはボーイミーツガールに対する一種の(自己)批評的な立ち位置をとっているのだろうな、という気はする。それはテレビシリーズのエウレカセブンは(おそらく)ボーイミーツガールだったから。しかしパンフで監督は「エウレカという少女は設定という枠組み以外は”何もない子”だから」自立した存在として描きたかった、というようなことを言っている。

ぶっちゃけ、テレビシリーズを全く知らないので、断片的な情報から当て推量するしかないのだけれど、エウレカという少女の立ち位置というのは、戦後の(ロボット)アニメから続くそれのように、母性の象徴としてあったのではないか。

”何もない”とは、がらんどうであり、それゆえに何もかもを飲み込み包含し、無条件に抱擁してくれる無償の母の愛のそれなのではないか、と。それはシステム(=非人間)としての母性であり、だからこそエウレカは他者としてのエイリアンではなく、むしろ欲望の投射としてのエイリアンという設定を付与され、孤児の幼児たちから母と呼ばれる。

 

そう考えると、ハイエボリューションの一作目はレントンという少年(ボーイ)の視点から、二作目はアネモネというもう一人の少女(ガール)の視点から、何もない空疎なエウレカエウレカセブン=EUREKAの中身を相克し、新たに満たしていくシリーズだったのだと解釈できる。

今風に言えばエウレカセブンというコンテンツをアップデート=リブートした、といえばいいだろうか。

それが上手く機能しているか、といえばそんなことはないと思うけれど。少なくとも「EUREKA」に関しては「ANEMONE」で大跳躍したのに無難に軟着陸したようにしか観えない。

「ANEMONE」はまだ全編通して観ていないのだけれど、むしろ「ANEMONE」こそが「EUREKA」よりは一歩進んだ地点に立ちうるのではないかと期待していたりする。なので機会があれば観るつもりだど。

「EUREKA」は、結局のところ古臭くも新しい問題系としてのMaternal Dystopiaの反復として、私には観えてしまったというのが正直な感想。なんというか、根本的に母性の孕む問題を棚上げしたままボーイミーツガールをガール(ウーマン?)ミーツボーイに置き換えただけ、というか。だから、ラストの少年レントンエウレカの再会というのは、未成熟な少年の身体のままレントンを父=夫として偽りの成熟を達成させ、母体の元へ閉塞的に回帰させる様に観えてしまった。だから、旧来的なシステムを維持させた結果として、アイリスがエウレカの継承者としてこのユートピアディストピアの維持を高らかに宣言し幕を閉じるというのも、まあ至極納得のいくラストなのである。

 

エウレカ」というのはこのハイエボリューションシリーズにおいて、そのシステムとしての母性の肥大・暴走というのが「ANEMONE」の解釈としての私の見立て(しつこいようだが未見なので推測)だった。

それはレントンという少年の母として、子としてのレントンエウレカという母の子宮内からの逸脱=喪失=死に抗うための世界の書き直しのリピートだったのだろう。

「ANEMONE」に感じていた可能性は、それが無限にリピートできるわけではない=無償の母性の限界性・不可能性という問題提起をし、アネモネという少女こそがそこを穿孔してくれるのではないか、というものだったのだけれど、しかしすでに書いたように「EUREKA」では「ANEMONE」に見出した可能性=問題提起が無難な結果に落ち着いてしまった。

それはビジュアルイメージとしての旧劇場版エヴァまごころを、君に」のイメージへの後退にも見て取れる。第一、ここは表現としても面白みにかける。

あるいは、アイリスの養父母であるマッケンジー夫妻の出番の少なさは、それが実質的な血縁(同種・眷属)であるエウレカをアイリスが慕うようになるという、時代逆行的な展開も、これがたとえばアネモネであったのならば、と考えてしまう。

その点だけに限れば「ワイルドスピード」シリーズの方がまだ時代に即していると言える。というか、あのシリーズはそれが全面展開されるがゆえに辟易するわけですが。

一方で、古臭い自己犠牲(へぼいサクリファイスはほとんど「ハルマゲドン」「インデペンデンスデイ」並み)をそのまま導入した結果として、「咎を抱えたキャラクターの処理としては悪手だしクリシェすぎるのでは」とは思ったけれどある意味では父になること=成熟の限界性みたいなものも結果的に示しているような気がしなくもないと思ったり思わなかったり。

 

ただこれはエウレカセブンシリーズをほぼ知らない人間から観た感想でしかないので、ちゃんとシリーズを追った人は違う風に見えるはず。そういう意味では、全くの所見の人はパンフレットの藤津良太のコラムなんかを読むと少しは違う角度から観れると思う。まあぶっちゃけ物足りないけれど。

 

しかしあれですな、完走した身としては「エウレカセブンAO」ってどういう立ち位置なんですかと問いただしたくなる。クォーツガンとか、レントン(CV藤原啓治)とか、なんだったんですかね。

 

この見立て自体がまだまだ自分の中で消化できていないので今後また書き直すかも。しないかも。