dadalizerの映画雑文

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家なき蜘蛛男の青臭さが持つ可能性

スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム」

正直に言うと今回のスパイダーマンには色々と困ってしまった。まず長い、というのはもう仕方ないというか今回に関しちゃまあ十分まとめた方だろうというのはあるのだけれど、それはかなり多めに見ているからであって、キャラクターに対しての救済を与えた結果、別のキャラクターの扱いがおざなりになってしまい「二の轍を踏んでやしまいか」という風に観えてもしまい、「うおおおおお」と上がる一方で「ええ?」と困惑する場所もままあり、感情が行方不明になりかけたというのが率直なところである。

 

はっきり言ってしまえば今作は実写版スパイダーバースなわけですが、アニメ版の方があそこまで上手くまとまっていたのはアニメーションゆえの虚構性の高さ(と、異なるキャラクターデザインを同一世界内に内包してしまう技術的説得力)があるのと、MCUスパイディにおける親友(と恋愛)ポジがアニメバースの方においてはほかのスパイディによって補完されているからということなど色々な要素があると思うが、あちらに比べるとどうしても気になるところがでてきてしまうのは仕方ない。

ライブアクションゆえの説得力というのもあるし、何月による(ノスタルジー含めた)積み重ねによる感動はある。まあ平成ライダー大戦みたいに「台無しだよ」と思う人の気持ちもわからなくはないが。

もちろん、実写版スパイダーバースであるのだから、「スパイダーマン:スパイダーバース」が誘発する精神性はノーウェイホームの方にも宿っているし、そこはやはり素晴らしい部分であることは言え、それをもってこの作品を両手で称揚するのもアリだろう。結果的に「失敗」に終わってしまったライミ版とアメスパ版の救済に、ケチつけたいとこはあるにせよ胸を打たれたのも事実であるし。

 

ところで10年代後半から20年代の今になってスパイダーマンが再起した理由とは何か。個人的に、それはノーランのバットマンが提示した(してしまった)リアリズムに対する一種のバックラッシュなのではないかとか思っている。スノッブな自分のような擦れた輩はそういった闇に感化されシニシズムに陶酔してしまったがゆえに。(ダークナイトをちゃんと見たの3年前くらいなんだけれど)

無論、スパイダーマンがスーパーマンを除けば最も知名度もありアイコニックなキャラクターであるということや、ソニーの事情などは前提として。MCUというコンテンツの在り方もだが。

ノーランのバットマンにおいてジョーカーが提示した「トロッコ問題」は、どうしようもない現実の無慈悲の在り方に他ならない。その認識体系はゼロ年代後半から10年代にかけてDCEUが自分の首を絞めてしまったことも含め)社会を席巻した。

その真っただ中で登場した「アメイジングスパイダーマン」は、ライミ版からまだそこまで経っていないとか色々な理由はあるにせよ、9.11以後の「すでに起こってしまった世界」=ノーランバットマンでジョーカーが提示してみせた世界観の重力を強く受けていた。「エターナルズ」で少し似たようなことを書いた気がするのだけれど、X-menバットマンというのはそもそもがマイノリティやトラウマゆえに聖別された者=闇を刻印された者たちであり、それが映画的に使えたのだ。同様にアメスパ1(の記憶はぶっちゃけあまりないのだが)の身近な者の死、アメスパ2のグウェンの死というのも、それはトラウマ的な呪いとして機能しかねない危うさを持っていた。というか、本来スパイダーマンはそういったものを纏うに能わない存在であるにもかかわらず(少なくともあの時点では)、それをやってしまったことがずっこけてしまったことの理由の一つなのではないか。

だが、とはいえスパイダーマンである。アメスパ2のラストで、それはトラウマや呪いではない、むしろスパイダーマンとしての動機の一つとして彼を強くするものであるという萌芽が撒かれていたし、小さいスパイダーマンの存在というのはそのまま「スパイダーバース」のテーマへと引き付けることも可能だろう。

一方で、ライミ版はそういった闇(よく考えたらこれ80年代フランクミラーとかからかな)に対して捕らわれることなくスパイダーマンを全く卑近な存在、有り体に言ってしまえばダサいオタクとして描き続けた(描き続けることができた)。9.11という非日常を目の当たりにしながらも、しかしサム・ライミが描いたのは銀行の融資を断られるメイおばさんであったりという極めて日常的な、私たちの日常とまったく地続きの「親愛なる隣人」であり続けた。いや、非日常が常態化したからこそなのだろうか。

 

ともかく、それら二人のピーター・パーカーを踏まえたうえで、10年代を通過し20年代に足を踏み入れたトムホのピーター・パーカーはある。むしろ、この二人がいなければMCUのピーターはあり得ない。

今回の話が仮にトムホランドだけであったとしたら、ここまでの「青臭い」「理想」を受け入れることはできなかっただろうと思う。その意味で、ここにきて、ようやく「ファー・フロム・ホーム」での解答を得られたと言ってもいい。それは、アイアンマンではない存在になること=成熟した大人(の男)とは異なる存在になることだ。

アイアンマンは1作目において、結果的にとはいえヴィランを殺している。それは一つの現実の在り方として、大人(の男)であることの証明=ヒーローとしてあるように思える。

「ホームカミング」においてヴァルチャーという「大人」を殺さずに対峙し止めることのできたトムホピーターは、しかし「FFH」において「大人」であるミステリオの策略によって疑似的な殺人者に貶められてしまう。そしてそれは、一介の高校生であるピーター・パーカーという存在がスパイダーマンであるということをあばかれてしまう=パンピーとしてのピーター・パーカーの死をももたらしてしまうことと同義だ。

そこからこの「NWH」の話は始まる。そして、ピーター・パーカーの喪失に対してトムホピーターが取った行動は、スパイダーマンの正体がピーター・パーカーであることを誰もが忘却すること、つまりそれ以前のピーター・パーカーの蘇生。

しかし、今がノーランバットマンひいては9.11あるいは3.11以降の「すでに起こってしまった世界」である以上、「死んでしまった」「ただの高校生ピーター・パーカー」は戻ってこない。それを無理に、自分の都合のいいように(魔術中に追加オーダーするトムホピーター笑)改変しようとした結果、世界そのものから逆襲されてしまう。ピーター・パーカーがスパイダーマンであることを知っている者の記憶を消すことを望んだ結果、ピーター・パーカーがスパイダーマンであることを知っている者によって彼自身が消される危機に陥ってしまうという皮肉。

自身の過ちによってトムホスパイディは決定的な出来事に対峙しなければならなくなる。そしてそれは、親友も恋人も安全な場所へと退避させ自分だけでどうにかしようとする(自分のケツは自分で拭く)という真っ当な「成熟した大人(の男)」な対応=ヒーローとしてあろうとした(しかしキャパシティは当人のそれを大きく逸脱している)ツケとして、スパイダーマン=ピーター・パーカーという卑近な存在にそれ以上を求めた罰として彼の身に降りかかる。

それはアメスパ2のラストにおいてガーフィールドスパイディが陥りかけた闇であり、本来それを纏えない「スパイダーマン」がソレを纏おうとしてしまえば自滅してしまう。

さもありなん。「スパイダーマン」とは「親愛なる隣人」であり、我々のような一般人と地続きの存在なのだから一人で出来ることなどたかが知れているし、闇に魅入られてしまうこともある。

しかし、スパイダーマンが一人でなければ、スパイダーマンがほかにもいれば、不可能は不可能ではなくなり、闇に囚われることなく踏みとどまることもできる。

「親愛なる隣人」の「親愛なる隣人」。スパイダーマンのためにスパイダーマンが寄り添ってくれているということ。それがトムホスパイディが踏みとどまることのできた理由であり、「死んだはずのヴィランを救済する」という不可能を可能にすることができた理由に他ならない。

そして、ここにおいて「スパイダーマン:スパイダーバース」の描いたものが再び立ち現れ我々を鼓舞してくれる。「誰もが(その精神性でもって)スパイダーマンに成り得る」ということを。それは「親愛なる隣人」であるスパイダーマンでなければ説得力を持ちえない、スパイダーマンというスーパーヒーローでしか描けないものだ。

 

この映画において、記憶こそが世界をつなげるファクターとして機能していることは注中々面白い。まあ、お話の都合上という身もふたもない言い方をできなくもないだろうが、スパイダーマンの正体を知る者が、その「記憶」によってMCUという「世界」に顕現すること。記憶こそが世界に対し存在として括りつけられていること。

だから最後にトムホスパイディが決断したことに大きな意味がある。その選択は散々ほかの世界を「青臭い」「理想」によって救済した彼が、己の住まう「すでに起こってしまった出来事」に対して受容してみせたということなのだから。「すでに起こってしまった」、しかしそれでも自分はスパイダーマンでありピーター・パーカーであり誰しもにとっての(そして誰もが)「親愛なる隣人」であるということ。ガーフィールドスパイディとトビースパイディがそうしたのと同じように。

スパイダーマンという、「親愛なる隣人」という存在さえ記憶されていれば、その中身は問われないのだ。いや、それだと誤解を招きかねないか。スパイダーマンという存在が記憶され、その親愛なる隣人としてのスーパーヒーロー性が、卑近な存在として手を差し伸べてくれるという中身さえあれば誰がスパイダーマンでもいいのだということだ。その可能性の一つとして「スパイダーマン/偽りの赤(全1巻)」というジャパニーズコミックがありますのよ奥さん(ダイマ)。

 

現実的に考えて、などという言葉を一笑に付し、ひたすら「青臭さ」と「理想」を掲げること。その尊さを信じ切れるのならばこの映画は観るべきでせう。

 

が、色々と書いてきたけれど、話運び自体は正直に「うーん」とならざるを得ないところも多く、「~ため」の描写が多々ある。そもそも、メイおばさんをあそこに置き続けた意味はあったのか。たとえば、冒頭の方で警察?から保護者としてピーターを危険にさらしたと言われるシーンがあったので、それを踏まえたうえでピーターからメイおばさんも避難するように説得するも保護者として一緒にいる、と強く主張してピーターも渋々折れるとかなら納得がいくのだけれど。それとも私が見落としていたのだろうか。4DXだったもんでちょっと画面に集中していないところはあったかもしれないのでもしあったら誰か教えてください(他力本願)。

ガーフィールドスパイディの救済にしても、ギャグで打ち消そうとしてはいるけれどMJをあの場に移動させるためのご都合的な展開にしか見えないし、そもそもトビースパイディに関してはあそこでトムホスパイディを止めることの納得感はあるにせよ、「ゴブリンの痛みを知る」というような痛み分け的な救済をされるいわれはないわけで。別に必要のないものを無理やりひっつけた感もなくもない。

というか、「アメスパ2」「スパイダーマン3」で「ヴィラン多すぎてさばききれてない」問題が「NWH」でも持ち越されてましたし。サンドマンとかどうしてヴィラン側にいつづけたのか、彼のキャラクターを考えると忖度しないと謎だし。

あとヴェノムね。ソニーとの折り合いのつけ方とか色々な事情は察せられるけれど、「レット・ゼア・ビー・カーネイジ」からのポストエンディングからのこれは正直どうなの?とは思う。ポストクレジットもただの予告編じゃねーか!というのもある。

あと、あの二人の登場ももっとケレンミある感じにできたような気もするし…けど蜘蛛男たちの会話も好きだし一長一短か。

 

とまあ気になることもあるにはあるし看過していいのか悩ましいことではあるのだけれど、それを脱臭しようともしているし実際観ている間はノれるので(既述のとおり感情とっちらかるが)OKです。