dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

老いには勝てなかったよ…

「クライ・マッチョ」……誰かこの映画を肯定的に批評した文章をください。自分ではちょっと無理だった。

ていうかこれやっつけ仕事じゃないのかいイーストウッド翁?そうだと言ってよバーニー…。

もしそうじゃないのだとしたら、ちょっと見てられない。けどウィキの製作経緯をざっと見た感じだと請負仕事っぽいんですよね(製作にかかわってるけど)。

率直に言ってしまうと、イーストウッドは諦めたように見えてしまう。まあ90歳超えたご老体に何を、という気がしなくもないのですが、しかし「運び屋」を観た後にこれというのが「おぉう…」となってしまうのは致し方ないではなかろうか。

まずもってタルい。これ、もとは脚本(を売り込むも売れず)→小説として書き直し(売れる)→再度脚本として売りこむという流れだったらしいのですが、小説ならともかく脚本としては本当に行き当たりばったりで起伏に乏しく退屈にすぎる。

その、叙情を描きたいのであろう退屈な脚本とイーストウッド観照的態度の演出との食い合わせがひどくミスマッチで、ドキュメンタリーだったり事実をベースにした事象を捉える場合に反して退屈さに拍車をかけている。劇映画然とした佇まいであろうとしているがゆえに(二回目の電話の際に真実を話していない際に顔だけが影の下にあるのとかモロ)、ひどく食い合わせが悪い。

ラフォの感情の流れの不自然さ、二度にわたるアウレリオの強襲の無意味な反復……とってつけたような出来事をイーストウッドがそれをそのまま撮った結果、「なにそれ……なんだったのあれ」という感情でいっぱいになってしまった。

第一、イーストウッドは叙事の作家であろうに、叙情(のみ)のこの脚本をやるというのがすでにミスではないか。

 

イーストウッドが仮に本意としてこの映画に取り組んでいたとしたら、それはそれでさらに絶望なのだけれど。まずは舞台が79年(から80年代)のテキサス(からメキシコ)であることが、少なくとも現代を舞台とした「運び屋」でのイーストウッドからひどく退行していると言わざるを得ない。「運び屋」において、彼がケータイの使い方を覚えキャッチアップしていこうとする姿は、世界そのもののスピードに追い付こうとする姿に他ならなかった。

翻って、「クライ・マッチョ」は過去を舞台に男根のメタファー、マスキュリニティに囲まれたマチズモ世界にひたすら耽溺している。馬も車も鶏も、すべてが男根。しかも機能不全に陥った車を乗り捨て回帰的に馬という(現代ではすでに高価な趣味でしかない)まだ機能している(していた)男根へと乗り換える。

最悪なのは、すでにその身体は「グラン・トリノ」において死んでおり、もはやマスキュリニティの体現が不可能になったイーストウッドの体を、ただ話の都合のみにおいて機能させるという醜悪さ。

そこまでやっておいて、にもかかわらず、それが物語的になんら寄与しないという。ただひたすらに叙情的な場面としてのみ扱われるだけで、しかもそのシーンの意味がおざなりな脚本の展開によって無化されるという具合。

90歳超えてるのにまだ色気を出すイーストウッドの姿はそれはそれで楽しいのだけれど(90歳の身内が奇声を発する、脱糞しては振りまく姿ばかりを日常的に見ている身としては、それだけで驚異的なのだが)、しかしそれすらもこの男根的ユートピア世界においては辟易とするしかない。

血縁主義の否定かと思わせておきながらの回帰といい、退行しかしてないよこの映画。

これを見るなら「老人と海」の方が遥かに良い。

あるいは、ハリー・ディーン・スタントン最後の主演作「ラッキー」と比較してみたまへ。彼は老いさらばえたその肉体でもって、そのままを体現し「歩いて」みせてくれたその身体そのままを、しかし絶望とも諦念とも違うそのままを見せてくれたではないか。

 

まあイーストウッド論についてはドゥルシラ・コーネルの『イーストウッドの男たち―マスキュリニティの表象分析』に譲るとして、ともかくこの映画には、イーストウッドフィルモグラフィー的順序という意味合いでも結構ダメだったです。