dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

蝙蝠男と旧蝙蝠男(ポストクレジット)

ここまで影の薄いMCU映画って「インクレディブルハルク」以来じゃなかろうか。いや、正確にはMCUラインに組み込まれているのが極めて曖昧というか、ノーウェイホームという結節点があるのと最後にMCUラインの人が雑に合流してくるので無関係というわけではないのだろうが。それにしても、である。

 

個人的には何とも言えないビミョーな映画。ジャレッド・レトとヒーロー映画って食い合わせ悪いのかしら。ジョーカーの時もそうだったけれどネームバリューの割にいまいち役にハマっていない気がする。いや、演技はすごい良かったし、彼の説得力がなければ蝙蝠と遺伝子ミックスしただけでああはなるまいというバカバカしさをなんとか中和してくれてはいるのだけれど。

というかこの人50歳ってマジなのですか?マイロ役のマット・スミスと10歳以上離れてますが全然違和感ない。まあジャレッドはもともと年齢不詳感が強いので忘れそうになりますけど、結構前から映画出てますしそれくらい行ってても不思議じゃないのか。その辺の怪しい感じ・年齢不詳感が吸血鬼モチーフのこのキャラクターとマッチしている、というのはわかる。

 

映画自体は特段悪いというわけでもないけれど特別良いというわけでもないというか。なんというかこう、出来の良い「グリーンランタン」というか。とはいえ、個人的には良かった部分も結構ある。

 

CG良かったですね。特に表情の、吸血鬼顔へのシームレスな変貌。この辺はソニーだからなのか、妙に自然。だからなのかやたらと多用する。特にマイロは顕著。

あと個人的にタイリース・ギブソン出てるじゃんすか!というのがポイント。この人好きなんですよね。

いつものおバカ映画なキャラクター(車でバカやるやつとか車が変形してバカやるやつとか)と違って、あとひげのせいもあるかもだが妙に渋さがあってクレジット見るまで確信持てなかったんですけど、こういう落ち着いた塩梅のキャラクターもできるのですな。そういう意味で新しい発見でした。タイリース・ギブソンに渋さを感じるとは思わなかったので、思わぬ収穫。

 

ヒーロー映画というわけでジャンル映画的に気になるアクションはどうなのよ、というところなのですが、まあ単調ではある。というか、これソニーの関わっているマーベル映画全般がそうなのだけれど、疑似ワンカットでストップ、スローで緩急つけてまたわちゃわちゃしだすのアメスパ、ヴェノムときてモービウスでさすがに飽きる。アメスパ特に2の時はかなり良かったと思うのですが、あそこまで凝った作りではないし(ネームパワーの差で割けるリソースに違いがあるのだろうが)そう考えるとマーベルスタジオが手綱を握っているトムホスパイディのアクションはそういった単調さの罠には引っかかっていないように思える。エフェクト自体はなんかもくもく煙いというか黒いドライアイスたいた感じで、何か目を見張るものがあったというわけではないのだけれど、モービウスの環世界表現としてのエフェクトであるということを考えると実はちょっと位相が違っていて、後述する点においても興味深くはある。

これは逆に残念なポイントでもあるというか、別に期待してたわけではないのだけれど観ている間に感じたことなのであえて書き下すと、MCU(だけじゃないが)が内在する根源的なマッチョイズムというか、オーソリティへの依拠へのカウンターの可能性を秘めていたのに、という残念さがある。

それはつまるところフラジャイル=虚弱さの肯定を見出しながら、パワーへの回帰に陥っている残念さに他ならない。

前も何かの感想で書いた気もするのだけれど、「弱さを認める強さ」とかいうJPopにありがちなフレーズのnaiveさ、もっと言ってしまえば無頓着にオーソリティ側の肯定を前提にしている権力構造への無思慮さが今となってはため息しか出ないのだけれど。

身体論的にもそうだが、五体満足という言葉の「満足」という言葉がもたらす危うさと同じ話で、本作におけるマイケルとマイロの変貌がもたらすものの危うさだ

無論、生まれつきの病ゆえの当事者の苦痛や懊悩はあるだろうし、それは劇中でも被虐と合わさりマイロのpowerへの傾倒をもたらすわけだけれど、便宜的にその対となり善玉であるマイケルにしてもその本質は同じところにある。

吸血鬼になる前後の彼らの顔色の違い、松葉づえを使っていることも、血色の良い二足歩行の「健全体」になることが前提の踏み台でしかない。無論、身体的健康というのは現実レベルでは大事なことだけれども、我々観客はそんな当たり前の価値観を確かめに映画を観ているわけではない。

価値の転倒(あるいは倒錯)こそがフィクションに求めるものなのだ。少なくとも私は。

だから、病弱な身体→健康な身体(の高揚感)への変貌それ自体が使い古されたものであるのだけれど、実のところ、吸血鬼化の度合いが高まると容姿が美醜における醜に寄りかつ肌の色も病弱だったころの彼らへと回帰しているのである。ここに価値転倒の萌芽を見出せなくもないのだが、果たしてどうだろうか。

マイケルが劇中で口にした「病弱な方がモテる」的な発言は、劇中では冗談として描かれるのだが、それがこの映画の限界である。それを冗談としてではなく真っ当に言えなければならない。

 

上で書いた煙いエフェクトがマイケルの環世界としての表現である=彼からみた世界像という領域にまで踏み込んでいることも含め、結構そっち方面に振れそうな可能性もあるような気がするのだけれど、まあそっちにはいかないだろうなぁ……ヒーロー映画だし。

 

余談なのだが、マイロとマイケルが腐的に結構キているのだが、日本の配給もその辺を意識しているのか吹き替えが中村悠一杉田智和らしい(字幕でしか観てない)。MCU好きな人はその辺の文脈も踏まえていそうではあるが、どうなのだろう。