dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

不思議博士の多言世界解釈

というわけで「ドクター・ストレンジMoM」。公開二日目に観に行き、その日のうちに感想を書いてはいたのだけれど、あまり自分で納得のいくものがでてこなかったので下書きに留めておいたのですが、「サム・ライミのすべて」をちょろっと読んだり、もう一度映画そのものを考えていく中で面白い視点が見つけられたような気がしたのでようやっと本日書き終えたのだった。

 

どうでもいいがIMAXで観たからなのか、結構長めの「トップガン マーヴェリック」の予告編みたいなのが上映前に流れて、それが思いのほか良くて俄然観たくなってきたりしたのだった。

 

とりあえず先に一言言っておくと、「ウォン、私はお前がアメリカ・チャベスを犠牲にしようとしたことは忘れてねーからな!」である。

 

本題。

10年代からこっち、多世界解釈な宇宙への見方・考え方が人口に膾炙したのか、なんか平然とマルチ・バースがどうとかいろんなフィクションで言い始めている気がする。少なくとも日経サイエンス誌の2017年9月号ではマルチバースと多世界をメインに持ってきているので、つまるところそれ以前から人気が出てきていたということになる。

まあ、科学にせよ医学にせよ、その時々の流行りというのはあるもので、90年代からゼロ年代前半当たりまではラブロック(まだ生きてて御年102歳!!)のガイア論が隆盛を極めていたし(いたのか?)、それは日本のゲームやアニメにおいても結構取り入れられていたように記憶している。なので、多世界解釈ーー映画にならってマルチバースと呼称するーーを取り入れた映画は、今やハードSFに限らない。日本公開を控えている「Everything Everywhere All at Once」とかもそうだけれど、割と気軽に使えるようになってきているようである。

もっとも、アメコミは昔からマルチバースのシステムを取り入れているので、それをMCUに適応しただけ、と言ってしまえばそれまでなのだけれど、広義にはタイムスリップものというのもある種のマルチバースものだし、タイムスリップ(ループ、トラベル等など)にせよマルチバースにせよ、そういった「『いまここ』の自分とは異なる時間を生きる(生きていた)自分」を描くもののテーマは基本的には同じだろう。

実際、本作の芯はライミのスパイダーマン三部作と同じで「アルターエゴ=もう一人の自分との対峙」という点は今回も共通している。

そういったテーマ性を含め、今回の「ドクター・ストレンジ」はMCUの中でもかなり監督の色が出た一作であることは一目でわかる。

 

んが、そのアルターエゴの解釈が「内なる自分」といった、極めて内省的・心象的なものからマルチバースというシステムを導入することによって「もう一人の自分」どころか「様々な別の自分」がいるということになるわけで、それは心と体の相互作用の比重関係において、physicの荷重をより大きくしていく作用をもたらしているように思える。

というのは、同じサム・ライミのスーパーヒーロー映画であるスパイダーマンと比較すると、ライミのスパイダーマンアルターエゴは、その自我を発露させる身体は一つしかなかった。が、本作では冒頭から「異なる(身体を持った)ドクターストレンジ」が出てきて、死に、あまつさえその死体は私たちが慣れ親しんだ身体を持つドクターストレンジによってコントロールされてしまうのである。

これを身体の拡張として見ることも不可能ではないだろう。現在のテクノロジーにおいても、ブレインマシンインターフェイスなどを通じて他者の感覚を共有することも可能な領域へと進んでいる。この身体性については色々と考える点があるので後述するかもしれない。

 

本作はカメラワークや音楽の使い方(そもそも今回はダニー・エルフマンだし)、随所にちりばめられたセルフオマージュに至るまで、「サム・ライミらしさ」が発揮されている。音楽といえば、あんな「音楽」の使い方、実写映画ではなかなかないのではないだろうか(笑)。というか、まあ、ディズニーだからというのもあるのだろうけれど。

ライミ映画といえばおなじみ、ブルース・キャンベルももちろん登場しております。思えば彼はライミスパイダーマンシリーズの時点で一人マルチバースをやっていたようなものなのではないか。いや、単に転職しただけなのだろうが。

そして、自己との対峙を経ることで自分への「赦し」を与えるという点も、スパイダーマンから引き継いでいる一貫したモチーフだろう。この映画はそういう意味で、「サム・ライミ(のスーパーヒーロー映画)らしさ」全開。

が、この辺は一つの作品ではなくあくまでMCUという大きな流れの一部としての「ドクター・ストレンジ」というパーツであるがために、本来ならば「マルチバースだからなんでもアリ」なはずの本作に余計なノイズをもたらしている部分も確実にある。

たとえば本作のヴィランであるワンダもといスカーレットウィッチが、そもそもなぜヴィランとしての役回りを演じなければならなかったのかということが、ほとんど説明されない。

というのもディズニー+で配信されている「ワンダビジョン」でその辺の話が丸々と描かれているからであり、「ドラマで描ききったし尺ももったいないからいいよね」といった具合で割愛されておるのです。ディズニー+に加入してないとはいえ、最終回以外は一応「ワンダビジョン」を観ていた(MoM鑑賞後に最終回観ましたが、ポストクレジット観て「!?」となりました)自分は話の流れはつかめていましたけれど、これドラマの方観ていない人はストレンジとの会話でもほとんど闇落ちの経緯を類推するのは難しいのではないだろうか。なぜワンダがあそこまで子どもに固執するのかとか、ヴィジョンはどうしたのだよ(ていうか白いヴィジョンはどうしたんだよ)とか、その辺の説明ないので。今までは少なくとも映画を追っていれば問題はなかったのだけれど、いよいよ今回のフェーズを以てサブスク加入者以外の足切りが始まったようにも思える。

ほかにもスピンオフや別のシリーズを展開しているがゆえに、今回登場したイルミナティ(おいおい)の面々との同一性の問題も気になりだしてしまう。

 

また、それとは別の問題も孕んでいるように思える。それはライミのスパイダーマン潜在的に含んでいたホモソーシャル……とは違うかな。童貞マインドがもたらす、ある種の、周縁においやられてしまう&モノ化する女性。もっとも、2作目、3作目においてはその童貞スピリッツな視点が女性のキャラクター(特にMJによって)によって相対化されていたりするので、決して大きな瑕疵とは思いませぬが。

それでも、本作でも女性のキャラクターがほとんどギミックとしてしか描かれていないように思えるというのはある。まあ、これは前述のとおり「この映画単体で観た場合」という部分も多分にあり、ワンダにすればすでに描かれ切っているし、ほかのキャラクターにしても今後描かれるのであろうという予感自体は孕んでいるのですが、それにしてもアメリカ・チャベスのキャラの薄さ、それをカバーするためにぞんざいに挿入される過去の映像などは(脚本がライミではないとはいえ)「どうなの?」感はいなめない。セリフ回しで結構キャラ立ちはしていたので、個人的には許容範囲ではあるのだけれど、やはりもうちょっとどうにかならなかったのかとは思う。

唐突にウォンと「ラブコメの波動を感じ」させ始め、一応の仕事を与えられて殉職したものの最後まで「で、お前は誰だったんだよ」感は残ったままであったあのキャラクターとかも扱いが気になる。それに引き換え牛(ミノタウロス)というそのルックだけで存在感を放っていたリントラくんを見習ってほしいものである。

一方で、アメリカの両親の件は、お粗末ではあるけれど、おそらく普段なら「欺瞞」臭さを感じる(というか「エターナルズ」には感じた)だろうが、そこはむしろ「マルチバースだから」という設定の妙でむしろ全然アリな感じではあったりしたのだけれど。

それにしても女性に託しすぎ問題はあると思う。ワンダにせよアメリカにせよ、クリスティーンにせよ、男どものツケを払っているのはみんな女性キャラであり、男性の主要キャラクターはもっぱらそのホモソーシャル内で戯れているのである。

だからというわけではないが、ワンダが自分を許す場面こそがグッときたりした。あの顛末でいいのか、という反駁ももちろん有効だと思うけれど。

 

が、こんなこと書いたとはいえスカーレットウィッチに関しても、演出面やセリフにおいて抑圧される女性性の訴えはされている。ストレンジに対し「あんた(男)がやったらヒーローで私がやったら悪なの?(意訳)」とか。

なので、その点に無自覚であるかというと、決してそんなことはない。ないのだが、MCUという大きな流れの中ではそのエクスキューズがどこまで効果を発揮できているのかは不明である。

ただ、この点に関しては少なくともライミは自覚的である、ということは付記しておかなければなりますまい。それは「死霊のはらわた」のとある女性キャラクターが樹木にレイプされるシーンに関して、後年彼は「女性へのリスペクトの欠如だった」といったような主旨の発言をしていたし、バランスをとるためにアッシュが首無しゾンビにレイプされかけるシーンを用意していたともいう。まあ今ではどっちもアウトかもしれないが、ともかくジェンダーバランスという点において無自覚ではなかったということだ。

 

それを勘案しても、個人的に「キャリー」の頃から若者(特に少女が顕著な気もするけれど、ジョシュ・トランクの「クロニクル」みたいなのもあるわけですが)の(性的な)当惑や感情の高ぶりや刹那的に生きている(と見なされる儚さとか)、ファムファタールという概念それ自体(自分も使うことあるけれど)が、権力的にマイノリティに対するマジョリティ=男性視点の一方的な押し付けあるいはフォビアによるものではないかと悶々とするものもあるわけで、「スカーレットウィッチは原作からしてこういうキャラだから」というのは甘えではないか。MCUならば、そこを乗り越えてみせよ、と。

女性ヒーローの悪落ちという展開に対し、「幸せに息子二人と暮らす善なる母親」としてのワンダを並置することで単純な女性ヒーローの悪落ちを相対化しているという見方もできるのだろうけれど、しかしそれはマルチバースのキャラクターの同一性をどこまで信用するかという、観客個人個人の感性に投げているような気がする。

脚本は「リック&モーティー」の人なので、多元宇宙ネタはお手の物であり、「リック~」の方ではなんでもアリであるがゆえに、そしてそれがカートゥーンであるがゆえにそのなんでもありも素直に受容できてめちゃくちゃ面白いわけですが、10年以上も付き合ってきたMCUという世界において、すでに「ワンダ」というキャラクターとも5年以上の付き合いであり、好き嫌いはともかくとして私たちが慣れ親しんだ「ワンダ」とマルチバースの「ワンダ」を単純な二面性の表現として見ることは、少なくとも私には少抵抗がある。

なぜならマルチバースの自分とは、異なる身体を持つ他者、という感覚が強いからだ。クローンの問題とも似ているけれど、あれともまたちょっと違うニュアンスである。

 

と、ここまで書いてきて思ったのは、マルチバースが観客に訴えるーーというよりもはや要請だがーーは、『「あるキャラクターが、そのキャラクターでありながら同時にそのキャラクターではない」という矛盾を内包したままにそれを受容せよ』、という中々にヘビーな思考様式である。

もっとも、これはメタレベルというか場外においては似たような問題系が昔からあったわけで、性的加害を行った役者や監督と、その作品や演じられたキャラクターとの同一性や切り分けをどう行うかという問題と似通っているわけで、ある意味では位相の違いと言ってもいいだろう。

ただ、それを物語内の設定として臆面もなく導入してきた、というところにMCUの大胆不敵さがある。傲慢さ、と置き換えてもいいだろう。

 

本作においては、キャラクターの同一性はもっぱら役者の身体に依拠しているように見える。ドクターストレンジを演じるベネディクト・カンバーバッチ、スカーレットウィッチを演じるエリザベス・オルセン……といった具合に。そして同時に、役者はその演技の幅、つまり身体運動によって別のキャラクターであることを表現しなければならない。

無論、それは同じ身体で以て作品ごとに別人を演じるという、役者の在り方そのものであるわけで、それ自体は何も目新しいことはないむしろ当然のことなのだが、前述のとおりそれを同じ物語内で展開するというのが、いよいよ一線を越えてきた感があるのである。

その点で、アメリカ・チャベス役のソーチー・ゴメスの身体運動ははっきり言ってショボい。特にここ一番のアメリカの見せ場である正拳突きのポーズのダサさは結構ひどいと思う。しかし。だから、というわけではないだろうが、彼女はまだ役者として拙いがために、その身体運動の幅によって「(同一のキャラクターでありながら)別のキャラクターである」ことを表現しえない。であればこそ、彼女はマルチバースにおいてただ一人である、というアメリカ・チャベスというキャラクターの設定にも逆説的でありながらも倒錯的な説得力がもたらされるのは面白いところである。

 

と、書きつつも本当に役者の身体およびその運動が必要なのかというのは、CGによってここ10年ほどでさらに揺るがされて、その問題を立てること自体がすでに陳腐化しているような気もするのだけれど……とはいえ明確な答えが出ているわけでもなし、問い自体はまだ有効だろう。

話を戻すと、役者の身体でもって特定のキャラクターを体現する、という事実は、しかし「スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム」でやってのけた通り、もはやあるキャラクターが寄って立つものは必ずしもその役者「だけ」である必要はなくなってしまった。なぜなら、一つの作品においてピーター・パーカーを演じたのは三人の役者であり、それぞれが異なる役者の身体を待ちながらも、我々はその全員を「真のスパイダーマンである」と認識しているのだから。もちろん、あれはそれまでの20年にわたる積み重ねがあるからこその力技ではあるわけだし、本作のそれとは違うわけだけれど、同じMCUマルチバースを考える上では重要なファクターだろう。そこ、ドン・チードルテレンス・ハワードは?とか言わないように。

 

まとまりがなくなってきたのでいい加減切り上げるが、マルチバース以後のキャラクター(とそれに付随する役者とその身体運動)の問題は、より身体論的に考える必要があるのではないかということが言える。そして、もはやキャラクターとは役者によって演じられる客体ではなく、むしろ役者をその付属物として客体化し返すほどの概念的強度を持ち始めているのではないか。

ここにおいて、私は「推し」なる概念と合わせて一抹の不安を持ちつつも、しかし現実を超克する可能性を見出してもいたりするので、エンターテイメントのメインストリームであるMCUの今後の展開がどうなるのかを戦々恐々としながらも期待したいと思う。

 

あと少し残念だったのが魔術が結局は現実にあるものの代替でしかない、という点だろうか。某氏の引用をするならば、それはハリー・ポッター」における現実に存在する何かの劣化コピーとしての魔法と相違ない。それは「我々の現実ある何か」の影でしかなく、オルタナティブな、別の世界の現実としての機能を持っていない。いや、そもそも魔術自体がこの世界内の技術体系ではあるので、それを突き詰めるのであればなんだか矛盾しているようだがアニメーションに寄っていくしかない(が、その可能性はアメリカとストレンジがポータルを通過する際の無数の可能性世界に内在しているのだが)のではないかと思ったりもする。

 

ぐちぐち書きつつもサム・ライミの映画なのでやっぱり楽しいです。マルチバースを通過する際のビジュアルイメージとか、シュマゴラス(ではないが、正確には)まわりの一連のあれこれとか、ゾンビな上に悪霊を纏うとかいう面白すぎるビジュアルとか。ただ、現代において作家主義的な映画の観測の仕方にもやはり限界があるのではないか、ということを思い知らされた一作でもある。これまでのMCUがインディーで才能を見せた新人をフックアップし、ある程度のコントロール下に置いた上で作品を作っていたのに対し、今回はサム・ライミという大御所を起用し、そして彼すらもその作家性を発揮させながらもその手綱を握り続けた。

サム・ライミはインタビューで「スパイダーマン」のヒットに至るまで映画界でサバイブしてきたことにおいて、「大事なのは、人気ではなく、自分が作る映画のクォリティだということはわかっている。だから、こういったスーパーヒーロー映画がとても人気があるのは興味深い。大事なのは僕じゃない。大事なのは、みんなにとても愛されているキャラクターたちなんだ。~中略~ 僕は人気というのは不安定なものだと知っていて、その本当の価値を軽視しないといけなかったんだ」と語っている。

サム・ライミという監督は「キャラクター」の持つ強度に自覚的であり、その人気というものに対して背を向けることでしか映画界を生き抜くことができなかった。そのような監督が「キャラクター」というものの概念を再考させる映画をMCUの下で監督したということが、果たしてどういう意味合いを持つのであろうか。

サム・ライミのすべて」において伊藤美和が彼の映画を社会批評的に読み解くとき、その作品群は消費社会やサブプライムローン問題への応答として描かれており、現在のエンタメ界隈における「『キャラクター』とは何か」という問題を定義しているようにも見えるからだ。

 

 

余談

アメリカ役のソーチー・ゴメスが知り合いに似ていてちょっと親近感わいた。