dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

2022/8

An Eyeful of Sound

An Eyeful of Sound - trailer on Vimeo

10分ほどの短編。共感覚的な世界の表現としての、音に色や形、動きをつけるというもの。これ説明を読むと「An Eyeful of Sound is a short animated documentary film which takes a selection of every day sounds and animates their responses together with the sound that inspired them.」ということで、ドキュメンタリーアニメという体裁らしい。

中々面白い試み。

 

「バッテリー」

手堅い青春映画、と言えばいいだろうか。なんとなくこの手の、「君の名は」以降というか、まあともかく少し警戒心があるわけだが、思ったより普通に観れてしまった。

てか滝田洋二郎監督だったのね。

 

メンフィス・ベル

戦争映画かと思ったら青春映画だった。

何気に後半の空中戦も、今みたいにCGを使って色々なアングルから自在に撮れるのとは違って、基本的には静的な画面が続くわけだが、だからこそ小さな機内における搭乗員たる若者のこまごまとした動きに逆説的にダイナミズムが生まれているように思える。

 

陰陽師Ⅱ」

今観るとちょっと笑っちゃうクオリティなのですが、それは酷か?

野村萬斎の片眉ピクピクとかの顔芸を観るのは面白いのだけれど、それ以外は正直……ワイヤー丸見えだし。てか深キョン顔が丸すぎてビビる。最初誰かわからなかった。なんなら藤原紀香に見えた。市原隼人の苦しみ演技が熱っぽすぎて笑う。

アクションもだるだるだしまあ野村萬斎の顔芸が観たい人は、って感じだろうか。

 

「トラック野郎 一番星北へ帰る」

これ傑作。トラック野郎のシリーズ自体は知っていたものの、今回たまたま観るまでそこまで食指が動くものではなかったのですが。

いやーこれすごい。まずカーアクション。無駄に危ない。派手な、というわけではないのですが、地味にドラテクがやばいです。あんなうねった山道をあんなでかいトラックで曲がったり十数センチくらいの幅で抜きあいをしたり、無駄にパトカーやらバイクやらを突っ込ませたり、この時代のスタントの無茶っぷりはまあ仮面ライダーとかダーマとかでわかってはいたのですが。

描かれているものにしても、義理人情なヒューマンドラマなわけですが、ともすればクサいとくさすこともできなくないのかもしれないが、しかしここには宮台的なテーゼに対するある種の解答と限界を提示してくれている、という意味でもかなり示唆的であるともいえよう。

法の奴隷としての田中邦衛、トラック野郎のコミュニティの仲間を救うための無償性およびその外野に対する冷徹さ(損得勘定の発露)という限界、そして、その田中邦衛を超克するための法の逸脱。まあ田中邦衛のあの絶妙な表情とかは単なる法の奴隷というよりももっと内奥があるわけだけれど(だからこその「ありがとう」なわけで)。

ただ、今「義理人情」的なものを真っ当に描くことってかなり難しいというか、冷笑主義的な価値観が跋扈する中では大変なのかもしれない。

 

天地明察

自分がこういう映画も楽しめるようになる日がくるとは思わなかった。

正直、岡田君は細かいニュアンスを表現できる役者ではないと思うのですが、しかし今回の役としてはむしろその辺はオンとオフの感情がはっきりしているのでそこは割と問題ない。所々で「それでいいのか?」と思う編集の仕方とかあるが(終盤の雨とか、奇襲を受けるとことか、そのあと何事もなかったかのように場面転換して物語が進んでいくのでキャラクターの反応がないと「え」となる)、何はともあれ映画としては面白い。ただまあ、やっぱり長い。もうちょっと短くできたと思うんだけどなぁ…囲碁坊主とかそこまで描く必要ないと思うし。

それはともかく、これは眼差しの映画であり眼差す映画だと思う。それぞれに思いも身分も違えど、天を見上げ眼差すということで繋がる。天は変転する時間であり、地に根差すはその時間を捉えようとする人の営みそのもの。

時間を正しく観測するということは、すなわち時間芸術である映画そのものの観測のメタファーとなる。ここにおいて、映画内の人物と観客の眼差しは「時間を捉える」という営為において同期する。だから彼らの天文学的観測の行為が、感動が、ここまで素直に流れ込んでくるのだろうと思う。

あとやっぱり久石譲はコンポーザーとして優秀だと思うですよ。

 

「マーリー 世界一おバカな犬が教えてくれたこと」

これ全編ドキュメンタリータッチで良かったんじゃないかな~と思ったり。「6歳の僕が~」みたいな感じで。いやこの監督にそんな重いものできるはずもないのだけれど。

 

愛と哀しみの果てに」

ゆるふわ植民地主義

 

「地獄の7人」

ベトナム戦争関連映画として、これはかなり良作の部類に入るのではなかろうか。

ていうか「ランボー」の監督なんですね、この人。なるほど、訓練部分の描きこみやらエモーションとかは確かに納得できる部分がある。

普通に感動し、素直に登場人物に感情移入できた。アメリカ人側からみた「ベトナム戦争」だというのに。それはなぜか。それはとてもシンプルで、この映画には愛国的な欺瞞が一切なく、ジェイソン・ローズらの行動原理は徹底して「仲間」を救出することのみに注がれているからだ。ここにおいて、国威やナショナリズムに寄ったプロパガンダとは全くの逆といっていいだろう。むしろ、劇中において「政治家の子どもは一人も死んでいない」という旨のセリフからもわかるように、ベトナム戦争に対する自国アメリカの(政治的)スタンスを批判的に眼差している。

だからこの映画は素直に観れるのだ。誰だって仲間を救いたいと思うだろう。それは国という大きなものではなく身近な誰かという小さな個人ーー戦場という究極の非人間的空間において紡がれたーーとの絆の話なのだから。

ランボー」がそうだったように、この映画は戦争を描いていない。あくまで戦争の後の個人がどうなってしまったか、ということを訴えるのである。

だからジャンのように現地の人たちが命を賭して戦ってくれるのにしても、それはジェイソンらが国を背負っていないからだ。あくまで個人と個人の結びつきによっている。国などという空疎で巨大な虚構の装置ではなく。

ランニングタイムも良い、金のかかった爆発も多く、登場人物それぞれを語る余地も十二分にあり、観ていて単純に楽しい。

ただ、一つだけ注文をつけるのであれば、冒頭のヘリのパイロットはジョンソンの方が良かったのではないだろうか。もしくはチャーツに担わせて、ラストの救出はもっとエモーショナルに描いても罰は当たらないと思うのだ。

まあジョンソンに関しては直接的なメイツではなく、そこには何か人種的な隠喩が含まれているのかという邪推は可能だけれど、それとは別にあまりエモーショナルに描かないというのも分からなくもない。何せ本来の救出目標がすでに死んでいるということもあるし、直前にセーラーが自爆しているわけだし、救出シーンを大々的に描くことにバツの悪さを感じたのかもしれない。

何はともあれ良作映画でありんす。

 

「友だちのうちはどこ?」

誰だこんな牧歌的な邦題つけたの。全然そんな映画じゃないじゃないじゃないか(翻訳かけたら原題からして同じ意味だった)……といいつつも「友」以外がひらがな表記であること(そして「友」が漢字であることの確信性)でアハマッドの一人称が強調され、観終わったあとだとその切実さがむしろ伝わってきてしっくりくる、日本語特有のニュアンスを上手く使った良い邦題だということに思い至る。

それでも、あえて自分で邦題を考えるなら「8歳の僕とクソみたいな世界」とでも改題するだろうか。逆にカジュアルさが出てしまってダメですね。が、内容としてはこっちの方がドストレートではあると思う。それくらい、この映画における主人公アハマッドを取り巻く環境はクソである。

ハッキリ言って、この映画は最後も最後のささやかな希望を受け取るまではひたすらにストレスがマッハな映画だ。それは、ともすればアハマッドに対してすら抱きうるものでもある。これに関しては子ども時代の自分と照らし合わせつつ今の自分の狭量さを思い知らされることになるのだけれど、ただ結局はそれも大人=環境がクソであるがゆえに、ということに収斂できるであろう。

 

つまるところ、この映画は告発しているわけだ。何を。

大人(=権威)はクソである、ということを。

まずもって冒頭の学校の先生の高圧っぷりからして大概で、ネマツァデが宿題をノートではない紙に書いてきたからといって「同じことをもう一度やったら退学だ」という傍若無人ぷりだし、続くアハマッドの家庭における母と祖母(?)の話の聞かなさっぷりも尋常ではないし、彼の祖父の対応も完全にアハマッドを自分のモノとして扱っている。この序盤の描写からもわかるように、ある人物を除いて大人という存在は徹底して悪どく、取り付く島もない連中として描かれる。

どことなくドキュメンタリータッチな部分がありながら、大人と子ども(アハマッド)との会話の成り立たなさ=ディスコミュニケーションぷりはほとんどカリカチュアといっていいほどで、そのやりとりはぽんこつAIとのやりとりを眺めているようですらある。そういった現代的な視点を持つと、この映画における大人というのは権威主義に絡めとられた、というか権威主義の象徴として機械化=非人間化した、コミュニケーションを排することで権威主義を維持しようとする機構そのものであるようにすら思える。

大人と子ども(ほとんどアハマッドだが)のカメラの収め方にしても、大人と子どもが一緒にフレームに収められることはカットを割ることによる断絶性が強調されうことが多く、また収められたとしても大人の方は頭の上だけはフレームに収まっていなかったり、カメラを背にしていたり素っ気ない撮り方をされていることが多い。全編通して撮り方自体はシンプルなのだが。

一方で子ども同士を捉える場合は同一のフレームに収めきることが多く、またコミュニケーションも問題なく行えているのが対比的だ。また、日常を異化する作用というか、イマジナリーラインを越境してくる撮り方とか階段の使い方とか、どことなく小津っぽい。ぽいと思っていたら、小津ファンを自称し、小津に捧げる映画なんかも撮ってたりするらしい。納得。

 

大体、大人連中の目が揃いも揃って死んでいるではありませんか。というのは言い過ぎにしても、荒み切っているし少なくとも生き生きとはしていない。終盤に出てくるアハマッドの父親(おそらく)などは、同じアングルでラジオを弄っている数カットが挿入されているだけにもかかわらず、「あ、こいつダメおやじだ」というのが分かるくらいに擦り切れている。

だが、この大人たちの寄る辺なさ・大人たちですら寄る辺がないという問題は、間違いなく彼らの幼少期がアハマッドのそれと大差なかったことがゆえだろう。ということを察してしまうくらいの擦り切れ具合である。

それを如実に表す描写の一つは、彼の祖父が自らのエピソードをジジ友に語っている内容。よく、DV被害を受けた人(特に男性は)はその子どもにもDVを行ってしまうというのはよく聞かれる話だが(どうでもいいが石田衣良の「4TEEN」にそういうオブセッションを持ったキャラがいましたな)、まさにその典型がこのクソ爺である。

もっとも、DVのそれは能動性というよりは無自覚にトリガーを植え付けられてしまうがゆえの、ということがあると思うのだが、このクソ爺は己の父親から受けた仕打ちを肯定的に解釈し、それを孫に対して自覚的に行使しているという点でよりたちが悪い。ただ、これは臨床心理的な話になるのだが幼少期に虐待を受けていた人は、そういった「嫌な」記憶を忘却し肯定的に捉えることで精神の安定を図るというメカニズムがあるということも言われるので、ちょっと切り分けが難しいところではある。

どうあれ、アハマッド=子ども視点からすれば高圧的な老害クソ爺であることには変わりない。

 

しかし、先述したとおり、この大人に対するイライラの矛先はアハマッドにも向けられかねない。というのも「そこでもう少し主張すれば!」「声を張れば伝えられるでしょ!」とか思わず口にしてしまう場面もあるし、またこのシーンは擁護が難しいのだけれど、歩けないという老女を歩かせた上に放置(編集でどうにでもなりそうなものだが)してしまうところもあるからだ。老女に関しては「いやアンタ歩けるじゃん」とかそもそもの対応からして素っ気ないので、やっぱりこの老女にしても「大人」なのだということはハッキリわかるように描かれているのだけれど。

もちろん、アハマッドの行動の消極性というのは、彼がまだ幼いということもある(とはいえ8歳だともうちょい自意識が強調されてもいい気もするが)し、その消極性自体が大人の論理=権威主義による外的抑圧を受け続けてきたことによる萎縮によるものなのだろう。私自身の経験則からくる愚者の共感といってしまえばそれまでだけれど。

 

そうやって子どもの描かれ方を考えると、アニメーションやマンガにおける子ども――特にホビーアニメ・マンガなどにおけるローティーン未満、思春期以前の少年(少女)――の溌剌として自由闊達な在り方というのは、それ自体がアニメ的な想像力の賜物なのではないかとすら思えてくる。実際、あれだけ大人と対等であり得るというのは現実世界ではそうそうありえない。まあ、ホビーアニメは玩具で世界征服とかやっちゃう世界観だったりするので、子どもが大人と対等以上の存在であることなどは大いなる可能性ではありつつも些末なことなのだが。

 

閑話休題

そしてラストにおけるあの「花」は、権威主義的な社会にあって、それでもなお「誰かのために動く」という利他性の象徴であり、おじいさんからアハマッドへ、アハマッドからネマツァデへと渡されるバトンなのだ。

そもそも論として、この映画の物語の起点になるのはアハマッドにネマツァデという友だちを思う気持ちがあったからに他ならない。というのも、権威主義が支配する空間としての教室・家庭でのことを思えば、ネマツァデのノートのことなど気にせず、さっさと宿題を終わらせて大人の言うことに唯々諾々と従っていれば自分が窮地に立たされることはないのだから。ある意味では、その権威主義によって舗装された道を歩むことを選んだIFとしてのアハマッドが、さりげなく出てくるアリという彼の兄弟なのだろう。いや、別にアリはそういった選択を迫られているわけではないので、彼を悪く言うつもりはないのだけれど。

それでも、アハマッドはネマツァデにノートを届けに行こうとする。なぜなら、次にネマツァデがノートに宿題を書いてこなければ、彼は退学になってしまうからだ。それをわかっているから、それを真横で見ていたアハマッドは、あんなクソみたいな社会にあって――あるいは「だからこそ」――利他性を発揮する。その時点で彼がどれだけ素晴らしい人間なのかということが描かれている。そして、ラストにあってその利他性はより深まり、ネマツァデを救うことになる。まあ「そらそうでしょ」というというオチではあるのだけれど、それは予測可能だから悪いということではなく、むしろアハマッドのそれまでの行動を思えばこそ当然の帰結としての自然(じねん)な納得というか。

 

もっとも、あのクソみたいな教室に居続けることが彼らにとってプラスになるかと言えば、全然そんなことはないだろう。下手すれば権威主義ホモソーシャル化した友情の悪魔合体によって、アハマッドの祖父とそのジジ友のような関係にもなりかねない危険性を孕んでいる。

ところで言及しそびれたのだけれど、この映画では「扉(窓)」が重要なモチーフとしてある。一方では鉄の扉があり、一方では木の扉というように描かれている。鉄の扉は、ネマツァデと同姓であるだけの紛らわしい男が商業主義的市場原理に基づく、うざったらしい営業をかける場面において象徴される。この男は老人に対し鉄の扉に付け替えないかと営業をするわけだが、アハマッドに対する、やはり横暴で横柄な「大人」的行動からわかるように、非人間化した、システムの奴隷としての大人の象徴、コミュニケーションを拒む閉ざされた壁のアレゴリーとして鉄の扉はある。見ず知らずの子どものノートを取り上げて一枚だけ、といいつつノート自体も下敷きにして使うというだけなので、ともすればそこまで大事ではないようにも思えるのだけれど、大人と子どもという権力勾配の発生するシチュエーションとアハマッドという子どもの視座がたもたらすカメラワークだけでここまで暴力的に描かれうるのか、と感嘆する。

 

他方の木の扉は、ほとんど唯一といっていいコミュニケーション可能で、アハマッドに耳を傾け助けてくれる「大人」の老人がその職人だったことに象徴されるように、人間性=利他性を持つヌクモリティの寓意としてある。

このおじいさん、若干ボケてるというか、ヌクモリティがあるといいつつも、どこか大人と子どもという関係性を意識してしまうようなズレを感じるようには描かれているのだけれど(歩みが鈍い、自分語りしっぱなしといった「老人あるある」的な笑いではあるが)、しかしその断絶・親切の空回りがあるからこそ、そういった表層的な結果として浮かび上がってしまう位相とは別の位相にある利他の純性が際立ち尊いものとして受け取れるのかもしれない。

 

そして、ネマツァデにノートを渡すことができずに帰宅し、自分の行いが徒労に終わってしまったことに……ではなく、それによってネマツァデを助けられないことに対する忸怩たる思いから落ち込むアハマッドが、気もそぞろにといった風に宿題に取り組む中で、彼がいた部屋の扉が強風に開け放たれ、洗濯ものを取り込む母親の姿が目に入る。これは受け売りなのだけれど、このシーンは中盤においてアハマッドが道中で道に落ちた女性の洗濯物を拾い上げるシーンとつながっており、この場面ではアハマッドの背丈では直接女性に洗濯物を返せないために別の女性が声をかけてきてその女性が洗濯物を落とした女性の代わりにアハマッドから洗濯物を受け取るという風に描かれており、「あの人にできないことを自分が代わりにやってあげる」ということにアハマッドが思い至ったのではないか、という描写だという。

アハマッド的には単純に自分の宿題をやったうえでせっかくだからネマツァデの分をやってあげるか、ということだと思うのだけれど、どうあれ利他的行動には他ならない。

また、これはちょっと強引かもしれないが、冒頭の教室のシーンで遠くから来た子どもに対して先生が「10分早く出て、30分早く寝ろ」というようなことを言うのだが、その発言ともつなげてラストシーンを考えると、アハマッドは自分の睡眠時間を削ってまでネマツァデの宿題をやり(早く寝ることができない)、遅刻してきてしまう(家を早く出ることができない)。端的に言って、これは自己犠牲だ。

自分を顧みずに他者を思って行動する。この究極の利他性=自己犠牲性を殊更に強調することなく描いてみせるというのは、こうして書いてて思ったが中々の離れ業ではないだろうか。なぜなら、自己犠牲が究極の利他性であるのは、字義通り己を犠牲にしてまで他者を助けようとする、その犠牲の代償の大きさを強調することでこそ際立つのだから。それをここまでさりげなくやってのけるというのは、ちょっと凄まじいことなのではないかと。それはやっぱり、子どもだからなのかもしれない。

 

しかし、ここまで大仰に書けば書くほど、「どうして大して仲が良いわけでもなさそうに見えるネマツァデのために?」と思わなくもない。

その疑義への回答はある。それは某社会学者が「友達を作るにはどうすればいいのか」という質問に対し「そんなの簡単で、困ってるやつがいれば助ければいい。そしたらそいつとはもう友達なのだから(意訳)」ということを言っていたことだ。その言葉を援用して言えば、アハマッドとネマツァデはラストにおいてこそ友達になったと言える。友達に対して利他的であったのではなく、利他的に動いたからこそ友達になれたのだと。こういう、ともすればウェットでべたべたしそうなことも、こうして考えを深めていくことでさりげなく描かれていたのではないかと思える深度をこの映画は持っている。

 

ところで、レビューを漁っていたらこの映画の指して「走れメロス」であると書いている人がいた。たしかに。

それだけで十分伝わるのだから、小生がこんなに長ったらしく書く必要なかったですね、ハイ。完全に骨折り損のくたびれ儲けです本当にありがとうございました。

 

ただ、メロスにはない、映画というメディアならではのものもあると思うわけですよ。それは、権威を告発するこの映画には「トゥルーマン・ショー」においてある重大なネタが明らかになった以後の観客の中に芽生える居心地の悪さに近似している。それはまた、「はじめてのおつかい」が内在する無自覚な嗜虐性に近接している。

「はじめてのおつかい」は、ネトフリで配信され世界的にバズったらしいが、やはりそこには賛否両論があったという話は聞く。それは当然の話で、子どもを一人にするのは危険だからとかそういうこと以前に、絶対的権力を行使できる大人が我が子を傀儡として扱っている事実を、おつかいという冒険とその目的の達成という物語構造の中に隠蔽し、愛情の名の下に幼い子をエンタメの道具にしているからだ。

ちょっと前に流行ったののかちゃんだったかなんだったかもそうだし、動画投稿サイトで自我の未発達な子どもを被写体にしているものもそうだが、本人に拒否権のない(そもそもそういう概念すら持たない)子どもを安易に全世界に発信することについて、その子が将来的に成長したときにどう思うかということについての無思慮。本来ならば家庭内で済まされるホームビデオを市場原理に乗せること。それらに潜性する不均衡な権力構造にも無頓着なことが末恐ろしい。

話が盛大に横滑りした上に思想が駄々洩れたが、何が言いたいのかというと、この映画には子どもの世界をエンタメ的に覗き見ているような申し訳なさがあるということだ。実際、私はあまりのいたたまれなさに要所要所で声を上げてツッコミを入れたりしていたので。

とはいえ、構造的に観客を傍観者にさせつつもアハマッドに寄り添った映画であることは間違いなく、そも大人とて子どもの時代があったわけで、彼に誠実に共感し映画に向き合うことこそが肝要なのだろう。

 

最後にもう一つだけ指摘しておきたいことがある。おそらくこれは監督も意図していない、つまりそこに問題意識を持たないほどに日常化している風景であるがゆえに、あまりに自然であるがゆに不自然さとして写し取られてしまったことなのかもしれないのだけれど、この映画には女の子が一人もいないのだ。

白状するが私はイランの社会情勢のことなんてほとんど知らない。んが、少なくとも女性の社会進出がこの映画の撮られた時期は今よりも進んでいなかったことくらいはわかる。

それを踏まえたうえで、この映画において女性は出てくるが、おそらく女の子は一人も出てきていない。「子ども」にとって絶望的なこの地獄においてすら存在することすら許されず、そもそも存在を抹消されてしまっている。「女」の「性」でその存在を許されるのは、権威主義・家父長制に隷従させられた「大人」の「女」だけなのだ。

その、あまりに自然な不自然さは、監督の意図を越えたものだと思われる。いくら監督がさりげなく描くことに長けているとはいえ、この無意識さは演出によるものではなく、明らかに日常化しているがゆえの不気味さだ。

女の子の不在、それが当たり前である風景。子どもの段階で「女性」を抹殺しておくということ。この映画においては、女性は有徴化すらされずただ単に「大人」という記号の中に埋没ーー埋葬とすら言っていいーーされてしまう。

再三になるが、監督はこの点を意識して撮ってはいないだろう。なればこそここまで悍ましいものが現出しているのだから。

その点において、この映画は大人のクソっぷりの告発でもあると同時に、「女性」が社会から抹消されていることの告発でもあるのだろう。

 

あとあの町並みというか、町全体が裏路地っぽい感じとかすごい良いです、ヤバみがあって。

 

余談なのですが、スターウォーズEP4を観るに、ルーク・スカイウォーカーもこんな感じの幼少期を過ごしていたのではないだろうか。だとしたらそりゃあんな惑星から抜け出そうと思うよね。そう考えると、「友だちのうちはどこ?」はこの閉塞した田舎から抜け出して都会へ出たいという願望を描く作品群と並べてもいいのかもしれない。