dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

2022/11

「旅立ちの時」

前に観たことあったよな~と思ったら完全なる初見でした。

しかしそうか、10月31日はリバー・フェニックスの命日だったのですね。

こうして改めて観ると、この存在感はなんなのだろう。「スタンドバイミー」のときは良い感じに悪ガキめいていて、ある種の危うさこそあれここまで透明感のある美しさを湛えているとは思っていなかったのですが、この映画のリバーはほとんど少女マンガの主人公ではないか。

しかもこの映画の撮影時は劇中の設定と同じでリアル17歳!今だとティモシー・シャラメあたりが当時のリバーの存在感に近いのだろうか?正直なところ、私はティモシーは甘いマスクや透明感はあれど、リバーのような儚さはあまり感じずしっくりこないので、もっとリバーっぽい人がいる気がしなくもない。ていうか一々髪をかき上げるイケメンしぐさだけで笑いながら涙出てきた。

溺れるナイフ」の菅田将暉も相当なもんだった気がしますが、しかしあれについていえば重岡君と小松奈々という相対性および相乗効果によるところもかなりあると思っているので、やはりこの映画のリバーの方が私の好みに近い。まあ、「溺れる~」の菅田とこの映画のリバーはそもそもの役どころがだいぶ違うのだけれど。リバーを「儚さ・脆さ」とするなら菅田は「幽かさ」だろうか。

 

ところでこの映画の設定、どことなくリバー・フェニックス本人の実人生に寄せてきているように思えなくもないのだが。彼のことはほとんど知らないのだけれど、親がカルトの宣教者で南アメリカを転々としていたというし、この映画における政治的思想をカルトと見立てて置き換えてもそこまで異論はでないだろう。

ただ、この映画は設定としての政治(的思想)を前面に押し出しながらも、その内実はほとんど後景化している。監督が社会派と言われるルメットであるからか、それともルメットなのにというべきなのか、とにもかくにもこの映画では「政治」はほとんどその意味をなさない空疎なお題目でしかない。

政治が機能していない、あるいは意図的に機能させていないのは、物語途中で登場するガスという人物の顛末がすべてを物語っている。彼はアニー&アーサーと思想を共にした同志であり、爆破事件を引き起こしたかつての二人の過激さを今もなお有している人物として登場するのだけれど、その頑迷ぶりからアニーには「46歳の子ども」と言われてしまう。

このことから考えるに、ガスとはつまり「政治の季節」の亡霊に思えてくる。だが、アニー夫妻はかつて自身らが引き起こした爆破テロによって現在の逃亡生活を強いられ、それを二人の息子にまで強要してしまっていること、そしてそうまでしてなお世界に大きな変革がもたらされることがなかったことから、すでに政治的思想の実行に意義を感じていない。

もちろん、セリフの口々から資本主義に対する蔑視や共産主義的思想(アーサーはロシア系で元ボリシェヴィキの両親を持っているという…)が覗いているが、それが日常を逸脱して行動に至るわけではない。飲み屋でおっさんが「なんもかんも政治がわるい」と言っているのと程度としては変わりない。

そんな二人とは裏腹に、なお60年代の政治の季節を生きる……というか死に損なったガスは政治的思想に基づく行動を起こそうとする。もっとも、私から見れば彼にはもはやそんな政治的思想の形骸すらも持っていないように見えるけれど。実際、アニーとヤり目で来たチンピラ程度の描写でしかない。

どうあれ、もはや政治(の変革)が何かを変えることのないポスト政治の季節の世界にあって、見かけだけでもその意匠を纏おうとした彼の顛末こそがダニーの旅立ちへと繋がることから考えると、この映画は政治という切り口を持ち出しながらも、その中身を描かないことで政治(が無効化された世界)を生きる人々―――行き詰った存在としての大人を描いているのではなかろうか。

だとすると、これはダニーが主体の物語ではないと言える。少なくとも、ダニーの成長の物語などではない。だって最初から最後まで彼は葛藤こそすれ父親の言いなりであり続けたのだから。ラストに至ってすら彼は己の意志で自由を獲得し自身を解放したわけではなく、ガスの一件から父親が心変わりしたことによって受動的に開放されたに過ぎない。

だからこれは決して成長の物語ではない。これはむしろ、成長の限界=大人であることの・なることの迷いを描いた物語なのではないか。政治的であることが大人であるということだとするならば。

この映画、親子関係が縦にも横にも描かれる(横はちょっと薄味だが)のだけれど、それらの縦の関係というのは、大人としての親・子供としての子とその多重性に他ならない。その多重性を担う存在としてダニーの両親が配置されている。ダニーの母であるアニーは同時にバターソン家の娘(=子)であり、彼女が爆破テロを起こしたことで生じた葛藤が父親との対面によって描かれる。また序盤ではアーサーの親が病死し、逃亡犯であるがゆえに死に目に会うことができなかった苦悩も描かれる。

アーサーについて言えば、ガスのようではないにせよ、その頑迷さ・折れなさは「男性」性の寓意=マスキュリニティとしての大人の限界の露呈と言えるかもしれない。一方でアニーはダニーのために長いこと会っていなかった父親に、ダニーを託す嘆願をしにいく。それによって和解…が言い過ぎならば雪解け程度はできた。このシーンのバターソン役のスティーブン・ヒルの表情やとっさに体が動いちゃう感じの所作とかめっちゃ良いです。マジで。

これを日本的概念にあてはめて「妹の力」の婉曲表現したくなってくる。母性、と言ってしまうとそれはむしろアーサーのようにアグレッシブな家父長性によってではないにせよ、ダニーを束縛するイメージがついて回る。もちろん、暴力性によってではなく子宮的な包含力によって、であるが。

とはいえ、二人ともにその「大人=(母・父)親」としての力を発揮できない。それらは政治の季節を経てすでに無効となったものだからだ。だからこそ、アーサーもアニーも、ガスの最期をラジオで知ったことでしかダニーを自由にさせることができなかったのだから。

ダニーにせよアニーにせよアーサーにせよ、あるいはローナにせよ、劇中で彼らは自発的・能動的に状況変革を起こせていない。「大人」であるアニーとアーサーは、それが無効であることを知った世代であり、ダニーとローナはそれが前提となった現在を生きているのだから、それは当然のことなのだろう。

自力救済ができない中で、ただ状況の変化によってのみ受動的にそれを受け入れているだけでしかない。めちゃくちゃ大雑把に言えば「ポスト○○」の○○すらも分からない、大きな物語を失ったイデオロギーなき大人たちの、大人になろうとする子のイデオローグの話なのではないだろうか。

登場人物たちの主体性もとい主導性のなさとは、そのような喪失感を所与として持っているところからきているのでは。だからこそ、リバー・フェニックスの儚さ、確かな存在感を放ちながらどこかおぼつかない感じというのが胸を打つのかもしれない。

 

大人云々、ということについてもう一つ付け加えたいことが。

これは割と冗談ではなく本気なのだが、劇中で一番「大人びている」のはダニーの弟のハリーではないか。彼は明らかにあの生活・家庭をやり過ごすために、大人的な振る舞いを身に着けている。それが、あの年齢であの環境をサバイブしなければならなかったが故ではあるとしても、そこに「大人」としての自立した意識を見出すことは、すくなくともただ単に状況に振り回されるだけのハリーの家族に比べれば、はるかに容易い。大人の意匠を纏う(まとわざるを得なかった)という選択をしたという点において、ハリーは極めて(狭義において)政治的な存在であると言え、つまるところ彼こそが一番の「大人」なのである。ダニーがアーサーにふっかけるときに後ろの方でニヤニヤしてるハリーのそれは、明らかに愉悦である。有り体に言えばマセガキである。そも、子どもであるからこそ「大人びる」ことができるわけで。

そんな風に感じた私がこの映画で一番涙腺が緩んだのが、自分でも不思議なのだがハリーがキャベツをぶったたっ切るシーンだった。そのシーンの振る舞い、あるいは母親とのかけあいなど、細かい所作から「子供らしさ」を「装う」、大人びた所作が見える。そこにやるせなさを感じてしまったのかもしれない。

 

シドニー・ルメットの手腕もあってやたらめったらカットを割ったりせず、しかし人物のかけあいのテンションに合わせてカット割りながらズームさせたり、決して平板になったりはしないので最後まで飽きずに観れました。まあリバーですよね、なにはともあれ。

 

「泣きたい私は猫をかぶる」

痛々しい、というよりもイタい映画だった。主人公が。

観ていていたたまれないというか、ムゲの、傍から観ていても明らかに「装っている」「無理をしている」感じが、観ていてとてもイタいのだ。もちろん、それは中盤以降で明らかにされるようにムゲのキャラクターに折り込み済みではある。だから、それを以てこの映画がダメだというわけではない。まあ好き嫌いで語ることはできるだろうし、現に私は序盤はあまり好きではない。かといって、ムゲの本音が開けっ広げになって以降の展開も好きではないのだけれど、しかしなんだか妙に心に残るものがある。

そういう好き嫌いはともかくとして、このアニメ自体の完成度で言えば決して高いとはいえないだろう。第一、ムゲのイタさが単なるイタさでしかなく、脚本上もそうだがともかく音楽の使い方といい演出上においても、そのイタさに叙情性を帯びさせることなく陳腐な恋の成就に回収されていってしまう。終盤からラストにかけてのあんまりにもあんまりな子供だましの展開に納得できる人はいただろうか。ラストからのエンドロールへの導入も雑だし。

ムゲの家庭問題も放置したまま。それは当然のことで、そのような見せかけの問題は日之出への恋慕の当て馬でしかないからだ。そして当て馬でしかないものをちゃんと描こうなどとは思ってもいないのだろう。その恋にしても、突き抜けるものは何もない。劇中でボーカル付きの歌が流れる演出にしても――GotGの功罪か知らないが邦画で日本語の曲をBGMとしてそのまま流すことのダサさをもっと考えるべきだと思うのだけれど――「君の名は。」のように突き抜けることがない。ただ流したというだけだ。というか、この映画は全体的にBGMの使い方がへたくそだと思う。メリハリがなくただ垂れ流しているようにしか思えず、BGMがないシーンの方が印象に残るくらい緩急がない。

そして、ムゲの恋慕というのも恋というよりも依存にしか見えない。「日之出と結婚して家を出ていく」という自室での独白にしても、それは本当に日之出と結ばれたいというよりも家を出ていきたいというネガティブな本心を恋で包装して自己欺瞞に浸っているように受け取れる。

毎日のようにイケイケで日之出にアプローチをかけられるというのはどういうことなのだろうか? 日ごろのアプローチと手紙を渡すことの違いはなんだ? ムゲの日之出に対する思いはすでに周知されているはずなのに、手紙を読まれることを恥ずかしがるのはなぜ?

それは、個人に宛てた手紙というのは極めて私的な領域だからだ。

しかし、それを侵犯されたこと自体にムゲはそこまで傷ついてはいない。日之出にあてた手紙をみんなの前で読まれ、それによって日之出に拒絶されることに傷つくわけだけれど、この日之出の行動にしても私は冷めた目で見ていた。

だって見え透いているんだもの。

ムゲのイタさというのは、観客からは彼女のすべてが見え透いているがゆえであり、日之出の「大嫌い」というセリフも「ここでひと悶着起こしとくか」という物語進行上の出来事にしか見えないからであり、それはひいては作り手の隙であり、それゆえに彼女たちのすべてが浮薄に映ってしまう。終盤の猫どももそうだが、キャラクターが生きているというよりも、作り手のの傀儡にしか見えない場面が多すぎるのだ。

彼女のイタさは「痛さ」とならない。猫という安全圏から容易く日之出の私的領域に踏み込むことを躊躇しないムゲにとって、究極的には他人などどうでもいいのだ。もちろん、そのなりふり構わないことが思春期の恋に基づくものであるならば私も一緒に感情をドライブすることができただろう。

けれどすでに書いたようにムゲの日之出に対する本質的な感情は安全な場所の確保であり、依存でしかない。

容易に他人の私的領域を侵犯するムゲに、自分の私的領域が侵犯されたこと(=手紙を読まれること)に対するダメージはなく、日之出という依存先の(見掛け倒しの)喪失に対してはダメージを負う彼女の独りよがりぷりは共感を排除する。

恋愛の独善性も駆け引きもこの映画には持ち込まれていない。すべてが見え透いて浮薄なだけの掛け合いが展開されるだけだ。

ただ、そうはいっても文字通り全身全霊をかけていることを体現した、飛び降りシーンは良かった。ちゃんとその前のシーンで猫であるときの感覚も描いていたし。その行動動機がなんにせよ、体を張って何かをしようとするのを観るのは気持ちがいいですから。

とはいえ、そこと常滑の背景美術以外はアニメとして目を見張るものも特になかった気がする。

まず猫の扱いもどうだろう? きなこのキャラにしてもそうだけど、猫ってそんなんか? 猫ってもっと自己中心的な生き物じゃないかしら? こんなこと言ったら押井守は怒りそうだけど、擬人化するなら犬でやるべきじゃない?

猫の世界にしても、なんの異界感もない。

元人間の猫のコミューンという発想自体は良いのだけれど、だとすれば元来猫である猫世界の猫をもっと猫としての猫にしておくべきでしょ(ゲシュタルト崩壊)。猫世界の猫も、猫世界の元人間の猫にも、何ら違いがない。単にガワが違うだけの擬人化に過ぎないため、猫になってしまうということの逼迫さがない。

山寺猫の扱いにしても、その処理の仕方ったらない。人間猫が勢揃いでバーンとBGMが鳴った瞬間に吹き出してしまいましたよ。

まあ、そもそもからして山寺猫について言えばCV山寺であること以外に面妖さ異質感というものは演出上ほとんど描けていない。もっと恐怖を煽る気味の悪い存在として描かないとだめでしょあれ。

事程左様に、猫という完全なる他者としての異種を、異種として描けていないことから終盤の展開がどうでもよくなっている。

多分、これは私が特に幼少期に読んで印象に残っているから、ということなのだろうけれど絵本の「めっきらもっきら どおん どん」に感じた祝祭の微熱感と、その翻しとしての恐ろしさみたいなものがこの映画の猫周りの描写には足りない。

そして、理解可能な存在として猫を描いてしまった以上、より均質な同種の人間である日之出を本質的に理解不能である他者として描くことなどできるはずもなく、すべてが見え透いて予想通りの枠に軟着陸してしまった。

この映画の退屈さというのは、そういうところだと思う。

ただ、彼らが中二という設定であることやモチーフとしてお面(=仮面)というアイテムのことを考えると、作り手の狙いもわからなくもないというところではあるのだけれど。

 

声優陣の演技は良かった。特に志田未来があんなアフレコ上手いとは思わなかった。上手い、というとなんか語弊がある感じですが、声質も含め「魔女の宅急便」のときの高山みなみっぽくて、そのおかげでムゲを観ていられたのだとおもふ。

 

「マリリンに逢いたい」

な、なんだこの映画。いや、犬だけで引っ張るのは無理だというのはわかるのだけれど、タイトルに反してなんかドロドロしてるしあの火事のシーンとか並大抵の燃やし方じゃないんですけど、なんだこれ…

 

蜜蜂と遠雷

すごい良かったですね、この映画。当然と言えば当然なのだけど音楽が良かったので劇場で観ればよかったな~これ。地味にお金かかってそうだし。

下手に役者自身に演奏させてこれ見よがしにワンカットだったり全身を映して「俳優が弾いてます!俳優が弾いてますよ!」というのをされても、少なくともこの映画に限って言えばそれは悪手だというのはわかる。だってこれ上澄みも上澄みの超絶ピアニストの話なわけなので。俳優が1年、2年必死で練習したとて十年単位で研鑽を積んだピアニストのプレイングを再現できるはずもなし。そして、それによってこそ得られるものもあるはずなので。とはいえ、演奏シーンの役者のフィジカルな動きも素晴らしく、そこにプロの音楽が重なることで、映画のマジックによる身体性の同期が行われ、まるで役者が本当に弾いているように観えてくるのだから不思議かつ感動的である。

 

テーマ云々というよりも登場人物がみんなそれぞれキャラ立ちしていて良い。脇役も、いい具合に肩の力を抜かせてくれる片桐はいりの無言演技も含め、決して軽いわけではないものの変に肩ひじ張っていない感じが。

風間のときだけ明らかに(他人物のリアクションも含め)演出が異様で、特に序盤のねめつけるようなカメラワークといい、ホフマンの推薦状の言葉も含めて何か波乱をもたらすのかと思ったけれど……特にそんなことはなかったぜ!

いや、彼のプレイスタイルが徹底したエゴイズム、というとやや語弊があるので「音楽」にのみ捧げている感じというのが、セリフからもわかる他者を必要としない独創性ならぬ独走性というのが、ある意味での脅威というのはわかる。だからホフマン先生も聴いてこいと促したわけで。

メイン4人はみんな良い。松坂桃李の、登場した瞬間からわかる当て馬感が切なくて良かった。彼の場合、ほかの三人と違って明確に敗因が描かれているというのがまた切ないのである。ほかの天才3人は、エイデンのトラウマを除いて音楽に開かれており、才気と研鑽からくる余裕や純粋さだけが描かれ勝敗を超越したところにいるのに対し、松坂桃李は「生活」に拘泥するあまり音楽を狭めてしまった、という敗因が丁寧に描かれているのである。まあ、天才たちは生活ではなく世界そのものを眼差しているので当然なのだけれど。だからこそエイデンの世界に祝福されているという言葉に感化され、テニプリ的に言えば天衣無縫の心理を思い出すのである。それにしても負けた後にまであんな隔絶さを描かなくてもいいのに。

あと松岡茉優ね。この人やっぱすごいっす。表情一発でバックグラウンド分かってしまうもの。だから下手な説明なんかもいらない。

そうそう、役者と言えばジェニファ・チャン役の福島リラ!この人を熱心におっかけてるわけじゃないんだけれど、「ウルバリンSAMURAI」のときは「いや、えぇ…?」と思ったのですが、今回はめちゃくちゃ魅力的に撮られていてびっくりした。「ウルヴァリン~」も10年前の映画なので、今と比べるとアジア人の撮り方・メイクの仕方があんまりにもあんまりだというのもあるのかもしれないけれど、あれの福島リラのブスっぷりときたら本当にひどかった。翻って、本作の福島リラはすごい良かった。「X-men」つながりでいえば「デッドプール」に忽那汐里が割と派手目な衣装だったりしたのだけれど、彼女はアニメ的な顔立ちをしているので特に違和感なく観れたのだけれど。

というわけで役者だけ観ていてもかなりおいしい映画。

 

トレマーズ3」

アスって…2までは割と真面目にやってた気がするけれどそろそろふざけだしてきてるな!いやまあ、お約束として面白くはあるけど。

 

「きっと、うまくいく」

すまん、正直この映画そこまで好きではない。その主張自体はまっとうだと思うのだけれど、いかんせんそのカウンターの表現が過剰に思えるし、ロジックとして「そうか?」となる部分が多い。腕時計のくだりなどは、値段云々の問題とは別にプレゼントしたものをなくされたら嫌でしょう。もちろん、ここは明らかに悪意的に描いているのでそういう疑問をさしはさむ余地を与えないような造りにはなってはいるのですけど。

あと広島と長崎の名前をそんなくだらない表現に使うのか、という無思慮さ。「エターナルズ」でさえある種の文脈を踏まえていたとはいえ私は「う~ん?」となった口なので、あれはナンセンス。

でもラスト近辺のあのロケーションはヤバイですね。あれが観れただけでも結構満たされてしまった。

 

「アイアムサム」

うん、いやまあ、この手の映画の必要性は理解しているし、役者の演技に涙腺緩んだところは何か所もあるのだけれど、映画としてはどうなのだろう?

表現主義的ということなのだろうけど、施設のシーンの青さはいくらなんでもやりすぎでは。ほんのりドキュメンタリータッチというか、所々でホームビデオなカメラワークがあるのだけれど、変に使うよりはそれで全編通すか手振れだけでいった方が良かった気もする。

とはいえ、こういったジャンルの映画によって観賞者に逆照射される視線、自分の中に潜む差別意識というものを浮き彫りにするという意味ではここまでぎとぎとしなきゃならなかったというのは、なんとなくわからなくもない。

 

「ボルサリーノ」

導入があんなクールなアラン・ドロンだもんで、てっきり硬派にかっこいい映画かと思ったらコメディじゃねーか!少なくとも序盤は。

音楽のぶつ切りとか河原で女を巡って殴り合いからの友情路線とか。中盤から終盤にかけてはヤクザ映画になっていきますけど、割と脇が甘い気もする。

しかしバディもので両者討ち死にも同志撃ちも回避する、というのは中々珍しいかも?

と思ったら死ぬんかい。そこで変にハードボイルド路線に行かなくてもいいのに…。

 

「最初の晩餐」

静謐な空気を徹底していて、話自体はやや湿度がありつつも役者の演技も落ち着いているので観れる映画ではあるのですが、やや語りすぎるきらいがある。しかしああいう場ではむしろ語ることにこそ意義があるというのもまたわかる。

しかし回想チョンボしよった。モノローグで染谷将太なのに、登山には参加してない父と兄の山小屋での回想をやるのはあきまへんような。

 

「時空の旅人」

解像度が低い。この時期の角川映画の大判に当てはまると思うのだけれど。これ多分原作の方が今の人=現在という未来に位置する人からしたら、より解像度を高くして文字をイメージにしやすいのだろうけれど、こうしていざアニメになると映像化の解像度が低い。ていうか単純に古い。未来人とヒロインの関係性も希薄というかほぼ皆無で、CV岩田とのほうが、ほんのりBL風味になりそうな空気があったくらいである。

 

「寒い国から帰ったスパイ」

シックで落ち着いた映画だぁ…さすが元スパイが原作者だけあって「007」みたいな感じにはならない(当たり前)。

 

「未来を花束にして」

コンディション最悪で内容ほとんど覚えてなかったどす。

 

「East meets west」

真田広之の殺陣かっこよすぎ。

 

人間の証明

前にも見たな、というのを観ている最中に思い出したのだが、息子二人が同じ役者だったのかとかその辺のディテール忘れてた。

にしてもこんなに重いめの人情話だったか。

 

戦争と平和

あれ…前に観た記憶があると思ったら別監督のだった。印象的なシーンは似たような印象なのだけれど、なんとなくこっちの方が朗らかであるような気がする。

しかし、こうしてみると「戦争」という言葉のイメージがまったく違うというか、どうしても現代戦をイメージしてしまい、関心自体もそちらに向いているためかなんとなくごちゃごちゃしたイメージがぬぐえない。「アラビア~」とかの画的なスケール感もまたちょっと違うからかしら。

 

「追われる男」

「大いなる西部」を観ていても思ったのだが、この時代においてもすでにマスキュリニティの限界を提示している映画があったのだな、と。もちろん、その裏には「男の美学」めいたものも同時に存在し、というかそれによって裏打ちしなければその限界性を提示することができなかったのだろう。

それにしてもボーグナインにつられてみたけどほとんど出てないやんけ。

 

「パパが遺した物語」

妙な作りをしていないだろうか、この映画。色々と中途半端な割に妙にこだわりが見えるシーンなんかもある。まあ全体的に散漫になっているのは否めず、ケイティと父、ケイティとおば、ルーシーとか彼女とほかの人物との関係が薄い。どう考えてもファザコンであり、ある種の反動としてのワンナイトスタンド連発というのはわかるのだが……とか真面目に語るのも億劫ではある。まずもってパパからママへの感情がわからんし。

の割にはなんつーシーンで長回ししてんのよ、とかあったりするし。あそこでぶつっとジャンプカットぎみに割ることで断絶が表現されていて、そこは結構いいとは思うのだけれど。あと吹き替えだと釘宮のロリ声がすばらしいので吹き替え推奨。釘宮といえばどちらかといえばツンデレや少年声なんかで使われることが多い気がするのですが、このようなまっとうなロリというのは珍しいのではなかろうか。