dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

2022/12

「サラの鍵」

色々と惜しい。テーマ的にももっと深く突っ込めそうな気がしなくもないのだが、ラストの雑な畳みかたといい詰めが甘い。

 

「天助桟敷の人々」

こう書くと失礼なのだが、フランス映画で三時間越えの古典的映画ということもあって正直見始める前はかなりモチベーションが低かった。元来、わたしという人間は意識が低い人間なもんで高尚なものにはあまり手が出ないし手が出せないので。んが、ふたを開けてみると意外と楽しめてしまったことに自分でもちょっと驚いた。

これ、かなり直球な愛の物語なんですね。男どもはかなりアレな連中が多いのだけれど、それも含めてというかそれがむしろ良い。

あとパントマイムってここまですごい身体表現だったのか、ということに気づかされた。

 

役者としての男女、男女としての男女が舞台上で交錯してしまうあの瞬間、すげぇ

 

伯爵ウザー笑笑

 

追憶の蛇よ、後悔の傷よ、赤い炎は忘却の果てに 愚かな夢は全て風の彼方に

 

「クラーケンフィールド ハカイシン」

マイコー!って必死の呼びかけをゴールデンエッグズで予習してたから吹いてしまった。

 

台風クラブ

やっぱり相米信二はすごい監督だなぁ、と改めて思った。

中学生≒15歳の持つ揺らぎ、極端にカットの少ない長回しによってもたらされる緊張感がそのまま彼らの心情とシンクロし、常に一触即発の予感をもたらしつづけている。

今のように何かが極端に分かたれる二極化していない、優等生である三上や美智子もマイルドヤンキーな清水らと、平然と煙草を吸う世界。私自身は非喫煙者だし趣味の都合もあるしもともと運動部だったこともあって喫煙に対しては嫌悪を持っているが、それはそれとして映画の中で煙草をくゆらせるシーンというのはかっこいいものであると感じている。ただこの映画における喫煙というのは、そういった私が感じるようなカッコよさとしての大人の嗜みというのではなく、むしろ色々な意味でそういった大人的なものから距離をとるものとしてあり、同時にその思いを共有する連帯の道具・行為として煙草と喫煙はあるように思える。

今の目線で見ると驚きかもしれないが、記憶が間違ってなければこの映画の劇中で煙草を吸っているのは中学生たちだけで、大人は喫煙のきの字はおろか煙草を持っているシーンすらもない。

煙草にせよ家出にせよ乱痴気にせよ、それらはすべて中学生たちなりの大人たちからの逸脱でり、法外への道である。

まあ、そもそも、当時の中学生にとって煙草を吸うことがどの程度の逸脱だったのかという程度問題もあるにはあるだろう。私が中学生だったときは学区内で最底辺の中学ということもあり喫煙をしている友人も普通にいた(もちろん隠れて吸っていた)が、今の中学生にとって、それはどれほどの逸脱のレベルなのだろうかというのは気にならないでもない。

というのも、あまり安易な世代論や若者批判につなげたいわけではないのだけれど、今のティーンにとって「大人のいない」「台風」の「夜の学校」という、この映画の中学生たちにとって法の外の空間を観たときにどういった感慨を抱くのかというのが、社会的なものなのかもっと根源的な心理的なものなのかというレベルでの語りの余地があるからだ。

上に並べた単語の列を見ると私なんかはすごくわくわくしていたし、今でもそういう気持ちはあるのだけれど、それはそれらの言葉の連なりが非日常をもたらすからだ。

大人の不在を描くことのできるメディアとしての児童向け夕方アニメの存在の有効性も気になる。最近のティーンは、初めて見たアニメがサブスクで配信されていた深夜アニメという話も普通に聞くので。

90年代だと「学校の怪談」などがそうだったし、今も劇場では児童向けのアニメはかなりあるけれど、それはあくまでティーンネイジャー未満の話で、まだ無邪気でいられる年代がゆえに素直に受け入れることができるのに対して、中学生というのは劇中でも言及されるとおり大人を意識しなければならない年ごろであり、第二次性徴を迎える彼らには否応なく身体性が持ち込まれる。

他人の肉体、異なる性(的嗜好)あるいは行為としての性そのもの。それらは不可分で切り離せないものとしてあり、絶対的他者を意識させつつ(清水と美智子、三上と理恵など)つつも、極端にカット割りの少ない撮影、突出した「個性」性を持たない中学生たちの相貌を含めた身体(特に、体育館から出て下着→全裸で踊る遠目からのショットなど)は、むしろ彼らの同一性・同調可能性を強烈に感じさせる。土曜日の学校における諸々はその祭でありハレであり、だからこそ高揚感をもたらしてくれる。

の、だが、一人だけシンクロできない阿呆がいる。それが三上だ。三上は女子からもモテ、どことなく大人びた感じを見せているが、しかしそれは超然性などではない。今でいうならば陰キャと呼ばれる類であるのだけれど、しかし現代のように極端にラインが引かれていないがために清水や山田などとも付き合えるし、連帯を結ぶこともできたはずなのだ。

しかし、何度もその可能性を垣間見せながら、三上は結局のところ仲間とシンクロすることができなかった。彼の最期、犬神家オマージュからもわかるように彼は実は作り手から意識的に虚仮にされている感がある。仲間とシンクロできず、むしろ見下したようですらありセリフの端々から啓蒙してやろうという意識すら覗くその在り方は、彼が決別しようとした大人の在り方そのものだ。そして、そのことに誰よりも自覚的であったからこそ彼は自死を選ばざるをえなかったのだろう。そのきっかけの一つとしての梅宮の「15年もすればお前も俺と同じような大人になる(意訳)」というセリフがあるわけで。確かに彼は勉強ができて頭も良かったかもしれないが、それがゆえに馬鹿になることができず、踊らされるばかりで仲間と「踊る」ことができなかった。

この映画で誰よりも縛られていたのが一目置かれる三上であったというのは皮肉ではあるけれど、一観客としてはまあ明らかに演劇3人組とかの方が楽しそうだし、さもありなんというか。

アオハルではない、苛烈な青春映画の傑作としてこの映画はある。

 

余談だが、是枝監督が以前インタビューだかで相米信二の作劇方法(演者を追い込む形の演出法)について現代ではできないと言いつつ、ああいうやり方だから引き出せるものもあるみたいなことを言っていた気がする。

 

舟を編む

役者を観る映画としては良い。んが、ほかはどうだろう。特別悪くはないが特別良くもないといった感じ。ちょっとした笑えるシーンもあるし過剰なシーンがあるわけでもない。しかしこの時点ですら宮崎あおいにはすでに「害虫」における彼女の有していた超然性はかなり後退していたような気もし、またそもそもそういった分かりやすい美しさみたいなものは邂逅シーンだけでもあるので、これは原作からしてそうなのかどうかわからないけれど、宮崎あおいが逸脱してこない。その割にオダギリ/松田というどちゃくそ美味しくなりそうなBLの味付けもないため、食い足りなさが半端ない。

落ち着いたというべきか平板なというべきか判断に困る映画、という印象。とはいえ役者はみんな手堅いし、それだけでも観れるので退屈はしない。

 

「ブラック・アダム」

こういうのでいいんだよ。しかし、こういうのがいいんだよ、というわけではない。

気楽に見られるという意味でそれはそれでよいのだけれど、それがゆえにもっとブラッシュアップできる余地があったのではないかとも思う。戦闘面での見せ方においては風使いと巨大化する人を含めた4人の連携は割と良かったと思う。というか戦闘シーンの描写はラスト以外は結構凝っている気がする。サイクロンのあれはまあ、「マスク」のブラッシュアップ版みたいで楽しいし(スロー使い過ぎじゃね感はある)、スマッシャーの初手巨大化シーンの背景とのシームレスな巨大化演出は「アントマン」にはないものだし、ドクター・フェイトのドクター・ストレンジ一作目のようなフラクタルというか合わせ鏡的な無際限感に加えてステゴロでも攻める感じはストレンジには無いプラスアルファだし。ただこう、全体的に能力者もそうだし能力表現としてもそうなのだけれどファースト・ジェネレーション以後の「X-men」シリーズっぽくもあるんですよね。話運びのちょっと「ん?」と思う感じもなんかそれっぽいし。

とはいえ連携も含めた戦闘シーンの描写はよかった。のだけれど、それ以外でのパートではJSAメンバー全体のやりとりが希薄というか、ホーク・ドクター組とサイクロン・スマッシャー組で同世代(?)同士のやり取りはあるものの、世代を越境したキャラクターのやりとりがほぼないため(スマッシャーとホークはまあ…カウントできるものもあるけれど)に、ドクターの決死の覚悟のシーンでホーク以外の二人がアップで映されることの欺瞞というか義務感みたいなものがちょっと残念。いっそ同組織内の別部隊みたいにして描き分ければ、ホークとドクターのブロマンスをもっと盛り上げることもできたと思うんだけれど。まあ役者のおかげで(ピアース・ブロスナンの老成した魅力とオルディス・ホッジの好戦的ながらも理性を働かせようとする感じはグッド)でその辺はカバーできているのだけれど、ノアとクインテッサの方の良い意味でも悪い意味でも軽いノリと合っていない気がする。映画全体のノリとしては後者の方が合っていると思うのだけれども、ドクターの死というイベント自体が早計な感じが。

終盤の雑魚ゾンビシーンまわりは背景に人がいない感じとか、最終戦後に親子がまるで舞台脇から出てくるカットとか「おいおい」と思わない部分も大いにあるのだけれど、それでもちゃんと力を入れるべき部分には力を入れているので結構楽しかったですはい。

同時期公開のMCU映画「ワカンダフォーエバー」は、色々な政治的要素も含めブーストがかかっているために単純に比較しづらいのだけれど、頭空っぽにして楽しむ分にはこっちの方が好みではあるとは言える。

 

余談

クインテッサってすごい名前だなぁ…トランスフォーマー好きな親なのかなぁ、とか思ってたけど「QUINTESSA という名は、真実や本質を表す「QUINTESSENCE」から生まれた言葉」というクインテッサホテルの説明を読むにつけ、私の無知と厄介オタクな思考が駄々洩れてしまったことを告白しておきます。

 

「招かれざる客」

この映画、当時としてはかなり進歩的だったのかもしれないが、それでもかなり、何重にもわたってエクスキューズ・予防線…といって悪ければ政治的駆け引きの上で成り立っている映画だな、という気が。

ティリーという黒人女性の家政婦がジョンに対して(白人にとって都合の良い定型としての)「黒人らしくない(意訳)」ということに対して敵意を向けたり、ジョンが医者であるということがもたらす効果は人種差別的な視点を逆説的にあぶり出しているというのはあり得るが、しかしそれによって「立場の違う者が引かれ合う」というロミジュリ的な格差という障壁を越境しやすくしている。もちろん、そうまでしてある種の下駄を履かせなければ現実的ではないという判断(だからこそティリーの役回りが必要なのだろう)が働いたのかもしれないし、それ自体が政治的決断であるわけで。

またジョーイのセリフの数々から覗く、楽天さなのかバカさなのか実直さなのかわからない具合などは、キャラクター性というよりもやはりその裏に政治的判断が働いたような気がしなくもない。全体的に、この映画の登場人物のほとんどがある種のクレバーさを持っているところが、この映画自体が人種差別を巡る政治について誠実であることの証左であることは間違いないだろう。ジョン・プレンティスが「Stupid old man」と言われるところを含め世代を意識させることなどで時代を意図的に先進的なものとして援用することで異人種間の結婚を肯定しようとしていることなどなど。

カメラワークとか結構凝っていて良いんですけど、そういった劇中の人物とは別の作り手の政治的意図を考えてしまう。しかし、この映画自体がある意味で人種をめぐる政治的ゲームの上の恋愛を考える映画であるので、それでいいのかもしれないし、私自身も役者の演技も含め、考えさせるいい映画だとは思う。

欲を言えば結婚という制度や愛の根源的な問い、性別という観点もあればなおよかったのだけれど。

 

「デビルクエスト」

なんだかなぁ。ニコラス・ケイジよ。

 

アバター2 ウェイ・オブ・ウォーター」

疲れたよ。映画観賞史上で一番疲れたかもしれない。面白い、つまらないとか以前に観終わってまず感じるのが「疲れた」。相変わらず自分のコンディションが悪かったのはあるし、映画のせいにするつもりはないにしても、パンドラを見せたいがために物語的には不要なシーンが多く、すごいものを見せられているのは分かるのだけれど冗長さが蓄積していき、終盤のアクションシーンに向けてどんどんと体力が削られていき楽しめないという構図が。その終盤のアクションにしても人質連鎖とかもうね。

とはいえ、やはり映像的なクオリティはすさまじく、ハイフレームレート対応のIMAX3Dで観て良かったと思える出来栄えでした。全部が全部レートをあげているわけではないので、その辺の差異に当初は困惑したしもしましたが。あとは、体験というか体感としてはゲームのムービーを観ているような感覚で、それはまあ単に経験としてハイフレームレートをゲームや家電売り場のテレビで見ていたからというのもあるのでしょうが、その辺はよくわからないのでダグラス・トランブルにゆずろう…と思ったら今年亡くなってるやんけ!ということは今後はアン・リーとキャメロンがこの道を開拓していくのだろうか。まあテック偏重なキャメロンであればその辺はとことんまで追求していくのだろうが、それゆえに物語がおざなりになっていく様も見えてくる。

キャメロンの場外でのムーブ・発言はともかくとして(プロモーションの一環とはいえ、こんな映画作っておいてイルカショーを楽しむというのはさすがにオイオイとはなったが)、キャメロンという映画監督あるいはプロデューサーとしてのキャメロンについては、交友のある押井守が近著で語っているのでその辺を引用するのがかなり分かりやすい。

曰く「前略~フライングキラーに関して言うと本人の評価はともかくらしさが充溢している映画ではある。海を舞台に、ということではなくもっと根源的な、映画をどうやって自分の思い通りに完成させるかという部分。殺人魚~はあり物で何が何でも無理やりとるという自主映画みたいな映画なんだけど、映画が自分の思い通りにならないことにいら立っている。映画の完成度のために戦い続けて、最終的にタイタニックで勝った人間。その先を目指してようやく自分の思い通りの画を細部に至るまで徹底的に作り出すことができたのが集大成のアバター本人が両輪だと語ったことの意味は、映画としての表現上の成功だけじゃなくて、ビジネスとしても成功したいということ。2つの勝利を同時に目指しているんだけどギリギリのところで自分のテーマよりも作品としての完成度を優先させてしまっている。そのせいで監督としてのテーマが前に出てこないし、もっと言うとキャメロンには自分のテーマがない

中略

趣味的な部分から映画を着想しているんだけど、ミリタリー趣味だけではビジネス的には成功に届かないから共感できる要素として少女を出した。この少女が出てこなかったら行ってバトルして引き上げましたっていうだけの話になってしまう。だからニュートを助けることでドラマを創り出しリプリーの母性らしきものを描くのだけど、残念ながらありきたりの物語でしかない

だそうな。ほかにもアバターの感情移入の方法とか色々面白いことを書いている一方で、そのアバターのナヴィのデザインにしてもコロニアニズムとの関係性や優性思想へ一直線であることの批判は前作の時点でされていたことだけれど、それに対するアンサーみたいなものは特にない。まあキリに萌えた時点で私はポリティカリーコレクトネスから欲望に転んでしまっているので何も言えないのですが、キャメロンがプロデューサーとして辣腕を振るった「アリータ」のアニメ・コミック的デザインをさらに違和感なく(まあ異星人だからというのもあるのだろうが)落とし込んでくるあたりもさすが。「アリータ」も個人的にはかなりツボなデザインだったので続編は観たいんだけれど。しかし、キリを演じているのがシガニー・ウィーバーというあたり、キャメロンが彼女に抱くある種の超越性みたいなものというのは、実業家を自称するキャメロンの中に隠れてしまう監督としてのキャメロンのある種の作家性の一部を垣間見たような気もしなくもない。

先に述べたようにキャメロンはテック偏重な人間なので、正直なところ映画作品としてのアバターそれ自体よりも各所で言及されている舞台裏の話の方が面白かったりする。新しいテクノロジーを導入しているかと思えばその限界を超えるために俳優のフィジカルに依存したり(水中撮影のために15か月におよぶレクチャーを受けて数分の息止めを可能にしたとか)、その辺のちぐはぐ感もまた面白い。

個人的には、序盤の侵攻シーンにおけるあのイメージは「ターミネーター」からある、キャメロンの核兵器に対するパラノイアの発露のようにも見えて、それが現在のロシアのウクライナ侵攻によって再起されたようにも思えて絶妙に時代とシンクロしている風にも感じられる。

良くも悪くも、キャメロンは観客を意識している監督であることは言える。だから物語的には平板だったり、感情移入を優先するためにキャラクターから始める(というのは前述の押井の本の中で言及されている)ので、そういう意味での目新しさはない。

しかし、やはり映像的にはすさまじいものがあり、なんだかんだ言いつつも先は気になっているしキリたんマジ萌えではあるし、興行的には成功してほしいところではある。なのでぜひミーハーになって劇場に足を運んでもらいたいものである。そして見るならはやり環境の整った場所が良い。というのも興行的にプラスになるからということもありますが、ハイフレームレート(HFR)は3Dとも相性が良いらしく、「横運動する被写体がLR逆転して見える現象を抑える効果があり、頭痛や目の疲れが軽減できる」からだそうで、3時間を超える映画でもありますので、普通の上映型式で観るよりもむしろハイフレームレート対応の形式で観た方がよいからですね。

言いたいことはありますが、それでも一見の価値はありましょう。テクノロジーとしての映画の現在地として。

 

河童のクゥと夏休み

思うに、「バースデー・ワンダーランド」の失敗(オイ)というのは、恐怖感の欠如というのもあったのではないか、という気がする。まあそれ以前にアニメーションとしてのダイナミクスがあまり感じられなかったというのもあるのだけれど、やっぱりイリヤをキャラデザにしたのは失敗だったんじゃなかろうか…?

色彩に関しては背景や人物の肌の色も含め、それだけで時間経過を表しているあたりなどはさすがで、そういう意味で「バースデー~」のあれは、舞台としてハイ・ファンタジーになってしまったがゆえに、原恵一の資質と合わなかったんじゃないかという気もする。あと人物にリアリティがないというか、結局あれはどういうなんだったかというのが思い出せないのだ。「カラフル」にしても「オトナ帝国」にしても、これにしても、子ども(それは単体としての子、親子関係における子)の視点からみた懊悩というのがあったわけで。そういう意味で「かがみの古城」がどうなるのか、というのは気になる。原作まったく知らんのだけれど。

前述の恐怖感の欠如、というのは、要するに原監督の描き出す「生と死」のギャップが全然感じられなかったからなんだな、と。そういう意味では、細田守の手つきと似た部分はあるのだけれど、「竜と~」がそこから離れて妙な方向に行ってしまったことを考えるに、やっぱりあんまり大衆路線を意識しすぎない方がいいんじゃないかという気がする。

 

グリンチ

普通すぎる割にグリンチのキャラデザがバズしている気がして印象に残らない。

「君もやらないとハグじゃないぞ」とか所々でいい台詞もあるのだけれど。

 

「ポーラーエクスプレス」

全体的にCG技術を見せるためのデモっぽい。女の子のチケットの貴種流離譚とか、物語的な意味はないし。せいぜいフォレスト・ガンプのセルフオマージュという意味合いくらいか。モブの存在感のなさというか希薄さとかやばいのですが。

クリスマス…サンタ=キリスト信仰の補強というアメリカ大衆への目配せをするあたり、ゼメキスの賢しさが伺えるのですが、そういうのは抜きにしてもやはりゼメキスはゼメキスで、童心をくすぐるワクワクした世界観は素晴らしい。ゼメキスもキャメロンと同じ人種だと思っているのですが、キャメロンと違うのはあそこまで突き詰める前にお出ししてくるということか。パフォーマンスキャプチャーの試作品というか黎明の、というか。

しかしCGサンタが出てくると妙にコカコーラのコマーシャル感が出てくるのは何なのか。

 

「独裁者」

通してみるのは初めてのチャップリン映画。やはり時代性を無視した笑いというのは、衝撃映像云々とかああいうのがそうであるように、結局のところはフィジカルなモーションや間である(ルー大柴)のだなと。ボタンやらバッジやらをむしり取っていくテンポとかふっつーに笑ってしまいましたし。そういった、ノンバーバルなものこそが映画にとってのキモであるのかもしれず、意味性ではない面白さなのだろう。

しかし、時代性を超越した笑いとは異なった意味で、最後の演説が現代にも通用してしまうあたりが、それもまた人間の根源的なエラー…いやそもそもエラーではなく逆機能(あるいは機能)として理解しなければならないのだろう。

 

「ビリギャル」

8年前というのが一番ショックだったんですけど。監督は基本的にドラマ畑の人で映画ではこれ以外だと「花束みたいな恋をした」がかなりのヒットをしてはいるけれど、そもそも映画自体は寡作だしぶっちゃけこれ以外は観てない(ドラマだとオレンジデイズは観た記憶が)のだけれど、なぜこれをこの人が映画化したのかよくわからない。雇われだろうか。

わからないといえば、塾の代金がどうのこうのと言って母親がパートをしている描写がある一方で友達とめっちゃ遊んでるんだけど…遊ばなくなる理由も経済的理由でないし。友達が金払ってんだろうか。にしては衣装持ちだしやっぱ金持ってるのかしら?なんかよくわからんですね…そもそも3人養ってる時点でそこそこ金あると思ったのですが、父親は車の整備工って感じだし…TOYOTAのエンジニアとか?

有村架純が異様にカワイイのですが、そういう意味での撮り方は上手い。別に有村架純は特別好きってわけではないんですけど。