初めて見ましたが良い映画ではありませぬか。「シンドラー~」もの、というか。そんなジャンルがあるのかは知りませんが。
シュタージでありながら芸術的感性があるということが、ヴィースラーという人物にとって幸福であったのかどうかということが、実はラストカットに至るまでわからないというのも上手い。アントンとの内線越しの真正面から捉えお互いをカットバックで切り替えながらズームしていく編集の妙もなどなど、極端に派手なシーンなどは全体としては静謐なトーンであり、シュタージによる拘束が即死を意味するわけでもないにもかかわらず、その緊張感の演出も素晴らしい。役者の顔がみんな良い、というのもある。
シュタージ側から描かれるがゆえに、決して彼らがクリシェな敵に陥らずむしろ怜悧であるからこそヴィースラーの裏切りによって乱されていくというのも、大味な娯楽大作とは一線を画す。
良い映画じゃあありませんか。
「21ブリッジ」
チャドウィックの遺作…ではないのか、一応。ルッソ兄弟が製作にはいっているからか、アクションの質は高いし、社会に対する問題意識が見えるのもその辺ではあるのだろうけれど、しかし良くも悪くもバランスが取れているがために……というか、ぶっちゃけチャドウィックの起用は本作に関して言えば些かズレているようにも思える。いや、彼がというよりも彼に対する演技の要請が、というべきか。
彼は、「ブラック・パンサー」からもわかるように、その佇まいからして高貴な品格が漂っている。そうであるがゆえに、本作の主人公のようなアンチヒーロー的な側面を持つキャラクターを演じさせるにはもっと粗野な印象を持たせねばならないはずなので。
そして、本来ならそのキャラクターによってもたらされるダークな雰囲気を欠いているがゆえに、この映画は類似した作品、「ボーダーライン」でも「トレーニングデイ」でもいいけど(そもそもそれらは同じような作品か?)に比べて凡庸になってしまっているのかもしれない。
とはいえ午後ロー枠としては良作と言える。
「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」
この映画、観ていて終始「平面的」な印象を受けた。なぜそのような印象を受けたのか、ある場面まで自分でもよくわからなかったのだけれど、ムーニーの入浴シーンが連続したあとで理解した。
この映画はかなりカット割りが少ない。手法としてはドキュメンタリーではないけれどドキュメンタリータッチではあって、カットを割らないことから来る画面というフレーム内の情報の多角性の少なさや、被写界深度が全体的に深いからかもしれない。
というのも、この映画の舞台は基本的にモーテルで展開されるので、どうしても空間的に狭くならざるを得ないため、背景との距離感が乏しくなり、結果として背景と人物の位相の差が極端に小さくなっていく。それは、とりもなおさず人物と背景が同一化することであり、この映画が描き出そうとするマイノリティ=社会において後景化した=背景に追いやられた人々の存在の寄る辺なさと一致する。
冒頭と最後にかけられるセレブレーション以外は音楽を排しているのも、そもそものその選曲も、エンドロールにすら音楽がつかないその静けさも、打ち切りマンガ同然のラストも、そのやけくそじみた収束のさせ方も、カタルシスに足を引っかけるような造りになっている。
平面的であるということは、それは一面的な側面から世界を切り取っているからに他ならない。そして、この映画は映像的伏線によって別の側面から世界をつまびらかにする作用を働かせ、それによって平面化した世界の様相=この映画における背景化した人間たちの在り様をあばく。
それが如実に出ているのが、先述したムーニーの入浴シーンだ。彼女の入浴シーンは、都合3回、浴槽の中で人形を洗っている姿を真横から捉えるのだけれど、彼女が入浴しているとき、いつも音楽が大音量で鳴っている。そして三回目の入浴シーンの直前で、彼女の母であるヘイリーが「お風呂に入りなさい」と言うのだけれど、それまでの積み重ねもあって、そのあとで、そのモーテルの部屋でこれから何が行われるのかを予感させる。そして、真横からムーニーの入浴を捉えていたカメラは、ヘイリーの売春相手が浴室に入ってくる場面になってアングル・カットが変わりムーニーを真正面から捉える。これによって一面的・平面的に捉えられていた世界の様相が、ムーニーがお人形と楽しくお風呂に入っているという和やかなシーンの裏側が明らかになる。
花火のシーンやディズニーランドという「楽園」が彼女たちのクラスモーテルの近くにあること。あえてその位相を映像的に均質化することで見えてくるズレ。カラフルな色味に囲まれながら、その色味が逆説的に描き出す貧しさ・乏しさ。その結実としてのラスト。
おそらく、日本で作るとなるとあのモーテルは色彩の欠如したさびれた団地かぼろいアパートになるのだろう。というか、自分にはあのモーテルが寂れた団地のそれにしか見えなかったのだが、しかしあのモーテルにおいては人のつながりがまだ生きている。翻って日本においてはどうだろうか、という問題。
この映画を観ていて思ったのは、是枝作品にいくらか欠如しているものがあるということで、それは多分「過剰さ」としての「性」であり(やさしさの裏返しではあるのだろうけれど)「他者」としての「他者」なのではないかということだった。
「海よりもまだ深く」には寂寥感はあったが、それは感傷的になれる、ノスタルジックな思い出としての寂寥感であり、本作におけるモーテルのそれが湛える切実さのようなものはなかった。少なくとも私にはそう見えたし、設定としての売春婦が登場する「ベイビー・ブローカー」も、決してヘイリーのようにアグレッシブな感情を発露しない。もちろん、それはアジアとアメリカの文化の違いや監督の作家性の違いということではあるのだけれど、是枝監督のそういった上品さというのは、生々しさを表現できても過剰さにまで結実していないように映る。
なんか是枝監督をディスっているような書きぶりになってしまったが、本作と対置して考えた場合の違いを少し考えてしまったということでしかないので深い意味はないですよ。ただ、良くも悪くも安定してしまっている気がするのと、役者の力を引き出すのがうますぎるがゆえにそちらに寄ってしまっているのではないかというのもある。
話を戻すと、この映画に関しては基本的に肯定的だし上手いと思う。ラストシーンの狙いもわかる。んが、しかしそのラストシーンに至る直前のブルックリン・プリンスの演技から始まる流れがすげー浮いててもやもやする。必要だとはわかっていても退屈な「カメラを止めるな」の前半パートみたいないたたまれなさががが。
「ワレサ 連帯の男」
こういう映画って取り上げる人物の幼少期の話とかするもんだと勝手に思っていたので、別にそんなことはなく、ただ単に活動を追っていくというのは、それはある意味で普遍性を持っているのだな、ということに気づいた。
もちろん、ワレサという男が自称するようにあくまで労働者としての立場を堅持しているからというのもあるのだろうけれど。
「アメイジング・ジャーニー 髪の小屋から」
なにこの…なに…?宗教に勧誘されてるような感じというか、啓発されている感じというか。しかもその対象がサム・ワーシントンという(本人の資質はどうあれ)マチズモ的表象であるというのがなんかこう…なに?
見たことあるよなーと思ったらまったくの初見だった。つか主役ダニエル・ブリュールやんけ!
しかしドイツの作家がこの映画を作った、というのは中々興味深いというか。表面上の話はともかく、この映画が図らずも(いや図ってるのか)描き出しているのは虚構の強固さ。それは概念としての善悪、イデオロギーとは関係なしに、ということをこの映画の個々人の主義主張を超えたところで映画というフィクションの持つ力を劇中で全面展開している。「2001年~」を筆頭としたキューブリックオマージュがそこかしこにあるというのも、その引用元の映像の強靭さによるところが大きく、そこには大なり小なり文脈(SFということ、キューブリックという作家の知名度など)が存在している。
その文脈をメタ的に使い、劇中ではその映像的レトリックにより人を欺き感動させる。
物語のヒューマンドラマ的内容とは裏腹に、実は映画についての映画であるのだなぁ。
「エヴァの告白」
ホアキンいつもこんな役ばっかりやらされてる気がするんですが。ねっとりしてるのに妙に熱量のある、ヘドロみたいな男。それはいいのだけれど、この映画がそのホアキンをどう描きたいのかいまいちわからない。わからないというか、それでいいのかというか。吊り橋効果じゃないですが、女性側の視点が著しく欠如しているように感じる。
「シン・仮面ライダー」
うーん……すごい反応に困る映画でござんした。実のところほかのシン・とは違って観に行くつもりはなく、ブックマークもしていなかったので公開日も知らなかったのですが友人に誘われていくことになったという程度のモチベーションなので、グッズなんかも一つも買っていないし情報もまったく漁っていない。だもんで、そんな素面でレビューを書くのもどうかと思いつつ、しかし思うところがないでもないため、今回は徒手空拳で書こうと思う。
そういえば、今回は庵野秀明にしては珍しく劇半が鷺巣さんではないのですよね。観賞中も「おや?」と思いつつしかしどっかで耳にした覚えのある音楽だな~と思ったら岩崎琢さんでござんしたな。この人もアニメ畑ではかなり有名な方ですし、自分もこの人がBGMを担当したアニメのサントラを買ってよく聴いていたので耳に慣れていたようでございます。
鷺巣さんとはまた電子の使い方もコーラスの使い方も違って、あちらとは違いもっとベタな、というかあまり大仰な感じにならないもののストレートにかっこよくて雰囲気にマッチした音楽を作ってくれるので、音楽周りは全体的に良かった気がする。
しかし一方で「じゃあどこのどの音楽が良かったのよ」と言われると具体的に挙げられないのである。そして、それがこの映画が私にハマらなかった所以なのではないかという気がする。
端的に言って、この映画には「付き合ってられないな」と思ったんですよね。それはゴジラやウルトラマンほどにライダーに思い入れがないから、というのもあるかもしれないのだけれど、しかし思い入れの強さでいえばゴジラがダントツとしてもどちらかといえばウルトラマンよりはライダーの方がよく見ていた気もするし、それとはまた別の見方が必要ではあるかもしれないが、なんにせよこの映画に辟易したことは確かだ。
そもそも論として、この映画は全体的なまとまりを欠いてやしないだろうか。すわカプコンゲーか(主にバイオハザードだが)と思うほど敵陣地への行ったり来たりとか、シーン単位・カット単位では良い部分もあるのにそれが散発的で総体として機能していないというか。最初の三者面談のくだりとかカット割りも相まって目も耳も滑ること滑ること。出だしがそんな感じなもんであとはキャラ立ちしてるキャラのシーン以外はぼんやり観てました。ハチのところはマスクデザインとか含めて好きなんだけど、顛末がちょっとどうなのと。
あとこれは庵野秀明の根底にある人間不信みたいなものが大きく関係していると思うのだけれど、役者に演技をさせてない(演技をつけない?)のか放任しているのか。ともかく役者単体での演技の調子は良いのだけれど、そうやって各々の役者の身体性が発露されている反面、それらを束ねる骨子のようなものがないように見える。観ている間、常に「なんか役者の演技微妙じゃないか…?いやでも演技が悪いわけじゃないしなぁ」と思ったり、役者同士での掛け合いのあるシーンでは「なんか浜辺美波が浮いてるな」と思ったら彼女だけのシーンでは「いややっぱり悪くないな」と思ったりと、ともかくアンサブルがないというか。森山未來なんか体使いはそれだけを取り出せばすごくいいのに(実際、彼が画面を独り占めしてうねうねしている場面の誘因力はすさまじい)、別の役者が入ってくると途端に両者がノイズになってしまう。
今回のシン・に関しては、正直どうかと思う。
公開当時に観に行こうと思っていたものの、うっかり見逃していたのがテレビで深夜やっていたのでようやく観賞。小島秀夫が当時褒めていたような記憶もあり、割と期待していたのだが、はてさて。
一つ言えることは、近いタイミングで見ていた「ポンポさん」とはめちゃくちゃ好対照であるということだ。実写とアニメだし。もちろん共通点も多々あるわけだけれど。
「ポンポさん」というのはワナビの願望充足もののように見えて、その実は業界モノの成り上がり的な要素の方が強い。そもそも主人公は最初から末端とはいえ業界内にいるわけで。その点で、あれだけダイナミックでけばけばしいアニメ的演出とは裏腹にある種のリアリズムが通底したものではあった。
一方で「ブリグズビー~」に関しては、映画作り(というよりはものづくり)の「楽しさ」や「喜び」みたいなものを、ある種のリアリズム・必要な説明を極力排したというか、ある種の詐称によって成立させている映画であると言える。
あの役にマーク・ハミルということからもわかるように、SFギークがスターウォーズを筆頭としたその手のサイファイに救われたんですよ、という思いの丈を映画制作という手法によって表現するという、どっかで見たことあるようなそういう映画。
しかしなんかこう、半分くらいまでは好意的に観ていたのだけれど、説明を排したり舞台装置としてのキャラクターの舞台装置感が役者の身体性(演技を含めた)だけではカバーしきれなくなってきた後半はちょっと辛かった。
それでも「ポンポさん」のような鼻につく感じがなかったのは、この映画が徹底してファンタジーであったからだろう。そもそもの設定からしてまあ色々な倫理観をすっ飛ばして(どうでもいいがWikipediaの関連項目にストックホルム症候群が載っていてその慈悲のなさに吹いてしまったのですが)、またそこはちゃんと説明するべきだろうという部分を省略することでファンタジーの外部としての現実を意識させないようにしているからだ。その点で、彼が最後までベアにこだわっていたのは、最後まで彼があの地下に閉じ込められていたことと通じる。そうではない、というエクスキューズ的に地下を抜け出すシーンなどもあるのだけれど。
それがどれだけ幼稚だと言われようと、好きなものは好きなのだ、という素朴な主張。童心によってのみにしかこの映画の屋台骨は支えられておらず、それを肯定的に取れるかどうかでこの映画の評価はかなり分かれると思う。
社会というものに打ちのめされている自分はこの映画に対してはまあまあ怪しいラインなのですが、ブリグズビー・ベアという番組の作りこまれ具合(チープさなど諸々含め)の愛嬌はあるので、それを「KAWAII」と思えるかどうかだと思う。自分は結構好きで、それのおかげで最後まで走り抜けた気がする。
「キネマの神様」
これ当初は志村けんだったというのが納得できるほど沢田研二がうざすぎる。役者ありきのキャラクターだったためだと思うのだけれど、まあ嫌ですよね。
結局家父長制の温存やんけ~とかまあ色々ある。北川景子だけがいわゆる昭和初期の女優としての演技をしているのに対し、ほかの人物は現代的な演技すぎて違和感バリバリなのだけれど、あれって当時の女優は常日頃からああいう喋り方してたったことなのだろうか。わからん。永野芽衣はニュートラルなのかあまり違和感ないが。
撮影にまでこぎつけた脚本であるからそれをブラッシュアップすれば賞を取れるというのはまあ、上手いなとは思いましたが。でも昔の役を菅田将暉にやらせるなら、沢田研二じゃなくて加藤茶にやらせればよかったのに。加藤茶の若かりし頃って菅田将暉に激似ですし。