dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

2023/5

「夏の庭-The Friends-」

相米信二の映画を観ると、毎度「生と死」みたいなものを意識させられる。これまで観てきたこの人の監督作は、「あ、春」以外はそのどれもが少年少女を主役としていて、そのどれもがリビドーに溢れた(おもらし含め)存在として描かれている。「夏の庭」においては、小学生三人組でしかもサッカー小僧という、なんというかこう、ある種のユニバーサルなノスタルジーを喚起してやまない存在で、ともすれば序盤は「スタンドバイミー」を想起したりもするのだけれど(「死」に興味を持つ、という導入がまさに重なる)、しかしロードムービーとしての趣を強く意識させるあの映画とはまた違うのは、ひたすら発散される小僧どものエネルギーの裏に隠された(いや、厳密には隠れてすらいないのだが)、というか裏打ちされた死の存在感だろう。言ってしまえば、「スタンド~」の方はひと夏の冒険であり、「死(体)を探しに行く」という行為により「死」を少年たちにとって特別なものとして描いている。

しかし、この映画は探しに行くまでもなく「死」はすぐそこにある。毎日通い詰めることのできる距離に、だ。立ち並んだ団地の、適当に据え付けられたブランコから見下ろせる日常空間の中に、決して特別なものではない身近な存在として「死」はあり、それはこの映画の物語のきっかけとなる「山下少年の祖母の死」という話から、喜八(三國連太郎)という明確な形を伴って立ち現れる。

相米信二の映画は、その主役の子どもと同じくらい重要なモチーフとして大人の存在がある。それはおそらく、生と死の結節点を生じさせるためなのではないか。特に、本作の喜八という、明らかに生い先の短い(というか、それを噂で聞きつけた三人が「ジジいが死ぬのを見にくべ」と行動を起こすわけで)、死の予感を纏う老人だ。死を誘引する存在としての大人は、本作では登場の時点で死を約束されたようにすら見える。

それは、「少年」という「生」との邂逅それ自体が「老人」の「死」を(物語的必然として)想起させるからに他ならない。

特有の長回しが「その瞬間」を延長…遅延させることであるとするなら、本作では生と死の交わりとしてのノードがそのまま引き延ばされ続けているように見える。だから、喜八とその嫁のエピソードというのは、正直なところどうでもいいとすら思える。せいぜい彼の戦争体験の話くらいであろうか、この映画の本質として必要なのは。なぜなら、すでに書いたように喜八の死は彼の登場時点から予期させられているので、最後に至るまでがほとんど予定調和とまではいかなくても見え透いたものであるからだ。

「少年」たちと「生」を謳歌する「老人」の時間が刻まれていることが重要なのであって、お話自体はほとんどいらない(少なくともこの映画においては)のではなかろうか。

だからこそ、エモーショナルに仕立て上げる必要があると言えるのかもしれないけれど。けれど、死は私たちのすぐ傍に横たわっているものだ。善も悪も良し悪しも、物語すらも後付けされるものでしかない。死は単なる事象であって、その理由などというのは物語を糧にする人間に特有の渇望だ。だから、ああいう形で彼らの当初の願望(じじいが死ぬのを見る)ことがああいう皮肉な形で達成されたからといって、「皮肉なことだ」などと思うような阿呆はいますまい。

葬儀の場でのとってつけたような親族描写も、その様子を窃視的に演出するのも、すべては喜八の「死」という圧倒的な虚無の現実に花を添える程度の強度しかない。柄本明が言う「死は穢れではありません(意訳)」という言葉にあるように、特別なものでもなんでもなく、ただどうしようもなくそれは「在る」だけだ。それを強烈に意識させるための「少年」であり病院であり家族であり夏であるだけなのだろう。

ラストのファンタジックな演出も、観客にとって必要なエモーショナルなものでこそあれ、「死」にとって必要なものではない。ただそうすることで、それを宗教や神秘として語ることでしか理解できない(池田昌子的に言えば「死はない」)ヒトの(愚かしくもある)営みなのでせう。

 

相変らず危ない撮影してるとこもあって無駄にハラハラさせられましたよ、ええ。

 

「劇場版 マジンガー Z / INFINITY」

正直マジンガーについてはガンダムの区別がつかないカーチャンと同レベルの知識水準でしかないのだが、テレビシリーズの世界観を引き継いだものであるらしく、ディティールアップこそしてあるがレトロフューチャーなデザインについてはそういうことなのか、と納得。もちろん、戦後ロボットアニメの系譜からのサブカルチャー文化・社会批評は可能だろうけれど、それにしても正直自分はマジンガーを知らなすぎる。

色々なトレンドを盛り込みつつ、基本的には原作ファン(?)に向けた映画なのだとは思うのだけれど(Wikipediaの注釈の数で古参ファンの厄介さもとい熱量が覗える)、敵のボスってあれ言ってることとかやってることとか軍事国家としてのアメリカじゃねぇっすかね。 

所々に見え隠れする昭和的価値観に「ほげ」っとなったりするのだけれど、一番やばいのはやっぱり大ボスであろうし。いや、リサもだいぶアレな設定というか随分都合が良いとは思うのだが(複座なのに戦闘中はコウジだけだよリアクション映されるの)、あまりにも夢見がちというか無邪気というか。いや、なればこそあれだけ勢いでドライブさせてくれる戦闘シーンが作れるというのもあるのだろうけれど、昭和的(戦後的)価値観の大元の不具合を度外視してアップデートしたものというか。

テーマ曲の現代アレンジはめちゃくちゃ上がるし戦闘シーンは満漢全席で楽しいので、まあそれだけでも十分とはいえるのだけれど。

 

「風花」

人生ロードムービーというか。それにしても浅野忠信がすげぇ松田龍平っぽいんですけど。いや因果律的には逆であるのだけれど、しかし「御法度」でああいうことがあった後であるというのに、どことなく浅野からあの風情を感じるというのは奇妙な感覚である。顔の気怠さといい声の調子といい喋り方の気の抜けた感じといい。いやもちろん、似て非なるものというのは観ていくにつれわかるのだけれど。あとまあ、松田龍平のその浮世離れした感じというのが時には美麗に、時にはコミカルに現出されるのに対してこっちはこぢんまりして卑俗的と言える。だからこそこの映画で意味を持つわけだけれど。

個人的には、大人と子供が同じ地平で描かれる相米映画に比べると「あ、春」などもそうだが、大人がフィーチャーされる相米映画だと生死という抽象的なテーマがテーマとして掲げられる反面、それ自体が日常の場景の中に落とし込まれている気がする。そういう意味である種のパッケージングされた「死」と「生」が、極めて世俗的な人間によって朗じられる。

にしても小泉今日子って結構よござんすな。彼女のショットでいくつかハッとさせれる場面があった。

 

「劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス

サイコパスのシーズン1新編集版がBSで放送されていた流れでこちらも放送されたので観てみた。気づけばこのアニメシリーズも10年選手で、まあシーズン1の放送開始当時から現在に至るまで新作が発表されるとその都度大なり小なり話題にはなっていたのでその存在自体はもちろん認知していたし、興味がなかったわけではないのだけれど、後回しにしている間にいくつも劇場版がやっていたり新しいシーズンが放送されたりで新規で入るにはちと厳しいものになっていた。

現在公開中の新作映画も、正直今のような中途半端な視聴者状態で観に行くには忍びないし、かといってここから有料でほかのシーズンやら劇場版やらを観るほどにモチベーションがあるかというとそうでもなく、有り体に言えば「普通に観る分には結構面白い」部類のアニメではあれ、めちゃくちゃハマるというわけでもなかった。まあハマる人がいるのもわかるが。

ただまあ、これ明らかに「ポスト伊藤計劃」という彼の死後に一瞬だけ流行ったターム(とか書くと嫌味がすぎるが)を自覚的に内面化していて、その世界観からして割と彼の著作のそれをベースにしているというか、かなり直接的な影響を受けているはず。いやもちろん管理社会=ディストピアを描いた社会SFはそれ以前から腐るほどあるし、伊藤の著作自体がそれらを下敷きにしていることは間違いないのだが、しかし数々の歴史的作家や哲学者への言及の中にしれっと混ざる「プロジェクト伊藤」の名前からして、明確に意識していることは論を待たないだろう。しかしである、これは私が伊藤計劃を敬愛しているがゆえでもあるのだが、彼の著作の描いたものに関してはまだ現代にも有効な側面はあると思うのだが、流石に10年前のシーズン1およびこの劇場版1作目についていえば現代に追い付いていないのはもちろん当時の伊藤の思想にもキャッチアップできているとは思えない。

本劇場版の前にテレビシリーズのシーズン1について言えば、その衒学趣味は別に良いし群像劇として各キャラクターが立っているので最後まで完走するのは余裕なのだが、肝心のSF部分に関してラストのオチの弱さは設定的にも、ビジュアルイメージ的にもパンチは強くない。インパクト自体はあるかもだが、しかし「脳」てアンタ。それでいうならバカバカしさに振り切ったマモーの方がまだ面白かったと思う。比較するには土俵違うけんど。同じ「脳」のビジュアルイメージによるアクロバットなら小林さんの「脳喰い」(小説じゃん)の方がいいけど、こっちもこっちで土俵違うか。あくまで脳みそ繋がり、ということで。

ともかく、テック系のジャーゴンや過去の作家などの引用によって騙されがちだが、シビュラシステムの論拠の弱さというのはそのビジュアルイメージと同様であると言える。

ところでテレビシリーズシーズン1に関しては日本国内の特定の都市部が舞台だったが、言うまでもなくそれはテレビシリーズを相対化するためであろう。

とはいえ、こちらに関しても大きなSF的な面白みがあったかというとそこまでではない。まあ相変わらずキャラクターは良いよ。CV石塚運昇のキャラクターなどは、時期的にも「メタルギアライジング」のアームストロングと色々被るところがある(知的ながら肉体言語優先なとことか)のだが、本編の内容そのものはそのMGSシリーズがその時点で提示していたものと比べてもどうだろうか、というところがある。

そもそも、このサイコパス劇中における日本(だけ)がなぜこのような管理社会になったのか、という理由がよくわからない。議論を極めて単純化することになるが、管理社会・監視社会(もちろん両者は単純なイコールで結べないが)に至る分かりやすい一つの指標として、たとえば監視カメラの数でいえば日本は500万台でイギリスと同数だが、国土面積を度外視しても同じく民主主義国家であるアメリカはその10倍、中国に至っては40倍の数が設置されている。

とある(管理)社会の形がそのようになるには、それだけの歴史的・思想的背景が要請される。サイコパスの舞台となる西暦2110年代に至るまでの背景の設定は存在しているのだが、ぶっちゃけ無理がある気がする。というのはまあ、なんというか設定それ自体が悪いわけではなく、今現在、現実の日本があまりにもしょぼすぎるが故(マイナンバーカードの管理すらまともにできない政府がシビュラシステムなんて運用できるわけねーだろ)であり、SF的設定の強度に現実を直視しなければならない一日本国民としてはそのファンタジーを信じきれないのである。本当に申し訳ない。

「物語は現実より強い」。伊藤計劃はかつてそう言ったが、その強さというやつは今や陰謀論という側面において全面展開されている。SNSの到来を待たずして、20年近く前にはすでに「書き込む」という行為に伴う思考の排除を揶揄していたが、確かに。

システム運用の中枢が日本の厚生省というのはまあいいとしても、属国根性丸出しの現代日本の現実から逆算するならば、その上にはやはりアメリカの影がちらつかざるをえないのだが、そういう設定をぶち込んでくるのかどうか、少なくともシーズン1と本作からだけではわからない。

 

とまあ、難癖はさておくとしても、本作とシーズン1に関しては民主主義、自由意思なるものに対するnaiveさが弱さと言っていいだろう。というのが、2023年現在の視点からの私見である。

シーズン1のラストの常森とシビュラの対話も、本作のクライマックスからラストに至る常森の弁舌も、ヒーロー映画ならまだしもSFでやるには感情論が過ぎるのである。

たとえば、トランプの当選にせよ日本の政治の体たらくにせよ、それは民主主義が正常に作動した結果であって逆機能などではないなのだし、その帰結に至る民衆(=衆愚)の自由意思は如何とするのか。そこに対する洞察が、主に敵のイデオローグに依拠しているのだが、本作ではその部分も弱く、その代わりに肉体言語や戦闘描写が盛られているので、そういう意味では劇場版的な豪華さはあるのだけれどそのもやもやを忘れさせてくれるほどではない。

とか言いながら、こうやって書いているうちに少し続きが気になってきてしまってはいる。まあ、それくらいは面白い作品ではあると思いますよ。

どことなくビジュアルイメージがベトナム戦争映画で観たような感じだったり、そもそも話の構造が「地獄の黙示録」だったりするので、そういう映画が好きな人も案外ハマりそうではある。

 

 

アドレナリンドライブ

矢口監督らしい、人間のポンコツっぷりをいとおしくも腹立たしくコミカルに戯画化して描いている良作。しかしまあ、この絶妙なバランスは中々ですな。どいつもこいつも、死んでもギリギリ悲しまないけれど死んだら死んだでちょっと残念に思ってしまうダメっぷりというか。警察もヤクザもうだつの上がらない一般人も倫理を徹底しなければならない看護師も、一皮むけば間抜けしかいない。間抜けどものエチュードが基本的な作劇であるために、間の抜けたシーンが多いこと多いこと。

安藤政信の猫背っぷりとかもいいのだが、しかしこれがバトロワと同時代とは思わなんだ。ついでにキッズリターンもそうだけど。

 

長い散歩

いやいやいや…キツいなこれ。機能不全の母性の代替としての父性というのはわかるのだけれど、それを家父長制丸出しで、しかも安田自身の妻も機能不全の母性として彼の瑕疵として描かれている。しかも、本作で描かれるすべてはその懺悔であり「健常な」父性の回復という、用意周到なパターナリズムへのゆるふわな回帰であるとしか言いようがない。

90年代ならまだしも、トレンド的に社会問題()を描いているのも癪に障る…は言い過ぎにしても、浅薄なリベラリストみたいな映画なのがげんなりする。こんなんなら、まだごっこの持つ真っ当なキモさ(を自覚した恋愛)の方が遥かに心に刺さる。

サチを追う一人称的カメラワークも一体誰目線なのかわからない。少女を天使化=非人間化するのも問題だし女性の描き方も雑だしそもそもほぼ出てこない。まあ女性=母性の表象として描かれ、その母性が機能不全で足るものとして描かれない以上はやむなしといったところなのだが。

まだブレイク前夜の安藤さくらがチョイ役で出てるくらいなのと、松田翔太の役自体はちょっとあれだけれど、しかし松田龍平ではなく翔太でなければあの悟った()当時のおぼこい現代っぽさ…俗っぽさは出なかっただろうし、そこは良かったかもしれない。随分局所的な褒め方になるけれど。

 

「クロール -凶暴領域-」

午後ローのアタリ枠。90分を切るため午後ローの本編放送時間枠を満たさないためノーカットどころかCM明けにはCM直前シーンで尺を稼ぐというランニングタイム。

これほど素晴らしいことがあろうか。「あれ絶対破傷風なるだろ」「レプトスピラ症まったなし」というツッコミなんかどこ吹く風。ワニの口越しに恐怖を煽るカットやマジで痛そうなデスロールに死ぬためだけに登場する人間たちに反し、「犬だけは絶対に死なせない」という聖域精神も潔し。

こういうのでいいんだよ、映画。

 

「ロッキー(シリーズ)とクリード2作目」

シリーズ通して観るのは初めてだったので、松竹がやってくれたので改めて観なおしてみる。にしても2については「真面目か!」というロッキーの性根と、クリード側を描くことで相対化しているのが面白いのだけれど、しかしどちらの株も下がらないのは面白いバランス。

で、3でロッキーの増長が描かれるのだが、この流れってライミスパイダーやんけ、という気が。いや翻ってね。その増長の原因が本人そのものというよりも外的要因(ミッキーだったりヴェノムだったり)というのも似ている。まあ正確には増長とはまたちょっと違うのだけれど。

ラストシーンも含めクリードのナイスガイっぷりも良い。しかし前作からずっとそうだけれどポーリーをどう扱いたいのかよくわからず、前半では落ちぶれを結構丹念に描いているのにそのあとは宙ぶらりんのまま背景化する。本来なら、ロッキーの増長と対置させて描くこともできそうなものなのだけれど。

4に関しては、ラストに至るまではこれまでの中で一番好きかもしれない。ラジー賞もたくさんとってMV的な編集も批判されたらしいのだが(その気持ちも分かる)、個人的には80年代のこてこてのシンセ音楽は嫌いじゃない。というかむしろ好きだ、TFTMみたいで。実際スコアはかなり売れたみたいだしその辺は納得。

まあ、クリードの扱いなどはあれだけ前振りやったのだからもうちょい死に際は盛ってもいいんじゃなかろうか。そりゃまあ、あくまでロッキーの映画なので、と言われればそれまでなのだが、1から付き合ってきて3のラストであんなアゲアゲにしたのに、とは思う。ドラゴについては、あれはあれで機械的・マシーン的であることと、そこかしこでそれが何かしらの抑圧による封じ込めであることの断片が読み取れるいいキャラクターであっただけに、感情の発露の後に何もなくロッキーに敗北するのが納得いかない。

それがラストにまで尾を引く。お題目としての政治性の越境は、クリードという黒人の・ドラゴというソ連の対内・対外的な異邦人をあのような雑な処理の仕方で描かれた以上は空疎なものでしかありえず、最後の演説がしらけるのも当然なのであった。

現実ではスポーツであろうと政治性を見出さざるを得ないものであっても、映画であればそれを越境できるというのが、それが極めてホモソーシャルなものであってとしても、ある種の相克的力動こそがロッキーシリーズの持つ素晴らしいところだったはずなのに、4では真面目に取り組むつもりのない東西対立の図式を持ち込んでしまったために、あのような軟着陸で済まされてしまったのだろう。基本フォーマットは同じなので、ロッキーに没入できればそこまで悪くないとは思えるが。

劇中のロボットの扱いなどは、ドラコとの対置としての(無邪気ではあれ)テクノロジーの陽気な側面であったと思うのだが、あれも単なるトレンドでしかないのがすごく残念だったりする。ロボ萌え的には。

ロッキー5。これ一番よくわからない。場外乱闘で決着ってアンタ。子どもとの関係性を持ち込んだのも、疑似親子の関係性への嫉妬も、なんかイマイチ扱いきれてない気がする。

ザ・ファイナルについては、なんかこう、還暦のスタローンがこの映画を作ったのに対し還暦のトム・クルーズが「トップガン マーベリック」を作ったことの「ナニコレ」感が凄い。

クリード」シリーズに関しては、極めて現代的であるということは間違いない。間違いないのだが、それとは別に「ロッキー」シリーズに通底するものがあり、それをスピリットと呼んでも良いだろう。ただまあ、これはロッキーにしてもそうだろうけれど、パンデミックウクライナ侵攻を経た今となってはその実存の問題に深くコミットすることが困難である、というのはリアルタイムで「クリード」を観ていない人間からすると考えてしまう。

クリード2。これを評価している人間って、随分と楽天的なんだな、と思う。正直、そんなの当たり前じゃないかというか、この映画を「ドラゴ」として描けないのが「クリード」ひいては「ロッキー」の限界なのではないかと思う。だからといってスピンオフ的に描かれることにも抵抗があるが、ドラゴを描きなおすということのその高邁さ、そして「父性」を仮託することの薄気味悪さ、というか白々しさは、あのタオル投げに象徴されている。あれを肯定的に捉えられる人というのは、DVじみた親子の歪んだ形を意識することがないのだろう。

つまるところ、「ロッキー」「クリード」シリーズが腐心しているのは「父性」の在り方だった。その不在を描くことによる逆説的な父性の称揚もあり、「父親」=「オトコ」であることとどう向き合うかということであり、それは「父親」=「オトコ」であることを肯定した上での懊悩でしかなく、「父」であることを疑うところから出発していない時点で自分からすれば不信感を抱かずにはいられない。村上春樹の方がまだ一歩先んじているではないか。いやどっこいどっこいか、レベル的には。

そして、「クリード2」に至ってはその父性の肯定のために母性どころか母体を用いている。「ロッキー」シリーズではそこを殊更フィーチャーすることはなかったと思うのだが、「クリード2」では時間をかけて丁寧にエモーショナルに描きこんでいる。オイオイオイ~これ母ディ案件だろ~。

無論、スタローンのエモいとしか言いようのない佇まいやその人の好さゆえに極限まで父性(とそれに伴う暴力性)は中和されているものの、それが「ボクシング」という「闘争」の形を取らざるを得ない以上は既存の価値観を壊すものにはなっていない。そこで「逃走」を選べないことがアメリカのマチヅモの温存であり継承し続けていることに他ならない。

そして、かようなロッキーシリーズを多くの映画ファン(年齢層を問わず)が「映画ファンなら肯定して当たり前」であるかのような空気を醸成していることも、自分がロッキーシリーズに抵抗のある理由の一つではある。

「ロッキー」はそのタイトルがそうであるようにロッキー・バルボアという人物のナルシシズムパターナリズムを巡る話である。だから、どれだけロッキーの相手が描かれようともそれ以上に強烈にロッキーが描かれ希釈されてしまう。

クリード3」がどういったものなのかまだ観ていないのでわからないが、この軛を脱するには「ブラック・パンサー」並みのことをするよりほかにないのではなかろうか。