「トランスフォーマー / ONE」を観た。
ファンスクリーン…いわゆる試写会が当たったので世界最速で劇場観賞した一人ということになるわけでございますが、日米同時公開で日本語吹き替え(しかも3D)ということからもタカラトミーがどれだけ力を入れているのか伺い知れる。
今年はトランスフォーマー誕生から40周年のアニバーサリーであり、本作の宣伝以外でも各種イベントやコラボレーションなどで盛り上げている。今回の異様なプロモーションの力の入れ具合というのもその一環ということだろう。
「トランスフォーマー」の実写シリーズ以外でいわゆる(本国も含め)タレント・俳優の吹き替えを押し出すというのも珍しい(劇場用アニメではよくあることだが)ことで、そういう宣伝の仕方の手法というのも賛否はともかくとしてマスに向けて大々的に訴求しているということではあるだろう。そもそも「トランスフォーマー」のコンテンツでいわゆるファンではなくマスに向けられたもの、というのが(ハリウッド製ビッグバジェットとしての)実写映画シリーズくらいだとは思うのだが。
正直なところ「トランスフォーマー」が日本国内でどれだけ人口に膾炙しているのか分からない。自分に限って言えば本コンテンツのファンと呼んで差し支えないと思うが、たとえばマーベルやDCのヒーローのように「スーパーマン」「バットマン」「スパイダーマン」といったキャラクターがそれ自体として一つのコンテンツとして成り立つようなものは別として(MCU以後はその幅もより広がって入るだろうが)、「トランスフォーマー」はともかく、「オプティマスプライム」や「メガトロン」まして「オライオンパックス」などと一般人が耳にしてその図像を思い浮かべることができるのかどうか甚だ疑問である。
実写シリーズであれば「よくわからないけどハリウッドの大作だし観てみるか」という層にリーチするだろうが、CGアニメとなったときに、それが基本的に事前情報なしに1作単体で完結するディズニーピクサーやイルミネーションなどのアニメに対して本作のようなある種「キャラクターありき」なのに「そこまで当のキャラクターが浸透していない(と思われる)」アニメがどのように受容されるのか。そういうどうでもいいことをファンとして考えてしまうのである。
というのも、この「トランスフォーマー/ONE」は実写シリーズに対する個人的な偏愛を除けばあらゆるトランスフォーマーの映像作品の中で突出した傑作であるからで、しかしそういうファンの欲目を度外視した場合に一本の「(アニメーション)映画」としてどう感じられるのかという評価が自分にはほぼほぼ不可能だからだ。
繰り返すが、本作はあらゆるトランスフォーマーの映像作品の中で現時点でトップの作品だと思う。これまでのテレビシリーズ、本作が作られるまではトランスフォーマーの中で唯一の劇場アニメ映画だった「トランスフォーマー THE MOVIE」、実写シリーズも含めておおよそ自分は観てきている(それでもいくつか抜けはあるし言語版を観ていないものもある)が、純粋に「一本の物語形式を持った劇映画(あるいはアニメ)」としてであれば、本作以上の水準のものは「トランスフォーマー」フランチャイズにはないだろう。
当然ながら歴史あるコンテンツという以上、それまでの積み重ねに対するオマージュやリスペクトも本作にはあるわけで(それはふんだんに散りばめられているし、そういったもの以外でのイースターエッグを見つけるのもファンとしては楽しみの一つとなる)、しかし一般客はそういうことはよくわからないだろうと予想される。
このように、自分の中にはトランスフォーマーファンとしての視点と映画をたまに観る人としての視点を切り分けられないため、このレビューにしてもどう書くべきかというのが非常に困難なのである。それが浴びるように観ていた実写版トランスフォーマーシリーズのレビューを書かない理由の一つでもあるし。
とはいえこの「トランスフォーマー/ONE」に関して試写会で観たときの興奮は「ビースト覚醒」を観た時にはなかったものだし、どうにかして称揚しなければならないという自分自身に対する奇妙な使命感みたいなものを感じてしまったのだった。
などと、どうでもいい前置きを書き連ねてきたが、ここからはファンの欲目とそれによるアクロバットでダイナミックな誉褒を全面展開していきたいと思う。そしてそれは、書き終えて読み直した今、映画のレビューなどではなくなってしまったということを予め付記しておくのが良心というものだろう。この映画に関する、あるいはこの映画に留まる文章を読みたいという人がこの文章を目にしたら、単なる怪文章でしかないのだから。
最初に言及しておくと、この映画は予告でも言われているとおり「始まりの物語」である。であるからして、本作で提示される物語上の問題は根本的な解決には至らない。いやもちろん倒すべき敵は倒すのだけれど、その背後に暗躍(というにはハッキリと登場しているし主人公たちにも知られているのだが)する巨悪であるクインテッサは言ってしまえば完全に放置である。
多分、ここは一般観客からすると気になる方もいるだろうが、TFファンからすると(本作での設定がどうかは分からないが)クインテッサを一作でどうこうするにはあまりにトランスフォーマーという種族にとって因縁深いキャラクターなのである。というのはまあ一応「最後の騎士王」でも彼らにとっての創造主という位置づけであることは言及されているので勿体付ける必要もないのだが。
後述する観点から、このクインテッサをユーザー・観客として見立てるとなおさら彼らの打倒というのは容易にはいかないのかもしれない。
だから本作はあくまで「はじまりの物語」であって、めでたしめでたしで終わらないのだ。ヒーロー映画におけるオリジンと構造的には同じだが、本作が少し特殊なのはヒーロー=オプティマスプライムの誕生譚でありながら同時にヴィラン(イーヴィル)=メガトロンの誕生譚でもあるということだ。
そういうものがこれまでに全くなかったというわけではない。マーベルやDCについては実写映画周りのことしか知らないのだけれど、それこそ「ドクターストレンジ」ではサイドキックがヴィランに落ちるというオチだったし(その後の「で、お前結局なんだったんだよ」は置いといて)、あるいは両者の誕生ではないもののヒーローと同じかそれ以上に魅力的でヒーローの存在を食いかねないヴィランもいた(キルモンガーなどはその筆頭だろう)。
しかし、本作のようにヒーローとヴィランが同時に誕生し、それぞれがあくまで同等の存在感をもって並置され、そのヴィランが打倒こそされ、むしろそのあとにこそヴィランとして真に目覚めるというのは本作の特徴的な点であろう。
また、これは一定程度恣意的であることを承知しつつ書くのだが、メガトロンはヴィランというよりもむしろアンチヒーローやダークヒーローとしての性質も強く、それは例えるならばバットマンとスーパーマンの並びに見立てるべきであり、バットマンとジョーカーという見立てではないという感覚が自分の中にはあるため、その点でもやはりこの十数年のヒーロー映画との比較で考えてもオーソドックスな路線からは少し外れているだろう。
ヒーローとヴィランの同時誕生というのは「スターウォーズ エピソード3」におけるルーク・レイアの誕生とダースベイダーの誕生が並置されるという形式と類似だが、あれは実質的な過去編だからこその表現だった。
翻って「トランスフォーマー/ONE」は、TFファンからすればオプティマスプライムという「コンテンツの顔」が誕生する物語という点においてある種の過去を描いたものと言えなくもないが、「ZERO」ではなく「ONE」が示すように本作は過去編ではなく実質的にスタートラインなのである。
それこそが本作の作り手(ハスブロやタカラトミーなどの権利元も含め)が「新世代(に向けた)トランスフォーマーのオリジン=(Y)OUR ORIGINのトランスフォーマー(映画)を作り出す」という志の証左なのではないか。「これまでのファン」=OURと「これからのファン」=YOURを繋ぎ、さらなる10年、20年、40年へと展開するべく。
そしてそれは一定の成功を収めていると言っていいのではないか。
たとえばキャラクターの踏襲と発展性。
TFファンであればあるほど、オプティマスプライムの前身であるオライオンパックスというキャラクターとそのバディであるディーの軽妙さには虚をつかれるのではないだろうか。
オプティマスプライムというキャラクターは、多少の振れ幅はあれど基本的に「総司令官」「リーダー」であり、頼りになる父親的な存在だ。それぞれのシリーズによるけれどオリジナルは血の気が多かったり物騒な発言したり脳筋だったりするしコミックの方では割と懊悩するキャラだったりもするのだけれど、少なくとも本作のオライオンパックス(=オプティマスプライム)はむしろ言葉数が多く何事に対してもはっきりものを言い、(偽りの)秩序や安寧よりも正義や冒険を掲げて憚らない探求心に溢れる若者として描かれる。冒頭からして書庫に忍び込んで記録を盗み見しているという具合である。これはコミックス版のデータ管理員としての役職を踏襲しつつ、むしろそれを越権的に使うシーンにすることで「オプティマスプライム=オライオンパックス」というキャラクターの転倒を起こしている。
ディー=メガトロンにしても暴力性を積極的に用いながらも思慮深く一方で誰も信用していないような内面が描かれがちなこれまでのメガトロン像とは、やはり少しズラされているように見える。
しかも、この手の片方が闇落ちするバディものパターンでは珍しく(?)、行動を先導し常にアクションを求めるオライオンパックスの方こそがヒーローなのだ。むしろ制度や権威を気にしているのはメガトロンの前身であるディーの方だったりする。
ここが面白いところなのだが、本作においてこの両者は本質的な部分は似通っていながらも最終的にお互いの価値観を交換したようなキャラクターへと至るのだ。にもかかわらず、一方はヒーローの誕生として描かれ一方はヴィランへの堕落として描かれる。
前述のとおりオライオンパックスは正義や友のためなら多少のルールの逸脱を辞さなかったのが、オプティマスプライムとなることで秩序と平和を重んじ、そのために無二の親友を追放する(まあ仕方ないけど)のも厭わない決断力を発揮する。
一方のディーはそれまで規則の順守や権威(≒力)を崇めていたが、それが虚飾であることを知り、無法の民の長に上り詰める。まあこの辺細かいこと言うと力を信奉する無法者たち=ディセプティコンたちが一騎打ちに敗れたメガトロンの下につくのは若干気になるのだが。
両者がそれぞれのかつての価値観を(意図の有無にかかわらず)取り込み、それをこそ己の信念のために用いる。それまで並置され内面の異なる(しかし志を同じくする)二人の鏡像関係・対象関係がここにおいて極大化される。
ここにこそ「トランスフォーマー」というコンテンツ・フランチャイズの持つ特筆すべき二面性が現れているといえよう。
それはヒーローとヴィランの同質性と異質性の交換可能性だ。もっと分かりよくいうならば本質は表裏一体であるがゆえにどちらのサイドも常に(は言い過ぎか?)別のサイドに転倒する可能性を持っているということ。
とはいえこの二項対立は別段「トランスフォーマー」だけのものではなくて、それに先立つヒーロー映画・コミック(もっと遡って英雄譚でもニーチェでもいいけど)で言及されるものではある。
しかし、トランスフォーマー(アメコミ版のグロ趣味とかファンパブとかそういうのは抜きにして)がそれらと異にするのは、マーベルやDCといったアメリカン(ヒーロー)コミックの大家がまずもって「物語」が先行してあったのに対し、「トランスフォーマー」は(その起源が日本であるということもあるのか)は「玩具」が先にあり、それを売るためのプロモーションとして「物語」が用いられているということだ。
ここで無暗に資本主義とか市場原理やらを持ち出してそこで売られる「物語」という商品があーだこーだなどと論ずるほど私は頭が良くないので、上記のようにあえて単純化して考える。
つまり、「トランスフォーマー」においては「物語」は後付に過ぎないのだ。言ってしまえば「物語」を偽装……ひいてはそれに擬態(Disguise)することで今の地位を得てきたのだ。
市場で売れるための分かりやすい物語。徹底してマスプロダクツであるその安っぽさ、軽薄さはともすれば嘲笑や揶揄の対象となるだろうし、それ自体はアート側からの舌鋒として確実に機能するだろう。
しかし、その安易さ・安っぽさ(後述するリミテッドアニメーションとの繋がり)があるからこその価値というものも確実にある。
本作でもそうだが、メガトロン、というか彼を筆頭にしたディセプティコンはヴィランとして描かれる。「トランスフォーマー」においてはオートボットとディセプティコンという二大勢力、あるいは善と悪の組織として明確に(例外も多くあるが)描き分けられる。これ自体は安易な二項対立図式だと言えるだろう。一方でトランスフォーマーの初代アニメーションおよびその玩具販促における惹句に「君が選ぶ!君のヒーロー!」というのがあり、それは決してオートボットだけを指して言っているわけではない。悪のディセプティコン(デストロン)すらも子どもたちにとってはヒーロー足り得るということであり、それはある意味では単純な勧善懲悪をベースとした(ベースとしているからこその)「物語」としてのテレビアニメーションを飛び越えたことろにある想像力を頼りにしているともいえるのだ。
比較対象としてのアメコミ文化はどうか。前述したようなほかのアメコミ大家はむしろ「トランスフォーマー」のような単純な善悪の二元論に回収されるような単純さを捨て「成熟」することによって今の地位を確立しているはずだ。幾度もの戦争や現実の社会状況を経て単純な正義を語り得ないがゆえに複雑化していると言えるだろうし、繰り返しになるが、そのような複雑さがあるからこそ今般の社会的評価があるのだろう。
もっともこれだけの規模で展開し40年の歴史を持つ「トランスフォーマー」というコンテンツにもそのような社会を反映した要素を取り入れることはままある。アメコミにおいては明らかに北朝鮮をモチーフにした国とディセプティコンが手を組むといったような軍事的要素もあるし、最新作のアーススパークにおいてジェンダー多様性がそれとなく仕込まれていることもある。
しかし、それこそがむしろ私には「軽く」見える。なぜならそれは結局のところ「人間」の問題であって、「トランスフォーマー」それ自体の問題ではないからだ。ほかのアメコミは基本的には現実の・人間のメタファーであり、そこに人間社会の問題を反映させることはある意味では必然だと言える。
しかし、「トランスフォーマー」は必ずしもそうではない。そもそも厳密に言えば機械生命体であるトランスフォーマーに性別はないわけだし…などと書きつつも初代のアニメーションの時点で「ウーマンサイバトロン」とかいうおもっくそ女性型のTFが出てきてるんだけど……要するにその「分かりやすさ」こそが「トランスフォーマー」の軽薄さなのだ。
再三になるがそれは善悪やヒーロー/ヴィランという二項図式を単純化して展開しているように見える(それは玩具のメインターゲットである児童に物語を分かりやすく把握させるためのマーケティングの一環でもあっただろう)し、それ自体はあながち間違いではないだろう。
しかし、単純であるからこそ、その軽さはほかにない価値を持ちうる。空っぽの方が夢詰め込めるのである。
そうして単純化された善悪二項図式は、前述のようなアメコミ群が複雑な社会状況を取り入れることで善悪や正義を揺さぶったのに対し、その単純さによって両者の可変性を容易にし善悪の境界を軽やかに越境するのだ。
それはまさに彼らの「変形」というアイデンティティひいては(ドグマ的な)存在理由に他ならない。トランスフォーマーのファン、特にグッズを集める者の中には「変形しないトランスフォーマー」のプロダクトに価値を見出さない者も一定数いるように、往々にしてその「変形すること」ひいては軽々しく変転することこそがほかにはない
「トランスフォーマー」の魅力なのだ。
ドラスティックに異なる見方をするならばトランスフォーマーという種の持つその移ろいやすさ=可変性(とその限界性)はまさに彼らの変形する身体性に宿っているのであり、本質的に切っても切り離せないものだ。
そしてそれは「乗り物(あるいは生物)からロボットに変形する」という、ごまかしのきかないフィジカルな玩具がこのフランチャイズのオリジンであるからに他ならない。言うまでもなく「メディアミックス」の歴史を紐解けばその前後関係は必ずしも明確に区別できるものではないのだろうけれど、玩具そのもののフィジカリティがほかの玩具の性質や物語に先行して存在感を放っているのは「トランスフォーマー」の特筆すべき点だろう。
と、ここまでメタな視点から書いてきたが、実はその「変形」というモチーフが本編の物語にも大きくかかわってくる。
「トランスフォーマー/ONE」では(劇中でそういう名称で明言されたかは忘れたが)彼らは機械生命体でありサイバトロニアンという種族である。しかしその種族の中には変形できるもの(トランスフォーマーとオライオンは呼んでいた)とそうでないものが明確に峻別され、変形できないものの多くは低い地位にあり、惑星レベルで枯渇したエネルギー源を賄うために危険な炭鉱労働をさせられているのである。
一方で変形できるものは煌びやかなレースイベントに参加して黄色い声援と喝さいを浴びるのだ。このように本作では社会階級のメタファーとして単純に「持つ者」と「持たざる者」として描かれるている。ただ、これまでのトランスフォーマー歴史の中では運搬車や建設車両に変形するTFもおり、そういったものがブルーワーカーとして描かれていることもあるので変形の有無それ自体が即・階層化されるというわけでは必ずしもない。
が、変形できるものは変形できないものに比べて体躯が一回り大きく描かれ、光沢のテクスチャも明らかに違っており(それは置かれた環境の違いなのだろうが)、視覚的に明瞭に差異化されていることからも本作劇中では「変形の有無」が重要な価値判断として働いていることは確かだろう。そして既述のように、それは「トランスフォーマー」ファンダムの中心を占める価値基準の一つである。
本作のメインキャラクターの四人も当初は変形できない者たちであり、それゆえに過酷な炭鉱作業やごみ処理といった3K労働の地位に追いやられている。
ゴミ処理担当のビーがその廃棄されたゴミ屑で作った木偶の中に物語のキーとなる情報を収めたメモリが紛れており、それを頼りにエネルギー問題を解決する糸口となるアルファトライオンという原初の偉い人の一人を探す冒険に出ることになる。そしてそのアルファトライオンと接触することで、彼らは生存の術として「変形」能力を「取り戻す」のである。
ここで重要なのは新たに「獲得」するのではなく「取り戻す」という物語構造になっていることだ。物語が進む中で明らかになるのだが、本来サイバトロニアンはみな「コグ」という変形能力を有したパーツを伴って生まれてくる(この設定自体は初代のアニメーションシリーズの中にもある)。だが、ゼータプライム(ここで初めて言及したが、要するに現在のサイバトロニアンのリーダー的存在)が実はそのコグを奪って意図的に階層を作り出し体のいい労働力として変形できないものを使役していたことが明らかになる。
そしてこともあろうにそのゼータプライムは侵略者であるクインテッサと密約を結び、アルファトライオンを含む原初の偉い人たちを陥れることでサイバトロニアンのリーダーの座を得、見返りとして炭鉱労働者が集めたエネルギーをクインテッサに横流ししていたのだ。
それを知った四人は仲間の元に戻ってこの事実を明らかにして現状を打破しようとするのだが、その手法を巡って最終的に対立しながらオプティマスプライムがとりあえずの勝利を収め新たなリーダーとなるというのが物語の大筋だ。
すでに述べたように、本作の物語・世界観レベルでは徹底してその階層構造が明確にされており、それはキャラクターの大きさや光沢感だけでなく、彼らの生活圏が「地下」であるということも重要だろう。「地上」は危険な場所とされ、よほどのことがない限りはサイバトロニアンは地上に出ることない。
が、四人はアルファトライオンを探すべく地上に出る。そのプロセスとして「廃棄物を積んだ列車に乗って地上を目指す」のだが、そのビジュアルイメージがジェットコースターの上昇時のような軌道なんですな。要するに日本人的な馴染みで言えば「未来少年コナン」や「天空の城ラピュタ」(「君たちは~」でも使ってたか)がそうであるような「上昇」のモチーフが強烈に使われているわけです。
要するに階層構造(「上」「下」の関係)が明示されているわけで、物語としてはその転覆が(とりあえずの)ゴールとなっている。すでに書いたけれどクインテッサに関しては完全に野放しなので、ある意味では革命は成功したがその後の内紛を予期させる終わりであり、しかも本質的な被支配構造は温存されているので問題はより入り組んでしまったわけですが……まあ最初に書いたように「はじまりの物語」なんでね、これ。
また、これがアメリカで作られたということを考えると少し興味深いビジュアルも散見される。というのも、四人が乗る列車がひた走る地上の風景は、明らかに荒野(無機的ではあるが)であり、しかも夕陽に照らされているような色合いなのだ。この組み合わせは否が応でも西部開拓時代のアメリカの風景と重ならないだろうか。
そして、彼ら四人は「変形する能力」というトランスフォーマーにとってのスピリットのようなものを奪われ、その土地と資源を奪われ地下へと追いやられている。
そのような設定とビジュアルイメージを合わせて考えると、クインテッサはコロナイザーとしてのヨーロッパ白人にも見えてくる。クインテッサの乗る巨大な宇宙船は、海の向こうからやってきた侵略者とダブる。
そして、これをさらに拡大解釈することで「トランスフォーマー」という新種に対する創造主・略奪者としての「人間(ユーザー)」というキャラクター論を見出すこともできる。
話を戻すと、奪掠された「コグ(=変形する能力=スピリット)」を取り戻し、その力によって偽りの権威を打倒し、「マトリクス(=土地・資源≒神性)」を解放し自由を奪い返す。それが「トランスフォーマー/ONE」の物語だ。それはとりもなおさず「トランスフォーマー」という身体性を(再)獲得することそのものなのだ。
このことからも「トランスフォーマー」において「変形」できることが枢要なモチーフとして取り入れられていることは言うまでもないだろう。
一方で、物語中盤まで四人は(はおろか大半のサイバトロニアン)変形能力を持たないために、変形シーンそのものがない。本作が「トランスフォーマー」であるにもかかわらず。しかし、だからといってあらゆるレベルにおいて何らかの価値が棄損されているとは誰も思わないだろう。
そして、この事実こそが「トランスフォーマー」フランチャイズにおいて実は重要な価値転倒が起こっていることに他ならないのではないか。
それは劇中で変形できない彼らが活躍し躍動しアニメートされることで、変形できないものにすら魅力を生じさせるという「トランスフォーマー」フランチャイズにおける「変形」の価値観を逆転させ「非変形」(だからこそ)の価値を4人を筆頭にしてまさに「変形できるもの」との対置によってこそ見出させる。物語前半において「変形」という極めて機械的なアクションを担わされるのは、機械的・書割的に描かれる(ダークウイングを筆頭にした)キャラクターだ。
そして、ここがおそらく「トイ・ストーリー4」のジョシュ・クーリーの手腕の最も光るところだろうが、4人が「変形」能力を得た後のアクションはどれもが「変形」それ自体を生かしたアクションばかりなのだ。
たとえば戦闘シーンにしても、敵の攻撃をかわすために変形したり、攻撃から攻撃にスムーズに移るために変形を使用するなど、視覚的な快楽に満ちた描かれ方をされている。彼らがまだ「持たざる者」であった際に描かれた「持つ者」としてのトランスフォーマーたちの変形は、「変形」それ自体をマンネリズム的に見せているに過ぎなかったのとは好対照だ。
本作でやってのけた離れ業とは、つまるところ「変形」と「非変形」の両極端の価値を「キャラクター」を通じて双方丸ごと肯定して見せたところにある。
繰り返すと、この「トランスフォーマー」フランチャイズにおける価値のメインストリームは変形する玩具であることは論を待たないだろう。だが40年の歴史の中ではそれ以外の膨大な数のプロダクトが生み出されてきており、その総数だけでいえばむしろ変形する玩具以外の生産品の方が多いだろう。
本作は「トランスフォーマー」というフランチャイズにおけるそれらの価値観のコンフリクト(ファンダムの内紛?と見立てるのも可)を乗り越える。「変形」というアイデンティティを否定せず、「非変形」という周縁を尊重してみせたのだ。
「トランスフォーマー」/トランスフォーマーによって「トランスフォーマー」の本質を抉り出し、その価値観を問い直しながらも否定はせず、その傍流にある価値観を掬いあげて肯定する。
さらに「トランスフォーマー/ONE」はこれまでのトランスフォーマーの多くのシリーズと異なり、人間が登場しないどころか地球の地の字も出てこないという特徴がある。玩具付属のDVDにおけるショートアニメやゲームなどにおいてはそのようなケースもあるが、いずれも明らかに地球が舞台であったり、最終的には地球=人類への接触を予期させる終わり方をしていおり、ここまで徹底して排されていることはほとんどない。
これは実のところ、かなりアクロバットなことをやっているのではないだろうか(少なくともトランスフォーマーに明るい人にとっては)。
なぜなら、この映画のシーンは全て異星のエイリアンの文化・文明で構築されており、観客(=人類)は人類としてよって立つビジュアルを見出すことができないからだ。
無論、前述のとおり現実世界のメタファーとしての背景は出てくるし、言語・音声までもが独自の体系を作っているとかではないし、端的に言って人型で表情豊かで共感も容易な程度に擬人化されている。そもそも「バグズライフ」やイルミネーションなんかは人間ではない生き物だけで成立させているわけで、レベルとしてはそれらと同じだろうし、だからこそ2時間の劇映画として成立するわけで。そこまで徹底してしまってはもはやアバンギャルドな実験映画になってしまうだろう。
だが、程度はともかくとして実際にやっていることは現にそうだし、究極的には同根である有機体たる動植物などの擬人化ではなくこちらはルーツの全くことなる異星人の擬人化である。
異星や異界(人間の世界ではないと言う意味で)でのみ展開していくコンテンツ自体は、それこそゲームなどでは割とあることではあるが、ゲームのようにプレイヤーが操作することによって視点を一体化するほどのインタラクティビティは映画にはない。
それにもかかわらず本作ではそれを徹底している。
そして、それによってこそ(少なくともこの映画の中においては)「人間」による相対化を経ずに異星人=非人間であるサイバトロニアンの「(心身の)人間性」がより強調され絶対化される。
そもそも、映像内でもそれとわかるようにテクスチャが作られている無機的なフィジカルを持つトランスフォーマーと、所与として理解している肉体という有機的なフィジカルである人間。物質界においては全く異なるそのフィジカリティは、しかしそのどちらも映画という媒体においては二次元に押し込められ並列化される以上、少なくともスクリーンの中においてはその物質性に違いはない(というよりも問題が生じえない)。
これが重要なのは、あくまで「トランスフォーマー / ONE」はアニメーションであるということだ。つまり、ライブアクション(実写)ではないからこそ、アニメーションの本質としての「アニマ」が非人間であるサイバトロニアン=「トランスフォーマー」に与えられるのである(そもそも、実写映画であってもトランスフォーマーを描くとなればその実質は情報量の違いやディテイール・ライティングの違いでしかないのだが、それを突き詰めると実写ですら「CG」に置換可能なのであまりそちらには振らないが)。
そして、これはさらに「メディアミックス」という日本的なメディア越境の仕草もといシステムを通じ、先の話題に立ち返ることになる。
「日本的」「メディアミックス」とは言ったが、別にこれは日本独自のものでもないし、それこそアメリカでは「メディア・コンパージェンス」「コンバージェンス・カルチャーや「トランス・メディアストーリーテリング」として類似した概念がある。
だが、厳密にはこれらの概念と「メディアミックス」は異なる(この辺の用語の経緯はやや入り組んでいるので詳しくは立ち入らないけれど)し、私があえて「日本的な」「メディアミックス」という用語を使ったのは、「トランスフォーマー」というフランチャイズが「日本生まれアメリカ育ち(公式の文言)」であるからだ。
加えて、日本におけるメディアミックス史の起こりには「鉄腕アトム」という極めて「超ロボット」的なキャラクターの存在があり、それは直結とまではいかずとも日本的な想像力の結実としての「ガンダム」に類する搭乗型のロボット群とは異なる可能性である「トランスフォーマー」に連なるし、やはりそこにはアニメーションや(日本的なものとしての)アニメの存在が強くあるからだ。
そもそもアニメーションとは、エスター・レスリー曰く「極めて初期の時点から、アニメーションとは自己再帰的で自己暴露的であり、生命と破壊の回路を確立している。アニメーションは命を与え、その消滅と題しつつ常に克服し、運動というものの本質、連続と新生を強く主張するのだ」とし、アニメーションは、運動の力によって命をもたらしているのだと説明される。
であるならば、変形=運動それ自体を組み込んだ玩具であるトランスフォーマーにはまさに誕生のときからその可能性を内包していたとも言えよう。
そして「アニメ」とメディアミックスの関係性スタインバーグの著した分析をもとに考えるならば、そもそもメディアミックスの定義の一つとして、「文字通りに物語を伝えることのためというだけではない。物語は、メディアミックスにおいては必ずしも必須の要素となるわけではなく、たいていの日本の作品においては、キャラクターの存在の方がずっと重要」であり、「柔軟で融通が利き、物語や見た目 のバリエーションにも寛容」で、しかも「メディア形態間の階層化があまり見られない。理念的には、各要素は他の全ての要素と同じ重みを持」ち、「マンガ、アニメ、映画、フィギュアなどは、どれもが他と同じくらいに重要で、この中のどれもが、より重要な製品を単なる広告にするためにあるものではない」のだ。
加えて「アニメ(いわゆる日本的なリミテッドアニメーションのこと)では、ギクシャクと不連続に動くことこそが重要なのだ。この特徴的な動きこそが、商品の流通と結び付き、アニメを中核としてグッズやメディアの循環を発生させるメディアミックスと呼ばれる仕組み、アニメのシステムを産んだのである」とスタインバーグは指摘する。
先に引用したエスターの文言はフルアニメーションを指してのことだろうが、しかし日本的なリミテッドアニメーション=「アニメ」にもそれはあり、その本質を抽出し「アニメ」に適用する際にスタインバーグはラマールを援用し「動的静止性」と呼んだ。そして「絵の動的静止性やキャラクターの中心性は、玩具やシールやチョコレートなどのメディア商品と、アニメとが接続していった理由であり、メディアミックスを発展させ消費の様式を変化させ、アニメーションが商業的に成功し現在まで続いている理由でも ある」のだという。
「「アニメ」は 根本的に他のメディアや商品などに対して開放され~中略~単純に言えば、「アニメ」は、その始まりからしてメディアミックスのような形態だったのだ。「アニメ」というメディアは、最初からミックスされたものだった。システムとしての「アニメ」も、 アニメーションという媒体以外のメディアとのつながりを積極的に利用していた。」と。
「アニメ」と「メディアミックス」の関係性はそれこそ紙芝居にまでさかのぼることができるが、要するにここで枢要なのは「トランスフォーマー」がその日本的な「メディアミックス」を通じて現在の、そして「トランスフォーマー / ONE」に至ったのだということだ。
非物質的なメディアであるアニメと物質的なメディアである玩具を「メディアミックス」という手法を通じ相補的に、というよりはむしろ(資本主義消費社会の要請的必然としての)相互還元的にお互いの存在感を増幅させ、前述のとおり玩具としての「トランスフォーマー」にもアニメーションを通じた魂が宿るのだ。
アニメーションで以て玩具に対し逆照射させ、アニメ(を筆頭にしたメディウム)とそのオリジンである玩具を繰り返し反復して相互のアニマを増幅させていく。
これは、いわば「トランスフォーマー」に限らない「(キャラクター)玩具」の在り方と言えるだろう。ただ、「トランスフォーマー」はまさに「トランス」の通りそのフィジカリティにメディア越境性――「完全変形」がその暗黙に了解されていることを考えればメディア架橋性と言うべきか――を内在しているのである。
多くの玩具を主体としたフランチャイズが往々にしてその玩具と物語のメディアを同時進行で作り上げていくのに対し、「トランスフォーマー」はそれ自体は物語を持たない玩具がそもそもの「ゼロ地点」に厳然と存在する。
そして、既述のとおりだが「トランスフォーマー / ONE」が描いたように、「トランスフォーマー」はもはや人を必要としない。完全なる異星人、完全なる他者としてそのアニマを人間に依拠せずに持ちえることを、非物質的なメディアである「映画」のレベルではそれを達成した。(もちろん、今後続編が出るとしたら人間が出てくる可能性も十分にあるが、少なくとも本作はこれ一本で完結しており、仮に続編が作られ人間が登場したとしても本作の瑕疵にはならない)
そして非物質的なメディアたるアニメーションでそれが示されたとなれば、メディアミックスを通じて拡散・増幅・「トランス」する「トランスフォーマー」は物質界にもそれが無際限に転写される。その物質的メディアである「玩具」側の可能性の萌芽がRobosenによる「フラッグシップ」シリーズ(あるいはカラクリスタチューも含められるかもだが、若干ズレるかもしれない)というトランスフォーマーのハイエンドプロダクトだ。
これはいわば、ユーザーの物理的なインターフェイス(=手)の介在なしに声かけだけで変形(しないものもあるが)・アクションをこなす、まさしくロボットの玩具だ。
私個人の趣向としては、自分の手で変形させることこそが楽しいので、玩具としてはこの「フラッグシップ」シリーズに関心はないのだが(そもそも高額すぎておいそれと買えない)、ここで重要なのは「玩具」としての「トランスフォーマー」すらも、現時点において人間の介在を失わせつつあるということだ。
そして、この方向性の先にあるのは、あるいはAIとの融合による完全自立・自律した変形玩具のトランスフォーマーだろう。
その時にこそ、「トランスフォーマー」は物質・非物質のメディアの循環的往復によって獲得した疑似的なアニマを真なるものにし、もはや創造主たる人(=クインテッサ)の手によってアニメートされることなく人間に並び立ち、あるいはそれ以上の存在として顕現することになるはずだ。
余談だが、日本で最も成功したロボットコンテンツのフランチャイズである「ガンダム」は本質的に搭乗型であり、その物質界の玩具のメインがガンプラという徹底して人の手が介在することによる快楽を志向していることを考えると、アニマを持つことは難しいだろう(というかそれを目指してはいない)。原寸大のアレにしても、あれ以上の可能性はありえないだろう。もちろん、遊びとしてのガンプラ自体は肯定的に捉えているし、これはあくまで「ロボット(トランスフォーマーは厳密には違うのだが)」コンテンツの比較としてである。
とにもかくにも、この「トランスフォーマー / ONE」は、その先鞭をつけた偉大なる作品として歴史に名を刻むことになるだろう。
以上、ファンによる誇大妄想であった。
などとここまで長々書いたが、悪筆による駄文の羅列としか思えない文章群で、自己満足のためとはいえ読みにくいったらありゃしない。
なので改めて書いておくが、アニメーションとして面白いというのが大前提としてあるのでそこは安心してもらいたい。
前述のとおり「変形」を用いたアクションは戦闘シーンやレースシーンのそれぞれで工夫を凝らした見せ方(例えば路面がリアルタイムに生成されていくイマジネーションは過去にもあったが、ここまでカメラワークを大胆に動かしながらというのはほかにないだろう)になっているし、キャラクターのかけあいも軽妙で笑える部分もたくさんある。ファン的にはキャラの解釈が違う、という人もいるかもしれないが。
ランニングタイムはこの手のアニメとしては若干長いかもしれないが、初代のアニメを彷彿とさせるテンポの良さがあるので決して停滞することはない。
吹替えに関してもモーマンタイでござい。オプティマスプライム=玄田哲章というイメージは今もって強いが、これまでのシリーズの中ではむしろ初代と実写版以外では別の声優が吹き替えることも多かったし。
むしろ、今回のオライオンパックス=オプティマスプライムはこれまでのオプティマスプライム=コンボイと違うキャラ造形になっているので、中村悠一こそが今回のオライオンに適していると感じられるくらいハマっている。吉岡里帆もかなり頑張っていて違和感はなかったですよ。個人的には木村昴のディーはハマっているけどメガトロンとしてはもうちょっと凄みがあってもいいかなぁとは思いました。バンブルビーは木村良平でもう固定でしょう。実写版の方は未だに違和感あるんだけどね。
あと錦鯉の二人も割とアリだとは思います。あの程度なら。
またこれもメタな見方になるのだが、ジョシュ・クーリーが「トイストーリー4」において描いたことを更に深化させ、作り手という神とその意図の下で動くキャラクターにまで敷衍できるのではないかとも思う。
トランスフォーマーそれ自体をトイストーリーのそれに見立てることはできるだろうし、なんならトイストーリーの世界に玩具としてのトランスフォーマーが登場させることも容易いはず。
というか、それをこそ当初は書きたかった内容の一つだったと思うのだが、書いているうちにあらぬ方向へと筆が進んでしまった。
とにもかくにも「トランスフォーマー」というフランチャイズの新たなる一歩として、これまでのファンにもそうでない人にも観て欲しい映画でござんした。
そしてファンダムにとって多幸感あふれる「トランスフォーマー」コンテンツはそうはありますまい。そういう意味でトランスフォーマーファンも必見。
また観るかもしれないんでその時は追記するかも。しないかも。