dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

2024/9

「乱れる」

こうじさん!からのおかえりなさいをまさかカット割らずにやるとは

電車の時間の冗長さが叙情になる。

家制度の告発、それが次男によって、未亡人に対するものというのが面白い

 

 

「 サンダカン八番娼館 望郷」

 

小さな巨人

なんか冒頭15分のまじめ腐った感じでいくのかと思ったら予想に反してもっとコミカルだった。その手つきも含めてフォレスト・ガンプっぽいというか

 

「ザ・イースト」

なんだかなぁ…劇映画でやると途端に陰謀論臭くなるのはなんでなんだろう。

分からなくはないけど。

 

ラストキング・オブ・スコットランド

歴史上の人物を架空の人物の視点を通して描く、というのはまあいいとしてこの人種の配置はナイーブさゆえなのかどうか。

マカヴォイという白人イケメンで若き医師がウガンダという黒人世界に取り入るのだから、どうしたって意識せざるをえない。

それが監督なりのシニカルな目線なのか。まあそうなのだろう。

人肉ジョークなども、黒人が自分がどう見られているかを理解した(という前提)上で描いているのだろうが、どうなのだろか。

物語もオリジナルだというなら白人の欺瞞性には自覚的だろう。イギリスに対するスコットランド人の自意識という部分をつついてもいる。

そういう意味ではやはり0年代的といえよう。

ドアを閉じる時にチラッと銃が映るのもゾッとさせるカメラワークがあってよき。

 

「ベイビーわるきゅーれ」

前評判が高かったし某氏がジョンウィックを引き合いに出して推してたので期待してたんですけど別に言うほど面白くもなかった。てかジョン・ウィックの方がちゃんとしてるじゃん。

良くも悪くも、と書くけれど割と悪い意味でインディーズっぽい感じではあって、おそらくはそこまで予算がないのだろうというのが分かってしまうだけに居たたまれない感じもある。

じゃあそれを編集や物語でカバーや演技や音楽でカバーできているかというと別にそんなこともなく。というか演技は酷いってわけじゃないけど演技に見えないというか、エチュード的といえば聞こえはいいのかもしれないけれど、それがあのマンガ的・アニメ的なやりとりとは絶望的に合わないと思う。そういう意味でこれがアニメだったらもっと良かったのだろうなと思う。

会話にしてもひたすら冗長で、それを「リアル」と受け取らせたいのかもしれないけれど、すでに書いたようにだとしたらあそこまでマンガ的に描いては食い合わせが悪いだろう。

そもそもがそういった退屈な会話で間を埋めようとしているのでアクション以外のシーンがキツい。

こういうことは20分のドラマとかならいいんだろうけど(実際に深夜ドラマになってますしこれ)、長編映画としては退屈すぎる。

思うに、中編か短編映画だったらもっとグッとよくなったんじゃないかと思う。昨今の潮流に乗っかって中・短編として作ればあるいはそのポテンシャルを発揮できるのでは。

アクションシーンが白眉と聞いていたのでどんなもんかと思ったが、確かに終盤のアクションは「おお」っとなったけれど序盤のコンビニでのアクションは「アトミック・ブロンド」が先んじているし色彩設計もしっかりしている。まあそこは予算の都合とか考えれば仕方ないんだろうけど、観客としてはそれをおもんばかる必要とかないですし。

普通にジョン・ウィックの方がいいじゃんすか。

 

ほえる犬は噛まない

ポン・ジュノの長編デビュー作ということで今更観たのだが、「パラサイト」で使われたモチーフがほとんどこの一作目にも用いられていて、ほとんどあの傑作に結実することの予告に近いのでは。坂道、地下、屋上といった(社会的)階層性は、「パラサイト」においては明白な貧富の差として描かれていたが、こちらでは富める者がおらず貧しい者たちのグラデーションが描かれている。そしてその最下層に位置しているのが実は人間ではなく「犬」といったあたりがポン・ジュノらしいというか。

物語のすべてはマンション(というかマンモス団地的な画一さとそのデザインから来る均質化された乏しさ)という空間でのみ展開するのだが、それを強調するように団地(の通路)を横から平面的に撮った望遠のコミカルなショットは「パラサイト」において真上から撮ることで階層性を鳴らしてしまうという極めて技巧的なショットに通じる。

2000年の映画ということは撮影されたのはほぼ90年代末期。それはまだテレビが力を持っていた時期であり、この映画においてもそれは有効なのだろう。

だからペ・ドゥナ演じるヒョンナムがあまりにも退屈でやりがいのない低賃金の事務仕事の中でくすぶっている生活の中で、テレビの向こうで報道される銀行員が強盗を撃退するというニュースに羨望を抱く。

ここシーンにおいて彼女と、友達のチゃンミが例のヌードルを啜る文房具店のあまりにも狭い空間は、そのまま彼女の心理的な(そしてマンションという囲われた空間)の閉塞さに通じる。だからこそ、彼女たちがクレジットが流れていく中で森の中を歩いていくシーンは開放的で(バックにはアニメ「フランダースの犬」のパンクなカバーversionが流れている!)、しかしその木々によって空は閉ざされていて(そもそもアングル的に解放感を出そうとしていないのだが)完全にその閉塞さから抜け出たわけではないことが覗える。鏡の光を反射させるのも、画面を通じた観客への挑発だ。

あと人物の着る衣服の色も分かりやすく意味が生じている。その色素の濃薄も含め、黄色いフード付きのパーカーやレインコートを着込むときはある種の「善意」による(犬への)行動がなされる。

しかし、この「善意」は同時に「独善」でもあり、各々の人物が各々の「独自の善意」に基づいた行動をしているに過ぎない。それはあの小学一年生の少女が犬を抱えるのですらそうだ。

ここに立ち現れるものは、ポン・ジュノは「純粋」なものなどというナイーブなものを信じていないのではないかということだ。

そこにあるのはグラデーションでしかない。だからそれを表現するための衣装の色なのだろう。それでも警備員のおっさんはかなりヤバめなので暗い色の服を着ているが。

社会的なテーマ性も含め、この人の怜悧な視線でコミカルに描かれるとかえってシニカルに見えるのは本作からだったのだなぁとしみじみ思う。

 

「劇場版 あの日みた花の名前を僕達はまだ知らない」

基本的には再編集して新規カットを追加した感じなのだが、その新規カットによって本編が過去・記憶化されているのが割とうまい構成になっている気がする。