dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

2024/10

「スノーピアサー」

冒頭のBGMとかいかにも一昔前のアクション映画ぽくて実際そんな感じのディストピア映画なんだけど、各車両のデザインや列車の長さを利用した銃撃シーンの緊迫感などめちゃんこ上手い。それにブラックユーモアのセンスもちゃんと盛り込まれていて何だかんだ面白い。

 

「疑惑」

何だこれ、面白い。いや正直なところ裁判というか事件の落ちについてはかなり最初の方で予想できていたのだけれど、そういうのはどうでもよくて役者がとにかくもう良い。

桃井かおりという女優については私が映画を多少なりとも見るようになった時にはすでにパロディの対象であったので、こういうガッツリ映画してる映画で観るということがあまりないので、それ自体が結構な面白さがあったというのもある。

といっても、やっぱりパロディされるだけの演技のクセがあるわけで、それはこの映画でも顕在であるわけで。

そのクセのある演技が鬼塚球磨子(ってすげぇ役名でござんすな。本人も劇中で言ってたけど)という人物の本心を覆い隠している。しかもその本心というのがラストカットの止めの絵に至るまで実のところ彼女が亡き夫に対してどう思っていたのかはぐらかしているように見える。

私は未見なのですが和歌山カレー事件を扱ったドキュメンタリー「マミー」にも通じる部分があるっぽい。あの事件よりも前の時代の話なので現代は言うに及ばずカレー事件の当時よりももっとこう、マスコミ(新聞記者)が偏向的な記事を書き立てまくっている様が描かれるんですよねぇ。

いやぁしかし柄本明がこすい。こすいしダサい。ダサさの極みですね、これ。一周回って惨めで、この人の顛末もかなり笑えるところなんですよね。

それと、ちょっと面白い塩梅なのが、序盤では警察(および記者)側の視点から事件を追っていく作劇になっていて、しかもそれが比較的ニュートラルなもんだから球磨子に対して疑念を抱くようになってるんですよね。

そんでもって球磨子もまたああいうキャラクターだもんで、真面目な人ほど球磨子に対して反感を抱くかもしれない。

で、序盤を含めた前半では球磨子というよりも彼女を取り巻く周囲の状況・人間の動きが中心になってるんですよね。この辺もまた面白くて、裁判を引き受けるかどうかという部分にもちょっと尺を割いていて、大口叩いていた弁護士が結局世評を考えて降りる(しかもそれが丹波哲郎で、このちょっとの役だけでもう出てこなくなるという)なんて茶番も描かれて、最後にお鉢が回ってくるのが岩下志麻という。

岩下志麻も最高なんですよね~この映画。この人って表面的には絶対に脆さを見せないんだけど内面では割と懊悩しているという演技がぴか一だと思うのですが、本作でもそんな絶妙なニュアンスが上手い。

まあでも本作で一番あくどいというか酷なのは彼女と言ってもいいかもしれない。勝つためなら中学生でも追い込むし、その中学生を法廷に引きずり出すためにはノースリーブで迎えに来ることも辞さない。いや、ここは単に季節的な服装として違和感はないのだけれど、しかし法廷でのぴしっと決まった服装に対してこの中学生男子を証言台に立たせようと説得するシーンのそれは大人の色香をまったくエロさを感じさせず、極々自然に演出しているように思える。その後の法廷での(飴に対する)鞭の使い方といい、実のところ岩下志麻演じるこの弁護士こそが最も冷静で怜悧な判断力を備えているわけです。

が、そんな彼女にも家族(というか娘)に対する情愛があり、それが佐原律子という人物の人間性の象徴として描かれる。その溺愛っぷりは食事シーンに顕著で、あの年ごろにわざわざ食べさせてあげる必要もなければ音のなる人形を与えたり、ともすればそれが彼女の欠点(=これも人間性)とすら捉えられる。

そんな彼女が娘の幸せを願って最終的に下す決断、というのもまたグッとくるところである。まあ球磨子の裁判とは別の話なんで、本筋に直接的には必要なものではないのだけれど。

球磨子の方に話を戻すと、まあ基本的にこの女も前科者だしそれを差し引いても屑よりの人間ではあるわけです。しかしそれは、ある意味で自由奔放に生きていることの証でもある。無論、本当の意味で自由であるわけではなくて、それは檻の中に都度都度入れられるシーンや凌辱を想起させるような場面もある。六法全書を読みながら飯を食べるシーンも、明らかに「囲われている」ことを強調するようなカットである。この辺は宮尾の「ティファニーで朝食を」の評に通じるものを思わせる。

また、この映画は最後まで球磨子の人間性についての態度を確定させない。証言者が何人も出てくるが、どいつもこいつも絶妙に信用できない人ばかりで、球磨子もそのたびに反論したりするものだから、実際のところはどうなのかわかったものではない。

もちろん最終的な判決は彼女の無罪として終わるわけだけれど、かといって彼女が清廉潔白な真人間などではない。

しかし、である。これはおそらく撮影監督の川又昴の手腕なのだが、ほかの多くの人物にはなく、球磨子にだけはほぼ絶対といっていいほど描かれているものがある。

それは目のハイライトだ。もちろんすべてのシーンで、というわけではないが彼女が法廷にいるとき、その瞳には強烈なハイライトがある。ほかの人物にはないそのハイライトが、この映画におけるある種の誠実さを表しているといえるのではないか。そして実のところ、ほかにも球磨子ほどではないが目にハイライトが描かれる人物がいる。それは彼女の元カレの豊崎だ。

彼は当初、球磨子を陥れるような証言をするのだが、佐原の毅然とした振る舞いを見て態度を一変させ、偽証罪にあたりかねないにもかかわらず自らの証言を覆すのである。この辺の会話の屁理屈めいたやりとりも面白いのだけれど、とにもかくにもこの映画においては目に光を宿した人がそこに誠実さを湛えていることの証左であると、言外に描いているのである。

それでいうと岩下志麻は法廷においてハイライトが描かれないので、実のところ彼女もこの法廷という男性優位のゲームの盤上で戦う上の欺瞞や立ち居振る舞いを纏っている一人でもあるわけなんですよね。

煙草に関しては…これを男根として捉えるべきか当時は単にそういうものだったかと捉えるかによって結構変わってくると思うのでよくわからないが。

本作はウーマンスとして見ることもできるだろうが、女性両者の通じ合わなさは割と即物的で面白い気はする。というのも、女性はとかく相互ケア的な心の通じ合いが描かれることが多いわけだけれど本作においては最後まで結局はそういう和解がない。どころか、最後まで「弁護士」と「被告人(依頼人)」という立場に留まり続けるし、球磨子にいたっては佐原に「時間があれば(元夫)殺してたかも」とすら言ってのける。

そして最後のシーンに至るまで球磨子は無罪でこそあれ無実ではないような描かれ方をする。のだが、やはり私としては前述したハイライトの描写から、彼女には少なからずあの爺に対しての愛情はあったのではないかという気もしなくもない。

結婚が男による女性の軛であるならば、保険金は女による男性の手綱なのだ。その相互支配的なバランシング、束縛しようという意思は愛情の裏返しなのではないかと、思わずにはいられない。

 

わるいやつら

疑惑と続けてみると、表面的な印象からくる善悪の二元論をかき乱すことを主題にしているのだな、というのがわかる。それは話だけではなく撮影やそれこそ女優の顔においてこそ体現している。そういうレベルで。

しかし先生クズすぎますね。

 

「空の青さを知る人よ」

「ふれる。」の公開に合わせてテレビ放映していたのを見る。岡田脚本の劇場映画であり、いわゆる秩父三部作のラストを飾る劇場アニメ。別に熱心なアニメファンでもないし岡田麿理(脚本)作品のファンというわけでもないのだが、比較的テレビで流れる頻度が多いためか何気に彼女の劇場作品は全部見ているという。「アリスとテレス~」なんて試写会で観てるし。まあ「さよならの朝に~」は観てないんだけれど。

超平和バスターズの座組として作られた秩父三部作とは違って「ふれる。」に関しては舞台は東京らしいので、田舎ディス映画(違)のテイストはないのかな。

 

正直なところ、「あの花」も「ここさけ」もいまいちピンと来ていなかったのだけれど、これはかなり良いのではないだろうか。

というのも、まあこれは完全な当て推量なのだが、岡田さんが監督をした劇場アニメ「さよならの朝に~」というのがどうやらハイファンタジーぽくてですね、これを「空の青さを知る人よ」の間に挟んだことで、そこで得た「跳躍力(文字通り)」が前2作にはない爽快感をもたらしてくれたのではないかという気がする。岡田麿里脚本でここまで爽快な、それこそ跳躍のモチーフなんてあっただろうか。

まず一つ本作で特徴的なのは背景がほとんど実写をそのまま使っていると思えるような情報量であることだろう。別にこれ自体が特別に目新しいというわけではないのだけれど、いわゆるアニメーションの絵柄としての人物がギリギリ浮かないくらいには調整しているらしく、その精緻な背景の情報量の統制具合が面白い。

なぜこのような手法を取ったのか。それはおそらく、秩父という「閉じられたセカイ」に圧倒的な情報量を持たせることで、圧倒的な現実として浮かび上がらせるためではなかろうか。

キャラクターを圧倒する(そもそもアニメーションの絵柄というのが実写に対して情報量が少ないので)だけの背景美術の視覚的情報によって、実際にはそこまで田舎ではないが各々のキャラクターにとってはそれだけの檻となる磁場を発する世界/セカイとして言外に表現できている。

言い換えれば、あの背景美術は劇中の人物にとっての「リアル」なのだ。その証拠に、「デザインされた」(アニメ的に抽象化された夢・理想)詩音の家の中なんかは普通の背景美術として簡略化された絵で表されている。

姉妹で同じ相手に好意を寄せるという相変わらずドロドロさせるのがお好きなマリーさんですが、ある種のクローン的方法によってその辺を絶妙に緩和している。これ自体結構なファンタジーというかちょっと反則な感じもするんですが、そのファンタジー的な存在(生霊)である「しんの」だからこそこの映画の白眉に説得力を持たせることができたわけでもある。

とこの映画のクライマックスは情報量過多な背景に囚われたキャラクター(詩音)が、「しんの」というファンタジーの跳躍力=想像力で以てその囲いの中から(一時的にせよ)突き抜けるシーンであり、このためにこの映画があるといってもいい。

この映画を観ていて思ったのは「時をかける少女」であり、そこから「風立ちぬ」に至る「死の世界」としての空だった。

しかしもちろん、本作における空の青さは、確かにある種の解放として見ればこの二作とも通じるが、それよりはむしろ「E.T」のそれに近いのではないかと思う。

吉沢亮のダミっぽい声も中々よござんしたね。

 

 

影の車

それでいいのかオチは…と言う気がしないでもないのだが。

 

殺人の追憶

ポン・ジュノってやっぱり相当なレベルの監督ですわ。

こんだけシリアスな題材なのにブラックユーモアでめちゃくちゃ笑わせてくるかと思いきやゾッとするような(ほとんどジャンプスケアじゃないですか)カットを編集の卓抜さによって見せてくる。

地味に長回しのカットが多い。にもかかわらずカメラは割と動く。近い時期にキュアロンが「トゥモローワールド」でもっと長い長回し擬似ワンカットをやっていたが、何となくそれに通じるのだが、この長回しによってもたらされる緊張感と不意を衝くような編集によってゾッとさせてくる。

かと思いきや列車に人がはねられるシーンはほぼそのまま撮る(まあ暗いからほぼ分からないだけど)し、何この黒沢清

下にパンして死体を映した直後に焼肉の肉が鉄板の上で焼かれるカットとかいう底意地の悪すぎる演出。

あるいは桃の実を膣から取り出すグロさ(そもそも題材が題材とはいえ女性の腐乱死体が出てき過ぎ)。最後の一個はくすんでてマジの肉塊みたいで本当に気色悪い。こういうことを平然とやるのがポン・ジュノ。おもえば「ほえる犬は~」でも犬がひどい目にあってたりするんですよね。

階段モチーフはこの作品でもやってるし。

この人ってかなり作風は一貫しているのだけれど、毎度違う手法でやってくるのでちょっとこう、レベチな作家ではないだろうか。

前述したけれどシリアスなのに笑わせてくるし、そのくせバランスは絶対に崩さないんですよね。

まあ今更ですけど傑作。吹き替えで初めて見たんですけど、石田彰で笑ってしまった。

 

 

「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」

エルかわいいよエル。

 

ジェニファーズ・ボディ

ミーガン出てなかったら観なかったかもしれない。

正直途中まではこのポンコツ激安映画をどうやって観ればいいのか分からなかったのですが、JKシモンズがアップで出てきたときに「あ、これ完全にギャグを狙ってるんだな」と判断できたのでそこからは割り切って観れたので結構楽しめた。

何気にねじれたウーマンス映画としても見れるし、まあ本編は演出とか色々アレなんですけど、エンドクレジットで評価爆上がりした。

 

ペギー・スーの結婚

何だこの乙女ゲーに詳しくない人が何となく作った感じの乙女ゲーっぽい感じは。

時期的にバックトゥザフューチャーと被るんだけれど、あっちに比べるとあまりにもペギーの目的がわからないせいでとりあえずニコケイをキープしているようにしかみえない。

まあBTTFが明確に「〇〇を阻止する」という目標があるのに対し、ペギーの場合は「~しない」という否定形であるから仕方ないのかもしれないのだけれど。

ラストの謎のカルト団体もギャグなんだろうけどそのせいでおじいちゃんの株下がっとるやんけ。フリーメイソン的なあれは必要だったのだろうか。

色々と惜しいところはあって、男性三人もそれぞれに良し悪しがあってそれが書き割り的な部分を脱臭しているのはあるだろうし(成功しているとは思わないが)、フェミニズム的な価値観の萌芽をペギーの自由闊達な振る舞いには見出せそうではある。

しかしそれがあのラストに結実してしまうのだと思うとすべてが徒労に見えてしまう。

いや、ラストショットの鏡から抜け出すカメラワークはすげぇびっくりしたんですけど、コッポラ的にはむしろあれがやりたかっただけなのでは。

 

プリティ・リーグ

レナードの朝の監督でしたか。妙に余韻の残る映画だなぁとは思いましたが、なかなかどうしてグッとくる映画でござんした。

で、レナードよろしく史実に基づいたものなのかと思ったのですが主役二人の姉妹プレイヤーがいたような記録はないらしく、割とフィクショナルな要素が強めらしい。

世界大戦時のアメリカ国内における女性と野球という組み合わせゆえに、中々重いシーンもある。

そもそもが当時の女性の扱われ方を割とそのまま持ってきているのでそういう意味でもドン引きなシーンが多々あるわけですが、それは意図したものであり、それをそのままに描くことによってグロテスクな映画としても観れてしまうという。

たとえば文字の読み書きができないせいで危うく選抜から落ちそうになる人物など、その識字率の差を浮かび上がらせるなどちょっとした場面が妙に印象に残る。

それは挙げれば枚挙にいとまがないほどで、いかに女性が客体化されモノとして扱われていたかというのがありありと分かる。

一方で野球というものを通じて女性の自立した意志も描かれる、というかそれが主題であろう。姉妹が担うのはその両義性であり、ドティがある意味で既存の価値観を温存するのに対して(完璧な姉に相対化され、トレードに出されながらも勝利を手にする)「残る」選択をしたキットが試合後にユニフォームを着ていたのは示唆に富む。

「がんばれベアーズ」的なへっぽこたちが集って、という要素もある。

フェミニズム映画としての輝きを持ちながら、同時にトム・ハンクス演じるトキシックマスキュリニティばりばりのジミーが、やはり彼自身もそのパターナリズムを内面化し纏わされていることを示唆してもいる。

易怒的であり叫んでばかりであるせいでややもするとその価値観に埋没してしまいがちだが、ドティに対して言い放つ「苦しいから楽しいんだ」という言葉はあらゆるものに言えることかもしれない。

あと選手のミスに怒号をおさえてめっちゃ震えながらアドバイスに徹するトム・ハンクスが最高だった。あそこでめっちゃ笑いました。

 

「エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に」

うーむやっぱりリンクレイターは良い。野球で選抜された大学生の話なのにほとんど野球をしないというあたりが凄くいい。

変なやつはいるけれど、決して悪いやつではなく、そういう変な奴をからかったり笑ったりはするけれど排斥するわけではなく、生暖かく見つめてくれるナイスな連中ばかり。

極めてホモソーシャルな世界にいながら(そしてそれ自体は特に苦にしていない)同時に文化的な素養もある主人公が、その二律背反の世界をただただ楽しんでいるだけの映画といっても過言ではないのではないか。ラストが大学生活最初の授業が始まる中で幸せそうに居眠りに入ろうとするところで終わるのですよ、これ?

ありがちな不安や怖れなんて微塵も感じさせない、ただひたすらにこの映画からは多幸感があふれている。

とはいえ、スポーツとアートそれぞれの世界(の住人)が折衝する場面にはわずかに邪推が去来するのだが、しかし本質的に悪い奴らではない野球部の連中は上手く(あるいは下手っぴに)やれてしまう。その象徴がグウェン・パウウェルだろう。

とにもかくにも笑えるディテールが満載で、一つ一つ取り上げるのが難しい、演技の間や軽妙なやり取りだけにこれはもう観て笑うしかない。

スプリットスクリーンのシーンとかキュン死にしますですよ。

いわゆる「しごき」やイニシエーション的な新人いびりはある。野球部だし。けれど、それをホモソーシャルの宿痾として片づけられがちな今だからこそ、その表面的な行動の裏に流れる仲間意識のようなものを感じ取るべきなのだ。

私は今までにホモソーシャルなものを批判してきたけれど、しかし同時にそこには人と人とのフィジカルな繋がりの可能性があることは忘れてはならないのだ。これは自戒もこめて、だけれど。

エンドクレジットまでナイスな連中のナイスな歌唱が聴けるので、ともかく最初から最後まで幸福にあふれている。

 

 

ライフ・アクアティック

そういえばウェス・アンダーソンの映画ってまともに観たことないかも。いや「犬ヶ島」とか結構良かったけど、あれはあれでちょっと異色というか意欲的すぎるというか。