「キング・オブ・コメディ」
よく考えたらちゃんと観たことなかった。
に、してもである。これすごい怖い、怖いのに笑える。正直、切実さのほうが全面的に展開されてしまっている「ジョーカー」よりもよっぽど切実でしょうこれ。
切実というよりも深刻、というべきか。
観衆をプリントしたパネルの前に、しかし本物の観客(つまり映画を観ているこの私)には背を向けているだけでなく、どんどんとズームアウトしていき、彼が隘路に立たされていることを象徴しているカット、ジェリーのオフィスで警備員に追われるカットなどなど、ともかく印象的なカットが多い。
下手したら被害妄想が肥大化したメサイアコンプレックスですらあるのではないかと、妄想での結婚シーンなんかをみると思ってしまう。
傑作。
「ブロブ/宇宙からの不明物体」
これ58年のリメイクだったんですな。実はアメリカが~というネタはありがちだが、ここでソ連の名前が出るあたりベルリンの壁崩壊間際という感じがして中々趣がある。
それはそうと容赦なく人が死ぬし子どもまで死ぬのはびっくりした。生態が生態だけに仕方ないのだがみんな死に方がグロい。そしていわゆる特撮(メイク、造形含め)が凄い。いや、これ今見ても全然違和感ないです。
これは確かに傑作だし、ラストにいたるまでB級スピリットがあって大変よろしい。
どっかで聞いたタイトルだなぁと気になっていたのですが、「トップガン マーヴェリック」の監督であることと中々評判が良かった気がしたので観賞。
いやぁ…お辛い映画でございました。こがどの辺まで事実に基づいているのか分からないかれど2013年の災害を2017年に映画化したっていうのはなんかすごいスピードですな。
この手のディザスター映画にしては(史実ベースというのもあるのだろうが)極端に派手にしようとしたり泣かせに来たりしていないのに、おそらく私が観てきた映画の中でも1,2を争うレベルで滂沱の涙が出ましたですよ。いや誇張抜きで。
プロフェッショナルの仕事かつチームもの映画として前半は軽快に進んでいきながら、その仕事の危険性故に家庭での問題が描かれ、それがリーダーたるエリック(ジョシュ・ブローリン)と新米であるドーナツ(マイルズ・テラー)に対置/同置される。
そこに生じる差異がまた最後の展開のやるせなさに繋がっていく。
編集に関しては時間経過をあんな露骨に文字でカットインしなくてもいいんじゃないかと思ったりはするのだけれど、全体としてはあまり下品な演出はない。それどころか、キスシーンなど以外では感情が表出する場面はむしろ遠目から人物を切り取ったショットと無音(の背景に流れる主張しすぎないアンビエントなBGM)がむしろ寂寥感を増幅させる。その極がドーナツの無線に仲間19人の死亡が伝えられた瞬間だ。
19人が炎に飲み込まれるシーンも、迫力というよりはただ無情に淡々と火に飲まれていくだけで過度なスペクタクルはない。だからこそ怖い。
その後の街の人たちが体育館に集められる前後のシーンはもうキツイなどというものではない。一人だけ生き残ったという情報だけが遺族に知らされ、それぞれの家族が「その一人が夫・息子・彼氏であることを祈る」というあまりにも空恐ろしい場面。
誰一人として悪くない(強いて言えばヘリの操縦者だが、一瞬たりともその人物が映らないことを考えれば監督の意図は自ずとわかる)、にもかかわらずただ何かを恨めしく思ってしまうということ。それがここまでキツイということを、寡聞にして創作物の中でここまでの解像度で喰らったことはなかったと思う。その点でこの映画は自分にとって新しい感情の揺らぎをもたらしてくれたと言ってもいい。
あとやっぱり広大なロケーションの力もあるのかも。正直あれだけの広々とした広大な(荒涼な)風景は日本ではありえないし、おそらくはそこに必要以上の派手さはいらないのだろう。
「ザ・ウォーク ~少女アマル、8000キロの旅~」
これは一応ドキュメンタリー、ということになるのだろうか。しかしドキュメンタリーというにはあまりにも作為性が強い。いうなればドキュメンタリーのガワを被ったメタフィクションかつそれ自体のメイキングとでも言えばいいのだろうか。感覚としては「帰ってきたヒトラー」に近いだろうか。
本作はアマルと言う名のシリア難民である少女の名を付けられた3.5mの少女の人形が、各国を渡り歩く様子を切り取ったドキュメンタリーである。それは確かだ。けれど随所に作為的な演出がなされ、それがこのドキュメンタリーの中にフィクションとしての作為性をもたらしている。これを良しとしないということもあるだろうが、私としては良し悪しよりも好悪の問題でしかないと思うので、その手法自体の是非を問うつもりはない。たとえその演出のすべてが良質なものとは言い難く、俳優でもない難民の少女や少年の拙い演技(表情、セリフ)を補うほどの演出ができていないとしても。とはいえ巧みな部分もある。アマルが格子状のドアの中から外を見るカット(これは極めて作為的で、おそらくは作り手が意図的に彼女にそうさせているのだろう)なんかは、彼女の置かれた状態を示唆する極めて絵的な表現であるだろう。
ただこの映画の真骨頂は、全体として緩いそのフィクショナルな演出だけにはない。言うまでもなくそれは現実を切り取ったドキュメンタリー部分にこそある。
アマルの依り代としての「アマル」が各国を練り歩くことで、そこに浮かび上がる欺瞞性を露わにすることがこの映画の本質であり、そこにまぶされる作り手の「悪意=作意」がそれをブーストすることによってより一層それを強烈にするのだ。
フランスを訪れた時の「第九」とか噴き出してしまいましたよ。あるいはイタリアを訪れた時のアフリカンの少年にまとわりつかれるローマ教皇との対峙場面における、「アマル」の声としてのアマルのボイスオーバーによる「子どもたちが大好きなのね(原語版ではIt seems he loves all the children in the world)」と言う言葉。このカトリックのお偉方がその子どもたちにたいして行っていた性加害に対する批判、というわけではもちろんなく(そう読み取ることも可能な程度には連中は腐っているわけだが)、そこには救済されない子どもであるアマルの声の裏返しとしてある。
あるいはフランスで「アマル」がパスポートをもらった際に、なぜ彼女がパスポートを手にすることができて声を吹き込んでいるアマルがもらうことができないのかと言う告発のナラティブ。
つまるところこれは、アマルという現に難民という立場に置かれどこへ行くこともできない少女が「アマル」というフィクショナルな(それでいて3.5mの人形という、人間以上にどうしようもなく存在する身体としての)存在の眼差しを通じて、この現実を告発する映画なのだ。
その点でこれは、「マン・オン・ザ・ムーン」に似た精神性があると言えるのではなかろうか。
現実の中でフィクションを徹底しようとすること、それによって醜悪な・欺瞞的な現実を告発すること。それがこの映画の持つ強度なのだろう。
一方で、この映画は……というよりも多くのドキュメンタリーがそうなのかもしれないが、アマルという少女を被写体=主人公に選んでしまったことで、この映画が舌鋒鋭く指摘した問題はそのままこの映画それ自体にも逆照射されているだろう。
それは私がかつて「ソニータ」に対して抱いたものと同様のものだ。作為性が強くなればなるほどに、その問題は強烈に立ち現れてくる。
それについて不断に考えなければいけないのだ、本当は。
人形の少女アマルについて
ハンドスプリング人形劇団による、少女アマルの人形の製作について
少女アマルは、思いやりと人権の国際的なシンボルです。彼女は、世界各地で避難生活を送る人々、特に家族と離ればなれになった子どもたちに希望のメッセージを伝えています。アマルの人形をデザイン・製作したのはハンドスプリング人形劇団です。ハンドスプリング人形劇団は、世界的に大ヒットした舞台『戦火の馬』の人形を製作し、世界で最も重要な人形劇団のひとつとしての地位を確立しました。
アマルは行く先々で、現地の人々にとって意味のあるイベントに出迎えられてきました。アマルは、10歳のシリア難民の子どもを反映した3.5メートル)の人形です。人権、特に難民の人権の世界的なシンボルとなっています。
2021年7月以来、アマルは17か国166か所の町や都市を訪れ、路上で200万人、オンラインで数千万人に歓迎されています。アマルがこれまでに訪れた475ものイベントは、何千人ものアーティストや市民社会、信仰のリーダーたちによって、アマルのために独自に創られてきました。アマルの旅は、戦争、暴力、迫害から逃れてきた膨大な数の子どもたち、それぞれが独自の物語を持っていることを知ってもらうための芸術と希望の祭典です。世界に対する彼女の緊急メッセージは、「私たちのことを忘れないで」なのです。
本作の芸術監督であるアミール・ニザール・ズアビ(Amir Nizar Zuabi)は、この映画を製作した目的を以下のように語っています。
「難民危機についての会話を再燃させ、それをめぐる物語を変えることは、これまで以上に大切になってきています。難民には食料や毛布も必要だが、尊厳と発言権も必要なのです。本作の目的は、難民の悲惨な状況だけでなく、難民の可能性を強調することです。アマルの身長が3.5メートルもあるのは、私たちが世界を大きくして彼女を迎え入れたいからです。私たちはアマルに、大きく考え、大きく行動するよう鼓舞してもらいたいのです」
シリア難民が生まれた背景と現状について
2023年2月、大地震の被害にあったシリアの様子
シリア危機は2011年以来続いています。 この危機の政治的解決に向けた進展はほとんどなく、数百万人のシリア難民が近隣諸国に避難し、約680万人の国内避難民が国内に残されています。 近隣諸国(主にトルコ、レバノン、ヨルダン、イラク、エジプト)は、シリア難民を寛大に受け入れてきましたが、自国の経済的課題を乗り越える一方で、シリア難民に安全と保護を提供し続けるために、国際社会の支援を必要としています。そうした状況の中、2024年9月下旬以降、レバノンの情勢が著しく悪化し、レバノンからシリアへと避難する人々も出ています。
「ぼくたちは見た -ガザ・サムニ家の子どもたち-」
2009年ガザ侵攻直後の現場を映したドキュメンタリー。
「ウォーク」が徹底してフィクションの眼差しで現実を告発しようとするのであれば、こちらはむしろ徹底して現実を切り取ることに専心している。
それは当事者の声、そのほとんどが年端も行かない子どものものなのだが、果たしてそれが子どもの口から語られるものとは思えないほど惨く、そのグロテスクさは言葉にならない。現場の血を指さしながら父親が、母親が殺された瞬間を淡々とカメラマンに説明する少年、姉の目玉が飛び出していたと言う3歳のこども、親族の頭が吹っ飛んできた瞬間を、真っ二つになり脳みそが飛び散った父母の血を浴びたことを語る少女。イスラエル兵の真似をして顔を黒く塗り、彼らの絵を描き、そうして忘れないようにすることで彼らに同じことをしてやるのだと口にする少女。
考えることがある。彼女たちがこの強烈な現実に直面していることに対して、果たしてフィクションはそれに対抗することができるのかと。その一つの手法が「ウォーク」だったのだろうが、それはそれでまた別の問題を提起する。
厳然と立ちはだかる現実を前に、フィクションの力を信じることができるのか。それはそのまま「世界の平和」と信じることができるかという強烈な問いを我々に突き付けていることに他ならない。
古居みずえ監督がこの作品にこめた想い
「平和はきっと、つながりの先に」
古居みずえ監督
一つの家に100人が閉じ込められ、そこに3発のミサイルが落とされた。当時の私にとって、あまりにショッキングなニュースでした。生き残った子どもたちの声を伝えたくて、作ったのがこの映画でした。
残念ながら、この映画に出てくれたみんなが、今どこにいるのか、無事でいるのか、わかりません。 通訳として一緒に子どもに話を聞いてくれたラミーさんは、2023年11月に撃たれて亡くなりました。子どもが泣き出すと、一緒になって泣いてしまう、心やさしい人でした。
閉じ込められて、移動しろと言われた先でまた爆弾を落とされる。食料もなくなり、子どもは痩せこけてきている。恐怖やトラウマから、大人もおねしょしてしまうほど、追い詰められているそうです。
パレスチナの人々は、外の世界には、安全に、心穏やかに生活できる人々がいることを知っています。でも自分たちは閉じ込められて、その中で一人また一人と、命を消されてしまう。怖いと思います。孤独だと思います。きっと、自分たちと外の世界をつなぐ扉は、閉ざされてしまったと感じています。
私は、その扉を叩きたい。ずっと見ているよ、なんとかしたいと思っているよ、そう声をかけ続けたいのです。
平和とは、場所や信条の違いを超えて、人と人の心はつながれると、信じることだと思います。それは、人間が心のある人間として、生きていくということでもあると思います。
皆さんの心に今、なにか湧き上がる感情があるなら、どうかその感情を大切にしてください。そして、どんな形でもいいので、外に出してください。世界はすぐには変わらないかもしれない。でも、諦めずにつながりをつくり続けませんか。それが、私たち一人ひとりができる、暴力への抵抗だと思います。
(2024年10月実施のインタビューから)
「ピース・バイ・チョコレート」
事実に基づいた劇映画。再現VTRのようである。
またそれはそれとして家父長制の温存をそのままにして美談としてまとめていることには顔をしかめたくなる。
実在するこのシリア人一家は、30年近くにわたり、中東とヨーロッパ全土にこだわりのお菓子を作り、出荷してきました。2012年末、シリアのダマスカスにあったハドハド家のチョコレート工場は爆撃で破壊され、家族はすべてを置いてレバノンに逃げなければならなくなり、3年間、チャンスも希望もない避民生活を送りました。その後、2015年にカナダに第三国定住することができたのです。
カナダでは、アンティゴニッシュのコミュニティとノバスコシア州の人々の支援により、一家はチョコレート会社を再建し、再び大好きな仕事をできるようになりました。2016年の初めにピース・バイ・チョコレートを設立して以来、チョコレートへの情熱をアンティゴニッシュのコミュニティの新しい友人たち、ノバスコシア州全体、そして今では世界中の人々と分かち合うことができています。
(出典 https://peacebychocolate.ca/pages/our-story)
「学校をつくる、難民の挑戦」
これが一番オーソドックス?なドキュメンタリーでした。NHKでやってそうな。
UNHCRという組織の問題を手弁当で学校を作るという行為によって覆していく。それ自体、ボトムアップとしての市井の人々の活動・営みそれ自体は素晴らしいことだが、だからこそ国連を筆頭とした世界を統治(笑)する組織体の歪さにも目を向けなければならない。いうまでもなく、それは国というしがらみの問題でもある。
チサルア難民学習センター(CRLC)について
① インドネシア初の難民主導型学校
映画に登場したチサルア難民学習センター(CRLC)は、インドネシア初の難民が設立・運営する学校であり、難民主導の教育革命のきっかけとなりました。
2014年、難民の小さなグループが、教育は大切な人権であることから、子どもたちのために学校を始めることを決め、まず女性たちがボランティアで教師になりました。
小さな部屋で、数冊の本と200ドルの寄付金でスタートした学校は、たちまち成功を収めました。1週間以内に40人の子どもたちが学び、さらに40人が待機リストに加わりました。それまで存在しなかったコミュニティが学校を中心に形成されたのです。
彼らが写真や動画をオンラインに投稿すると、外部の人々が本を持ち寄り、教師の訓練やシラバスの作成を手伝い、より大きな建物の家賃を提供してくれるようになりました。3か月も経たないうちに、学校はより大きな場所に移転し、100人以上の子どもたちと15人のボランティア・マネージャーと教師が集まりました。
CRLCはすべてボランティアの難民によって運営され、5歳から65歳までの200人以上の生徒が学んでいます。CRLCのアプローチは、少なくとも他10校の難民主導の学校にも受け継がれ、現在インドネシアでは1800人以上の難民が難民主導の教育センターで教育を受けています。
② チサルア難民学習センター(CRLC)の活動
チサルア難民学習センターでは女性たちがボランティア教師として活躍
CRLCは、18歳未満の子ども約130人に初等・中等教育を、成人80人に基礎的な識字レッスンを提供しています。CRLCはコミュニティの中心であり、難民同士がつながり、情報を共有し、小さな経済的支援を分かち合い、精神的に問題を抱えた難民やリスクのある難民を見分け、スポーツやその他の活動を組織する場所です。
学校は安全な場所で、子どもたちは子ども時代を楽しみ、友情を育み、英語、数学、科学、スポーツ、美術、演劇などの科目を学ぶことができます。大人の難民がすべての授業を担当し、カリキュラムやスタッフの決定、ソーシャルメディア、訪問者の受け入れ、コミュニティとの連絡など、学校の運営全般を管理しています。
また、難民コミュニティ以外の人々にとっても、難民との交流や出会いの場となっています。学校には毎年、インドネシア、オーストラリア、そして世界中から何百人もの訪問者が訪れます。インドネシアやオーストラリアの国会議員、学者、スタディーツアーの大学生、難民支援者、報道機関などです。
来訪者一人一人が、自分たちが何者であり、どこから来たのかを難民に伝える機会となります。CRLCは、UNHCRインドネシア事務所が難民のニーズについて情報を発信したり相談したりする際の連絡窓口を提供しています。
③ チサルア難民学習センター(CRLC)の課題
課題は、地域社会との関係、国の政策への関与、個人の経済的苦境や学校を支援するための資金調達などです。
以前にも地域コミュニティとの関係がうまくいかず、いくつかのNGOがチサルアから事務所を移転したことがあります。難民たちは学校での簡単なイベントや集まりに地元コミュニティを招待し、友好を深めています。村を挙げてのイベントで、地元の村長は「チサルアではインドネシア人と難民が兄弟のように一緒に暮らしている」と語ったことがありました。
インドネシア当局への学校登録はまだ実現していないため、生徒たちは正式な教育単位を取得していません。この学校には、多くのインドネシア当局や国会議員が視察に訪れており、全員がこの学校の目標に前向きです。
コミュニティ内の難民には経済的な支援はなく、多くの難民が借金を強いられています。貧困のためにホームレスになったり、拘留されたりしている生徒や家族もいます。
CRLCを支援するために、オーストラリアのチャリティ団体チサルア・ラーニングが2015年に設立され、家賃と教材費、そして教師とマネージャーのためのわずかな給与を支援するのに十分な額を集めています。
④ チサルア難民学習センター(CRLC)の活動がもたらした成果
チサルア難民学習センター
CRLCはチサルアの難民コミュニティを変えました。センターができる前は、難民たちは孤立し、お互いに信頼し合えず、外部の人間も信頼できず、一日の大半は眠っていました。CRLCは、難民たちに、日々取り組む活動、「難民」を超えたアイデンティティ、そして、誇りと目的意識を与えました。
CRLCは、レジリエンス(困難を乗り越える力)と相互支援、社会的信頼の絆、信頼できる情報、そして支援のネットワークを広げています。子どもたちは順調に発達し、長期間放置されたことによる悪影響から守られています。CRLCの教育は、どこの国の平均的な小学校と比較しても遜色ありません。彼らはオーストラリアの教育プログラムで学び、流暢な英語を話し、深い文化的理解を持ち、移住先の人々との関係を築いています。第三国定住したCRLCの生徒は、年齢に応じた学年に入学し、そのほとんどが第二言語としての英語のサポートを必要としていません。
(出典 https://globalcompactrefugees.org/good-practices/cisarua-refugee-learning-centre)
ムザーファとハディムのその後について
(左から)ジョリオン・ホフ監督、ハディム、ムザーファ
ムザーファは現在、家族とともにオーストラリアのアデレードに第三国定住し、学校を支援する非営利団体で働いています。ハディムはオーストラリアへの人道的ビザを拒否され、アメリカに第三国定住しました。現在はロサンゼルスに住んでいます。映画製作を通して、彼はCEOやオスカー受賞映画監督、有名俳優と会ってきました。アメリカで暮らすLBGTI難民についての映画を製作し、映画学校で学んでいます。 (出典 https://thestagingpost.com.au/blog/2017/11/1/a-study-guide-for-the-staging-post-5arar)
インドネシアでのUNHCRの活動について
UNHCRは、1979年にインドネシア政府がUNHCRを招き、東南アジアの紛争から逃れてきた17万人以上の難民を収容するための難民キャンプをガラン島に設置して以来、インドネシアで活動を続けています。
その一方、インドネシアは、難民の地位に関する1951年条約や1967年議定書の締約国ではなく、難民認定制度もありません。そのため、政府はUNHCRに難民保護の任務を遂行し、国内の難民の解決策を特定する権限を与えています。
この映画が製作された2017年頃、インドネシアには難民保護のための包括的な国内法的枠組みが存在しないため、難民の移動の自由、教育や医療へのアクセス、無国籍を防ぐための措置としての出生証明書へのアクセスなど、難民の基本的権利の享受が制限されていました。
UNHCR等の働きかけを受けて、インドネシア教育・文化・研究・技術省は2019年に通達を出し、2022年以降、難民・庇護申請者が国の教育制度で初等レベルから中等レベルまでの正規・非公式教育を受けられるようになりました。現地の学校に入学するには、有効なUNHCR文書とインドネシア語の能力が必要です。インドネシア語と基本的な能力(読み、書き、数え)をカバーする準備クラスや、追加的な支援(授業料、交通費、学用品)がUNHCRとパートナーによって提供される場合があります。
2023年末現在、UNHCRに登録されている難民は12,295人で、その69%が成人、29%が子ども(18歳未満)です。UNHCRは政府当局と連携しつつ、様々なパートナーとともに、難民や庇護希望者の保護・支援活動を行っています。
「孤立からつながりへ ~ローズマリーの流儀~」
これは難民の中でもさらにマイノリティに置かれる女性についてスポットを当てたドキュメンタリー。
ケアという概念をそのまま女性の特性と直結することは批判もありえるだろうが、やはり男根主義や家父長というものを転覆するのには必要なのではないかと思う。
ローズマリー・カリウキは、パラマタ警察の多文化コミュニティ連絡官です。彼女は家庭内暴力や言葉の壁、経済的困難に直面している移民の支援を専門としています。
1999年、家族からの虐待や部族間の衝突から逃れるために単身ケニアを脱出した彼女は、オーストラリアでの最初の数年間は孤独でした。その経験から、ローズマリーは多くの移民女性にとって孤独が大きな問題であることを認識したのです。一人で外出することに慣れておらず、交通手段もなく、英語もほとんど話せません。そこでローズマリーは、女性たちが家を出て、同じような境遇の女性たちと出会えるような方法を考案しました。
アフリカ女性グループと協力して、彼女はアフリカ女性ディナー・ダンスの開始を支援しました。このイベントには、毎年400人以上の女性が参加します。また、移民や難民の起業を支援するプログラム「アフリカン・ビレッジ・マーケット」を立ち上げ、4年間運営しました。
ローズマリーの温かさ、勇気、そして優しさは、彼女に会うすべての人に勇気を与えてくれます。2021年「Australia's Local Hero」賞を受賞しました。
(出典 https://rosemaryswaythefilm.org/local-hero/)
オーストラリアでのUNHCRの活動について
オーストラリアは難民約6万人、庇護希望者約8万人を受け入れています。そのほとんどが中東やアジア出身です。無国籍者は8,000人と推定されています。
UNHCRキャンベラ事務所は、オーストラリア、ニュージーランド、パプアニューギニア、フィジー、クック諸島、ミクロネシア連邦、キリバス、マーシャル諸島、ナウル、ニウエ、パラオ、サモア、ソロモン諸島、トンガ、ツバル、バヌアツにおける難民の権利促進に努めています。
オーストラリアは、難民の地位に関する1951年条約と1967年議定書の締約国であり、UNHCRは、国内難民法の整備、難民認定能力の向上、入国手続きにおける保護措置の導入においてオーストラリアを支援しています。また、第三国定住や補完的な経路の構築に関してもオーストラリアと協力しています。
オーストラリアは10年以上にわたり、ボートで庇護を求めてやってくる人々のために、パプアニューギニアおよびナウルとの間でオフショア移送協定を結んでいます。UNHCRは、これらの取り決めにおける法的および保護上の懸念に関連し、また残留者のための解決策を模索する上で、アドボカシー活動を行っています。
日本政府の第三国定住支援について
9月末、日本の第三国定住事業を通じて、11世帯18人の難民が一時滞在していたマレーシアから来日
第三国定住による難民の受入れは、難民問題に関する負担を国際社会において適正に分担するという観点からも重視されています。 日本においては、2008年12月、閣議了解により第三国定住による難民の受入れが決定されました。2010年に開始された第三国定住による難民の受入れは、当初は、タイの難民キャンプに滞在するミャンマー難民を毎年30人(家族単位)、5年間にわたって受け入れるパイロットケースとして実施されました。
その後、2014年1月、閣議了解により、パイロットケース終了後も第三国定住事業の継続的な実施が決定され、2015年度以降は、マレーシアに滞在するミャンマー難民を受け入れることになりました。さらに2019年6月の閣議了解により、受け入れ可能な難民がマレーシアのミャンマー難民から、アジア地域に一時滞在する難民への変更や受入人数の拡大等が行われました。コロナ禍で一時中断後、2022年度からは年2回の受け入れとなり、これまでに合計で122世帯305名を受け入れています。
入国後約6か月間の定住支援プログラムにより、日本で自立した生活が開始できるよう、難民事業本部(RHQ)支援センターが様々な支援を一体的に行っています。
(出典 https://www.rhq.gr.jp/what-refugee/p03/)
「永遠の故郷ウクライナを逃れて」
どこにどうカメラを向けるかということで、大文字のテーマが同じでもここまで違うのかと、当然の事実に改めて気づかされる。
ハメラ監督は、80年代初頭にポーランドのワルシャワで生まれ、学校でロシア語を強制されなかったポーランド人の最初の世代です。2013年、ウクライナのヤヌコヴィッチ大統領はロシアからの圧力を受け、EUとの連合協定への署名を拒否しました。ウクライナにとってだけでなく、EU加盟10周年を迎えようとしていたポーランドを含む地域全体にとっても、非常に重要な時期になる予感がした監督は、3日間だけ滞在するつもりでウクライナに向かったものの、結局3か月間滞在し、マイダン革命の参加者についてのドキュメンタリーを撮影することになりました。
ウクライナとその人々に対する特別な愛着を感じていた監督は、2022年にロシアがウクライナへの本格的な侵攻を開始したとき、無関係ではいられないと感じ、戦争が始まって3日目にバンを買い、ポーランド国境から難民の輸送を始めました。1週間も経たないうちに、もう2台のバンを購入し、ポーランドとの国境に到着した人々を輸送するために他のバスも手配しました。ウクライナの各都市からポーランド国境まで、友人の家族を乗せてウクライナを走りました。やがて、家族の移送を依頼する電話が毎日のようにかかってくるようになり、外国人、妊娠中の代理母、障がいを持つ人々など、弱い立場におかれている人々の避難を支援する国際的な援助団体とも仕事をするようになりました。
ウクライナ語とロシア語の知識があったため、監督は国内の遠隔地に到達することができ、乗客全員の宿泊施設とその後の移動を効率的に手配することができました。
その後、日中はカメラマンが車内で撮影を行い、夜間は運転手である監督が代わって撮影を行うことで、これまでと同じように支援活動を行うことができ、同時にテロにさらされているウクライナの市民が悪化していく状況を記録することができると思い至りました。
この映画では、事実の後付けの解説や分析なしに物語にアプローチし、その主人公はまさにその瞬間に逃げることを決めた人々です。車内の親密な空間は、人生、夢、不安、計画、期待について、運転手と乗客の間で率直な会話をする場、しばしば初めて語られる戦争体験の深い感情の告白の場となりました。
このドキュメンタリーの意図は、個人的なストーリーや体験を紹介することに加えて、目の前で起きている戦争の風景を見せることにあります。この映画はまた、全国のポーランド人が莫大な援助を動員し、両国が困難な過去を乗り越え、歴史的に和解していることの証でもあるのです。(出典 https://intherearview.eu/about/)
>>マチェク・ハメラ監督の映画にかけた想いをもっと知りたい方はこちら
ウクライナ人道危機について
2022年2月以降、ウクライナに対するロシアの戦争が大規模にエスカレートしたことで、これまでにない民間人の犠牲と重要なインフラの破壊が生じ、何百万人もの人々が安全、保護、支援を求めて避難を余儀なくされています。ウクライナでは、攻撃の激化によりエネルギー発電能力が著しく低下し、重要な電力、熱、水の供給が滞っています。
ウクライナ国内の避難民360万人以上に加え、数百万人の難民が国境を越えて近隣諸国に避難しています。2024年9月現在、ウクライナからの難民は世界で約670万人以上に上り、その多くは女性と子どもです。
ウクライナと周辺国でのUNHCRの援助活動について
ウクライナ緊急:小児病院等に大規模な攻撃
UNHCRは1994年以来、ウクライナで、地元当局、NGOパートナー、コミュニティ組織とともに、支援を必要とする人々に保護と人道支援を提供する活動を行ってきました。
ウクライナ国内では、依然として莫大なニーズがあり、1,460万人以上が緊急の人道支援を必要としています。UNHCRは、地元や国際的なパートナー組織と協力し、戦争で被害を受けた市民に現金や現物による様々な支援を提供しています。たとえば、家屋が損壊した人々には緊急シェルター修理キットを渡し、住宅修理が行えるようにしています。また、戦争のトラウマに苦しむ人々には法的支援や心理カウンセリングを提供しています。2023年、UNHCRとパートナー組織は、ウクライナで支援を必要としている250万人以上の人々に、現金支援、法的支援、住宅支援などの支援を提供しました。
近隣諸国では、ウクライナからの難民を受け入れるために、国家間、受入コミュニティ内、そして家族の間で、他に類を見ないほどの連帯と支援が広がっています。UNHCRは、各国政府の対応を支援する地域難民対応計画(RRP)の一環として、国連機関や国内外のNGOを含む300を超えるパートナー組織の調整を主導しています。
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