「川本喜八郎 作品集【「花折り」(1968年/14分)「鬼」(1972年/8分)「旅」(1973年/12分)「詩人の生涯」(1974年/19分) 原作:安部公房「道成寺」(1976年/19分)「火宅」(1979年/19分)】」
つべの無料になっていたので。
川本喜八郎 作品集
川本喜八郎作品集 解説&クレジット|山下泰司 Yasushi Yamashita
名前は知ってたけれど、観るのは初めて。4Kレストアされてるから、というのもあるかもしれないが、なんだかあまり古い映画には観えない。能だとか今昔物語だとかの古典(安倍公房は違うだろうが)モチーフであり、すでに「歴史化」されたものを、その美術としての背景を屏風絵だとか絵巻物のような、要するにこれも「歴史化」されたルックを再現することで時代超越的な普遍性をもったものとして観れたからかもしれない。
といっても、それは日本の美術文化による馴致の影響だろうが。
にしても、この人の作品全般、撮影が凄まじい気がする。多重露光も使ってるらしいし。
「花折り」がデビュー作なのだけれど、この時点でスタイルが確立されているというのもとてもコンセプチュアルである。
お経の声が黒柳徹子というのも色々とすごいのだが、それはさておき何といっても前述のように”背景”の力が大きい。
「鬼」(今昔物語:巻二十七第二十二話 猟師の母が鬼となり、子どもを食べようとした話)もそうだが、極度に抽象化された背景に人形という立体物を使うことで、全体としての立体感を喪失させるかのような奇妙な空間認知を誘う。それがこのおとぎ話的な世界観に没入させるのだけれど、私は寡聞にしてこのような表現を観たことがなかったのでとても新鮮だった。んが、これが川本喜八郎の作品に通底するスタイルなのだった。そして一歩間違えばギャグになりかねない軽妙なテンポ感も魅力。まあ不条理劇なのである意味でギャグはギャグなんだけど。
かと思いきや「旅」はまた違った趣がある。人形ではなく切り絵(カットアップ)によるアニメーションなのだけれど、打って変わってシュールな世界観。「ファンタスティックプラネット」的…というとそれもまた違うのだけれど、もしかするとカットアップという手法自体がある種のシュールさを内包しているのだろうか。
話としてはインドに行ったら価値観変わったわ(いや変わってない)。というか、戻ってきたらなんてことはなく、また通勤ラッシュに揉まれる(そして写真に戻っている)という。
エピグラフとして用いられる蘇軾の「廬山煙雨」は、漢詩ゆえになんだかお堅く感じられるが、意味としては「期待してた旅先も実際に行ってみて帰ってきたら大したことなかったな」的なものなので、やはりそういうことである。とはいえ、禅の解釈としては「悟りを得て突き抜けた人は元の人と同じところに戻るものだ」というような意味合いがあるらしい(引用ママ)。さらに言えば、その道中こそが要するにどら焼きのドラでありハンバーガーの中身でありサンドウィッチの具なのであって、そこが美味しくなければ形無しであるわけで。冒頭と最後を電車の駅でもまれる女性の写真で挟むというのも、そういう表現主義的表現によるサンドイッチだ。
もっとも、戦車の描写などは作者の個人的な体験が色濃く反映されているようだが。
「詩人の生涯」は安倍公房の原作をやはりカットアップによるアニメーションにしたもの。これ、原作の力を最大限に引き出しており(文章をタイポグラフィーとしてまんま画面上に引用しているし)、どこかこのアニメーションそれ自体が原作の挿絵的な解釈をもたらすのだけれど、かといって脇に回っているというわけではまったくなく、その精緻なアニメーションによって(あと音楽ね)原作の文章との相補関係を生じさせ強烈な印象を残す。ある意味で絵本化している、ともいえるだろうか。
原作からしてかなりのファンタジーというか、中々にぶっ飛んだ展開なのに根底にはリアリズムがある。だからそのリアリズム部分と生活描写のリアルなアニメーションとの合致、ファンタジーな展開とファンタジーな演出の合致による幸福なアダプテーションの結実がこのアニメなのだろう。
あとクソリアリズムへの反意みたいなもの。
「道成寺」はなんというかガチ絵巻。絵巻が動くとしたら、というようなある種の思考実験的なトライアルを感じる。海の荒波や炎(どちらも”波”であるということは結構重要な気がする)の表現は、直近では「炎炎の~(第4期)」24話の北斎風の波をアニメートしたのに通じている。しかし川本喜八郎のストップモーションアニメはなぜこうもほかのものと違う動きの印象を受けるのだろうか…。
「火宅」も不条理なのだが、これはむしろ立体感を抽象空間の中で描き出そうとする別の試みに見える。
あと全体的に音楽が印象的(まあ有名な大作曲家が手掛けている者が多いと言うのもあるのだが)なのに、作品と一体となっているせいであまり印象に残らないという矛盾が生じる。
「リオの男」
首の後ろをチョップするやつで仕掛けた側がダメージ受けるの初めて見ましたよ。大事な物錆びたブリキ缶に入れてたり、流石にコメディどけあって笑えるんだけど、地味にアクションも頑張っていて面白い。
あとロケがいい。この時期の開発途上国ゆえのってのもあるんだろうけど、馬鹿みたいに道路が敷かれているんだけど大きめの建物が点々としているあの感じ、GTAのような箱庭ゲームみたいな趣があって逆にバーチャルな印象を受ける。屋上鬼ごっことかも。というかカー(に追われる)アクションとか高所のアクションとかバリエーション多くないですかこれ。
ただまあ90分でいいよこれ…やってること同じだし。
「愛と哀しみの旅路」
日本人が説教するな!このセリフがこの映画のスタンスなのだろう。エキゾチズムな視線を織り込み、レイシズムを自覚した上でそれでもなお旧左翼的な男性ナルシシズムと人主間のラブロマンスを抱き合わせる。
女性陣がキャピキャピしてるのは良いんだけどなあ。
花札ってああいう場でやるんだろうか。
「銀河鉄道の夜」
セリフの言い方や間の取り方、抑揚とかがとにかく朗読劇っぽい。恥ずかしながら原作を一度も読んだことないのだけれど、これこういう話だったんだ。
街並みはもっとカリブ海の旧市街地みたいな作りっぽい景観で、要するにファンタジー度が高いのだ。猫を擬人化しているのに人間も出てくるもんだから普通に驚いてしまいましたよ。音楽も静謐な割に妙に耳に残ると思ったら細野晴臣だし。
とうもろこしばたけのペラいテクスチャは何だったのだろうか。TFTHEMOVIEのように実験的に使ってみた感じなのだろうか。
作者死亡で未完で終わってるということも知らなかったのですが、本作の鉄道それ自体が自体が死出の旅路のそれ(マンキンのG・S突入ってまんまよな)と考えると、中々の機縁というか。
「マスク ディレクターズカット版」
「ペーパームーン」のボグダノヴィッチ監督作。実話ベースってことなんだけどどこまでが脚色なのか不明。DC版はオリジナル版では使えなかったブルススプリングスティーンの楽曲が流れてるということで、なるほど。
あの唐突な死のラストとか、実際どうだったんだろうとか色々考えるのだけれど、しかし彼の恋愛周りの描写はグロイ。何がグロイって盲目の少女(ローラ・ダーン!)と恋愛させてるってところが。周囲の反応は冷ややかなもので、それがかろうじて救いになっている(というのはもちろん客観的な視点が、監督の意図するものとは別の位相ではいっているという意味で)わけだけれど、だとしてもである。
要するに彼の母が言い聞かせていたように「中身こそが重要」だということなのだろうけれど、それは偏見を超克したわけではなくて予めハードルを避けているにすぎないわけで。
鼻につくとまでは言わないけれどnaiveすぎるきらいがある。
「ラストマイル」
面白くはあるし、題材が割と重要な社会問題であって中々に見どころはあるのだけれど、しかしなんかこうテレビ映画の域を出ないというか。
「劇場でかかるしいっちょ派手にいっとくか!」みたいなテレビ屋じみた作りに見えてしまう。無駄にドローン撮影で倉庫内をこれ見よがしに見せてきたりとか空撮とか。それ自体が悪いというわけではないのだけれど、ドローンの機械的なカメラの動きにダイナミズムを感じられない。劇半も無駄に壮大で「そのシーンにそこまで力んだBGM必要?」と思ってしまうし、なんか所々で出てくるドラマのキャラクターと明らかに満島・岡田たちラストマイル組とのテンションが違うんですよねぇ…。冷蔵庫のくだりの伏線回収もいるかなあれ?セリフ自体、浮いてたとはいわないけれど「急に説明台詞みたいな事いいだしたな」と思ってたら案の定だし。
せっかく「物流」っていうインフラに関する美味しいテーマを金かけて描ける(実際、物流の仕組みや構造の部分は面白い)のだからそんな安いヒューマンドラマみたいなことしなくていいのになぁ。
いまだにそういう「踊る大捜査線」みたいなことでしか作れないのか、というのを突破したのが「国宝」なんだろうけど観てないんですよねぇ。
「マイエレメント」
いやぁ…どうなんでしょうこれ。枕詞みたいになっちゃうけど映像は相変わらずすごいんですよね。だからそのアイキャンディで最後まで見せる強引な腕力はあるのだけれど、お話の方はかなり雑では。
ピーター・ソーンは「アーロと少年」のときも思ったけど、かなり感情を優先してロジックというよりもそっちに寄り添った作劇をするようなタイプな気がしている(もっとも、今回脚本に彼はクレジットされていないのだけれど)。そして、これはかなり邪推に近い印象論なのだけれど、彼のそのエンパシスな資質は端正なCGで作られているがゆえのピクサーのアニメーションでは外連味で納得させることとの食い合わせが悪いのではないかと思ったりする。
いや、そういうのを度外視しても細かいところが気になりすぎるんですよね。まず主人公のエンバーにしても、
あと「トゥモローランド」的なエリート主義も隠しきれてないんですよね。結局のところ才能があるからフックアップされたって話でしかないですし、浜辺で片手間で作ったガラス細工をそんな後生大事にするものか?という疑問もあるし。一緒に作ったとかならまだしも、マジで片手間で作って、元からそういう才能があったから褒められてフックアップされて~という流れなので。まあピクサー入るような人たちにとっちゃ「才能」なんてものは所与であって、そこに葛藤を見出すなんてことはないのだろうけれど。しかし、だからこそ彼らの作る話のテーマは「他者とのかかわり」とその葛藤を描くことはできても「自己とのかかわり」が決定的に欠如しているんですよね。あるいはそれは集団制作プロセスによるものなのかもしれないけれど。
傑作ではあると思うが「インサイド・ヘッド」ですらそれぞれの感情を(分かりやすく見分けるだめ)キャラクターデザインを分けて「他者化」しているわけで。たとえばこれが日本的なアニメーションの想像力であれば、脳内のキャラってみんな同じ見た目になるでしょうし。
それはまあ、文化的な土壌の違いではあるのだろう。
あとエンバー、直すって言って全く違う物作るのはおかしいだろ。というか期限付きなんだから水害の原因探せよ、デートしてる場合じゃないだろとか思ってたらなんか簡単に原因見つかった感じになってるし、雑に塞いで雑に「これでいいか」って処理したら案の定洪水になるし、いやちょっとそれはさすがに色々と雑がすぎるのではと。
泣いて復活というのも意味不明。だったらそこは水蒸気になって復活とかでいいのではとか。まあ一々あげつらってたらキリがないんですけども。
ビジュアルは良いんですけどね。といってもエレメントとはって感じなんですけど。「未来世紀ブラジル」みたいな役所のデザインはグッド。
「東京暗黒街・竹の家」
サミュエル・フラーは名前だけよく聞く反面、作品はほとんど観たことがなかったのだけれどこれは結構面白かった。
しょっぱなからFUJIYAMAをバックに列車が画面を横断していくカットなど「桃鉄の決算」じゃないかと妙な笑いが出た。
あとちゃんとした俳優じゃないのか日系人を起用したのかわからないのだけれど、日本語がカタコトだったりセリフが棒読みだったりと、その辺はまあ日本語ネイティブとしては気にならないといえばウソになる。のだけれど、家屋の描写(明らかなセットは別として)やクライマックスの屋上遊園地などは当時の戦後復興を果たした日本の風景は中々に面白いものがある。日本人の監督ではそういう撮り方はしないだろうな、というのは遠目からのショットが多く、それはとりもなおさず「風景」としての日本を収めようと言うのがありありと分かるからでせう。
屋上遊園地での立体的な銃撃戦は弾数やら警察のノーコンぶり(即射撃は当時的にリアリティあるのだろうか)とかを棚上げすれば、様々なアングルから(フィックスとはいえ)切り取っていく様は中々面白い。ラストの雑な締め方とかも含め意外と軽く見れる作品ではある。
まあエキゾチズム丸出しではあるんだけど。
「ヴァージン・パンク Clockwork Girl」
YouTubeで期間限定無料公開されてたので。エロとグロシーンは規制されたVerでしたけど、まあ個人的にはあんまり問題なし。
梅津さんは大して熱心に追ってるわけではないのだけれど、基本的には90秒の魔術師の異名から良くも悪くも逸脱しない人だと思っている。これもそんな感じで、というか明らかにパイロット版のような話運びなんで、基本的にはアクションでどんどん繋いでいくので中編としては破綻はないのだけれどこれ以上続けてたか確実に崩れていくだろうなという予感はある。この一本だけで巻き散らかしたら伏線(ゴーストっぽいロン毛とか、それにまつわるであろう蜘蛛糸めいたもの)を完全に放置していたり。
だもんで「無駄に」動く身体表現を堪能している間は問題ないのだけれど「そんでこのロリアンドロイドのモチベは何なのだよ」とか疑問を差し挟んだら終わる。
まあ梅津さんは細かい身体動作だけじゃなくてガジェットを用いた外連味も上手いので、大型複刃チャクラムみたいな武器を使ったアクション(投げ、受け止めの動作含め)やキャリーバックを用いたアクション(はまあキングスマンの拡張版と言う感じですが)も楽しい。ただそういう見せたいアクションやセリフ回しを優先することによって失われるものもあるわけで。キャラクターの知能とか。
ただはねたりはしないよなぁ、という小品といった趣。
「数分間のエールを」
脚本が花田十輝ってことで、ある意味では手堅いというか。ジェネリックしすぎたガルクラというか。
MVみたいな映像(カメラワークとか諸々含めて)でMVみたいな内容を尺を引き延ばしているという印象が。
MVはそのスピードによって具体的な時間経過を意識せずに済むのだけれど、これに関しては最初に先生がMVを観てダメだしした際の「朝屋くんらしい」というセリフに関していや外崎はともかく先生は朝屋くんの「らしさ」なんて分かるほどの関係性じゃないだろと。
あとこの人たちナチュラルに「才能があること」を前提に話進めてて笑う。主人公にしてもその年でそんだけのテクニックあればかなり上澄みだろうと思うんだけど、なんか浮薄なんですが。
ものをつくるという営為のためなら他の全ては下位に置いて構わないという思想。それを当人たちは「ピュア」であるということだと思っているのだろうけれど、それがnaiveであるということは常に指摘していきたい。この手のモノづくり称揚作品にはありがちなんだけれど、今回に関しては教職舐めんなよと。
しかしMVで(アニメ的)キャラクターがもはや当たり前の初期アセットのように扱われているのも20年代の傾向としてあると思うんだけれど、全体としてトーンが統一されてるがゆえに一種の単調さがあるのは否めない。
「ルックバック」
原作は話題なった当時から読んでいて、だからこそ中盤までのとんとん拍子でのし上がっていくあの多幸感あふれる流れからの悲劇、そこからのマンガそれ自体によるある意味でのワットイフ改変=救済は、その流れを知っているからこそじんわり来るものはあった。
しかし音楽のボリュームがでかい。実際の音量という意味でも、役割という意味でも。モンタージュによる時間経過の間を持たせるために音楽は流れるし、いかにもエモーショナルにベタベタな味付けをしている。まあ、基本的には超作画ではあるがいわゆる「超絶アクション作画」的な派手さがあるわけではないので相対的にそこに頼らざるを得なくなるというのは分かるのだが。
「ウィキッド 2人の魔女」
オズの魔法使いは一度見たきりであまりおぼえてないのだけれど、本作は割と「竜そば」に似た構造のような気がする。つまり「唄の力でごり押し」。といっても、その水準やミュージカルとしての質は言っちゃ悪いがダンチでこっちの方が高い。その歌唱による突破力を補強する美術の素晴らしさ、デザインの楽しさなどはそれだけでお釣りがくるレベル(個人的には図書室の美術が特に好き)だしミュージカルシーンのカメラワークも巧み。というかまあ、ミュージカルという様式がすでにそういうものだとは言えるのかもしれないけれど、とにかくミュージカルシーンによる言外の表現がすばらしく「「アンタ嫌い」」という趣旨の歌唱を二人が行うシーンはカットバックを交互にしつつ最終的に二人が画面に収まるというシンクロによって「嫌い」という言葉の裏側に相性の良さを予感させる。
グリンダの人間性に関しては正直なところ最後まで「いやこの人普通に自分本位では?」という思いが拭えなかったのだけれど……というか実際にそういうキャラとして作られているはず。しかし都度都度はさまれる髪の毛ファサーとか一々即座に意見を変えて同調する浮薄さはむしろ徹底されることによって愛嬌へと転じ、ウザいけど憎めないキャラとして輝きを放っている。アリアナという配役あってこそでもあるだろう。
ひるがえってエルファバは不憫でこそあれ、最初から正しさを完徹しようとし続けるがそれゆえにヴィランとして貶められてしまうわけだけれど、そういう意味で最初から完成されているがゆえにグリンダほどの妙味はない。だからこそ二人のペアが際立つわけだけれど。
外連味のあるカットもたくさんあって普通に楽しかった。
「レベッカ」
ヒッチコック映画。個人的にはこれかなり好きかもしれない。不在の中心としてのレベッカの強烈な存在感の演出を周囲の人間の反応から引き出し、そこに彼女の死を巡るサスペンスを織り込んでいるのは流石というか。
直前にハルヒのみくる自主映画の回を観ていたのもあって「ライティングの巧みさとかカメラワークとかすげぇ~」としみじみ思って観ていましたよ。いやハルヒの方は逆方向に意図しているというのはもちろん理解した上でですが。
ラストの屋敷炎上のオチからの人物不在で燃え盛る空間をバックにエンドタイトルというのも派手な画面からの人物不在の空疎な終わりというあたりがゾッとする。そこに直前に死んだであろう夫人の顔がちらついてしまう。
「刑事エデン/追跡者」
マチズモ(刑事世界)とユダヤ主義(パターナリズム)の内破という試み。それがアリエルの妹とのシスターフッドとして描かれていれば現代的ではあったのたろうが、異性愛規範によるロマンティックラブイデオロギーを用いるところがこの映画の限界なのかもしれない。
まあラビたちのユダヤコミュニティとは別にユダヤ系の同僚という明らかに戯画化された対置によって「ユダヤ」という概念を一面的に捉えることを避けようとはしているのだけれど。
アリエルによる射殺は意図はわかるけど描き方次第でどうにでもなったのではないか。エミリーを守るために仕方なく、とか。
エミリーの父親との関係も惜しいというかもったいないというか。
刑事連中のセクハラ会議の間の取り方とかは面白いんだけど。