dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

2020⑤月

「REBOOTED」

12分ほどの短編映画。過去のものとされるストップモーションアニメのキャラクターの悲哀と再起を描いた涙腺もの。主人公の髑髏は「タイタンの戦い」というより「アルゴ探検隊の大冒険」かしら。

手書きのアニメーションやアニマトロニクスジュラシック・パークオマージュ)、着ぐるみ、あとT-1000のようなCG?キャラクターなどなどと協力して破壊工作をもくろむというのが本筋なのですが、この潜入・破壊シーンがたまらない(まあ妄想落ちなんだけれど)。

潜入シーンにおいてそれぞれのキャラクターがそれぞれのマテリアルを生かして(セルアニメであればそのセル自体で窒息させたり、セルの薄さを利用して角度限定で風景に溶け込んだり、アニマトロニクスの恐竜であれば、それ自体が作り物であるということを利用して欺いたり)警備員を出し抜くシーンが本当にすごいです。CGという実体をもたないデータではなしえないことをフィクションの中で描いて見せるというのがなんともはや、その実体性・・・あるいは身体性みたいなものに非常によくコミットした傑作。

技術的にかなり卓抜した映像なのは言わずもがななんですが、ともかく傑作でございますこれ。

 

「夢の丘」

こちらも短編。高橋洋が監督なので、ホラーです。ええ。

妹の顔がうっすらと姉の顔にオーバーラップするところ、絶妙に顔が気持ち悪くてかなり怖かったです。

 

「Planet of the Humans」

マイケル・ムーアが監督。したわけではなくあくまでエグゼグティブとして参加しているドキュメンタリー映画

一言で表すなら「グリーン(クリーン)エネルギー」を取り巻く欺瞞について。

環境問題が語られる際によくSave earth的な文言が使われることがあるような気がしますが(ラブロックの影響とかもあるのだろうか?)、地球は死なない。

死ぬのは人類だけ。だからスーサイドという言葉が劇中で使われるのだろう。

やはり資本主義は悪ではないだろうか、という思いに一足飛びで行ってしまいそうになる程度にはこの映画がつまびらかにするクリーン(笑)エコロジー(笑)グリーン(笑)という言葉が陳腐であり虚構であり欺瞞の産物以外の何物でもないことは伝わる。少なくとも資本主義体制の下でそれらの用語が使われる限りは。

無論、この映画自体が一種のプロパガンダでありアジテーションである(ラストのオランウータンのくだりなどは本当にきつい)ことは承知しなければなりませんが、今のご時世にノンポリなどと言って逃げ回っている場合ではないわけで、イデオロギーを選択するしかないのではないか。

https://courrier.jp/news/archives/198622/?ate_cookie=1588579347

まあこんな批判記事出るくらいには今回の映画のつくりはおざなりだったらしいですが、ムーアが監督に回ってたらもうちょっと突き詰めてたりするのだろうか?

 

ぼくはうみがみたくなりました

「やさしいせかい」の話。もちろんフィクションなので「優しい世界」ではあり得ないのだけれど、しかしそこかしこに不可視化されている人々が画面を占めている。

冒頭の母と兄の振舞いは自閉症とか以前にデリカシーなさすぎですが。あとあのマンション柵低すぎて怖いんですけど。

この家族の関係で面白いのは、疎ましく思っている弟の方が保護しているつもりの母親よりも兄を分かっているところ。まあ、弟の方をあまり掘り下げられてないのはちょっと気がかりではありますけどね。いや、回想とかで兄弟に自閉症がいるということの辛さみたいなものは表現しているんですけど、そこから先にもう一歩踏み込めれば「やさしいせかい」感をもうちょっと払しょくできたのではないかなと。

あと旅館でのあれはちょっと相手がコテコテすぎるのはうーん。まあその前にアンタの息子が並べてるミニカーも普通の邪魔になるけどね、とかとか。ミニカーのくだりは結構共感することが多い。

 

「夜の訪問者」

不思議な関係性の映画でした。

登場人物の関係性が不思議。確かにロスだけがあの状況で銃を持っていてカタンガに対応できる人物だったとはいえ、どう観たって助からない相手を、しかも自分に銃を向けた相手をあそこまで介抱できるのだろうか。

ブロンソンもしかり。そこに何か上官に対する情感(激寒)のようなものがあったのではないか。

割とさくっと観れるタイプの映画だと思うんですけど、にしても何か考えてしまうようなシーンががが。

とってつけたようなカーアクションは007シリーズの監督ですし、まあ小屋の方の刺すペンディングな場面をもたせるための繋ぎのようにも見えるわけですが、あれはあれで結構観ていて危ない感じがして観ていて楽しめました。

あとすっごいどうでもいい部分なんですけど死体を遺棄するシーンで二人組がナンパしてくるじゃないですか。あそこで夫がいるとわかるやアクセル踏み出すあの二人組が同時に両手ばんざーいポーズするのがいやにツボなんですけど、あれなに。

 

「レッド・ダイヤモンド」

 いや、まあ、トマトの評価は知りませんが私は結構楽しめました。

ただまあ、なんというかですね、明らかにこれテレビシリーズの劇場版的な作りになっておりまして、観終わった後にテレビドラマ版があるのだろうとばかり思ってググってみたらねーでやんの!そういう意味で、この映画はあまり優しいつくりではないというか、シーンの飛ばし方とかあまり親切でないというか適切ではない感じもするのですが、それでも結構楽しめました。

一点突破としてのブルース・ウィリスの悪役はコテコテですけど、まあ観れますし、ステゴロシーンの後にちゃんと拳に傷を作ってたり壁に弾痕を作ってたり、そういう細かい部分でのディテールが凝っていて、かなり好感を持てる。そこに力入れるなら別のとこに注力しろ、と言われればぐうの音も出ないのですが。

クレジットのNGシーンはまあ、なんか正直あまり好きではないのですが、ブルースが出てなかった(はず)あたりは逆に溜飲が下がるというか。

それにあまりこの手の映画では描かれない男女の友情を最後まで保つのもいい。ジャックとローガンの本当に性を感じさせない(しかしジェラシーはある、という萌え)関係性は本当に良いです。

話はありきたりだしキャラクターはステレオタイプだしブロンドの扱いとか性差別的と言われても反論しにくい描写なんかもありますし、ダイヤを奪還するシーンなんかの雑さはもうアレではありますが、それでもランニングタイム分はなんとか牽引してくれる程度には楽しめました。ローガンがいいんです、ローガンが。

 

「マローダーズ」

最後の切れ味は良い。

 

「ロードオブモンスターズ」

天狗て。そして海なのに火と大地の化身とは。天狗から発想されるのは往々にして空なはずですが…ここまでねじれると返って清々しい。

まあアサイラムプレゼンツなのでそんなもんでしょう。それに怪獣のCGは結構頑張っていますし、頑張っているところは。「アップライジング」でカイジュウ呼びが不足していて不満という人はこれを観るとよろし。カイジュウ連呼なので。

 

大列車強盗

アメリカンニューシネマ的、と言えばいいのでしょうか。「さらば冬のカモメ」的と言うか。

にしても、最初からあの三人の結末が提示されているようなもので、普通に見ているとほとんどそろいもそろって自殺しに行っているようにしかみえない。いや実際、一人は自殺しちゃうんだけど。

だからこう、やるせない映画としてしか見れないのが辛い。

 

「インべージョン」

「ボディスナッチャー」の2007年版リメイク。

まあ、オリジナルから足した要素のおかげでサスペンディングはありつつややチープというかハリウッド的な大味感が増した気も。アイデンティティの問題とかすっ飛ばすあたりとかも。

自殺で感情あぶりだしとかは割とショッキングな展開で良かったですけど、平和と言う割に葛藤なしに自殺できるというのはやはり人間的ではないでせう。

 

「ビリー・リンの永遠の一日」

問題系としては「ハートロッカー」や「アメリカン・スナイパー」に通じるのですが、ただ映像の耽美さというか寄り添い方はだいぶ思いやりがある。

これ劇場公開されてなかったんですね。結構な良作だったと思うんですけどね。

武力、ホモソーシャル、英雄論、資本主義、(「エニー・ギブン・サンデー」が示したような)アメフトの問題。それらをひっくるめてバーマン的に言えば精神分裂的精神(それはベトナム戦争から続くPTSDの問題を過分に含んでいるはず)およそアメリカの病理を包括して提示してみせたのがこの「ビリー~」だと思う。

ともかく主演のジョー・アルウィンくんが良い。顔がね、やや幼さを残しつつそれを筋肉の衣で覆い隠してその筋力の外圧で己を駆動させているような危うさを湛えていて非情に良い。

ヴィン・ディーゼルはまあ、なんというかファミリー感の象徴としてあるのかな、と。しかしそれはマッチョイムズなホモソーシャルでつながったダイムと対置させられるアンチアメリカンファミリズムな体現としているのではないか、という感じ。

無論、それは「ワイルド・スピード」=ヴィン・ディーゼルな印象から導出されるものなのですが、あのシリーズにおけるファミリー感というのをアン・リーがどう受け止めているのかによって印象が異なるのだけれど、まあ少なくとも彼にキリスト教ではなくヒンズー教の話をさせ(ガネーシャの置物ががが)ていたりするのも、アメリカのマジョリティーな価値観に対するカウンターとしてあるのは言わずもがな。

で、ビリーはその二つの価値観に揺れ動かされ、ダメ押しにチアガールからの発破によって戦場に舞い戻ることを決意するわけです。

かなりバランスを意識しているような気がする。今書いたような二つの価値観の体現者として一方ではダイムとチアガールを、他方ではシュルームと姉を。またビリーの「英雄的行為」を捉えた土管?でのカメラワークなど。もちろんそれはビリーにとってのトラウマ場面としてでもあるわけだけれど、刺殺した「敵」の顔面がアップで映し出され、じっくりと、血液が広がるまで捉えたあとにカットを割ることなくビリーの顔を映す。それによって「英雄的行為」の英雄性が相対化されるという両義性。

テレビなので120フレームとかほとんど関係なかったのですが、あれがどうなるのかはちょっと気になるところ。

 

どうでもいいのですが吹き替え版ってヴィン・ディーゼルの声をたいてむがやってるんですね。あの人はドウェイン・ジョンソンのほぼフィックスでもあるので、役者ネタとしてちょっと笑ってしまいました。

 

飢餓海峡

たっぷり3時間かけて描かれる義理と人情×犯罪。ていうかこれテレビで特番組まれるサスペンス映画の定型ですよね。

この映画の白眉は杉戸八重(左幸子)が犬飼の爪で辛抱堪らん状態になっているシーンであることは全会一致のことだと思う。あのシーンは、なんだか見てはいけないものを見てしまったような(それは鏡像として自分に反射されるから)、むき出しの多幸感がひしひしと伝わってくる。

犯罪側とそれを追う側との対決構造のなかで、犯罪側はほぼほぼ情念のようなものだけが現出していて、それが前述の杉戸の悶えるシーンに代表されていて、私的には彼らのシーンはどろどろしていて楽しいのですが、反面警察側ときたら高倉健に代表されるようにお堅い。それは義務と使命感に突き動かされているにすぎないからだ。

んが、しかし、である。それが突き抜けることで義理と人情のエモーショナルな方面へと傾く警察側のキャラクターがいるのである。それが弓坂さん。

物語的にも彼の執念が決め手になって事件が解決するわけで、これはつまり犯罪側との弓坂のシンクロが事件を解決に導いたという構造を見出すことができるのでありあす。

何が言いたいのかと言うと義務より義理こそが真に優れた動機なのではないかということです。それが人間相手であればなおのこと。

 

「キリング・フィールド」

本当すみません。色々と書きたいことはあるんですけど(マルコヴィッチ若っ!とか)・・・

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これで全部持ってかれた。ラストのハグといい、なんというかこう、尊いショットが多すぎて脳みそが完全にそっちにスイッチしてしまいましてね、ええ。

いや、凄惨な物語であることは承知しつつ、しかしやはりそれを超越するだけのボーイズ(って年齢じゃないんだけどこの人たち)ラブロマンスがあって、なればこそあのハッピーエンド(少なくとも二人にとっては)なわけで。

もう尊い

 

「名探偵ピカチュウ

思ったより面白かったです。まあ劇場で観たかったか、というとうーんですが。

まあこれは予告編の時点でわかってはいたことですが、毛が生えてるポケモンの質感って基本的にぬいぐるみなんですよね。だからかなり馴染みやすい。半面、毛がない奴らのテクスチャと来たらきもいのなんのって。

でもこの辺、よく考えたら不思議な話ですよね。まあ実写版ソニックの件もそうなんですけれども、今まで実写映画でファンタジーな生物なんて腐るほど見てきたはずなのに、どうしてポケモンはきもく見えるのか、と。この辺は認知心理学とかの分野になってくるのだろうか。まあデフォルメの具合、という問題も過分にあるのでしょうけど。

だからこそ毛のあるポケモンは「ぬいぐるみが動いているように見える」のでしょうね。

ポケモンと人間の関係についても一考の価値はあるとは思うのですが、いかんせんそこまでモチベーションががが。

 

「緋牡丹博徒

情が濃ゆい。胃もたれする。女と男が明確に分かたれ切った張ったと血みどろ騒動。

不義理と人情と高倉健高倉健てキムタクがキムタクでしかないくらい高倉健でしかないんだな、と。悪いかどうかは別として。この人出るだけで叙情になっちゃいますもんね。

 

「バッド・ジーニアス 危険な天才たち」

サスペンディングはあって面白いです、確かに。カンニングのアイデアも中々秀逸でしたし、ピアノのハンドリングを土壇場で回収するのとか描写も気を遣ってるのは分かりますし。

ただ人間のキャラクターがいまいち飲み込めないというか感情の流れがわからないところがちらほら。特にリンちゃんの父さん。あれ、リンちゃんからは謹厳実直な教師として映ってるらしいのですが、家でのコミュニケーションの取り方とかを見るにつけ本当にそうなのだろうか?も思えてくるのですよね。普通、娘の顔面にテッシュなげるかね?あれを子煩悩描写として親子のスキンシップとして許容される土壌があるのだろうか?タイには。死体を喜んで消費する国の連中の考えることはわかりませんな(偏見)。

よしんばリンの逸脱的気質を父親のそういうところを受け継いだのだとしても、やっぱりラスト付近の心変わりようとかちょっと別人すぎて連ちゃんパパな不気味ささえあるのですが。

リンちゃんの禊はわかるんですけど、バンクくんが闇落ちしてフォローなしというのもモヤモヤする。彼、完全に被害者の立場ですし、大使館?でのリンとバンクのやりとり(画像削除は決別の意味合いなのでしょうが)の後に闇堕ちで勧誘してくるバンクというのもなんだが。

手離して絶賛するほどではないかな、と。

ただまあ、グレースちゃん役のイッサヤー・ホースワンちゃんがあまり邦画や洋画などではお目にかからないタイプの可愛い女の子で、正直彼女が画面に映るだけでだいぶ個人的にはオッケーでした。いや、役所はまあまあクズなんですけど、バカでクズだけど顔は可愛いというレアキャラなのですよ。そのクズ度もオツムと同程度であるがゆえに愛嬌(顔ありきですが)に転化しているというのがすごい(当社比)。

あとバンクくんがナイツの塙に似てる。顔のパーツが。骨格はかなり違うけど。

 

 

 

2020 4月

ローズの秘密の頁

雰囲気は小説っぽいのに内容は少女漫画的なのが妙に笑いを誘う。

役者はみんな良かったです。女性の抑圧とアサイラムの組み合わせに「チェンジリング」を想起したり、どこも変わらないのだなぁと。

 

 

「勝利への脱出」

 スタローン若い!ペレがいる!

なんというか、モデルとなった史実のバッドエンドを改良してやろうというワット・イフなつくりであるので、多少無理がありそうな気もするのですが、しかし色々とすごい。

日本じゃせいぜいコナン映画でへたくそな吹き替えをさせられる程度の役割しか担わされないサッカー選手がどばちょどばちょと登場してプレーしてくれるというのだから。

 

「ビリオネア・ボーイズ・クラブ」

スペイシーのこの手の映画のグルっぷりは何なのでしょう。

いかにもアメリカンなアップダウンな物語に、しかしアッパーなテンションを維持し続けるキャラクターに対して抑え気味の音楽。

信用できない語り手の語りそのものがないパートなどもあり、それが単なる雑さなのか別の狙いがあるのかどうなのか。

タロンの屑演技のハマり具合も中々なのですが、いかんせんナチュラルボーンクズというよりはむしろその演技からは必死さが伝わってくる。

典型的な成功からの没落物語としてはまあ。

 

「ある天文学者の恋文」

死者によって手繰られる生者の生。それを通俗的な恋という形で描出することのおどろおどろしさ。監督は本気でこれを純粋なラブストーリーとして観ているからここまで突き抜けているのではないのかしら。

いや、確かにこの物語を成立させるほどの強烈な何か、エドとエイミーを繋ぐことのできる何かは「愛」以外ではそれこそ「憎悪」くらいだろうから、正攻法と言えば正攻法ではあるのだろうけれど。

やヴぁい。これ結構好きなタイプの映画でござい。音楽モリコーネだし、何気に豪華。

これ「ニューシネマ・パラダイス」の監督だったんですね。言われれば何となく、という気はしますがこの監督の映画「ニューシネマ~」しか観てないのでなんとも。あの映画は特に印象に残ってはいないのですが、今回の映画はかなりキてる。個人的に。

 

というのも、これは死者の話、死者が生者に・・・死者こそが生者を規定するという話だからなんですね。私の好きな「ライフ・アフター・ベス」に通じる死者映画なのでせう。

 

前情報なしで観たにもかかわらず、冒頭からすでに画面いっぱいに死の予感が充満している。それはファーストカットのやりとりからもそうだし、ジェレミー・アイアンズエドから滲む空気のせいでもあるだろうし、あの年齢差の男女の関係として行きつく必然の帰結だからというのもあるだろう。

そういう肌感覚的なものではなくとも、最初のシーンにおいて別れ際に見せる両者の反応の違いなどから察することはできる。

そして何より、この映画の中で二人が直接的にはだえを触れ合わせるのが最初のシーンのみで、あとはメディアを媒介することでしか接し合わないシーンの連続(というかこの映画がそういうシーンの積み重ねだけでほとんど出来上がっている)しかなく、エドとエイミーの間に隔絶した一線が明々白々に引かれているからに他ならない。

 

そこからは観ての通り、ひたすら死者(エド)によって生者(エイミー)が、愛という名の下に徹底的に規定されていく様を描く。

死してなお駆動しようと(させようと)するさまは、愛というよりは狂気の執着に他ならない。劇中でエドの友人の教授が言及するように、エドは徹底的に自己中心的なのです。恐ろしいのは、その自己中心性は自分亡き後にこそ加速するというところ。

「ライフ・アフター~」のようにゾンビとして自身の身体すら必要とせず、手紙やメール(と同列に扱われる、身体を持つ他者)というメディアのみで生者を動かしてしまう。

けれど、それは何もおかしなことではない。よくよく考えれば我々の周りには死者によって遺された産物が充満しているのだから。本棚にある書物にせよテレビで流れる昔の映画にせよ、それらは生者に影響を与える。ともすれば生者によるものよりも。

それは10年以上も前に伊藤がスピルバーグについて語っていたことから分かっていることではあったけれど。

スピルバーグのような暴力性を纏うことなく・・・いや、この規定性がそもそも暴力的と言ってしまえばその通りとしか言いようがない。

 

生者あるいは「生」などというよりも死者・「死」の方が強度があるということ。

人間の生のみを肯定し称揚し、それがマスに受容される世の中にあって、このような映画が観れることは喜ばしいばかりであります。

 

アメリカン・グラフィティ

通しで観るのは初めてだったんですけど、今見るとすごい豪華なスタッフ。

ハリソン・フォードがあんなちょい役で出ていたとは。

にしても異様。ほとんどが車の中でのやりとりで完結してしまうのにまったく窮屈さがない。もしかするとこれが一夜の物語だからだろうか。

真っ暗な夜空の下の喧騒が白み始めた空の下でエンジンの音によって極を迎え、空の中の点としての飛行機によって収束あるいは閉塞していく。

極めてホモソーシャルな価値観ではありつつ、おセンチになるこの作り。プリクエルの監督とは思えないですな。

 

シコふんじゃった。+ファンシィダンス」

やっぱり周防さんの映画は笑える。それだけで貴重なのだけれど、変にべたつかないのが観ていて心地よい。知らなかったけどIF出身だったんですね、周防さん。

必ずしも演技が達者な人でなく、むしろそうであるからこそのスラップスティックな空気感というか。いや、柄本さんとかちゃんと抑えるところは抑えているからこそではあるのだろうけれど。

ずーっとソフトフォーカスで(これは作家というかなんというか時代?)、けれどそれが余計な熱量を持たせることなく青春の一幕・・・というよりもモラトリアムの延長としての甘い時間が広がっている。それはラストに至ってもっくんがああいう選択をするということからも明らかであるように見える。

あれだけの汗を垂らしながらも、この映画がまったく汗臭くないのはそれだ。淡々と進んでいく、その淡泊さは青春の甘ったるさになど目もむけない。

大学生(それも就職先の決まった四年生)という設定からもそれが伺える。青春というには少し遅い。なればこそ、青春という有限な時間の有限性をことさらに強調するのではなく、その先にあるモラトリアムを遅延させようという成長の否定。

いやー好きですこの映画。

 というのが「シコ~」のほう。「ファンシイダンス」も基本的な構造は一緒だと思う。前者の方がブラッシュアップされているというか、まあそんな気はします。

ただ両方しっかり笑える、というのはさすが。

で、これ両方の映画に通じるんだけれど、この人って周縁の・・・もっと言ってしまえばフリークの扱い方がすごい意識的ですよね。

臆面もなく言えばブスやデブスの扱い方。決してPC的な正しさではなく、けれどそこには正義感や使命感などではない愛情がある。まあ、その愛を無条件に受け入れることの恐ろしさというのはやっぱり考えなければいけないことではあるんだけど。

 

 

「卒業」

リマスター版で改めて。

年を重ねた今観ると、どうも見るに堪えない童貞感ががが。

スパイダーマン3」のマグワイアを最初から最後まで見せつけられる感じといいますか。最初から、は言い過ぎですね。ミセスロビンソンとのセックスがヴェノムとの結合なわけで、童貞映画としてはかなり良い映画ではあるのでしょうが・・・それにしても見るに堪えないよー。

不安定なカメラワークといいラストの二人の表情といい、若気の至りの酸甘さにライドできるかどうかで評価が分かれるのでは。

まあ、結婚という形式にこだわるあの姿勢がそもそもいかにも西洋的な男根主義が見え隠れするというのも痛いというか。そういうナイーブさも観てていたたまれない。

これを愛せるようになるにはもう少し年を重ねなければならない気がする。

 

「68キル」

いやーこれすごい面白かったです。ヴァイオレット以外のキャラクターが屑しかない。ヴァイオレットも退場の仕方こそあんなんでしたけど、セリフだけとはいえ世の理不尽をサバイブしてきた強くて脆い人間として一番キャラクターが描かれていましたし。まあ、それゆえにあの最期を迎えてしまうわけですが。

ヴァイオレットのとの再会シーンの露骨な甘ったるい空間も、しっかりギャグとして機能させるまでに甘ったるくしてくれているし。

最後のアレを成長と捉える屑っぷりも含めてすがすがしいです。ていうかあそこまでの経験をしなければあそこまでの転換が図れないというのもまた屑で良い。

あの能天気(というかノータリン)な屑っぷりというのも、実にこの映画のタイトルに相応しい。

その徹底した受動性ゆえに最悪の展開に巻き込まれながらも成長()する、というのもこの映画のスピリットであろうし。

ランニングタイムのちょうどよさといい「ハッピー・デス・デイ」と並べて観たい映画。

気軽に観れて満足度の高い映画です。

 

ブレーキ・ダウン

ターミネーター3」で有名?なジョナサン・モストゥ監督の長編デビュー作。

評されているとおり「激突!」じみているのですが、この人のアクションはやっぱり面白い。こうしてみると「T3」のアクションってかなり正当な進化だったのだな、と。

 

ヒットマンズ・ボディガード」

「エクスペンダブルズ3」の監督なのですねぇ。テンションの感じとか確かにそれっぽい。

スクリューボール・コメディとしてはなかなか。まあレイノルズとサミュエルのバディというのも新鮮ですし。どことなく「アザーガイズ」みのある馬鹿っぽいサミュエル。

日本では劇場公開はせずネットフリックスということですが、続編やるらしいですけどそれに合わせて劇場公開するのか、続編もネトフリなのか。

 

ねらわれた学園

 そういえば大林宣彦の映画をまともに観たことがないことに訃報を聞いてから思い至る。

にしても自由闊達ではある(のか?)。その戯画化っぷりやSFXを使うことに(その使いかたも含め)躊躇なかったり、なんというか特撮映画ではある。内容もサイキックものではありますし。

確かにはっちゃけてはいるのに違和感はないし面白い。

リアリティ、という言葉について再考するのにこの人の映画は最適やも。

 

「かごの中の瞳」

どっかで聞いた名前だと思ったら 「ワールドウォーZ」やら「プーと大人になった僕」の監督でしたか。なんかあんまりおんなじ監督って気がしないような気がしないでもない。

身体の変化が人間性の変化へと直結する。その身体性を楽しむ映画。

ジェイソン・クラークの保守的で父権的さの描きかたが、全く露骨ではないのに確実に自分の優位性におんぶにだっこなサイレント屑っぷりがうまい。

何度か登場するベッドシーンの体位の変化やプレイ内容の変化は、そのまま二人の関係性(ジーナの身体性の変化による)の変化を表す。

新しい世界への扉が再び開いたとき、彼女の中の童心はくすぶられ世界に対して己を解放する欲求に駆られる。

んが、ダニエルはダメだった。あの最期の涙は観てるだけで腹立ちますね。無自覚の屑キャラ(いや自分の感情には自覚的なのでしょうが)としてはかなりポイントたかいので見ごたえ自体はあるんですけどね。

男根に一擲くれてやる映画です。

 

真珠の耳飾りの少女

これは撮影監督と証明の大勝利では。

随所にみられるまさに絵画と言わんばかりのショット。それを堪能する映画ではなかろうか。しかしスカヨハ。しかるにスカヨハ(意味不明)。

「スパイダーパニック」で蜘蛛に襲われていたあの町のイケてるおねーちゃん感とは全くことなる浮世離れした端正さ。浮世離れさせらせてしまった悲哀。絵画に別なる意味を付与し、以前と以後に隔ててしまう。

 

あとコリン・ファースオーランド・ブルームぎみに見えてこんなにイケメンタイプだったかとちょっとどきどき。

キリアン・マーフィーは好きじゃない・・・というかあの人の顔がなんか生理的に無理なのですが。それもこれも「28日後」のせいではあるんですが、まあそれはさておきスカヨハファンとコリンファースファンは観ねばならぬでしょう。

 

 

「アラモ」

男の美学の映画。それはつまり徹底してホモソーシャルな世界の話であり、無数に表れる大砲も鉄砲もサーベルも松明も、あるいは砦の柵に使われる木々でさえもすべては男根にほかならない。

ある夫妻の別れの描き方などは(それは宗教的な安らぎに裏打ちされているからかもしれませんが)このご時世では到底容認できるものではありますまい。

これを手放しで称揚することにはためらいがある一方で、しかしそこにある倒錯した美学、理性や倫理を超越したその先にあるものをここまで過剰なスケールで描いて見せてくれるのだから酔わなければもったいないという気も。

 

アウトブレイク

このご時世ということでパンデミック系の映画を観てみる。同じくパンデミック系で最近よく観られている「コンテイジョン」に比べると軍の疑似空中戦があったり万能な新人サイドキックがいたりと、ご都合的といえばご都合的ではあるのですが無駄にキャラクターを増やしたりせず省エネ人員かつストレスフリーで観ていられるので全然あり。吹き替えがなっち(野沢那智)だったり納谷さんだったり25年前の映画ということもあって懐かしの声が聞こえたのも良かった。

スペイシー若い、フリーマンは今とあまり変わらない気がする、レネ・ルッソ若い。

これは吹き替えのなっち節の方がテンポいいかも。笑わせてくれる部分もたくさんあって「コンテイジョン」よりもエンタメ成分が多めであちらよりも万人向けかも。

 

ラスト・アクション・ヒーロー

昔々に観たのを観返してみると新しい発見があったりするわけですが、これ今見ると面白い構造をしている。

まあでも、確かにシュワちゃんファンは観ていて歯がゆいものがあるのは確かでしょうけど。明らかにアーノルド・シュワルツェネッガーのメタ映画であり、ほとんど総決算というか締めに入っているというか。

エルム街の悪夢 ザ・リアルナイトメア」と同じような感じ(こっちの方が後だけど)といった趣。

カメオ出演の人数とか、色々と過剰な物量で攻めてくるわけですが、それは当時のネッガーの持つエネルギーに比肩させるためなのではないか。

アニメとかボガードとか、あの辺の遊びは正直謎・・・ってわけでもなく、映画の歴史としての映画として考えればクラシックとして劇中劇・映画内映画の世界に顕現させるというのはむしろ映画という何でもありの媒体=可能性についてマクティアナンは意識的だったということなのではなかろうか。

というか映画というものにまつわるあれこれ(Fワードとかレーティングとか)を含めて、シュワというか映画についてのメタ映画なわけで、それを勢いと物量で攻めまくる映画が万人に受けるのかというと難しいのではないか。

当初はシェーン・ブラックらが脚本を書いていたというので、そちらもそちらで気にはなるのですが。

 

2020no3月

「セイント」

すんません、ロン毛のヴァル・キルマーを直視できず・・・ずっと笑いをこらえて(こらえられてないんですけど)いて話に集中できませんでした。

シリアスな感じで作っているのもあって、そのギャップがまた面白くて。

ただあそこでヴァル・キルマーの一人称の翻訳を「僕」にした字幕の人はナイスです。

 

「ハッピー・デス・デイ 2U」

ライアンを使って前作のおさらいを手早く済ませる手腕は良い感じで、前作に増してテンポと悪乗りに拍車がかかっており、頭空っぽにして観ているとすごい楽しい。某映画雑誌ではこのシリーズの賛否が結構分かれていたのですが、自分は割と肯定派でありけります。

BGMの使い方とか眼前落下自殺とか、明らかに整合性がおかしいけれど勢いでもっていく感じは嫌いじゃないです。

 

前田建設ファンタジー営業部

あっぶなかった。タダ券で良かった。いや本当ね、機嫌が悪い時に観てたらこの映画に対して罵詈雑言の悪罵を重ねていたような気がしないでもないです。

高杉きゅん目当てだったのに肝心の高杉くんが寒いギャグ演技をさせられてまったく魅力を感じなかったというオチ。

こういうのはやるなら全力でやらなきゃいけないっていうのに、寒々しい演技で濁すしかできないならやるんじゃないよ、本当に。福田雄一じゃないんですから。

芸人は全員ダメ(といっても二人だけだけど)。特に小木(敬称省)。あのね、テレ東のシットコム形式の番組とかコントならああいうのでもいいけどね、映画でやられると本当に困るんですよ。第一、小木の役柄が格納庫建設の発端のくせにこの人だけなんもしてないしほかのキャラに比べてまったく「マジンガーZ」に対する情熱が感じられない。そのくせ美味しいところだけは持っていくという超絶に不快なキャラクター。

明らかにアドリブをそのままOKテイクにしてる監督の判断も最低。

ラストのあの展開も、夢オチでなく最後まで貫いてくれるならまだしも中途半端に逃げるし。あそこを夢オチじゃなくしっかりと最後までやってくれてればまだもう少しよかったんですけども。

 

逆に、というか、唯一良かったのは掘削の山田さんを演じた町田さん。あの人だけは寒々しいギャグ演技の犠牲にならず、すごく役柄に誠実な演技をさせてもらえていたので。すごいいい。全然知らなかったんですけど、EXILE系の人なんですね・・・この人の演技はすごくよかったです。ウレロにも出てたんですね、彼。最近のは観てないから知らなかったんですけど、その繋がりだったのかしら?

演出で寒々しくなりそうなところも彼が真面目な表情で終始演じ切ってくれていたから山田さんが出るところだけはすごく安心できた。彼側の恋愛感情的な描写を排除したのも、この映画で数少ない良心的判断だったと言えませう。

 

 

「女教師 シークレット・レッスン」

 なんですかこれ・・・昼ドラ的、と言ってしまえばそれまでなんですけど、なんかバランスががが。

いや、面白いんですけどね。露骨にダークサイドよりになっているときの服装とか、SEの使い方とか、細かな演出が生きてますし。

「愛していない」と耳元で囁かれながら挿入されるセックスとは。

でも、そうですよね。ああいう価値観を内面化させられた人に「結婚がすべてじゃないよ!ガンバルンバ!」などと言ったところどれほどの価値があるというのか。

 

「パージ、パージ:アナーキ、パージ:大統領令

フィルモグラフィーの半分近くがこのシリーズという監督。

ランニングタイムといい手ごろに観れてそれなりに満足感を得られて非常によろしいシリーズだと思います。

1,2は「28週後」的な感じでもあるので、ややフラストレーションがたまるところもあるのかもしれませんが、まあ私はむしろこの手のものは楽しめるのでもーまんたい。

ラムロウことフランク・グリロ大活躍。

特に三作目はみんないいひとですし。

 

アバウト・ア・ボーイ

内容はともかく子役に見覚えがあると思ったらニコラス・ホルト!!

なんかこの子好きだなーと思ってたんですけど、彼だったんですね!こうしてみるとかなり名残がありますね。

とまあ基本的にはそれだけなんですが。内容はなんだかダイジェストを観てる感じでイマイチだったんですけど、まあヒュー・グラントの軽さは合っているとは思いまする。

 

コンゴ

マイケル・クライントン原作でしたかこれ。監督はフランク・マーシャル・・・プロデューサーとしては多くの映画を手掛けてきた彼ですが、どうも本作はラジー賞ノミネートだとか。いかんせんフォントのダささとかセットのチープさがテレビ映画然としているのですが、まあラスト20分付近のためにお金を使ったのだろうな、という気はします。あとゴリラの着ぐるみはやけに迫真だったのでその辺もあるのかも。

まあ100分の映画で遺跡に到着するまで一時間以上かけてはいかんでしょう。

所々で観た覚えのある俳優だったりゴリラの声をフランク・ウェルカーが担当していたりそこらへんは見所があるますが。

 

 

リチャード・リンクレイター 職業:映画監督」

トルストイとかドストエフスキーとか、なんとなくリンクレイターが小説家になりたかったというのは意外でした。

でもリンクレイターのようなマインドの監督がいることはうれしいというかなんというか。

 

「ラスベガスをぶっぶつせ 21」

タイトルはギリアムオマージュでしょうか。

ぶっちゃけ「オーシャンズ」よりも(まあ事実ベースだからでしょうが)面白いと思います。

 

 

ワイルド・ワイルド・ウエスト

何これ楽しい…!

いや、脚本とか場面の繋ぎ方とかすごい雑なんですけど、ともかくガジェットが楽しいです。

監督が監督だけにバディものかつウィルスミスってことでMIB色がやたら濃い(ちっこい銃をセルフオマージュするとは思わなんだ)。

差別ネタも字幕だと若干分かりづらくなってますが描いている時代が時代だけにかなり直接的ではあるものの、そこはサウスパーク的なノリに近くちゃんと笑えますし、笑いは強いですねこの監督。

 

まあとにもかくにもガジェットが楽しいのでそれだけでも一見の価値あり。こういうタイプのガジェットって意外と少ないですし。

 

コッペリオンの小津姉妹のアレってこれのオマージュだったんだすなぁ、と今更知る。よく考えたらキャラ名に映画監督の名前使ったりしてるし、今見直したらそういうのを再発見できそうす。

これネットフリックスとかでテレビシリーズにして毎回こんな感じのフォーマットで毎回毎回色々なガジェットを登場させるドラえもん方式でやってくれないかしら。

ないか。

 

ホテル・ルワンダ

今更観賞。そういえば「THE PROMISE」の監督だったんですね。

なるほど、といった感覚。

2,3年位前にNHKでやってたルワンダの今を追った番組で、ツチ族の人とフツ族の人が一緒に耕作をしている風景を見てくらくらしたのを覚えている。

何せ画面に映っている女性の一人は顔に大きな切り傷を負っていて、その傷を負わせた男性が一緒に労働に勤しんでいるのだから。

そこに至るまでには佐々木和之という日本人の仲立ちがあったのだけれど、もちろん彼女は彼を許したわけではなかった。

元々隣人だった彼女たちがそうなった経緯。それがこの映画の中で描かれる。

鉈が劇中で一瞬とはいえクローズアップされるのはそのためなのだろう。

「THE PROMISE」もそうだったけれど「殺されるかもしれない」という身もふたもないむき出しの感情が惹起される状況のもたらす恐怖というのは、それが得体のしれないものへの恐怖ではない(ホラーとか)だけに直接的に響く。

 

マネーモンスター

つまらなくはないんですけど、何か決定的に物足りない。

ミームのシーンと主題歌はよかった。言いたいことはわかるんだけど、貧困白人が一人死んだところで何一つとして変わっていないということからくる徒労感だろうか。

というよりも、構造的に欺瞞がはびこっているからだろうか。いや確かにあの人は分かりやすい悪徳ではあるんですが、根本的な問題はもっと深いところにあって、それが前面に展開されずとも絶えず画面中を漂っているのにそれを無視してわかりやすい決着に飛びついているからなのかもしれない。

半沢直樹的な弱者に寄り添った勧善懲悪。最後の最後で彼を殺したことの意味を彼自身の行為に対する安易な贖罪ととるか、この世の非情な残酷さの発露ととるかでかなり意味合いが変わってくるのですが、ジョディ・フォスターはどういう意図だったのだろうか。

 

「ザ・メキシカン」

なんか変なバランス。

笑えるっちゃ笑えるんですけどあまり笑っていられるような事態ではないのが。

バビンスキーならぬヴァービンスキーってどこかで聞いた名前だと思ったらパイレーツシリーズの監督でしたか。

この人って純粋なアクション(アクション映画という意味ではなく)を見せてるのは楽しいんですけど、お話としてはなんだか印象に残らない気がするんですよね。

ゲイに対するあの反応はまずいと思うのですが、まあ20年前の映画だとあんな感じでも許されたのだろうか。

ラストカットの信号とかブラピとか、あとは3人旅の場面とかも結構好きですけど、まあ色々とおざなりではある。

凄腕の殺し屋が「死亡確認!」を怠るのとか、まあいいや別に。

 

「BLACK FOX:Age of  the ninja」

太秦ライムライトのあの人主演なんですね。

アクションはさすがですが、世界観が中途半端にというか、やるならもっとやってもいいと思うのですよね。

まあニチアサ特撮やら牙狼やらに慣れてしまっている弊害なのかもしれませんが、時代劇のオーバーアクトに世界観が追いついてないように見える。

あとはもっと声を張ってほしいところがちらほら。

全体的にアンバランスな気がする。

 

地獄の逃避行

地獄要素は「地獄の黙示録」に合わせた日本側の配給にのみ依拠している、という「戦争のはらわた」案件なわけで。

打算なき戯言。あるいは夢幻の戯事。ホリーのモノローグで始まるこの映画はキットの最期すらもホリーのモノローグで語られるのみ。

若気の至り、というにはあまりにも取り返しのつかない道程。

ホリーのはだえを包む色に彩られ頻繁に変わる衣服は、しかし彼女の父親の所有物であること以外の何物も示唆しない。

だから父親が死んだところで悲しみはしない。けれども解放されるわけでもない。

これは多分、ホリーの束の間の夢だったのだろう。

弁護士の息子と結婚したのは、離陸したはずの現実への、夢想からの着陸にほかならない。彼女が白昼夢として考えていた「誰か」であり、それは誰でもいい「誰か」でしかなかった。

信用できない語り手、などという概念それ自体が呑気なものだと個人的には考えているのだけれど、この映画の語り手であるホリーにとってはそれ自体の信用の有無なんてどうでもいいのではないだろうか。

それにしてもシシー・スペイセクはこの後に「キャリー」だったんですね。この人のお世辞にも美人とはいえないどことなくアンニュイな佇まいが好き。

 

「ハネムーン・キラーズ」「地獄愛」といった愛の地獄に連れ立つこともなく。それは至極真っ当な、しかし決して正気ではない退屈で抑圧された現実の生に舞い戻ることを意味する。

だからあの一瞬の夢が、信用できない語り手としての彼女のナラティブがなお一層輝きを帯びるのでせう。

 

「タリ―と私の秘密の時間」

「ヤング=アダルト」のジェイソン・ライトマン監督でしたか。納得。

「若女将は小学生」に通じるセルフケア映画でした。「もっと自分をケアしなきゃ」というセリフと、その矛盾の持つ温かさに少しジーンときた。

一人二役の「テルマ&ルイーズ」あるいはフェミニズム的「ファイト・クラブ」(違)、とでも言うべきか。

セロンは相変わらず肉体にコミットしていて、チャンベールに勝るとも劣らない肉体の酷使具合。だからこその説得力なわけですが。

息子のこぼしたジュースのかかった服を脱ぐとそこに露わになる腹、あるいは出産直後のシーンでちらりとうつるオムツ。

母親という存在の身体を徹底的にこき下ろし、さらけ出し、そうすることによってこそ「産む機械」などではないことを突きつける。

タリ―が来るまでの前半部は、というかタリ―が「馴染んで」くるまではひたすらに閉塞していくばかりで、この調子で進んで行かれると困るなぁと思っていたところだったのですが、それは文字通りマスターベーションではあるのだけれど、それが決して内向きにならない。どっかのラドクリフを弄ぶのとはわけが違う。

あとマッケンジーデイビス。彼女もさすがというか、「ターミネーター」のときも思ったけどこの人ってウーマンスの素養がめちゃくちゃすさまじくて、どこかでセロンとの絡みがあるのではないかとハラハラドキドキしてしまいました。

実際、この人はそういう界隈ではアイコン的存在になっているそうですし。

 

さてそんなマッケンジーが演じたタリ―の存在なのですが、ぶっちゃけその正体は驚くべきものではない。いやむしろ「やっぱりね」という印象を受け、おそらくは監督もどっきり的なフックとしてではなく、そういう存在だということを暗に示そうとしていたはず。そして、だからこそ感じ入ることができる。

たとえばファーストコンタクトでのやりとりの孕む二面性(片やポジティブな「絆」を、片やネガティブな「縛」としての子どもを)は、子供の存在に手を焼き疎ましく思うマーロに対し、タリ―は至極真っ当な正論を口にする。

科学的論拠を並べ立てるタリ―にどこか鬱陶しそうにしつつも、なぜだかイヤミがない。さもありなん。どっちも自分なのだから。

 

他にもタリ―がマーロのオルターエゴであることをにおわせる描写はそこかしこにあった。セックストークから始まるコスプレセックス、その際にドリューが誰を見つめていたのか、そもそもなぜマーロはいともたやすくごく自然にタリ―を寝室に招き入れるのか、寝室に向かう階段のシーンのすりガラスで二人がモザイク的に混然一体となるカットなどなど。説明されずとも映像としてタリ―の存在がそういうものであることがにおわされる。

 

だから事故後の展開は驚きではなく「ああ・・・そうだよね・・・」となる。

何もかもを一人で抱え込み、一人で抱えきれなくなったから自分をもう一人増やした。かつての自由奔放だった自分を。

ただこの映画はそれが悔悟に陥らない。マーロ自身が口述するように、マーロは決して今の境遇を呪っているわけではない。そして何より、これまで強い女を演じ続けてきたシャーリーズ・セロン演じるマーロが、誰かを(まずは別なる自分を、そしてその自分を通じてドリューという身近な他者を)頼ること=弱さと捉えかねないことを、マッチョイムズに支配されえない異なる強さの発露として肯定的に描く。「500ページの夢の束」でもやもやした部分を救い上げ肯定的に描いてくれる。

 

ま、前半であれだけ母親の負荷を描いたんだからもうちょっと「父親の参加」(という表現がもう母親という存在への負担増し増しの証左なんですが)を描いてもよかったんじゃないかなーと思いつつ、しかしラストカットによってようやく他者である「父親が参加」したわけで、それはようやくコミュニケーションを踏み出したことにほかならず、だから終盤までああいう描き方(指輪をはめた手が握るのがゲームコントローラーというわびしさよ・・・)に徹したのかも。

ドリューがようやく人間となったのはラストカットからなので、ああいうステレオタイプな仕事ばかりの父親として描いたに違いない。

 

新しい学校で触れるやさしさも含め(「ワンダー~」よりもよっぽどこっちの方が好きです私)、これは他者の存在を認めることから始まる映画であり、ラストカットに至ってようやく始まる物語なのでせう。

 

カーステレオのぶつ切り音楽連続カットがすごい好きなのですけど、ああいう編集ってあんまり見かけない気がします。

 

ウーマンス映画としても垂涎ものです。

 

「グレース・オブ・モナコ 王妃の切り札」

演じることを愛する女優がその生涯において自らを演じ続けること。

それがカメラの前でも観客の前でもないことに、彼女は幸福を感じていたのかどうか。

ただ言えることはそれらよりもより大きな国民・大衆というマス相手ではあった。

 

「チップス 白バイ野郎ジョン&パンチ再起動!?」

えーこれ劇場公開されてなかったんですか?

下手な大作洋画や邦画よりも面白いのに。ペーニャもダックスも良いキャラしてるし、ギャグの完成度も高いし、そのギャグに対してかなりお金も使っているしマイケル・ベイとまではいわずともシンプソンズやTF並みに些細な衝撃で爆発する車両といいグロいギャグといいかなり良質なコメディ映画だと思いまする。

 

 

 

継承体感

「ヘレディタリー/継承」4DX再上映を。

4DXは確か「パシフィック・リム」と「GotG.vol2」で体験済みだったけれども、ホラー映画では初めて。結構椅子の動きが結構違っていて、これはこれでかなり相性がいいんじゃないかという気がする。

屋根裏の遺体の臭いの表現としてScentというのはわからなくはないのだけど、しかし腐臭というにはあまりにいい匂いすぎて不快感はあまりない。かといって本当に悪臭を提供されてもそれはそれで困る(同じようなことを前に書いた気が)わけですが。

あとは映画のカメラワークによってかなり座席の動きも変わってくる、というのもありまして、アスターの映画はゆっくりとパンしていくシーンが多く、それに合わせて座席もナナメになるのですが、これが何とも言えずなかなかよかった。動きもさることながら、動く際の座席の軋む音なんかも不穏な感じがしてよい。

あと燃えるシーンで首元が暖まったり、風が吹くシーンで送風されたり、というのがあった。暖まるのはともかく、送風に関しては劇中の風の音と劇場の送風機の音がまったく別であるためにむしろ一体感がそがれてしまう、というのはあったりして、この辺はパンに際しての座席の音とは逆に作用してしまっています。

4DXの動きって誰がどう設定してるのか、結構気になります。


本編自体も楽しかったです。
家(セット)をミニチュアに見せるような演出が多く(特に扉から家に入ってくるカットはほぼすべて真横から撮影してますね)、独特のセンスが楽しい。

ミニチュアで始まりミニチュアで終わっていたり、ラストのあのシーンもしっかりジョーンの家ででかでかと伏線が提示されていたしますし、この辺はやっぱり手堅い。
なんというかこの人はオカルトとかスピ系の因果みたいなものを上手く取り入れている。ただそれは、恐怖心の裏返しとして神経症的な理路整然さなのではないかと思ったりもする。

まだ長編2作しかないので今後どうなるのかわかりませんが、アスター本人が映画を作るにあたって私的な部分が云々と言っているくらいだから、このオカルト・スピ系を使うというのは、もしかするとある法則に無理やりにでも当てはめようとする試みなのかもしれない、と。


理不尽で不条理なものとしての超常現象を、ホラーというジャンルであれば臆することなく描くことができる。現実の不条理さを、そのままホラー映画の不条理さに適用し、そこにオカルティズムの因果を当てはめ投射することでアスターはセルフセラピーを行っているのではないか。

たとえば現実である人がある事故で死んだとして、そこに事故の原因を観ることはできてもその人が死ぬ因果を見出すことは不可能だろう。せいぜい「運がなかった」というくらい。

けれど、ホラーであればそこに一定の法則を付与することができる。というよりも、それこそがホラー映画の肝であるようにも思える。
キャビンに入ったから殺される、ビデオを観たから殺される、家に入ったから殺される、濡れ場のカップルは殺される。なんでもいいけれど、そういうルールによってホラー映画は進行する(もちろん例外はあるけれど)。

だからアスター監督がホラーというジャンルに意識的なのは、そういうことも関係しているのだろう。

「ミッドサマー」のホルガにしても、主人公たちにしてみれば理解不能ディスコミュニケーションの相手である村人も、彼らからすれば彼らなりのルールがある。

「ヘレディタリー」にしてもピーターには奇異な母親の行動も、箱の外からからみれば連綿と続く法則に依っていることがわかるし、光の正体も(パンフの小林さんの解説を読まずとも)類推することはできる。

まあ精神疾患を遺伝的・器質的なものとして扱うことを許すその精神性はいかにも西洋人らしいある種の傲慢さではあると思うのだけれど、「ミッドサマー」を観るかぎりだと本人も自覚しているのだろうか。

ともかく、アスターは多分、そうやって自分の映画の中に法則を作ってそれをメタ的に俯瞰することで(この映画のミニチュアという「箱庭」はこの映画そのものではないか?)安心したいのではないか。

世界の不条理を自分自身で掌握するために。アスターが映画作りをセラピーだと言ったのも、そういう意味ではないだろうか。

ハーレイに乗り回されよ

ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PRAY」を観る。

観た人の感想でテンポが速い、というのを結構目にしたんですけど・・・うーん?

確かにカット割りの連続とかシーンの切り替えの連続で画面自体はめまぐるしく動くのだけれど、その見せ方自体は「スーサイド・スクワッド」と同じ手法を採用しているためにむしろ鈍重にさえ感じられました、私。

ただまあ、これは明らかに意図したものではあるわけで。

スーサイド・スクワッド」で受けた部分、つまりキャラクター(というかマーゴっと・ロビー演じるハーレイ)を前面に押し出し過剰に装飾することを今作でも採用し、前作ではさばけなかった「その他のキャラクター」を今回は「その他」にせず一人ひとり描いているのでそこまで気にする人がいないのでせう。

 

お話は雑ではありますが、「物語」は二の次にキャラクターに注力するその姿勢は801文化に通じる。とはいえ、実のところそれは「スーサイド・スクワッド」からのものであり、その手法を採用し連なる「ハーレイ・クイン」は図らずもフェミニズムの文脈に接近しているようにも見える。

とはいえそこに子細なテクストを読み取れるか、といえばかなり表面的なウーマン・パワーにとどまっているようにしか見えないのですが。

 

個人的にはハントレスが良かったです。どこかで見た顔だお思ったら「グラインドハウス~」や「スコット・ピルグリム」のメアリー・エリザベスさんだったんですね。

髪型のせいかやや面長に見えましたがぽんこつカワイイ。

 

まあでもいろんな意味でハーレイ(マーゴっと・ロビー)がジョーカー(ジャレッド・レド)をぶっ飛ばすシーンは欲しかったなぁ、と思います。

2連続

「ミッドサマー」と「黒い司法」を連ちゃんで観賞。おかげで感情が疲弊しますた。

 

アリ・アスター監督の噂自体は「ヘレディタリー」の時点で耳にしていたのですが、結局未だにそちらは観れておらず、「ミッドサマー」が初アスター作品だったわけですが・・・。

気持ち悪い映画でございますね、これ。いや本当、「ヘレディタリー」もこういう感じなのかしら?だとしたかなり食指が動くのですが。

ていうかこんな作家性が強くて強烈なグロ(狭義にも広義にも)映画がシネコンにかかっているというのがすでに気持ち悪いのですが。これ完全にミニシアター系でかかってるような気持ち悪さなんですけど。あとこのゴアの感じはヴァニラ画廊にありそうでもあり、やっぱりマスを向いた映画という感じがしないのですが。

 

ともかく画面が気持ち悪いです。

カット一つあたりの長さとそれに連なるカメラワークの肌にこびりつくようなのっぺりした感じ(曖昧)。なんかしっかり叫ばせずにカットいれるのもなんか気持ち悪いし、最序盤での異様にダウナーなライティングに反してあの村では白夜という常に日の光が注いでいるという、自然の持つある種の気持ち悪さもそう。あの序盤の暗さはダニーのメンタルのアレゴリーとして機能しているはずで、にもかかわらず半ば強制的に日の下に晒され明るく染め上げられるという不一致の気持ち悪さ。

都度都度シンメトリックな画が登場するのに、そこはかとなく左右対称がズレていたりする(スタンドライトの向かって右側の頭が若干もたげていたり)のも気持ち悪いし、会話のシーンにしても二人を画面に収めたりカット割ったっていいところでわざわざ鏡とかテレビ画面とか使うし。

ともかく、そういう「なんだか生理的に気持ち悪い」を詰め込んだ映画でございまして・・・ゴアな表現も耐性がない人にはかなりきついであろうシーンも多々ありますし、かと思えば笑ってしまうシーンも多々ありまして(交配儀式シーンとか熊の着ぐるみかぶらされて生きたまま焼かれるという、ともすればギャグにしかならないシーンなどなど)、そういう「笑ってしまう」ディテールというのもなんだか気持ち悪くて、とにもかくにも気持ち悪い映画でございまする。

ある年代の日本人的な感覚でいえば「まごころを君に」の、こっちとあっちの見解の相違もとい断絶が生み出す気持ち悪さ、とでも言いますか。

なんでテーブルに並んでる食事が蠢いているんですかね、ピント合ってないしぃ。花の鎧(語彙喪失)を引きずるピューの絵面のばかばかしさとか、聖典が安置されている建物のデザインとかとか・・・。

気持ち悪いディテールを一つ一つつぶさに上げていったら枚挙にいとまがない。伏線もしっかり張ってたり抜け目ないところもあるし。

 

しかしどことなく既視感を覚えたりもする。崖のシーンのワンカットなんかは明らかに黒沢清の影響だろうし、ドラッギーなシーンもどことなく見覚えがあったり。

 

ともかく異様で気持ち悪い映画でした、「ミッドサマー」。まあ、切ない話でもあるんですけど、初見だとそういうものより絵面のインパクトががが。

とか書いてて思ったんですけど、これ(ディス)コミュニケーションの話なんですね。

あ、パンフの装丁は凝っててよかったです。

 

それに比べて「黒い司法」の何と人に寄り添った分かりやすい映画であることか。

泣いてしまった。元々涙腺が弱いというのもあるのだけれど、これは泣く。

監督のデスティン・ダニエル・クレットンについては全く知らないのですが、この映画の前から評価されている監督だったのですな。

これまでの作品の感じから、マイノリティ(と呼ばれる)人を起用し寄り添った映画を作っているようなので、その文脈ではわかりやすい。ブリー・ラーソンマイケル・B・ジョーダンというとミーハーな私はMCUの被抑圧者イメージの文脈から起用したのかと思っていたのですが、デスティン監督の初期作からラーソンは主演を務めていたりするので、MCU文脈はあんまり関係なさそうです。早とちりはいかんですな。とか思ってたら「シャン・チー」の監督やるらしいし、やっぱりMCU文脈あるじゃんすか!

でもMCUってことはアクションシーン多めになる気がしますが、この「黒い司法」だけじゃアクションの腕前がどうかわからないのですが、「アメスパ2」の例もありますしその辺はもう分業体制にするのだろうか。

 

脇にそれてしまいましたが、先述のようにこの映画は登場人物に寄り添った映画になっておりまする。それは監督がハワイ州の日系・アイルランド系・スロバキア系の血を引くアメリカにおけるマイノリティ(と呼ばれる)出自だから、というのも大きく反映されていそうです。

まず顔面のアップが多用されている。いや本当、めちゃくちゃ多いです。そしてそれに耐えうる役者陣の表情の妙。

みんな軒並みよござんす。マイケル・B・ジョーダンは口元と目元の機微が特によくて、あらゆる場面で展開される差別(自分に向けられたものだけではない)への怒りを湛えた表情が絶妙。そりゃこんな目にあったらキルモンガーになりますよ。

あとジェイミー・フォックス。「ベイビー・ドライバー」の印象が残っていたし顔つきも割と鋭いタイプなのでどちらかというとバイオレンスを与える側っぽくもあるわけですが、しかし「コラテラル」「アメスパ2」などなど、むしろ不条理に巻き込まれる被害者を演じることが意外と多い「巻き込まれ系主人公」体質の彼。本作でも不条理に巻き込まれるわけですが、その自分の置かれた状況・世界に対する諦念と怒りの表出の仕方がこれまた良き。

こういう書き方をすると誤解を招きそうなのだけれど、監房の人たちもみんな輝いていた。演技というかほとんどナラティブそのもののようで、その語りそのものが。

忘れてはいけないのがマイヤーズを演じたティム・ブレイク・ネルソン。この人の口をゆがめた演技とか、ある出来事によって変質してしまったことが後で判明するわけですが、それを体現する身体の動きといい、この人も大概達者であります。

で、この寄り添い方で思い出したのは「チョコレート・ドーナツ」だった。そこはかとないカメラの揺れとかも含めて。

 

この映画にはあまり悪が強調されることがない。一人だけ悪徳オンリーな描き方をされている人がいなくもないのですが、そもそもあの人は一か所を除いてほとんど画面を占めることすらないわけで、誰もがカメラに据えられるこの映画においてそれはほとんど亡き者状態ではないだろうか。少なくとも、大きな構造としての悪はあっても、それを個々人に収束しようとはしない。

だからこそ、マイヤーズやトミーが正義を述べようとする際に、その葛藤として天秤にかけられるのは悪ではなく痛みや恐怖なのだろう。

正義の反対側の秤にかけられるのは悪ではない。本当の悪はその天秤そのもの=個々人を抑圧し破壊しようとさせるシステムそのものにある、ということ。

 

 

 

2020の2月

「オッド・トーマス 死神と奇妙な救世主」

死者を見ること、それを受け入れることの断絶。

イェルチンがこの役、というのが今観ると泣けてくるというか、慰めになるというか。

 

 

「エアポート75」

あんまり派手な絵は無いのにしっかりどっしりしている。

 

「ナビゲイター」

アランシルベストリとはまた豪華な。

鉄道の線路を往復するリフレインが好きなのだけど、これってフェチなのかしらやっぱり。

なんというか、いわゆる一夏の思い出みたいな、ふとしたときに思い返すようなそんな名残のある映画でしたな。

 

「特捜部Q 檻の中の女」

音がきついです。なんかドラマっぽい。

 

「アビス 完全版」

だいぶ昔に通常版を観ただけだったので記憶がかなりあいまいだったんですけど、ここまで露骨に「2001年~」オマージュがあったっけ、と。

しかしこうやって見るとキャメロンってSF作家というよりもかなり男女のロマンスを重視する監督なんじゃないかしら、と思えてくる。

ターミネーターにせよアビスにせよアバターにせよ、そもそもタイタニックなんてど派手な絵面以外はそういう男女のロマンスというかイチャイチャでもたせてるようなものですし。

そう考えると、この人って結構フェミニズムと親和性がありそうな気がするんだけど、どうなのだろう。

しかし波の表現がいい。

 

戦場のピアニスト

きっつい。BGMがほとんど響かず、ときたま聞こえてくる音楽は戦火の音に瞬く間にかき消される。かと言って徹底してBGMを排しているのかというと、そういうわけでもない。それは劇中で流れる音楽のあわいに流れる些細な音でしかない。けれど、それは多分ノードなのだろう。シュピルマンの生を繋ぐための。

彼の依って立つ音楽なるものは鉛と火薬が奏でる巨大で強大なノイズによて容易くかき消される。なにせ、そのシーンからこの映画は始まるのだから。

「戦場」の「ピアニスト」。これほど合致しないものもそうないだろう。それは戦場においてピアニストという存在の無力を徹底する。シュピルマンは何一つとしてこの映画で活躍することはない。ただひたすら状況に翻弄され続け流されては救われていくだけだ。いや、正確にはラストシーンも含めて二か所あるのだけれど、あれは音楽の力がもたらしたものなのか、それとも諦めがもたらしたものなのかが実は巧妙に分かりづらく描かれていたりするのではないかと疑っている。

彼の無力はいとも容易く射殺されていくユダヤの人民たちの質量感や地平線まで続く廃墟のアーチの無限と錯覚する遠大な荒涼さによって裏打ちされてしまう。

 

すぐそこに首をもたげて横たわる「死」。生活と地続きのいつ訪れてもおかしくない「死」。ユダヤの民がこれほどまでに恐ろしい状況下にあったことを、この映画は強制収容所などといった巨大化した固有名詞を引用することなく、日常の中に死を潜ませる。それはほとんど「さよなら、人類」における強制収容所の悪夢のシーンを想起してしまうほどだった。

 

ことさら強調することなくに描かれる「死」。そこから生還した末に描かれる盤を打鍵する指の動き。

不動の「死」に対し流動し続ける「生」。

描かれる「死」があまりにも重すぎて「生」が押し負けていると思いますよこれ。

 

バッド・ルーテナント

そういえばヘルツォークの映画をまともに通して観るのこれが初めてだった。

これ一応フィクションですけど「日本で一番悪い奴ら」のような実録ものが日本にあるのにアメリカでああいうことがない、なんていうことはないわけで。

ニコラス・KGの過剰演技と相まって(どうでもいいですが和製ニコラスといえば藤原竜也が思い浮かぶ)爆笑ものでした。

私からすればあれはほとんど非日常の領域だし、警官とか軍人とかいった暴力(とりわけこの映画では。というかアメリカ?)と近接している職種の方々にとっても、あれはほとんど非日常なのではないかと思うのだけれど、ことこの映画のテレンスを見ていると日常と非日常の垣根が融解・・・というかインビジブルになっているのではないかと思う。

それはドラッグによる精神作用でもあるだろうし、きわめてマッチョイムズの蔓延するあの世界に適応せんがための精神的な負荷のせいでもあるだろう。というか、だからこそのドラッグなのかもしれないけれど。

さきほど例に出した「日本で~」の綾野剛にしたって、その一線を踏み越えることには自覚的だったし、まあなんでもいいけど「トレーニング・デイ」にしたってあれはイーサン・ホークという他者の視線を取り入れることでデンゼル・ワシントンがいかに非日常的存在であるかということを自覚させる作用があった。

んが、この映画ではそういった垣根を意識させるようなものが一見するとほとんどないように見える。

ともかく、悪徳を実践する中で、あらゆるボーダーが彼の中で見えなくなってきているのではないか。

署に賭博で儲けた金を持ってこられるシーンなど、それがテレンスの意思によるものではないにしてもほとんど狼狽などもせずに受け取るあたりなど目を疑う。

そこにくると、この映画で印象的に使われる爬虫類と魚類たちは何なのか。やすっぽいハンディカムで撮ったようなイグアナしかり冒頭の蛇もしかり。まあキリスト教的に言えば爬虫類というか蛇なんていうのは悪の暗喩であるし、魚はキリスト教にとって重要なシンボルであるわけだから、あのラストを見ればわかるように善なるものとして見れなくもない。

一人の人間が善悪を日常と非日常をボーダーレスに往来すること。そこには一切の間隙が存在しない無秩序な混沌が渦巻いている。

それは安らぎが彼の魂に安らぎが存在しないということ。そこまでさんざんハイテンションなテレンスが、ラストカットにおいてのみ静寂を得ること。

そのわずかながらの安寧=救いも、しかしニコラスの顔面や僅かな挙動が混沌への回帰を予感させる。

 

要するに躁なニコラスくんがラストで一瞬だけ落ち着いたという話です。

 

「X-メン ダークフェニックス」

いよいよジェシカ・チャスティンが人間をやめてしまった・・・。

これまで「モリ―ズ・ゲーム」や「ゼロ・ダーク・サーティ」において非人間化されてきた彼女が文字通り人間でなくなってしまった、という意味では記念碑的な映画でありましょう。

メイクのせいか、というか人間でないことを表しているのかどうかわかりませんが、非常に魅力の薄い顔でございまして、そこがまた非人間である彼女にとっては実は幸福な作用をもたらしているのではないかという気がしなくもないのですが。

まあ、それなりに楽しめはしました、はい。

 

ソウル・キッチン

雑貨屋みたいであのキッチンの空間がたまらなく好きなのでっすが、なんだか妙なテンションの映画でございます。

 

「スモールソルジャーズ」

うーん。こんな感じでしたっけ?

さいころに観たときはもっと超楽しい印象があったんですけど、なんか思っていたほどでもなかった。思い出補正なのだろうか。

ジョー・ダンテなので相変わらずブラックな感じだったり本気で怖い部分だったり、というのは一貫している。

しかしコマンドー連中ばかりにスポットが当たっていてほとんどフリークス連中に時間を割いていなかったりするのが、今見るとすごい奇妙なバランスに見える。

おもちゃ屋の店の名前といい、どことなく自己言及的でもあるんですよね、この映画。

 

ウイラード

なんですかこれ・・・いや本当に何なんですかねこの映画。

世にも奇妙な物語にありそうな、しかしここまで極端なバランスというのもそうはない気がするのですが。

しかしやっぱりなんだこれ。

なんか「銀河ヒッチハイクガイド」みたいなネズミの扱い方。

主人公の境遇を考えると、あれくらいの増長は許してやってほしくもないのだけれど。

あとボーグナインが久々に観れてよかった。あの人好きなんですよね、個人的に。

 

ザ・ファーム 法律事務所

面白い。いやほんと、これ面白いです。

こんなアクション性の薄い映画なのに走らされるトムクルーズ

音楽も良いし、ちょっと長いけどゲームものとしてはかなり面白い。

 

チェンジリング

なんか観た気になってたけどまったく観たことなかった・・・。

いやしかし凄いですねこの映画。

いろんな問題を孕んでいるのですが(アンジーの息子だけでなく、この映画内で描かれる児童「へ」の描写、公権力の腐敗とそのアンチとして浮上する臭いを放つ「オウム裁判」に似た問題、ミソジニーガスライティング・・・etc)、何よりアンジーの迫真の演技に魅せられる。手の震えのマジっぽさとか、放水シーンとかもそうですけど。

あとは「ダークサイド・ムーン」を昨日観返していたばかりだったのでマルコヴィッチのマジ顔のギャップに変に笑えてしまった。

まあイーストウッドなので相変わらず泣きはしないんですけど。

余談ですが頭に電気を流すあれ、私は実際の現場を一度観たことがあるのですが、もっと体が勢いよく「バツンっ!」って感じに軽く撥ねるんですよね。

あれを意識があってなにも脳の器質に問題がない人にやる、物理的というよりも心理的なダメージの方が。どうも部外者から見るとアサイラムって治療するよりもむしろ積極的にトラウマを植え付けにいっているようにしか見えないんですよね・・・最近の精神病院はもうちょい明るい雰囲気ではありますけど、地方に行ったらああいうのがごろごろあるのだろうなぁ・・・。

 

ファイト・クラブ

吹き替え初めて観たんですけど良いですねこっちも良いですね。

しかしこの映画を公開当時から称揚していた連中は現状を見てどう思っているのだろうか。

 

「ダラス・バイヤーズ・クラブ」

ウッドルーフは生きることに怠惰だったわけではなければ怠惰に生きていたわけでもない。ただ生(性)を貪っていたにすぎない。

だからこそあそこまで生き延びることができたのだろう。

 

メン・イン・ブラック インターナショナル」

妙に脚本がごたついているなーと思ったら製作段階でトラブルがあったんですね、これ。

日本公開時でのプロモーションではまったく感じさせないあたり日本の配給と広報はある意味で有能なのかもしれない。

MIBシリーズでは一番退屈でした。もったいない。

 

「アンノウン」

ジェイソンボーン系の映画では割と成功例ではなかろうか。あほっぽいところも含めて。しかしニーソンというだけでもう笑えて来てしまうくらいニーソンなのですが、ニーソンはセガールみたいな路線にでも行くつもりなのだろうか。

いや面白いんですけどね、それはそれで。

 

「海辺のリア」「裏切りのサーカス

なんか、前者はもはや仲代達也の仲代達也による仲代達也のための映画・・・もとい舞台といった趣。望遠も、奥行きを感じさせない画面構成も、1カット当たりの長さも、何もかもが仲代達也のナラティブに貢献している。

仲代達也の演技が凄まじすぎる。やばいです。

で、後者も後者でイギリスのおっさんおじいさん名俳優が雁首揃えてモグラ炙り出しとかなんかもうそれだけでおなか一杯。トム・ハーディの絶妙に似合ってない金髪もあれはあれで面白いのでよし。