dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

DOV

珍しくというか久々にインディー映画を観て来た。

「GOOD BOY」

まったくノーマークだったのですがタイムラインに流れてきて「え、ナニコレ面白そう」と思って調べたら割と近場の映画館でやっていて、回数も多かったので観て来た。

しかしこういうインディペンデント系の映画こそパンフレットが欲しいというのに、公開から1週経っていたこともあって売り切れてましたよ。

あとこういう映画を観るときに限って体調があまり良くないというか、寝起きでそのまま映画館に直行したもんで頭がクラクラしていた。

 

かなり興味深い映画で、割と実験的ではあると思うのですが、見心地は必ずしも良くないのではないだろうか。特に、犬が好きな人にとっては。犬が直接的に傷つくというわけではない(制作背景を考えると「それ本当にインディ大丈夫か?」と思うシーンもあるんだけど)のだけれど、この映画はある意味で根本的に犬を突き放しているので。

実験的ゆえに必ずしもうまく機能していない部分もあれば限界みたいなものもあるとは思う。もっとも、後者に関しては映画そのものというよりも、犬と人の間に横たわる生物的な断絶であり、むしろその限界を露呈させることこそがこの映画の最も舌鋒鋭い切れ味の部分であるともいえる。

 

最初にざっとまとめてしまうと、これは「飼い犬の環世界における死をメタフォリカルに描いた」実験的映画と言えるのではないだろうか。

 

この映画は宣伝で言われてるように犬の視点(といっても一人称的なものではない)で描かれる。まず最初のカットがインディ(わんちゃん)が目を覚ますカットなのだけれど、画面中央に長々と鎮座する彼が本作の主人公であることを言外に示し、以降はカメラの高さも犬である彼に寄り添ったアングルが徹底される。もちろん、完全なPOV(DOV?)ではないので俯瞰のショットなんかもあるのだけれど、ここで枢要なのは映画において「人が人を撮る」ように「犬を撮」っていることだ。

これは当然のように思えるかもしれないが、そう単純な話でもない。なぜならある文化において美しいとされるものをより美しく撮ろうとすることと、別の文化圏において美しいとされるものを撮ろうとする際にはその撮影の段取りは異なってくるからだ。

端的な例として、白人の膚を美しく撮ろうとするのと黒人の肌を美しく撮ろうとする際に選択されるライティングやアングルは必ずしも一致しない。「ムーンライト」の公開時に散々指摘されたことだから好例として引き合いに出したけれど、要するに「犬の視点」から撮るということは、そういうレベルにおいての調整がなされなければならないということだ。

そして、それゆえに(それだけではないけど)本作においては人の顔がそれと判別できるようには映し出されない。

犬の視点(カメラの高さ)からでは、人の顔を見ることはできないからだ。もちろん、犬を飼ったことがある人ならば愛犬とアイコンタクトを交わし顔を近づけては顔を舐められたりすることはあるだろうから「人の顔を認識していないなんてことはあるはずがない」と言いたくなるだろう。現に本作でも、そのような心温まるやりとりは描かれる。

けれど、それはあくまで「人の視点」からそう観ているに過ぎない。なぜなら、私達は犬ではないからだ。当然のことを書いているけれど、これはとてつもなく残酷なことでもある。

加えて「それだけではないけれど」と括弧書きしたのは、「犬の視点」だからという理由とは別に戦略的に人の顔を映さないようにしているからだ。

映画を観れば分かるのだけれど、この映画においてはっきりと顔が映し出される人間は「死者」だけだ。厳密には小屋の隣人のおっさんの顔のクロースアップもあるのだけれど、狩猟用の服装で頭のてっぺんから靴まで覆われていて顔はまったくわからない。

いずれにせよ、個としての顔が分かるショットとは、すでに死んでいるインディの飼い主たるトッドの祖父の幻影と、死んで霊となり遊離した自分の体を認識してからのトッドだけだ。トッドの妹のヴェラに至っては、最後のシーンで登場するにも関わらずその顔が分からないようなアングルと被写界深度で撮られている。

つまり、本作において人がその主体となりうるのは「死」においてだけなのだ。某マッドサイエンティスト曰く「生まれ落ちれば、死んだも同然」である。

であれば生者としてでなく死者としてのみの主体として人間をカメラに収めることに何の不都合があろうか。

翻って、インディは「死」を泥のようなものとして(比喩的に)認識している。

だから死にゆくトッドはインディからすれば泥に覆われていく=「死」に蝕まれていくことが視覚的に描かれる。

けれど、犬にとってはむしろ嗅覚こそが感覚器官として枢要であろう。ヴェラが「犬は病気の臭いも嗅ぎ取るのよ」と劇中で言うように、トッドとインディが祖父の(呪われた)小屋に訪れてからというもの、インディは常ににおいを嗅ぎまわっている。それは「隠喩としての病」ならぬ「病としての隠喩」を、「よくわからない泥」というものとして視覚的に翻案したものだ。

それはトッドに迫る「死」の臭いをかぎ取っているからに他ならない。

そもそも、冒頭からしてインディがトッドに迫る「死」を感じ取っていたことを考える(トッドは開幕死にかけてたし)と、「呪われた小屋(で暮らしていたせいで死んだ祖父)」という劇中の話はそれこそ本作が物語のレイヤーと映像そのもののレイヤーを意図的に混濁させることによって、本来であれば人間には感知できない犬の「環世界(=嗅覚優位な世界)」を「泥」という視覚的なメタファーの次元で描くことを可能にするための方便だと言える。

インディがかつてその小屋で暮らしていた祖父の飼い犬(スカーフかわいい)と夢の中で同化し、幻視し、夢を見る。この辺はさすがに夢オチを連発しすぎではないかとか、ジャンプスケアに頼らんでもいいのではないかとかは気になる。

当然ですが犬も不意をつかれるとめっちゃ驚くんでそれ自体はいいんだけど、その文脈があまりに「人間的感覚」すぎるというか「ホラー映画文脈」すぎるので、インディにそういった文脈が理解できているとは思えないので、そこが本作のテーマからするとちょっとモヤる。

あと、あまりに実在感(というより物質性)を伴った先代犬の霊とか、この辺はなんというかこう、あまりに「生きている」感じが強くて霊的なものとして捉えづらいのが少し気になった。これは映画における「死者としての(人間以外の)動物」の表現の乏しさゆえなのかな、と思ったり。

とはいえ、もしかしたら犬というのは私が知らないだけで、そういう風に感じているのかもしれないし、犬に「死」という概念が理解できるのかもわからない(恐怖はあるだろうけれど)。

「ない」と言い切るには、私は犬のことを知らないのだから。というか、本質的にそれを知ることは不可能だろう。それは人が他者としての人を知ることができない以上の不可能性を伴っているのだから。

その点において、この映画は「相互理解の不可能性」について、かつてないほどに野蛮で残酷な映画であるともいえるのかもしれない。

 

ところで、私がこの映画で何よりも胸を打たれたのはラストのラストで、光さす地上(生の世界)からヴェラに何度も呼びかけられながら、ためらいがちに何度もトッドの引きずり込まれた地下の闇(死)を振り返るショットだったりする。

最後にはインディはヴェラの声に応えて地上へ上がっていくとタイトルが出て映画は幕を閉じるのだけれど、その前のシーンでトッドが死にゆく直前に「お前に俺は救えない」とインディに言い放った言葉を思うと、どこか後ろ髪を引かれるような(これも実に人間的な比喩表現だ)表情をインディに読み取ってしまったからなのかもしれない。

 

ホラー文脈を用いて犬に同一化(犬に喋らせるとかそういう品の無さではなく)させた上で、その不可能性を突き付ける野心作としてこの映画はある。

 

余談なのだけれど、創作において「人が傷ついたり殺されたりするのはアリだけど動物(とりわけ犬や猫)が傷ついたり死ぬのは許せない」という手合いの人間はよくいる。ちなみに自分もそうだ。

この映画は、それについても一考の余地を与えてくれるかもしれない。

あと押井守にとっての犬と関連付けて考えてもまた面白いものがあるかもしれないので誰か頼んだ。

〔映画評〕犬と人形のリアリズム/押井守『イノセンス』|furuyatoshihiro

それは、愛情と呪いの言葉――『GOOD BOY/グッド・ボーイ』|TOMOMI KOJIMA

2026/6月

「バッド・ガールズ」

ジョナサン・キャプランって聞いたことあるなと思ったら「告発の行方」の監督じゃったか。本国では酷評されているらしい本作ですが、そんなに悪い映画かしら?

今観るとシスターフットものとして割と良い感じのバランスだと思うんですが。大枠としては「怒りのデスロード」的だし(スペクタクルは雲泥の差ですが)。そりゃ主人公が最後にケコーンするのは保守的だけれど、他の三人は一旗揚げるために離れるわけだし。

アクションは確かに60年代か?と思うようなカットバック射撃描写だったりコミカルすぎるBGMの付け方とか80年代か?と思うようなバランスだしシリアスとコミカルのバランスが総合的にちぐはぐなのとかはどうかと思うけれど。

ハニトラ描写にしてもまあ、それは娼婦だからということや歴史的背景を考えればそういうこともあるだろうと思うわけで。

でもバランスさえどうにかすればそんな酷いものとは思わないのだけど。

 

「PERFECT DAYS」

今更観る。映画の出来栄え云々よりも先にファーストリテイリングによる「ブルジョワ爺」な貧民ウォッシング(造語)だという感想を伝え聞いていたので、まさに私などはそのような低賃金ワーカーであるゆえ斜に構えていたのだけれど……まあ確かに、言わんとすることはよくわかる。

下手すりゃ道楽に見えるのは、職人気質ではあっても職人的なストイックさはあまり感じられないからだろう。妹とのやりとり、というか一連のシーンから実家の太さを感じさせるし、文化資本が豊かな家庭だったことを伺わせる。

語弊を恐れず書くなら、いずれにせよ平山にはあまりにも余裕があるのだ。

迷子の子どもの母親から無言の汚物認定されようと、上を向いて、木漏れ日を撮り、それを選別するミニマルだが充実した日々がある。

 

同様に「白々しい」までに清潔な各所の公共トイレは、そこをどれだけ丁寧な所作で平山が清掃を行おうとも、その驚きの白さが彼の毎日の職人的な仕事の丁寧さに由来するものとは到底思えない欺瞞を含んでいることは否めない。

 

不特定多数の人間が使う汚猥の溜まり場である公共トイレがあそこまで綺麗なわけがない。あるいは、そういう場所のみを切り取っているという「選別」なら可能かもしれないけれど。

劇中に出てくるトイレのほとんどが視覚的なキャッチ―さを持ったデザインであることにどのような、どこまでの意図があるのか。

その潔癖な絵面の「清潔さ」(美しさではない。為念)は白々しいことこの上ないが、しかしまたそれとは別の位相で美しい映画であることは否めない。

奇妙な間取りの、上下の部屋をぶち抜いたかのような独り暮らしとしては広いアパート(?)の部屋。その畳の部屋と階段を分割するように敷居を分割線のように見立てた疑似的なスプリットスクリーンとライティングによるコントラストが同じようにトイレ清掃の場面でも反復されていたり、そもそもその日本的家屋の「階段」というモチーフ自体が小津っぽいわけだけれど、とかくそういう美意識に貫かれた映画であることは確か。

夜を越す際はモノクロの風景(情景)なのも時間の経過であるにもかかわらずノスタルジックな感慨をもたらす。銭湯、カセット、古本(屋)、前時代的なフィルムカメラ、スナック……はまあ微妙なところだけれど、それらすべてがノスタルジーを惹起する。

だからというわけではないかもしれないけれど、ベンダースの街並みの切り取り方はタルコフスキーの「ソラリス」のそれを思わせる。タルコフスキーといえば「ノスタルジア」でもあるわけですし(強引)。

そもそものアス比が「1.33:1」とほぼテレビサイズというあたりの「日常」感は、それ自体がルーティーンの積み重ねによるノスタルジアを喚起する。

一方では姪っ子に代表されるような現代的なモチーフ(スマホ撮影による縦長のアス比、スポティファイ)もあるのだけれど、どことなく言い訳的である(笑)。まあそれくらいの「おじいちゃんの強がり」みたいな愛嬌があっていいと思う。

ルーティーンをこなすことに安定と安心を抱く平山の平和で完璧な世界と、そのルーティーンを崩す「他者」の存在の両義性。個性的な俳優ばかりをチョイスし(古本屋の店主でさえ犬山イヌコという采配)、少なからず一見で印象を残す人物ばかりなのも無口で静謐な所作(の反復)としてその身体性が立ち現れる平山と対置される。

そのクライマックスが三浦友和との、いいおっさん(ほぼおじいさん)同士の影鬼という子供の遊び(を夜に行う)のが何とも言い難い。

何にせよ、批判的なポイントも織り込み済みであろうというのは、ここでタバコを吸わせて盛大に咽せる描写を見せていることから読み取ってしまう。

映画においてカッコよくかつ自己破壊的(というか自己破壊的であるからこそカッコよさがブーストされるというのもあるやも)できるガジェットであるタバコは、しかしおっさん2人が咽せるという場面においては挫かれる。

ただしそれは、タバコすら受け付けられないほどの潔癖な身体性であり、そのダサさの裏返しのノーブルさこそが意図したところなのではないだろうか。

そりゃまあ誰だって汚くあるよりも綺麗でありたいだろうし。

そういった清濁の両義性、「完璧」なルーティーンをこなす日常と、それを崩す他者。それすらもひっくるめての「PERFECT DAYS」なのでせう。まあ、それでも美しさに傾斜していることは間違いないだろうから、好き嫌いは分かれそうだけど。

 

「切腹」

これ傑作。さすがは橋本忍の脚本というべきか、一種「羅生門」的な複数人の視点(実質二人だけど)の語りでありながらも「羅生門」のような信用できない語り手構造ではなく、どちらの語りも事実でありながら真実は異なり、またそれがクリティカルな政治風刺になっているという手腕。

お上(ではないけど、正確には)の欺瞞がモノローグそれ自体(冒頭と最後に語っているのが誰かということ)と甲冑のカットによって端的に示される。冒頭でタイトルと一緒にキメキメに正面から撮られる甲冑は、しかし劇中で仲代達也によって投げ飛ばされ、クロージングにおいて冒頭と同じように撮影されたそのショットの意味合いは逆転している。

相変らず仲代達也の表情・眼で魅せるその顔面力は本作でも発揮されており、ずっとどこ観ているのか分からない虚ろな目をしていたかと思えばラストのアクション直前(と回想)で執念をくべて殺意マシマシになるという。

しかも話術・知力・戦闘力もありつつ覚悟も決まっているという手のつけようのなさ。

「畳の上に咲くスイレン」とかいう煽りも中々だし、「武士の面目」とはそのまま現代の政治家や権力におもねる人間全般に刺さりまくる。

どうでもいいが若き岩下志麻はどことなく堀北真希にみえる。あと切腹シーンがマジで痛そうで結構正視するのが辛かった。

とかく妥協のない映画で、普通に傑作でござんした。

 

「セブンティーン・アゲイン」

思ったよりは面白かったけど、それでいいんかいという気も。

ザック・エフロンという「ハイスクールミュージカル」役者のコンテクストを織り込んだメタ構造を借用しているのが肝か。

最初と最後で選択肢そのものは変わらないのとか、過去にタイムスリップすしてやりなおす系ではなく若返った上で同年代の息子・娘とも向き合うというのが割と面白い。

過去のやり直しではなく今・ここに向き合うための若返り。じゃあ冒頭でまるでバスケではなく彼女を選んだことがその後の人生に対する後悔を~みたいな振りはなんだったんだよというのはあるんだけど、彼女を選んだこと自体は後悔していないというのは誠実ではあるんだろうか。

別に元さやに納まらなくていいと思うんだけども。あとこの手のジャンルってやっぱり近親相姦ネタやるんだなあと。

ビンタ4連続の天丼は流石に吹いた。

 

「張込み」

邦画の方。

 

「アウトバーン」

ニコラスホルト、フェリシティジョーンズ、アンソニーホプキンス、ベンキングスレーなどなど豪華なメンツに惹かれて観たらまあしょっぱい映画だった。

あまりにも行き当たりばったりな主人公の短絡的な行動に巻き込まれる周りたるや。

ポンコツすきて全方位に迷惑をかけている、という意味では新鮮といえは新鮮なんだけど。

あのラストもまあデウスエクス・マキナとは言わないけど倫理感も酷い。

まあ午後ローらしいといえばらしいか。

 

「エリン・ブロコビッチ」

やはりソダーバーグは面白い。PFASの件と言い、アメリカはこの手の企業の過失がやたら多い印象があるのですが明らかになるだけまだ良いのかもしれない。

比較的淡々と進みながらも抑えるところは抑え、登場人物のエモーションはしっかりとアップショットで捉え、それに耐えうる役者の顔の演技がある。

ジュリア・ロバーツだけでなく、原告側の人々のアップショットの表情一つ一つも見逃せない。

この映画は、そういった顔の集積の中の「個」を浮かび上がらせる(それはエリンが名前だけで書類の情報をそらんじることに象徴される)。

それがこの映画が感動的である理由の一つなのかもしれない。

 

「OTTO」

OTTO | Vimeo の動画と映画

 

 

「オースティン・パワーズ:デラックス」

吹替えで初めて観たんですけど、さすがこの時代の山寺宏一の無双感はすごい。

オリジナルからしてくだらない下ネタのつるべ打ちなんですけど、特にミサイル=ペニスのパラフレーズ繋ぎとかもはや名人芸というか、人類のペニスへの言語的隠喩の多様さってなんなのだろうか。

くだらなすぎて笑う、しかもそれが割と映画のランニングタイム中持続するというのが何気に凄い。

 

「ムーラン・ルージュ」

バズラーマンってすごいな…。カメラワークというかカットを切ることへのてらいのなさや煌びやかなミザンセーヌ。

自分で設定した年代を無視した楽曲の数々、そのアレンジと使い方の勢いの良さ。

公爵とクリスチャンの関係性は、もちろん恋敵というのはあるんだけどそれ以上に映画製作における監督とプロデューサー(出資者)という様相を帯びているようにも見える。

にしても毎度このテンションで映画を作れるバズラーマンって。

 

「フェリーニのアマルコルド」

観たことのあるフェリーニ映画の中で一番好きかもしれない。まあ基本的にくだらないものが好きなので。

色々なディティールが面白いんだけど授業中のおふざけのあの超ロングな伸縮筒で放尿とかほとんど「浦安鉄筋家族」のそれで、あまりにもくだらなすぎて笑ってしまった。カーセックスならぬカーマスターベーションとか。

どうでもいいけど吹くんじゃなくて吸って!とか、ああいう部分のティッタの童貞ぷりはひとしきり笑った後に少し悲しくもなる(ラストを観ると特に)。

精神障碍を持った42歳弱者男性の末路(違)とかも笑わせにきてるのは明白なんだけど、同時に笑ってしまうことに後ろめたさがある。

というのも、とかく恋…というよりもやっぱり性欲に近いものなんだろうけど、男性だけでなく女性すらも性欲に駆動されてるのが面白い反面、ファシズムがあそこまで明瞭に描かれていることによる抑圧の反作用のようなものとしてリビドーの発露およびその屈折(そのために精神障碍、色情症的な女性も含め)が描かれているんじゃないかと。

そしてファシズムは一種の権力としての宗教とも明示的ではないにせよ結びつき、その性欲の告解を封じ込める。

やがてそれは死と言う形で結実する。

食卓でのごたごたしたかけあいとか含め、笑いどころがたくさんあるのに、こうも寂寥感を抱くとは。

 

「『劇場版 幼女戦記』・幼女戦記 閑話『砂漠のパスタ大作戦』」

やってること同じというか、TVシリーズとほとんど絵面が変わらない。音響周りは良かったけど、まあ自宅のTVではたかが知れるか。

ああいうキャラにメアリー・スーとかいう名前を付けるのはどうかと思うが、主人公がようやく追いつめられる展開があって割と満足。

パスタ大作戦の方はもっとギャグっぽくしないと「またおれ何か」案件にちょっと片足突っ込んでる気が。

スーパーないとこ

てなわけで「スーパーガール」を観て来た。

クレイグ・ギレスピーという監督のを登用したのもよくわからなくて、彼の監督作でいえば私は「アイ、トーニャ」しか観てないんですけど、「クルエラ」といいやさぐれた女性を描く点が買われたのか…?といっても別にそこまでやさぐれてる感じでもないんですけどね、カーラ。

しかしまあ、嫌いではないのだけれど、いまいち乗り切れないところがある。

半端にジェームズ・ガンの陰を追ってしまっているのもあるかもしれない。「ブライト・バーン」もそうだし、なんならジェームズ・ガン自身ですらたまにジェームズ・ガンっぽさをエミュし損ねる感じがあって、その辺のバランスって案外難しいものなのではないかと思う。今回は役者のアンサンブルもあまり効いていない気もするし。

ミリー・オルコックのホットではないルックスはとてもいい。一部ではすでにウィル・ポールターとクリソツってことで弄られている(自分も正直そう思うけど、別に彼も悪い役者ではないし揶揄とかではないと思うが)んだけれど、彼女のいかにもインディ系でマンブルコア映画に出ていそうな佇まいと顔は、この映画のタルい回想や傑出した部分のない演出で描かれるカーラというキャラクターに奥行を与えてくれている。

ロボというキャラに関しても、モモアの力に頼っているわけだし。逆に言えば、役者の力に依拠しているこの映画はこの二人意外に関しては魅力的なキャラを描けていないと思う。

特にルーシーというキャラに関してはイヴ・リドリーが真面目一辺倒な表情しか見せないのもあって最初から最後まで出ずっぱり(本作の物語的上の駆動力を担っているので当然なのですが)な割にあまり好きになれるキャラクターではなかった。

108分という短い上映時間の割にやや間延びして感じられたのはカーラの回想の長ったらしさも必要なものではあるし、一見すると手際よく思えるのだけれど、その実は段取り的に物語上のポイント消化していくだけなので映像的なテンポは必ずしも良くないのでは。

黄色い太陽での覚醒も2回やってるし、クリプトナイトでの弱体化もそれ一回でいいじゃんということを繰り返しているので、よく考えると手際もそんなに良くはないんですよね。

それにカーラのその過去と彼女の信念のようなものがルーシーの復讐を止めることと有機的な結びつきがない気もする。

そもそも、ルーシーとカーラにはバディ感が全然ないのも痛い。基本的にはルーシーが守られる一方だし、カーラにしてもルーシーのことを本当に思っているというよりもどこか義務的な側面が大きいように見えてしまう。いやまあ、カーラはクリプトを助けるためが第一の動機だからというのはあるんだけど。

たとえば、これがジェームズ・ガンであれば当初は希薄だった(何なら対立すらしていた)二人の関係も物語が進んでいく中で、あるいはアクションそれ自体で結びつきが強くなっていく過程を描けていただろうけれど。

そしてバディ感のなさはそのままロードムービー的な佇まいも消失させてしまっているように思う。もちろん、クリプトの命がかかってるし家族の復讐のためというのはあるからお気楽に旅してる場合ではないんだけれど、その割にはうんこ買って食ってたりはするし、宇宙中を移動している割には全然そんなスケール感もなければ三日というタイムリミットにも説得力が感じられない。

ここでいうロードムービー的な佇まいというのは、要はその移動の過程で二人の関係が密になっていくやりとりなんかが描けているかどうかということで、バディ感がないというのも言い換えみたいなものではある。

カーラの過去語りを聞いただけでルーシーが復讐を止める理由にはならないし(実際直前まで復讐心マシマシだし)、そもそもカーラの過去の話は別にルーシーの復讐とまったくかかわりがない。

だからルーシーがとどめを刺さないのはやや不自然に映る。

いやお前が殺すんかいっていうのはまあ、聖書における「復讐するは我にあり」ということなのだろうけど、それはそれでカーラ=スーパーガールにそういった神性は良い意味でも悪い意味でもないんですよねぇ。これがスーパーマンだったらまたちょっと違ったのだろうけど、リブートされた「スーパーマン」ではそれもやらないだろうし。

そういうとこでだけスーパーガールに神的な意味性を付与させるのはちょっとどうかと思うんですけど。ミソジニーとまでは言わないけども。

だから最後のパーチーお誘いに至ってもなんか義務感みたいな(使命感とも違う)に見える。

ルーシーの復讐(を止めること)に対してカーラに当事者性がないことは、上記の聖書的な神解釈とは別にカート・ヴォネガット的な「愛は負けても、親切は勝つ」として積極的に曲解することで肯定的に読み替えることができる余白はこの映画には残っている……気はする。

 

あとはモモアことロボについても。ロボが最後まで仲間にならなかったり、あくまで自分の欲望に忠実なだけのキャラクターを貫いているのは良いのだけど、こっちもこっちで舞台装置な印象が強いし、そもそも彼がいなくても成立する話ではあるんですよ。むしろ、彼の見せ場のためにカーラが弱体化させられるポイントが二回もあるっていう。やっぱ段取り悪くないですか、これ。

 

いや、ネガティブなことばっか書いてますけどカーラがデデーンと助けに来てくれるところとかはちゃんとハズさないしスコアも結構良いので、良いところもあるんですけどね。なんといってもミリー・オルコックは良いですし。

ただまあ「スーパーマン」と並べるには物足りないのも否めない。

2026/5

「北極百貨店のコンシェルジュさん」

今更Eテレで観る。

なんというか、二律背反の肯定のように見える。価値転倒、というよりは価値そのものを反転して肯定するというか。

だから、人間批判をしつつその裏返しとして(消費文化を含めて)の人間賛歌をしているのでは。だから人間しかいない組織のトップに立つオオウミガラスに最後に「ぼくぁ人間臭すぎるかなぁ」と言わせる。そもそもオオウミガラスが鳥なのに飛べない、というアンチノミーな存在なわけで。

大量消費文化の始原たる百貨店が、現在の消費社会においてチャップリンの「モダンタイムス」に象徴されるような機械的かつ「効率的」なserveをもたらし、劇中でもカリブモンクアザラシが言明していたように労働者を非人間化(=SERVANT)し、利潤の最大化を図ることが現代の資本主義においては至上=市場の価値観として鎮座することになる。

けれど、その消費社会到来の嚆矢たる百貨店において、コンシェルジュという存在は利潤の最大化という資本主義社会における命題に、ややもすると矛盾するように見える。

少なくとも新人コンシェルジュの秋乃は「より多くの」顧客へのサービスではなく、一匹一匹に対してのサービスに時間と労力をかけており、そこに極めて「人間的」な献身の情を読み取ることができる。もちろん描かれていないだけで他の客へのサービスも行っているだろうけれど、それでも彼女の行動原理に「機械的」「効率的」なものはほとんど感じられない。

いや、もちろん急がば回れというか、より多くの顧客へのサービスを~というのは「回転率」「薄利多売」的な経営スタイルにとってのドグマであるので、一人一人に丁寧にサービスを提供し、物理消費ではなく体験型消費としての側面を強調することでリピーターを生み出す形態自体は概念化されているわけで、それ自体が転覆的であるわけじゃない。

その意味でコンシェルジュの献身的サービス提供というのは経済学的――というよりも経営学――に回収可能であるという点で資本主義を食い破るような野蛮さはない。

かといってダーウィニズムに言及するのは悪手な気がした。まあ、このテーマでしないわけにはいかないのは分かるけれど、2026年初頭に国内の百貨店が相次いで倒産した現実が、このアニメの中身をメタ的に破壊してしまっている。これは映画公開時より未来である現在から見ているのでせこい見方ではあるんだけど、公開時でもすでに百貨店の生存は危ぶまれていたし、高島屋や名鉄百貨店が倒産したという象徴的な出来事を経た今現在から考えるとすでに古臭くなっている気さえする。古臭い、という言い方が適切でなければ無化されているというか。

レッドリストアニマル(この概念の発起自体が人間の業によるものだが)の保全領域としてのこの「百貨店」自体がすでに生存できていないわけで、はかなさや諸行無常の美を謳っているならともかく(それはそれでグロいが)、百貨店という大量消費・資本主義の象徴的概念がその進化によって淘汰されているということも併せて考えると、そこ意地悪くアイロニカルな寓話として観ればまあ結構楽しいけれど、そうでなければ独り相撲に巻き込まれた動物たちの悲哀として受け取らざるをえない。

ポストアポカリプス的な破滅の美意識すらない(ラストで百貨店を取り囲むのが生命の象徴としての森である)ので、文明を思うノスタルジーも見いだせないし。

あと小野賢章と花澤香菜がああいう役をやっていて、現実で離婚しているというのも、無駄になんかこのコンテクストを補強している感じがあって笑ってしまう。

 

どうでもいいのですが、あの北極百貨店て要は保護区なわけで、もしかしたらメインで取り上げられた動物以外の背景の動物もすべて絶滅危惧種だったりするのだろうか。まあ、もしかしたらそういうことをすでに指摘する人もいるのかもしれないが、別にそこまでディグりたいわけではないんだけど。

だとしたらヒトの子がお客様として訪れたことを考えると人間もいよいよレッドリスト入りしたのかなぁと思ったり。いや冒頭の秋乃の時点でそうだったのかもしれないけど。

 

人間だけ妙に誇張された記号的なキャラデザで、それがなんか手塚治虫とか石ノ森とか往年の漫画家のキャラクターっぽく、いわゆる今時のキャラクターぽくないのも、マンガ文化の保全として囲いつつ囲われているのかなぁと思ったり。

 

「パニック・マーケット」

ワンちゃん生存で一安心。しかしそうはならんやろ、という展開がたくさんあってそういう意味ではまあ楽しかった。途中の展開で鮫を感電させられそうな気がしたけど。

 

「水のささやき/The Water Murmurs」(短編)

中国の短編映画。35mmフィルムとデジタルの両方を使用して撮影らしく、それが妙味のある手触りになっている。

背景の廃墟的な建物が本物なのかCGなのか分からないけれど、実景のロケーションと合わさって廃墟スキーとしては結構フェチぃ。

友人が絵をかいていたあの場所、少なくとも2階より上のフロアであるのに土が敷かれて草が茂っているあの不思議な描写も情感がある。というより情感しかない。

タルコフスキーに喩えられたというのも成程、といった感じなのだけれど、個人的にはタルコフスキーというよりも黒沢清が捨象したもの、という感じ。

ともかくロケーション、場所の持つ魅力の切り取りとパッチワークが巧みなのだろうか。

 

「アクト・オブ・キリング」

そういえば、こうしてノーカットを通して観るのは初めてだったな、とか被害者の視点から撮ったと言う「ルック・オブ・サイレンス」は観てなかったな、とか色々考えてしまった。

ドキュメンタリーであるとはいえ、かなり演出的な演出をしていること改めて気づく。ほとんど本筋とは関係のないヘルマンの選挙(にしても実写版TFのオートボットインシグニアのTシャツというのがなんとも)の戯画化は、彼がしょっちゅう女装させられオーバーアクトな演技(のメイキング)をさせられるのを意図的に選んでいるし、アンワルとアディの釣り堀での会話シーンでのカットの繋ぎ方やアレゴリカルな糸の見せ方(そのあとでカルマの話をしてるときに背後で雷が迸ってるのは流石に笑ったが、あれわざと外に誘い出してたりしないか?)、アンワルが寝ている孫を起こして一緒に自分が拷問されるシーンを見るカットの真正面からの切り替えしの連続などなど、ここまで露骨に「演出」していたかとちょっと驚いてしまった。やけくそドラムのインサートも普段なら噴き出すとこなんですけど、その防衛的な作為性には笑いよりも居たたまれなさが先に来る。

映画内映画の超現実的なシーン(湖畔横のさびれた魚の建築物から出てきて踊る女性たち、滝の前で被害者に礼を言われるアンワル(にとって)の天国)の愚にもつかない欺瞞とリビジョナリズムは、それが極まれば極まるほどに65年の殺人者たちが「アクト・オブ・キリング」のためのカメラの前で吐露する内心や虚心とのコントラストがはっきりとしていく。

アンワルを含めたプレマンの殺人者たちの、それぞれの防衛機制ともいえる反応の違いは、そうしてただカメラに切り取られるだけで皮肉にも彼らが単なる快楽的な殺人者やタガの外れた狂人などではなく「真に」人間であることが浮き彫りになる。

 

序盤の絞殺の再演を終盤では自分が(演技とはいえ)やられる側になる。そして役を完遂できず「これ以上は出来ない」と憔悴してしまう場面はメソッド演技的な憑依経験であり、やはり実際に絞殺を行った場所に再び舞い戻った時(最初は朝だったが、このラストシーンでは夜)に嘔吐するアンワル、その前のシーンでわざわざ自分が拷問されるシーンを孫に見せるという取り繕おうとする無様さ、それらすべてに一種の安堵を覚えるかもしれない。

だが、華僑の人々から金を巻き上げる連中(背後につくヘルマン)や、被害者役を演じているのが実際の被害者の遺族であり、彼がアンワルたちに父親がいかに殺されたかを半べそで笑いながら「撮影のためだから」という建前で実質的な糾弾として機能するとき、厳然とした被害者の姿が立ち現れる。

テーブルの足の下に共産主義者の首を置いて数人でそのテーブルの上に乗るといった生々しいディテール証言、そういった殺人のディテールが画面上には存在しない残酷さを遡及的に刻んでいく。ともすればチャーミングにも映るかもしれないアンワルを筆頭にしたプレマンや、パンチャシラ青年団の人々に、その暴力性が発動される瞬間を幻視するのはこの映画が公開された当時よりも現在の状況が混沌としているからだろうか。

 

そしてクレジットの大量の「ANONYMOUS」である。

 

「フォーン・ブース」

カメラワークやスプリットスクリーンといい、リアルタイム性といい、なんだか妙に特徴的だなぁというのと既視感を覚えたのだけれど、よく考えたら時期的にドラマの「24」がこの前年あたりに流行っていたじきでござんしたが。その影響がモロなのだけれど、ラストの犯人がキーファー・サザーランドというので、確信犯である(作り手に向けては誤用としての意味で、劇中の電話の主のキャラクターに対しては本来の意味で)。

あとはCGが本格的に導入されてきて少し経った時期ではあったので、人工衛星からの内部機械の映像を通して電話へというダイナミックな映像表現をやっていたりして(「コンタクト」の方が早いけど)、その辺のギラっとした感じというかトレンディな感じはシュマッカー節なのだろうか。

 

「ヴァイラス」

何となく鉄男のイメージなのかな、と思ったのだけれどあちらがインナーワールドの問題なのに対してアメリカはいつも外的要因としての身体侵襲としての機械化なのだなと。それはゼノフォビアのオブセッションだと思うのだけれど、それを自覚してかどうかロシアというミスリード(劇中の人物にとって)を使っているあたり、少なからずわかってはいるのだろうけれど。さすがに21世紀目前でロシアが敵ってのはないだろうし。

 

「劇場総集編 前編 ハイキュー!! 始まりと終わり」

「劇場版総集編 後編 『ハイキュー!! 勝者と敗者』」
5月24日(日)劇場版総集編 青葉城西高校戦『ハイキュー!! 才能とセンス』【無料初放送】
5月31日(日)劇場版総集編 白鳥沢学園高校戦『ハイキュー!! コンセプトの戦い』

 

「NPC Has To Follow The Heart 」(短編)XI CHEN - Animation

シー・チェンによる短編。何を血迷ったかこの人の映画を以前劇場で一度だけ観たことがあり、その時も同じような感じだったのだけれど、セリフがなく抽象化されたCGの映像が全面展開されるこの体験はちょっと異質。というか、この映像を劇場で観、それをあくまで映画として体験することも併せての異質さだったのだと思うのだけれど、翻ってこの短編は自宅でPCの液晶画面で見ていたわけで、また少し違う印象でもある。

とはいえ、劇場で観た「鶏の墳丘」と制作手法はほぼ同じだと思う。「鶏~」は3ds Maxで作ったのをUnityに送って作ったとのことで「NPC~」は具体的にどう作ったのか分からないけど、ゲームエンジンのCGってことだからほぼ同じと考えていいだろう。

で、である。正直なところ映像だけを見ていては分からない部分も多々ある。が、概要欄の説明もとい詩を読むと、そのCGキャラクターの動作自体は理解できる。が、文脈は切断されている。だからこそ詩であるのだろうけど。

そして、この詩をそのまま映像化するとこういう表現になるのではないかという気がする。

ゲームエンジンというのが肝なのだろう。ゲームが現実のシミュレーションだとするならば、ゲーム映像とはそれ自体がある種の異化効果が伴うのではないか。そして、現在はそのゲーム文化の体験を通じた上でこの短編映画を観ることになるわけで、それはゲームのインタラクティビティを排した体験ということになるが、しかしそれもゲーム実況のような文化によってごく当たり前のことになった。

それを踏まえた上でこの映像を観ると、奇妙なもどかしさを感じる。それは現実を異化したゲーム、それを踏まえた上での二重の異化効果とでも言いたくなるような変なメタ視点を持ってしまうからなのだろう。

あのNPCの群れは無双系ともオンラインパーティーゲームあるいはTPSのようなものに見えるわけだけれど、一方でその色彩や抽象化されたモデリングはむしろリアルにモデリングされたコンシューマー向けゲームのそれよりもずっと戦争や戦時といったワードを想起させる。

もちろんポータルから連続でリスポーンしてくるような極めてゲーム的な映像もあるわけだけれど…というかすべてがゲーム的な(そりゃ使ってるエンジンがそうだからそうなんだけど)映像なのだけれど、その抽象性がかえってあらゆる現実をシミュレートしてしまうような器量を持ってしまっている。

もっとも、これはゲーム文化をある程度体験していないと起こらない錯覚・酩酊なのだろうけど。

MOTU

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久々に映画館へ。

こういう書き出しが常態化するくらいには劇場に足を運ぶことが極端に少なくなってしまったわけだけれど…という能書きすらも例のごとし。

それはさておきヒーマン。本国ではミームとして長年使われていたり、妙にコアなファンがいるということはなんとなく知っていた。あとはおもちゃの売り上げが瞬間最大風速的には最高峰を記録(80年代のTFやSWとしのぎを削っていたらしい)したが数年でバブルがはじけた、ということを「ボクらを作ったオモチャたち」で履修したくらいで、内容についてはほぼミリしらである。もっとも、あの番組は割と信用できない部分があるというか、かなり面白さを優先している部分があるのであまりうのみにし過ぎない方がいいんだけど。

とはいえ、「ヒーマン」がどういうものだったのかということを知るには良い塩梅ではあるだろう。

もっとも、先述の通り自分は当の番組を見る前から概念としては知っていたんだけれど、というのも多少なりともアメトイ(ビンテージ含む)なんかの情報を追っていると自然とMOTUの情報は入ってきてしまうからなんですが、逆説的に言えば現状はほぼ死に体で懐古向けコンテンツ(「ボクらを作ったオモチャたち」からの超意訳)であるがゆえにそういった界隈では活況であるし、キャラクターの知名度自体は割とあるようなのでブロック玩具やSUPER7といった既存のコンテンツをフィギュアにするようなブランドなんかではよく見かけるわけで、なんだかんだで今でも一定の人気を本国では占めているのだろう。ゼロ年代のリブートは失敗したものの2020年代のネトフリ新作アニメは割と人気あるようだし。

が、日本ではほとんど知られていないとい言っていいだろう。何せタイトルで検索をかけようとするとサジェストに「マスターズオブユニバース マーベル」と出てくるくらいには日本人にはなじみがなく、ぱっと見のルックがマーベル作品に思えてしまうものではあるのだし。先に書いておくと、内容もジェネリック「マイティ・ソー ラグナロク」みたいな感じだし。

正直、自分もそこまで関心があったわけではない。じゃあなんで観に行ったのかといえば監督がトラヴィス・ナイトだから、というのが理由の大半である。

今のところ彼の最高傑作である「KUBO」に脳を焼かれて以来、私はとりあえず彼の監督作はチェックするようにしているのだけれど、正直なところ「ストップモーションアニメ監督」としてのトラヴィスは信頼しているが「80sノスタルジーコンテンツ実写監督(?)」としての彼にはあまり期待していない(詳細は「バンブルビー」のレビューに譲るとして)というのも偽らざる本音ではある。

などと書きつつ彼が製作を務めるストップモーションアニメ「ミッシング・リンク 英国紳士と秘密の相棒」は未見という体たらく(でもその続編で今年公開予定の「ワイルド・ウッド」は観ると思うけど)なので、まあその程度の熱量といえばその程度なんだけど。

まあでも、久々の監督作だしMOTUも知らないわけじゃないしってことで、朝イチで観てきたのだった。あと時間的に都合が良かったから。

ただまあ、久々の映画鑑賞体験としては本当に最低でしたよ。いや、内容は酷評するほどのもんじゃないんだけど(かといって良くもないけど)、座席が最悪だった。

スカスカで客もまばらなのに、なぜか私の後ろの座席を陣取った観客がガシガシとシートを蹴ってくるクソ野郎でしてね。ストレスがマッハでしたよ。スマホもマナーモードにせずめっちゃ着信音してたし、いやね、思い出すだにイライラですよ。

 

閑話休題。で、本編に関してなんですが、これがもう普通に普通。

極端につまらないわけでもないし極端に面白いわけでもない。いや、実写なのにめっちゃマンガ的なビジュアルを全開にしているプロダクションデザインは割と好ましいし、そこに80sアレンジを利かせた安っぽいシンセ音楽やらおもちゃ原作だけあってそれをもとにしたアクション(特にメカネックとかいう合理性完全無視なろくろ首)やらも良い意味で馬鹿馬鹿しいのだけれど、随所に挟まれるコミカルな描写は原作要素からとはいえちょっとテンポを悪くしているし個人的にはあまりヒット率としては半々くらいの笑いだったのでもう少し減らしても良かったのではないかと。テンポでいえば何度も挟まれるスケルターによるイブリンへのパワハラ後に挟まれる彼女の顔面アップショットも意味深な割に特に何もなかったのもよく分からない。アニメ再現なのだろうか。

なんであれ、その特有のノリにこちらのマインドセットをチューニングするのが中々に苦労した。全体的に「マイティ・ソー ラグナロク」のノリ・ビジュアル(武器を掲げて雷落ちてパワーアップ、あるいは貴種流離譚としても)が極めて近いのだけど、あっちではそこまで気にならなかったのがこっちでは気になってしまったのはちょっと不思議ではある。

まあ向こうはMCUの下地があるので単純に比較できないとはいえ、MOTUには少しくどさを感じたのは否めない。

20年前、コミック(的なメディア/コンテンツ)の実写化といえば「どれだけリアリティのあるものにできるか」というイデオロギーが主流だったと思うし、その嚆矢としての「X-men」(日本では「平成ガメラ三部作」だろうか)が切り開いた道を「トランスフォーマー」やMCUのフェーズ1はその流れをくみながら一方でノーランのバットマン(あれも実のところ極めてコミック的ではあると思うけど)や「マンオブスティール」といったダークなトーンとの交わりによって、むしろ「リアリティ」へのカウンターがよりコミック的なものへと回帰させる方に向かったのが10年代後半(それこそMCUで言えばヴィジョンのコミックそのまんま感など)だったと大まかに考えていて、いずれにせよその大勢を作ったのがMCUであることは間違いない。

なので、ポストMCUとしてのコミック(的な)の実写化としてMOTUが満を持して作られるというのは分からなくはないし、先述のように「マイティ・ソー」的なそれ(イドリス・エルバいるし)をよりコミカルな方へ推し進めるというのはコンセプトとしてはありなのだろうけど……コント的な滑りに片足突っ込んでるのはやはりバランスの問題なのだろうか。

隙(ツッコミどころ)を意図的に意図していないように持ち込んでいるような感じはニチアサ特撮っぽい(いつまでたっても爆発しない爆弾、「無くすなよ!絶対に無くすなよ」と言われた直後にLOSTする力の剣とか)し。

どうせなら徹頭徹尾異世界の話として、ハイファンタジーとして描くこともできたとは思うんですけどね。D&Dができたのだから。しかしそうはせず、現実の世界と並行して描くことでよりとっつきやすくしたというのも分かる。

けれど、それによって生じる必然的なメタ視点(冒頭でのアダム自身の自分「語り」がそもそもメタ的な視点を孕む)がトラヴィス・ナイトを含めた既存ファンのノスタルジーとも分かちがたく繋がってもいる。パンフレットで尾崎一男が「~その過剰さを脱構築やメタ的な視点で処理せず、アニメーション的な身体性と手仕事感覚、ならびに素朴でまっすぐな感情の力を~」と書いているのだけれど、要するに問題はそこにあるように思える。

構造的なメタ視点というのは作り手の意図とは別に生じていて(そもそもクイーンの曲やらドルフ・ラングレンの登場とかメタ以外のなにものでもない)、そこへのさらなるメタな視点がないゆえに80s的なマスキュリニティ万能感へのカウンター的なアプローチが、結局は「剣と拳」という極めてファルス的な「ダイアローグ(コミュニケーション)」でしか幕を引けなかったというのがその限界を示している。

ピンクのワイシャツの中に今にもはちきれんばかりの筋肉を持て余している絵面が、覚醒して半裸になるカタルシスは良い意味で馬鹿馬鹿しいけども。

二度目の覚醒からの話し合いで解決しようという提案自体は納得しつつ、それが前振りであることは見え透いていたわけで。

大半の人には退屈であるだろう地球でのアダムという冴えないマッチョの生活こそが私としては割と楽しんでいて、それこそはたから見たらドン・キホーテ的な夢の世界に生きるヤバい人であり、それが冒頭から示されているわけで。

職場でも上司からそれを指摘されてるし。この上司役のサシール・ザマタがものすごくよくて、PCかつ慇懃無礼な(アダムの職場態度を考えれば納得なんだけど)感じやらモチベーションを上げようとする「御安全に」的なやりとりなんかも含め現実にありそうなカリカチュア感は特によかったのだけれど、このレッドピルかブルーピルかを迫られるシーン(違)以降のとんとん拍子に剣を手に入れていく過程からの一足飛びでエターニアに行くまでの、よく言えばシームレスな夢想の世界への導入・悪く言えば雑な展開はその後の中だるみも含めて完全にメタ的な視点が欠落している。

もっとも、クライマックスでスケルターがヒーマンの脳内スキャニングで現実の退屈さを再現しつつ自分もそこに割り込んでくるというシュールで笑える(しかしどこか悪夢的な)シーンはあって、個人的にはこここそがこの「MOTU」が最もポテンシャルを発揮しうる場面だったと思うのだけど、その後は既に述べたような「力こそパワー」な解決を見る。

まあそれは「MOTU」という作品の性質上、仕方ないことではあるし、そこですかしたらそれこそ総スカンになるだろうし。

そういう意味では、ポスクレでの続編におわせ「シーラ」なら、もうちょっと射程を広くできそうだけど、じゃあ「バービー」で良いんじゃないのともなりそう。

 

あと距離感覚がぶっこわれてるのが妙。剣が安置されてる場所までの直通感とか、異世界なのに割と簡単に行き来してたり気づいたら普通に現地に来てるスケルターとか、この辺わざとやってるんだろうか。

 

個人的に一番面白かったのはパンフレットに記載されてる、本作にも参加したブライアン・メイ(!)のセッション後の話だったり。

 

2026/4

「VOID(短編)」

岩崎裕介の短編。VOIDっていうよりHOLE。あるいは、そのあまりの明々白々な空疎さゆえにPOINT BLANKとでも題したくなるような短編だった。画面中央に点描されるポイント(最初はモニターがいかれたかとおもいましたが)が増えていき、最終的に一つの極点(太陽)となったとき、唯一、観客のよすがとなっていた、友人の死を悼むことのできる「中身」を伴った麻木すらもカラオケルームのドアの向こうの空虚な何もない空間へ忘却される。

あらゆる要素がバラバラに存在し(散在し)、それがまとまることなく「ただそうある」という不気味さ。屋根の上の男も、ウザすぎる先生も、佐竹の死も、教卓の裏のハゲたおっさんも、上滑りし続ける母と父との会話も、全てがズレたままに。

「絶対に落ちるだろそれ」と思いきや案の定といったシュールギャグな趣もたたえつつ、カットの間で死んでいる生徒たちの「異邦人」の殺人が単なる死に置き換わったとでも言いたくなるような無味乾燥としたこの感覚はちょっとほかにない。

 

「トラフィック」

前情報なしで観てたら妙にがっしりした映画で、誰かと思ったらソダーバーグ。

この人の映画は数本しか観てないのだけれど、その中ではこの映画がぶっちぎりで面白いかもしれない。

実在の事件や人物の要素を織り込んだメキシコとアメリカの麻薬戦争に関しての劇映画なのだけれど、不思議なリアリティがある。ほとんどフィックスがなくほぼハンディショットだったり、どことなくドキュメンタリックなカメラワークがあり、BGMもほとんどかからずに物事が淡々と進んでいくというのがそう見える一因なのかもしれない。

あと複雑……というか人物が多く入り組んでいる組織・人間関係を分かりやすく描こうという感じではなくて、複数人の人物の視点で飛び飛びで(時系列は直線的だけれど)舞台となる場所によって極端にカラーグレーディングを施すことによって地理的な不明瞭さは排しているのだけれど、別にそれにしたって説明されるわけではない(まあテロップもあるので普通に見てれば分かるけど)ので、端々のセリフや物語の展開を順序だてて理解していかないと割と見失いそうになる構成になっていて、ちゃんと登場人物の顔と名前と役職を把握していないとやや混乱をきたすことになる。

麻薬を巡る政治的駆け引きにバイオレンス、かと思えば極めて個人的な家族の物語(まあ娘が複数人とキメセクしてたらああもなる)だったりと、それぞれが直接的に接触することはしないままに「麻薬(取引)」にかかわる事象にからめとられていき、それぞれの人物がノードとして麻薬戦争に影響を与え影響を受ける。

これはのちにコロナ禍で再評価された「コンテイジョン」にも通じる、近代以降のネットワークの問題とも繋がっていく。

バイオレンス要素や政治的要素など、描き方によってはより派手にできそうだし、ベネチオ・デルトロ繋がりでいえば「ボーダーライン」なんかも同じような題材ではあるのだけれど、こっちはもっとなんというか暴力性が日常の延長にある感じがする。そのドライな暴力性という点で言えばむしろ北野映画に近いような気さえする。まあ実際、動き出したら止まらない(組織)の運命の振り子運動という点は共通しているし、リドスコの「悪の法則」的でもあるんじゃないかともいえる。

にしても各パートのメインを張る男が揃いも揃って良すぎる。ベネチオ・デルトロは言うに及ばず、ドン・チードルがまさかこんな青い熱量を湛えてギラついた役がここまでハマるとは思っておらず、ピアスという小道具も相まって彼のキャリアの中でも個人的にかなり萌えた。マイケル・ダグラスはまあ、ああいう役はお手の物って感じでしたな。

 

「ゴースト・オブ・マーズ」

ジェンダーフラット。有色人種のレズビアンがこのチームのトップなのだけれど、それを殊更強調するわけでもなく、むしろ主人公に対して昇進したいなら性的な奉仕をそこはかとなく要求する(いやなボディタッチよ)など、ジェンダーがフラットになってもそこには性欲と権力による勾配を極平然と描く。一方で同僚のシスジェンダーのステイサムもちょっかい出してくるという「人間てしょせんこんなもんだろ」みたいな、フラットさがとても心地よい。そこはバーホーベンにも通じる。

B級らしいラストのバッドエンド……からの粋な掛け合いにグッとくる。無駄にランニングタイムが長くなったりもしないのがカーペンターのいいところでせう。

 

「13時間 ベンガジの秘密の兵士」

「ロストエイジ」後「最後の騎士王」前のマイケル・ベイというラインで考えると夜の情景のライティングがそれっぽい。

「ペイン&ゲイン」を考えるとマイケル・ベイって右翼的な映画ばかりを撮っていると思われがちだけれど、実のところはモチーフとしての星条旗やミリタリー要素はバシバシ使ってはいるけれどその実はむしろ国家というもの(もっと言えば権力装置としての組織)への不審を絶えず描いているなぁと本作を観ていて思った。

もちろん史実ベースだし実際に犠牲者の出た事件だから最後にああいうテロップを出すことにはてらいがないし、というよりも国を信じていないからこそ個人としてのCIA職員への哀悼は示しているのだろうけど。

そういう意味ではその精神性はイーストウッドに近く、それこそがアメリカ(国民)の精神なのかもしれない。だから、意外なことにマイケル・ベイとトランプの結びつきみたいなものが全く出てこない(届いてないだけかもしれないけど)あたりはそういうことなのかもしれない。

 

「ドライブ・イン・マンハッタン」

役者の顔と撮影に全ぶりしているような映画だった。

ダコタ・ジョンソンとショーン・ペンがタクシーの中でひたすら会話……もといカウンセリングをする「だけ」の映画。元々は舞台脚本を映画にしたものということで、このワンシチュエーションで一点突破する感じはなるほど、と。

これ、数年前の自分にならもう少し刺さるものはあったのかもしれないけれど、それを差し引いたとしても内容としては本当に大したことないというか、すでに書いた通り既婚者の愛人がその悩みを人生経験豊富なタクシー運転手にカウンセリングしてもらうだけなのです。

とはいえ最初からすべての情報が開示されるわけではなくて、会話のやりとりと不穏な(下品な)メッセージのやりとりの中で徐々に二人がどういう人間なのかというのが明らかになっていく構成なので、そういう意味では会話劇としてはそこそこ楽しいのだけれど、とはいえそれだけで誘引できるわけもなくて、この映画はもっぱらダコタの表情の妙とフェドン・パパマイケルによる撮影の美しさに依っている。

ダコタに関してはフィフティシェイズのセクシャルなイメージを引用しているような配役の気もするが、相手がショーン・ペンというのもなんかこう……エロ親父の愛人に対して元エロ親父だからこその(すわ「羊たちの沈黙」的プロファイリング)というロジックによる説得力はあるんだけれど、しかしマンスプレイニングな印象はぬぐえますまい。

まあ何にせよ撮影の美麗さです。役者の顔だけでなく折々に差し込まれる街を写し撮るショットのビジュアルの強さで誘引されるところは多分にある。とはいえそれでも限界はあるので100分に収めたのは英断ではあるわけですが。

2026/3

「川本喜八郎 作品集【「花折り」(1968年/14分)「鬼」(1972年/8分)「旅」(1973年/12分)「詩人の生涯」(1974年/19分) 原作:安部公房「道成寺」(1976年/19分)「火宅」(1979年/19分)】」

つべの無料になっていたので。

川本喜八郎 作品集

川本喜八郎作品集 解説&クレジット|山下泰司 Yasushi Yamashita

名前は知ってたけれど、観るのは初めて。4Kレストアされてるから、というのもあるかもしれないが、なんだかあまり古い映画には観えない。能だとか今昔物語だとかの古典(安倍公房は違うだろうが)モチーフであり、すでに「歴史化」されたものを、その美術としての背景を屏風絵だとか絵巻物のような、要するにこれも「歴史化」されたルックを再現することで時代超越的な普遍性をもったものとして観れたからかもしれない。

といっても、それは日本の美術文化による馴致の影響だろうが。

にしても、この人の作品全般、撮影が凄まじい気がする。多重露光も使ってるらしいし。

「花折り」がデビュー作なのだけれど、この時点でスタイルが確立されているというのもとてもコンセプチュアルである。

お経の声が黒柳徹子というのも色々とすごいのだが、それはさておき何といっても前述のように”背景”の力が大きい。

「鬼」(今昔物語:巻二十七第二十二話 猟師の母が鬼となり、子どもを食べようとした話)もそうだが、極度に抽象化された背景に人形という立体物を使うことで、全体としての立体感を喪失させるかのような奇妙な空間認知を誘う。それがこのおとぎ話的な世界観に没入させるのだけれど、私は寡聞にしてこのような表現を観たことがなかったのでとても新鮮だった。んが、これが川本喜八郎の作品に通底するスタイルなのだった。そして一歩間違えばギャグになりかねない軽妙なテンポ感も魅力。まあ不条理劇なのである意味でギャグはギャグなんだけど。

 

かと思いきや「旅」はまた違った趣がある。人形ではなく切り絵(カットアップ)によるアニメーションなのだけれど、打って変わってシュールな世界観。「ファンタスティックプラネット」的…というとそれもまた違うのだけれど、もしかするとカットアップという手法自体がある種のシュールさを内包しているのだろうか。

話としてはインドに行ったら価値観変わったわ(いや変わってない)。というか、戻ってきたらなんてことはなく、また通勤ラッシュに揉まれる(そして写真に戻っている)という。

エピグラフとして用いられる蘇軾の「廬山煙雨」は、漢詩ゆえになんだかお堅く感じられるが、意味としては「期待してた旅先も実際に行ってみて帰ってきたら大したことなかったな」的なものなので、やはりそういうことである。とはいえ、禅の解釈としては「悟りを得て突き抜けた人は元の人と同じところに戻るものだ」というような意味合いがあるらしい(引用ママ)。さらに言えば、その道中こそが要するにどら焼きのドラでありハンバーガーの中身でありサンドウィッチの具なのであって、そこが美味しくなければ形無しであるわけで。冒頭と最後を電車の駅でもまれる女性の写真で挟むというのも、そういう表現主義的表現によるサンドイッチだ。

もっとも、戦車の描写などは作者の個人的な体験が色濃く反映されているようだが。

 

「詩人の生涯」は安倍公房の原作をやはりカットアップによるアニメーションにしたもの。これ、原作の力を最大限に引き出しており(文章をタイポグラフィーとしてまんま画面上に引用しているし)、どこかこのアニメーションそれ自体が原作の挿絵的な解釈をもたらすのだけれど、かといって脇に回っているというわけではまったくなく、その精緻なアニメーションによって(あと音楽ね)原作の文章との相補関係を生じさせ強烈な印象を残す。ある意味で絵本化している、ともいえるだろうか。

原作からしてかなりのファンタジーというか、中々にぶっ飛んだ展開なのに根底にはリアリズムがある。だからそのリアリズム部分と生活描写のリアルなアニメーションとの合致、ファンタジーな展開とファンタジーな演出の合致による幸福なアダプテーションの結実がこのアニメなのだろう。

あとクソリアリズムへの反意みたいなもの。

「道成寺」はなんというかガチ絵巻。絵巻が動くとしたら、というようなある種の思考実験的なトライアルを感じる。海の荒波や炎(どちらも”波”であるということは結構重要な気がする)の表現は、直近では「炎炎の~(第4期)」24話の北斎風の波をアニメートしたのに通じている。しかし川本喜八郎のストップモーションアニメはなぜこうもほかのものと違う動きの印象を受けるのだろうか…。

「火宅」も不条理なのだが、これはむしろ立体感を抽象空間の中で描き出そうとする別の試みに見える。

あと全体的に音楽が印象的(まあ有名な大作曲家が手掛けている者が多いと言うのもあるのだが)なのに、作品と一体となっているせいであまり印象に残らないという矛盾が生じる。

 

 

「リオの男」

首の後ろをチョップするやつで仕掛けた側がダメージ受けるの初めて見ましたよ。大事な物錆びたブリキ缶に入れてたり、流石にコメディどけあって笑えるんだけど、地味にアクションも頑張っていて面白い。

あとロケがいい。この時期の開発途上国ゆえのってのもあるんだろうけど、馬鹿みたいに道路が敷かれているんだけど大きめの建物が点々としているあの感じ、GTAのような箱庭ゲームみたいな趣があって逆にバーチャルな印象を受ける。屋上鬼ごっことかも。というかカー(に追われる)アクションとか高所のアクションとかバリエーション多くないですかこれ。

ただまあ90分でいいよこれ…やってること同じだし。

 

「愛と哀しみの旅路」

日本人が説教するな!このセリフがこの映画のスタンスなのだろう。エキゾチズムな視線を織り込み、レイシズムを自覚した上でそれでもなお旧左翼的な男性ナルシシズムと人主間のラブロマンスを抱き合わせる。

女性陣がキャピキャピしてるのは良いんだけどなあ。

花札ってああいう場でやるんだろうか。

 

「銀河鉄道の夜」

セリフの言い方や間の取り方、抑揚とかがとにかく朗読劇っぽい。恥ずかしながら原作を一度も読んだことないのだけれど、これこういう話だったんだ。

街並みはもっとカリブ海の旧市街地みたいな作りっぽい景観で、要するにファンタジー度が高いのだ。猫を擬人化しているのに人間も出てくるもんだから普通に驚いてしまいましたよ。音楽も静謐な割に妙に耳に残ると思ったら細野晴臣だし。

とうもろこしばたけのペラいテクスチャは何だったのだろうか。TFTHEMOVIEのように実験的に使ってみた感じなのだろうか。

作者死亡で未完で終わってるということも知らなかったのですが、本作の鉄道それ自体が自体が死出の旅路のそれ(マンキンのG・S突入ってまんまよな)と考えると、中々の機縁というか。

 

「マスク ディレクターズカット版」

「ペーパームーン」のボグダノヴィッチ監督作。実話ベースってことなんだけどどこまでが脚色なのか不明。DC版はオリジナル版では使えなかったブルススプリングスティーンの楽曲が流れてるということで、なるほど。

あの唐突な死のラストとか、実際どうだったんだろうとか色々考えるのだけれど、しかし彼の恋愛周りの描写はグロイ。何がグロイって盲目の少女(ローラ・ダーン!)と恋愛させてるってところが。周囲の反応は冷ややかなもので、それがかろうじて救いになっている(というのはもちろん客観的な視点が、監督の意図するものとは別の位相ではいっているという意味で)わけだけれど、だとしてもである。

要するに彼の母が言い聞かせていたように「中身こそが重要」だということなのだろうけれど、それは偏見を超克したわけではなくて予めハードルを避けているにすぎないわけで。

鼻につくとまでは言わないけれどnaiveすぎるきらいがある。

 

「ラストマイル」

面白くはあるし、題材が割と重要な社会問題であって中々に見どころはあるのだけれど、しかしなんかこうテレビ映画の域を出ないというか。

「劇場でかかるしいっちょ派手にいっとくか!」みたいなテレビ屋じみた作りに見えてしまう。無駄にドローン撮影で倉庫内をこれ見よがしに見せてきたりとか空撮とか。それ自体が悪いというわけではないのだけれど、ドローンの機械的なカメラの動きにダイナミズムを感じられない。劇半も無駄に壮大で「そのシーンにそこまで力んだBGM必要?」と思ってしまうし、なんか所々で出てくるドラマのキャラクターと明らかに満島・岡田たちラストマイル組とのテンションが違うんですよねぇ…。冷蔵庫のくだりの伏線回収もいるかなあれ?セリフ自体、浮いてたとはいわないけれど「急に説明台詞みたいな事いいだしたな」と思ってたら案の定だし。

せっかく「物流」っていうインフラに関する美味しいテーマを金かけて描ける(実際、物流の仕組みや構造の部分は面白い)のだからそんな安いヒューマンドラマみたいなことしなくていいのになぁ。

いまだにそういう「踊る大捜査線」みたいなことでしか作れないのか、というのを突破したのが「国宝」なんだろうけど観てないんですよねぇ。

 

「マイエレメント」

いやぁ…どうなんでしょうこれ。枕詞みたいになっちゃうけど映像は相変わらずすごいんですよね。だからそのアイキャンディで最後まで見せる強引な腕力はあるのだけれど、お話の方はかなり雑では。

ピーター・ソーンは「アーロと少年」のときも思ったけど、かなり感情を優先してロジックというよりもそっちに寄り添った作劇をするようなタイプな気がしている(もっとも、今回脚本に彼はクレジットされていないのだけれど)。そして、これはかなり邪推に近い印象論なのだけれど、彼のそのエンパシスな資質は端正なCGで作られているがゆえのピクサーのアニメーションでは外連味で納得させることとの食い合わせが悪いのではないかと思ったりする。

いや、そういうのを度外視しても細かいところが気になりすぎるんですよね。まず主人公のエンバーにしても、

あと「トゥモローランド」的なエリート主義も隠しきれてないんですよね。結局のところ才能があるからフックアップされたって話でしかないですし、浜辺で片手間で作ったガラス細工をそんな後生大事にするものか?という疑問もあるし。一緒に作ったとかならまだしも、マジで片手間で作って、元からそういう才能があったから褒められてフックアップされて~という流れなので。まあピクサー入るような人たちにとっちゃ「才能」なんてものは所与であって、そこに葛藤を見出すなんてことはないのだろうけれど。しかし、だからこそ彼らの作る話のテーマは「他者とのかかわり」とその葛藤を描くことはできても「自己とのかかわり」が決定的に欠如しているんですよね。あるいはそれは集団制作プロセスによるものなのかもしれないけれど。

傑作ではあると思うが「インサイド・ヘッド」ですらそれぞれの感情を(分かりやすく見分けるだめ)キャラクターデザインを分けて「他者化」しているわけで。たとえばこれが日本的なアニメーションの想像力であれば、脳内のキャラってみんな同じ見た目になるでしょうし。

それはまあ、文化的な土壌の違いではあるのだろう。

あとエンバー、直すって言って全く違う物作るのはおかしいだろ。というか期限付きなんだから水害の原因探せよ、デートしてる場合じゃないだろとか思ってたらなんか簡単に原因見つかった感じになってるし、雑に塞いで雑に「これでいいか」って処理したら案の定洪水になるし、いやちょっとそれはさすがに色々と雑がすぎるのではと。

泣いて復活というのも意味不明。だったらそこは水蒸気になって復活とかでいいのではとか。まあ一々あげつらってたらキリがないんですけども。

ビジュアルは良いんですけどね。といってもエレメントとはって感じなんですけど。「未来世紀ブラジル」みたいな役所のデザインはグッド。

 

「東京暗黒街・竹の家」

サミュエル・フラーは名前だけよく聞く反面、作品はほとんど観たことがなかったのだけれどこれは結構面白かった。

しょっぱなからFUJIYAMAをバックに列車が画面を横断していくカットなど「桃鉄の決算」じゃないかと妙な笑いが出た。

あとちゃんとした俳優じゃないのか日系人を起用したのかわからないのだけれど、日本語がカタコトだったりセリフが棒読みだったりと、その辺はまあ日本語ネイティブとしては気にならないといえばウソになる。のだけれど、家屋の描写(明らかなセットは別として)やクライマックスの屋上遊園地などは当時の戦後復興を果たした日本の風景は中々に面白いものがある。日本人の監督ではそういう撮り方はしないだろうな、というのは遠目からのショットが多く、それはとりもなおさず「風景」としての日本を収めようと言うのがありありと分かるからでせう。

屋上遊園地での立体的な銃撃戦は弾数やら警察のノーコンぶり(即射撃は当時的にリアリティあるのだろうか)とかを棚上げすれば、様々なアングルから(フィックスとはいえ)切り取っていく様は中々面白い。ラストの雑な締め方とかも含め意外と軽く見れる作品ではある。

まあエキゾチズム丸出しではあるんだけど。

 

「ヴァージン・パンク Clockwork Girl」

YouTubeで期間限定無料公開されてたので。エロとグロシーンは規制されたVerでしたけど、まあ個人的にはあんまり問題なし。

梅津さんは大して熱心に追ってるわけではないのだけれど、基本的には90秒の魔術師の異名から良くも悪くも逸脱しない人だと思っている。これもそんな感じで、というか明らかにパイロット版のような話運びなんで、基本的にはアクションでどんどん繋いでいくので中編としては破綻はないのだけれどこれ以上続けてたか確実に崩れていくだろうなという予感はある。この一本だけで巻き散らかしたら伏線(ゴーストっぽいロン毛とか、それにまつわるであろう蜘蛛糸めいたもの)を完全に放置していたり。

だもんで「無駄に」動く身体表現を堪能している間は問題ないのだけれど「そんでこのロリアンドロイドのモチベは何なのだよ」とか疑問を差し挟んだら終わる。

まあ梅津さんは細かい身体動作だけじゃなくてガジェットを用いた外連味も上手いので、大型複刃チャクラムみたいな武器を使ったアクション(投げ、受け止めの動作含め)やキャリーバックを用いたアクション(はまあキングスマンの拡張版と言う感じですが)も楽しい。ただそういう見せたいアクションやセリフ回しを優先することによって失われるものもあるわけで。キャラクターの知能とか。

ただはねたりはしないよなぁ、という小品といった趣。

 

「数分間のエールを」

脚本が花田十輝ってことで、ある意味では手堅いというか。ジェネリックしすぎたガルクラというか。

MVみたいな映像(カメラワークとか諸々含めて)でMVみたいな内容を尺を引き延ばしているという印象が。

MVはそのスピードによって具体的な時間経過を意識せずに済むのだけれど、これに関しては最初に先生がMVを観てダメだしした際の「朝屋くんらしい」というセリフに関していや外崎はともかく先生は朝屋くんの「らしさ」なんて分かるほどの関係性じゃないだろと。

あとこの人たちナチュラルに「才能があること」を前提に話進めてて笑う。主人公にしてもその年でそんだけのテクニックあればかなり上澄みだろうと思うんだけど、なんか浮薄なんですが。

ものをつくるという営為のためなら他の全ては下位に置いて構わないという思想。それを当人たちは「ピュア」であるということだと思っているのだろうけれど、それがnaiveであるということは常に指摘していきたい。この手のモノづくり称揚作品にはありがちなんだけれど、今回に関しては教職舐めんなよと。

しかしMVで(アニメ的)キャラクターがもはや当たり前の初期アセットのように扱われているのも20年代の傾向としてあると思うんだけれど、全体としてトーンが統一されてるがゆえに一種の単調さがあるのは否めない。

 

「ルックバック」

原作は話題なった当時から読んでいて、だからこそ中盤までのとんとん拍子でのし上がっていくあの多幸感あふれる流れからの悲劇、そこからのマンガそれ自体によるある意味でのワットイフ改変=救済は、その流れを知っているからこそじんわり来るものはあった。

しかし音楽のボリュームがでかい。実際の音量という意味でも、役割という意味でも。モンタージュによる時間経過の間を持たせるために音楽は流れるし、いかにもエモーショナルにベタベタな味付けをしている。まあ、基本的には超作画ではあるがいわゆる「超絶アクション作画」的な派手さがあるわけではないので相対的にそこに頼らざるを得なくなるというのは分かるのだが。

 

「ウィキッド 2人の魔女」

オズの魔法使いは一度見たきりであまりおぼえてないのだけれど、本作は割と「竜そば」に似た構造のような気がする。つまり「唄の力でごり押し」。といっても、その水準やミュージカルとしての質は言っちゃ悪いがダンチでこっちの方が高い。その歌唱による突破力を補強する美術の素晴らしさ、デザインの楽しさなどはそれだけでお釣りがくるレベル(個人的には図書室の美術が特に好き)だしミュージカルシーンのカメラワークも巧み。というかまあ、ミュージカルという様式がすでにそういうものだとは言えるのかもしれないけれど、とにかくミュージカルシーンによる言外の表現がすばらしく「「アンタ嫌い」」という趣旨の歌唱を二人が行うシーンはカットバックを交互にしつつ最終的に二人が画面に収まるというシンクロによって「嫌い」という言葉の裏側に相性の良さを予感させる。

グリンダの人間性に関しては正直なところ最後まで「いやこの人普通に自分本位では?」という思いが拭えなかったのだけれど……というか実際にそういうキャラとして作られているはず。しかし都度都度はさまれる髪の毛ファサーとか一々即座に意見を変えて同調する浮薄さはむしろ徹底されることによって愛嬌へと転じ、ウザいけど憎めないキャラとして輝きを放っている。アリアナという配役あってこそでもあるだろう。

ひるがえってエルファバは不憫でこそあれ、最初から正しさを完徹しようとし続けるがそれゆえにヴィランとして貶められてしまうわけだけれど、そういう意味で最初から完成されているがゆえにグリンダほどの妙味はない。だからこそ二人のペアが際立つわけだけれど。

外連味のあるカットもたくさんあって普通に楽しかった。

 

「レベッカ」

ヒッチコック映画。個人的にはこれかなり好きかもしれない。不在の中心としてのレベッカの強烈な存在感の演出を周囲の人間の反応から引き出し、そこに彼女の死を巡るサスペンスを織り込んでいるのは流石というか。

直前にハルヒのみくる自主映画の回を観ていたのもあって「ライティングの巧みさとかカメラワークとかすげぇ~」としみじみ思って観ていましたよ。いやハルヒの方は逆方向に意図しているというのはもちろん理解した上でですが。

ラストの屋敷炎上のオチからの人物不在で燃え盛る空間をバックにエンドタイトルというのも派手な画面からの人物不在の空疎な終わりというあたりがゾッとする。そこに直前に死んだであろう夫人の顔がちらついてしまう。

 

「刑事エデン/追跡者」

マチズモ(刑事世界)とユダヤ主義(パターナリズム)の内破という試み。それがアリエルの妹とのシスターフッドとして描かれていれば現代的ではあったのたろうが、異性愛規範によるロマンティックラブイデオロギーを用いるところがこの映画の限界なのかもしれない。

まあラビたちのユダヤコミュニティとは別にユダヤ系の同僚という明らかに戯画化された対置によって「ユダヤ」という概念を一面的に捉えることを避けようとはしているのだけれど。

アリエルによる射殺は意図はわかるけど描き方次第でどうにでもなったのではないか。エミリーを守るために仕方なく、とか。

エミリーの父親との関係も惜しいというかもったいないというか。

刑事連中のセクハラ会議の間の取り方とかは面白いんだけど。