dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

「アメリカン・ユートピア」の試写会

私は基本的にジャンル問わず応募できて都合がつく日程の場合は応募するのですが、当選してから「これ何の映画だっけ?」となることがままある。

なので、割と予備知識が必要そうなものにバッティングしてしまい困ることもあったようななかったような気もするのですが、今回もそういう感じなんじゃないかと、少し戦々恐々としていました。観るまでは。だってトーキングヘッズもデイビッドバーンも演劇も、何ならライブだってまともに知らないのに、ライブ映画を観て何か感じとることができるのだろえか、と。

 

f:id:optimusjazz:20210422221130j:image

 

杞憂に過ぎた。この「アメリカン・ユートピア」は間違いなく今年ベスト級の映画。この映画に対して、私の懸念などは(それが己の無知に起因しているとはいえ)この映画の持つ舌鋒鋭い切れ味と躍動を体感した今となっては、そんな不安を抱くこと自体が非礼もいいところだった。

そう思えるほど、この映画はすんばらしかった。 

シネクイントで観るのは初めてだったのですが、箱のサイズ自体は大きくなくてスクリーンもシネコンとは比べるべくもないのだけれど、しかし今回の試写会上映に際して音響セッティングには爆音上映でおなじみの樋口さんが関わっているらしく、彼が関わったおかげで間違いなく普通の上映で観るよりも映画を「体感」することができた。紋切型な表現ではあるけれど、それは確かだからだ仕方ない。

少なくとも音響の具合(純粋な音の大きさだけではなく)はIMAXのそれで感じるように、丹田と心臓を物理的に揺さぶられる素晴らしいものでした。映画が放つビートによって自分の心臓が打ち震えさせるこの感じは、普通に観るだけでは、まして家で配信で観るようなもったいない観賞形式では味わうことはできますまい。

何年か前のトークイベントで廣瀬さんも言っていた気がするけれど、樋口さんは音によって映画の放つ「何か」を伝えようとしている。爆音上映に取り組むのもそのためである。

無学かつ寡聞な私はそれが何かはわからないけれど、少なくともこの映画を此度の試写会で観れたことは僥倖だった。それは間違いない。

 

この映画、というかこのライブは「運動」そのものと言える。パフォーマーの身体(と一体化・解放された楽器)の動作、それらの連動、その身体動作およびその連なりによって奏でられる音楽そのもの、観客の歓声まで含めて、これは「運動」の快楽の映画。

無論、ただ単にライブを切り取っただけではもちろんない。なぜならスパイク・リーが監督しているのだから。彼がただライブを漫然と撮るはずもない。私はこの手の映画を観たことはないので断言することはできないけれど、ライブはライブであるがゆえに、それを収めた映像を映画と言い張ったところでドキュメンタリー映画や劇映画のように時系列を弄ることはできない。(もっとも、後述するけれどスパイク・リーはある一点において現実との時系列を反転させ、それをもって彼の映画が持つ凄まじい切れ味を披露してくれるわけなのだけれど)。逆説的な見方かもしれないけれど、それはちょうど、保坂和志が小説を書くにあたって回想を悪手と認識していることにも通じる気がする。

しかし、だからこそ「ライブ」なのであって。だからこそ、この「運動」(だけと言ってもいいのではないか)によって駆動するライブを映画化することによる運動の相乗効果が立ち現れてきているように思える。

つまり、このライブ映画においてはカットを割ることは必然、ほぼそのすべてがアクションカッティングになるということ。なぜならライブのパフォーマンスは「いま、ここ」の時間しか存在することを許されず、そのすべてが動作(アクション)たりえるから。流れる時間をそのまま繋がざるを得ない以上、それは避けようのないことなのだろう。けれど、だからこそライブという、運動する時間を阻害することなく、むしろその時間をいくつかのカメラによって、幾人ものパフォーマーの身体によって多重化させ、それが音楽というインターフェースとなり、オーディエンスごと巻き取り繋がっていく。

そういう運動の快楽がこの映画の主たる部分であると思うのだけれど、曲の合間に紡がれる、しかし決して単なるつなぎではないデイヴィット・バーンの語りはそれ自体が運動を呼び掛けるものであり(それは投票を呼び掛けるものであったり、疑義を呈することから人間を問い直し考えさせる呼びかけだったりする)、その呼びかけそれ自体が運動でもある。だから、ひとえに運動といっても多様な形態があり、そこには政治的な「運動」としての意味合いがすでにからして含まれているのだと、観終わった今になってわかる。

そして、だからこそ終盤の「Hell You Talmbout」に、そのパフォーマンスの最中にインサートされる、ライブとは異なる「時間」に、しかし同時にライブの時間と並行されながら現出するその「時間」のエッジに、私はやられてしまった。気づけば泣いてしまっていました。

その時間とは、観ればわかるのだけれど、すなわち停止してしまった時間たちに他ならない。Liveという進行し続ける一直線の時間の中に、別なる時間を並置させること、その異化・相対化効果によってスパイク・リーはその無言のうちに鋭利な舌鋒を饒舌に披露して見せる。これは「ブラック・クランズマン」におけるラストシーンと同様の、現実と地続きにあることを示している。

そしてここにこそ連綿と一直線に進んできた時間の逆転が存在する。それはジョージ・フロイドの名前だ。

「Hell You Talmbout」の曲中に出てくる人たちの名前は、このライブの「時間」においては過去においてレイシズムの犠牲となった人たちの名前だが、ジョージ・フロイドの「時間=死」だけはライブの「時間」よりも未来における出来事としてある。

その時間の倒錯、赤い文字で示される数多の「時間」たち。その強烈な主張、スパイク・リーの湛えた怒りがもたらす政治的主張としての運動とデイヴィッド・バーンたちの織りなす(しかし湯浅学のいうように統率が取れているとかそういうのではなく、各々はむしろバラバラであり、なればこそ多様さの賛歌たりうるのだ)運動のハモりが観客に、少なくとも私には突き刺さった。

 

そしてまたエンドクレジットにいたるまで運動し続けるこの映画の心地よさに、その人間賛歌にどうして勇気づけられずにいられるだろうか。

んが、パフォーマーの中にアジア人がいない、というのはもしかすると気になる人もいるかもしれない。それはこの映画の広報戦略としての「多様性のアピール」に先回りさせされていることの弊害であるかもしれない。けれど案ずることはない。しっかりとスパイク・リーは客席にカメラを向けている。その時間は微々たるものだけれど、しかしその数少ない微々たる時間の大半をアジア人の観客の顔が占めていることを考えるならばその意図を類推することも難しくない。

キャストが舞台から降り、壇下で、観客と同じ場所に降りたった後に幕が閉じる。それはすなわちパフォーマーと観客の彼我を取り払うということ。だから、パフォーマーの中にアジア人がいなくとも、彼らの(というか私たちの)存在が忘却されているということではない。もちろん、パフォーマーの中にアジア人がいないことに気づいてスパイク・リーが苦肉の策としてそうした可能性だって否定はできないけれど。

しかし観客もひっくるめての運動たるこの映画を観た後で、そのように矮小化することはやはりナンセンスだと思う。

 

とにもかくにも傑作なこの映画、ぜひIMAXなり爆音上映なりを大手のシネコンでもやって欲しいものである。

 

露悪とインディースピリッツが合わさり最低に見える

てなわけで「JUNK HEAD」観てきた。池袋シネマロサで観るのは初めてだったり。

この手の映画にはほぼお約束と言っていい資料の展示もあり、オニューのスマルフォイで撮影。

 

f:id:optimusjazz:20210409151942j:image

f:id:optimusjazz:20210409151949j:imagef:id:optimusjazz:20210409151953j:imagef:id:optimusjazz:20210409151959j:imagef:id:optimusjazz:20210409151938j:image

 前のスマホがまあまあ古い機種だったというのもあるのだけれど、段違いに画質が向上していてビビる。

 

それはともかく本題。

たしか数年前に公開された未完成版も話題になった時に観ていた記憶はあるのだけれど、そこからさらに撮影を重ねて長編として完成させた労作。

観ての通り、クリーチャーはまんま「エイリアン」です。ゼノモーフの顔をニューボーンに移植しました!ってな感じで、どう見てもエイリアンです本当にありがとうございました。

世界で絶賛されたSFストップモーションアニメ『JUNK HEAD』堀貴秀監督の狂気の才能と情熱を聞く | SPICE - エンタメ特化型情報メディア スパイス (eplus.jp)

堀監督、上記のインタビューで影響を受けたマンガや映画なんかの名前を挙げているのだけれど、すごくストレートに影響を受けているのが分かるラインナップになっております。全くの余談なんですけれど、最近、マガジンの新人賞だかなんだかの読み切りマンガにも似たようなクリーチャーが出てきたきが。やはりギーガーは偉大なり。

人形の関節が全然目立たないなぁ、などと思っていたのですがラテックス系で素体を覆う感じだったので納得。とはいえ、材質的に可動部の劣化はやはり避けられなさそうではあるので使いまわしたりするのは難しそうではありますな。というかラテックス系であんなに上手に塗装できるものなのか、とか色々びっくり。

 

基本的に、この映画は堀監督の手によって創られた被造物を楽しむものではあるゆえ、お話部分に関しては私は正直どうでもいいと思う(とか書きつつ色々と苦手な部分はあるのだけれど)。だからというわけではないけれど、こと全体の完成度という点に関して言えば本職の人が撮ったものと比べるとやっぱり荒削りな部分も見える。もっとも、それがかならずしも瑕疵になるかといえばそんなことはないと思う。思うのだけれど、この映画のインディースピリット(とそれがもたらす露悪さ)についていけるかどうかで、この映画が好きがどうかが分かれると思う。あくまで好悪のレベルであるのだけれど。(とか書きつつも三バカのサクリファイスには不覚にもウルっと来てしまったのですが。ええ、「忍者と極道」で涙ちょちょぎれる私の涙腺などそんなものなのです)

で、こんなことを書くからに、私のこの映画に対する好き嫌いはすでに伝わっていると思うのだけれど、もう記憶のかなたに飛んでいた私の嫌いな(というか好きじゃない)映画の記憶が呼び戻されるくらいに、その露悪さや悪い意味でのインディースピリッツというものがある。気がする。三部構成で、続編の構想もあって、というあたりとかも実にそんな感じもする。

単に今、私のモードがそちらに向いていないということもあるのかもしれないけれど。

まあ、それについては後回しにするとして。もっと豊かな語り口がこの映画にはあるので。

 

すべて独学だからなのか、アニメーションそれ自体がある種の異質さを含んでいるように見える。私もストップモーションアニメをそんなに数見ているわけではないのだけれど、それでもこの映画に対しては違和感のようなものを覚えた。

というのも、この映画、妙に腕周りのアニメーションが豊かなのであります。ほかの部位に比べて、腕周りは本当にぐりぐりと滑らかに動く。その、手話とも呼びたくなるような動きの豊かさは観ていて楽しい。

一方で、歩行のアニメーションに関してはそちらほどのダイナミズムは感じられないというか、どことなくぎこちない。これはまあ、別にストップモーションに限らないし鈴木敏夫の言葉を借りるつもりもないのだけれど、二足歩行で歩くという動作は、実は人間の動作の中でも複雑なものである(というのをどっかのなにかで読んだか見た気がする。曖昧)。歩行というのは全身を使う動作であるからして、身体のすべての部位が一同に連動することでなされることを考えればさもありなんということなのである。というか、人形の素材による可動域の制限も結構ありそうな気がします。

パンフにも歩く動作は面倒なのでできるだけ避けている、と書いてあったし私の考えもあながち間違いではないのだろう。

だから、そういう意味での洗練さ、というものは当たり前だけれど求めるべくもないのだろう。

ところで、この映画はアニメというよりもライブアクションを志向しているという旨の発言を監督はしていたのだけれど、だとすればそれはかなりのレベルで達成されていると思う。この映画の望遠のショットは軒並み素晴らしくて、マットペイントのような、人形が相対的に小さく見えるような奥行きのあるショットがいくつもある。

そういったアングルは、やはりある種の物質性、そこに物体として存在するがゆえに思考される、「描けばすべて存在しえる」ドローイングのアニメーションの逆説を含まなければ導出されないものに思えるのであります。

だから私はそういうのが観れただけで満足ではあったりするのです。

 

んが、いくつか気になるところもある。

まず一番気になったのは音楽。音楽はダメでしょ、これ。使い方も音楽それ自体も、もうちょっとどうにかならなかったのかという気はする。外しの笑いも本当にただ外しているだけにも見えるし、狙った笑いに自分はほとんど笑うことはできなかった。

セリフもなんか引っ掛かりを感じる部分があった。これはかなり感覚的なものではあるのだろうけれど。たとえばこれが作られた言語ではなく純粋な日本語のセリフとして読み上げられた場合どうなるだろうか、と考えると結構きつい気がする。この辺に関しては映画そのものとはまた別ベクトルの問題を含んでいるような気もするのだけれど。

あとは前述のとおり露悪さに付き合えるかどうか、という問題。「しっぽだったんかい!」というのもある種のギャグとして機能させたかったというのも分かるのだけれど・・・。造物それ自体のグロテスクさ、それがもたらす生理的嫌悪っぷりがすでに十分あるので、そこに露悪趣味を展開させるのは、シリアス一辺倒だと技術的・金銭的に困難だったというのはわかるにしても、それは悪手だったのではないかという気がしなくもない。

 

とはいえ十分に楽しめる映画だったことは確かだし、パンフレットの内容も1500円という一般的なパンフの約2倍の値段ではあってもその赤裸々さ(青臭さと言ってもいい)は読むに値するものではあるのでお土産としてはグッド。

2021 3

黒部の太陽

三船の役柄って三船自身の人となりみたいなめのが多分に反映されているのではなかろうか。

 

「心の旅」

ハリソンてこういうの出てたんだ、という印象。後半の展開を見るにもっとドロドロしたものにもできそうなものを、かなりハートフルに仕上げている。てかこれハングオーバー!とおなじ構造なのですね、よく考えたら。

 

王立宇宙軍 オネアミスの翼

場面暗転の多用やらタイミングやら、そもそもの設定からしてどうなのよとか、そういうのは置いておいてそんなに面白いものではない気もする。音楽は良い。あと例のロケットのシーンは確かにすごい。

 

「ウエストワールド」

クライトン原作だし、まあ細かなとこはともかくとしてもあっけなく死ぬシーンとか、レトロすぎてもはや未来感すら出てない感じも逆に結構好き。

今だったらもっと人間の実存とかそれこそドラマ版のウエストワールドとか色々とそういうことになるのだろうけれど、そういうのがないというのがかえって好感触というか。ある意味で徹底しているというか。まあそれがクライトンなのだろうけれど。

 

「禁断の惑星」

いや、特殊効果すごいなこれ。ロビーの印象が強すぎるせいもあるけれど、普通にアニメーションの質が高いですし、コマ送りによるドア(シャッター)の開閉とかも、この時期にやっていたというのはかなり先見性があるのではないだろうか。

と、いうか、これはチャップリンの映画を観ていて思ったのだけれど、「鉄男」とかも含め、コマドリってかなり原初の映画体験に近い者なんじゃないかという気がするのですが。

 

ラヂオの時間

三谷さん、ちゃんと面白い映画撮れるんだ…。

ギャラクシーなんとか、とかいうのが三谷さんに対する最終評価(何様だ)だったのだすが、これってやっぱプロデュースの力もあるのかしらん。

 

ギャングスターズ 明日へのタッチダウン

これサウスパークで観たやつだ!というのが先に立ってしまうくらいこてこて。

確かギャリソン先生のペニスを移植されたネズミが脱走する回の学校の話と基本的には同じなのですよね(まあむこうは不正なんですけど)。

てなわけでエヴァ二回目行ってきた。

とりあえずIMAXで。本当は4DXの方が席がぐりぐり動いて楽しいんじゃないかなーと思てたんですけど時間が合わずに断念。

IMAXで良かったのはやっぱり音響。特にエンドロールの宇多田の曲は両方ともすごくよかった。すでにCD買って延々とループしていたのだけれど、「Beautiful World」のアレンジはイヤホンで聞いているときはオリジナルバージョンにスキップしちゃうときもあるくらい(逆に「One last Kiss」はこれ単体でループするくらい好きなんですが)そこまでだなーと思っていたのにIMAXの音響で聞いたら全然違った。da capoも良いじゃん!

 

本編についてはすでに散々擦られているので特に書くこともないのだけど、やっぱりエヴァンゲリオンのメタ映画として「シン・エヴァ」はあるなぁと。前も書いたけれど、セルフオマージュが過ぎてほぼほぼパロディになっている(そうでなくとも庵野さんはオマージュ大好きですし)ので笑ってしまう。

新劇になってから登場した新キャラクターたちは、既存のキャラへのメタ的な視点を持ち合わせているのはすでに知られているところではありますが、それによってうまくヘイトを分散させているなぁ、と。

マリ(=モヨコ)はともかくとして、ピンク髪(名前忘れた)の人の感情や巨大綾波を観た時のツッコミなどは、旧劇場版ではありえなかったはず。ツッコミ、というのはともかく客観的な視点に立たねばできないことであるからして。

しかし後半パートの出だしの音楽の詰め詰め感は本当に笑ってしまう。あれ鷺巣さんのスコアCDの1枚目のラスト(激突!轟天対大魔艦)と2枚目の2曲目(metamorphosisとparanoia)までの間隙はほとんどなかったんじゃなかろうか。ていうかスコアのライナーノート面白い。

 

エヴァはともかくエヴァを取り巻く環境とか、一部の映画人のスタンスというのもあまり好きではないのだけれど、しかしまあゲンドウのことを糾弾できる人って一体どんなメンタルの持ち主なのだろうかと考えてしまう。いや、あの男がマダオであることは一部の隙間もない正論であることは確かなのだが、じゃあそういうあなたはどうですか?と問い返されたときに、私はいまだに旧劇場版を参照してしまう程度には対人が苦手である。

だから今作で明確に成長(緒方→神木)してしまったシンジくんを観て、カヲルくんがシンジ君の成長を少し寂しいと言うのには同意してしまうのである。

 

話は戻りますが、メタ視点というのは、やっぱりどこかサムいというか白々しさというのが付きまとう。シンに関してあれだけの旧劇オマージュを畳みかけておきながら、旧劇にあったダウナーな感じや生理的なキモさが著しく後退しているのは単にCGがどうこうというだけではなくて、やはりそれはどうしようもない他者の存在が厳然とあるからだろう。

旧劇において補完が開始されると、そっから先はほぼすべてがシンジのモノローグとなってしまう。しかし今回は彼の内在世界と並行してその外部(=他者)が元気に活動しまくっている。そもそも、シンにおけるゴルゴダオブジェクトにユーガッタタッチしたあとの内在世界はシンジだけではなく彼にとっての他者であるゲンドウをメインにした他者(といってもこの時点では二人だけだけれど)も存在している時点で、ゲンドウが食われていなくなる(=拒絶)旧劇版とは明らかに異なっている。

そもそも、明確に「対話」することでの決着と言っている以上、コミュニケーションの発生は不可避であるわけで(その前座としての戦闘というディスコミュニケ―ション)。

それを臆面もなく描くことは、すなわち旧劇場版のメタ以外のなにものでもない。旧劇のあのダウナーな熱狂というのは、つまりはそこにツッコミを入れる他者の存在が欠けているがゆえに深く自己深層心理に観客が勝手に同調して(当時の時代を考えればさもありなん)いくことによって成り立っていたはずで。

だから、シンジがどれだけ自己嫌悪的なセリフを口にしたところでしょせんはポーズでしかなかった旧劇に対し、今回はピンク髪の人が「エゴじゃん」というように外部の視点を取り入れている。

それがゆえに、旧劇エヴァが好きな人はしらけるのだと思う。多分、伊藤さんが言っていたのもそういうことなんじゃないだろうか。

 

 

どうでもいいんだけれど誰かすべてのエヴァが刺し貫かれるシーンで量産型とか甲型とか書き加えるMADを作ってくれまいか。

満員につき観れなかったので「ブータン 山の教室」をば

シネコン感覚で行くもんじゃなかった。ただでさえコロナで席数絞ってるだろうに、そんなことも予想できなかった私の見立ての甘さよ。

というわけで劇場に足を運んだものの席が埋まっていて目当ての映画が観れなかったので、それとは別に抽選で当たった映画のオンライン試写会を自宅で観ることに。

 

ブータン 山の教室」という映画でござい。

『ブータン 山の教室』

まず一つこの映画について言えることは上記画像の少女ペム・ザムちゃんが、間違いなくこの映画の顔であるということ。公式のFBのアイコンもこの子でしたし、主人公であるウゲンの「THE・凡庸」な空気感(悪口ではなく)に比べて、明らかに華があるし可愛い。

しかもペム・ザム役を演じるのがペム・ザムちゃん自身であり、劇中同様に箱入り娘であり家庭も崩壊しているというのである。つまり、これはほぼ彼女にとっての半ドキュメンタリーでもあるわけなのです。ていうか監督、絶対にこの子のこと見初めてメインに据えたでしょう。そしてその判断は正しい。

何せ私はペム・ザムが自己紹介で歌を歌うシーンで、可愛すぎて涙目になりました。マジで。この子、声もすごくかわいいんです。

 

 

やる気のない新米教師が自然に囲まれた僻地に赴きそこの住人に触れて心を入れ替える(いや別に入れ替えてないんだけれど)、というありがちな内容ではあるのだけれど、この映画、舞台となるルナナ村が僻地にあることを伝えるために30分を費やしてその道程を描くのである。いわゆるビッグバジェットの映画やエンタメ映画ではあそこまでのんびりとは描くまい。

あるいは、ラストのオーストラリアとの対比のために標高・人口が示され、数値的にわかりやすく明示されてもいたりする。

といっても、レイダースのように一歩間違えば死ぬ、というような険しい道のりというわけではもちろんない。

そのような過剰さは、この映画には一切ない。

なぜならこの映画は自然体であるから。

 

自然体であるということ。それはルナナ村の住人だけでなく、ウゲンも含めて。現代の若者(でっかい主語だなー)の表象である彼はiPod(あの分厚さやアダプターの端子から察するにかなり昔の型だと思うのだけれど・・・)を使い、登山中にも音楽を聴きづつける。そこに映し出されるのは、ウゲンという現代の若人の自然体なのでせう。

だから初対面の相手との食事でもスマホ?を弄るような無礼な振る舞いをしても、彼はそれと気づかない。

 

この映画には、だから、野蛮さも過剰さも何もない。というと語弊があって、たとえば(そういう映画ではないと理解しつつも)ウゲンを村人総出で出迎えるシーンのシンメトリーな構造などは「ミッド・サマー」のような異界に足を踏み入れた感がありますし(私が毒されてるだけだが)、何よりあの広大な風景の望遠のショットの連続はそこいらではまず撮れますまい。

だけれどやっぱり、何か思考を促すような映画だったりとか、そういうものではないのだと思う。だから聖職者と呼ばれる教職というのは一体何なのかとか、自然との対比によって現代文明を批判するとか、そういうお題目は存在しえない。前者に関しては、やや建前的に表出しているような気がしないでもないけれど、ラストのことを考えるとやっぱり作り手はそういう問題意識はないのだと思う。その割には派遣期間の終わりが近づくことを告げる村長とウゲンの会話の中で、ウゲンが海外に行くと言った直後に村長の顔のアップの短いワンカット(これ良い)入れたりという、ある種の葛藤を盛り込んでみたりはする(その後に嫌味っぽいことをいう村長。オイオイ)のだけれど。

ウゲンはルナナ村での経験(というか歌それ自体)を糧に、オーストラリアの場末(失礼)のバーでセデュから教わった歌を歌い、そしてエンドロールへ。

 

ウゲンの将来も夢も、そんなものは掘り下げない。有言実行し、不言実行する。ただその結果と過程だけが淡々と描かれるにすぎない。

それが自然体なのかもしれない。登場する人たちはみな顔がドアップになりながらも、その顔のそばかすや吹き出物をメイクで美しく見せようということもしない。ドキュメンタリーと書いたのも、そういうところがなきしにもあらず。

 

起伏も葛藤もないこの映画には、しかし絶対的な支柱が存在する。それはペム・ザムちゃんだ。

この映画にとってのノルブ(宝)は間違いなくペム・ザムちゃんである。その可愛さによってのみこの映画を最後まで牽引する。それだけの魅力が彼女には間違いなくある。

ペーパームーン」におけるテイタム・オニールが個人的にはこの年頃の可愛さのトップだったのですが、ペム・ザムはそれを悠々と超えてきました。

ペム・ザムに比べればテイタム・オニールなどただの悪ガキに過ぎませぬ。ペム・ザムの持つあの無垢さは「害虫」における宮崎あおいのそれと対置することもできるのではなかろうか。どことなく宮崎あおいに似ている気もするし、ペム・ザムちゃん。

 

ともかくこの映画はペム・ザムちゃんだけを目当てに行っても全然かまわない。それくらい可愛い。

断っておきますが私はロリータコンプレックスではありません。それでもなお、彼女の可愛さは超軼絶塵である。

シンエヴァ観てきた

f:id:optimusjazz:20210312213038j:image

 

良かった。本当に。

ただ何というか、一抹の寂しさのようなものもあったり、あと正直なところエヴァの熱というのが全盛期ほどないがためにあまり前作までの部分とか設定とか覚えていなかったのでちょいちょいわからないところがあったというのも確か。(渚指令とか)

パンフは案の定売り切れてた。初日にパンフだけでも買っておくべきだったなーというのはある。まあ多分、もう一回くらいは観に行くのでそのときに再入荷していることを願うが。

 

んで、この映画についてどう書こうかというのがちょっと迷っている。本腰入れて書くにはまだ咀嚼しきれてない。かといって書きたいこともかなりあって、といった感じでどうにもうまくまとまらない。

ので、とりあえず散漫に書いていくことにする。

 

とりあえず「Beautiful World」はゲンドウくんの歌だった、ということは言える。そして「One last Kiss」を鬼リピートしています、私。特段宇多田ヒカルが好きというわけではないのだけれど、やっぱこの人すごいと思う。

 

あと序盤の日常描写はすごい良かった。「Q」では状況が状況だけにああいう描写を描く余地がなかったというのはあるのだろうけれど、どれだけ壮大に話を広げてみたところでエヴァというのは結局のところ人の心の問題なわけなので、ああいう寄る辺としての日常というのはやっぱり必要なのだと思う。

まあでも目の前で黒波さんが死ぬのはそれ逆にトラウマ再植にならんべ?という気がしなくもないのですけれど。

 

ループというよりはメタ視点を取り入れたセルフオマージュではあると思うのですけれど、それにしても後追いでエヴァを観てきた人はどうなんだろう。大学生くらいの人も観てたんだけど、今の大学生ってどう考えてもテレビシリーズに間に合ってないでしょう?

MCUにおける「エンドゲーム」的な作品・・・つまり10年単位のコンテンツの幕引きというわけであって、新劇から入った人ですら旧劇・TVシリーズからの人ほどの情動はないのではないだろうか、という気がする。というくらい旧シリーズのセルフオマージュ(というかあそこまでやっちゃうとパロディだと思うんだけど、ミサトさんちでのエヴァのバトルを見るにまあ狙ってるよね)が盛りだくさんだし、タイトルバックとか挿入してたし。まあ旧劇と違ってちゃんと笑えるつくり(+笑ってくれる客)がいたので(少なくとも私は巨大綾波に笑ってしまった)、少なくとも伊藤さんの言うような「敗北」ではないのだと思う。

 

あと予告で違和感バリバリだった初号機と13号機のMMDがごときバトルシーンですが、あれにはしっかりと故ありだしその直後にちゃんと?した作画に戻るのでご安心を。まあ「Hello, World」と同じ手法ではあるんだけれど、あっちと違ってオチではなくあくまでシーン単位での演出としてしている部分はさすがというべきでしょうか。

 

これリアタイでエヴァを追っかけてた人は喪失感すごいと思う。

また気が向いたらちゃんと書くかも。どうかな・・・書かないかも。

 

2021 2

「パプリカ」

ひさびさに見返したら凄まじい傑作であることに加えてアレゴリーだらけであることを理解しますた。

夢とフィクション(映画)、その作り手あるいは担い手としての責、それらの相剋

 

理事長とか完全にチャールズ・エグゼビア(が潜在的に持つつダークサイド)ですし、パロディもふんだんに盛り込まれてますし、改めて見返すと最初に見たときと全然印象が違って、サイケというよりもむしろ意味それ自体に侵襲されているように見える。

まあストーリーが云々というよりもやっぱりアニメーションそれ自体の質に観惚れるので快楽部分に相違はないのですが。にしても色彩設計凄いなぁーとやはり改めて思ったのだった。

 

「犬鳴村」

少なくとも「こどもつかい」よりはかなり楽しめた。というか怖かった。誰だったか、高橋洋だったか忘れたけど、呪怨以降は「見せる」ことがメインストリームになったというようなことを言っていた気がする(あやふや)のだけれど、これもそういう意味では同じだと思う。

気持ち悪さ、あるいはフリークス(というか被差別民)の悲哀など、実はかなり哀愁の漂う映画でもある。

いや、結構良かったと思いますよ、マジで。

 

インターンシップ」(映画天国録画)

お話自体はひねりもないしクリシェもいいところなのだけれど、やはりオーウェン・ウィルソンの顔面力だけで割と十分。

 

メトロポリス

大友の欲望ってただひたすら動かすことにあるのではないか、という気がしてくる。「AKIRA」はともかく「スチームボーイ」とかいうもはや誰の記憶に残っているのかも怪しい映画を除くにしても、実のところこの人って質よりも量みたいなところを志向していたりするのではないだろうか・・・?

 

「127時間」

ダニー・ボイルは実はあまり好きじゃないのではないかという疑惑がにわかに自分の中に起こりつつある。

いや、この映画に関して言えば割と好きな方だし、神経の痛みをあのノイジーサウンドで表現したり、というのはかなり好きなのだけれど、全体的にこの人の映画って人間の内面を描くことに抵抗がないというか臆面がないというか、そういうのがなんかあまり。もはやマウンテンデューの広告かと思えるような場面もあるし。

いや、すきっちゃ好きなんですけどね、この映画。タイトルの出し方もつい笑っちゃったし。

 

「深夜の告白」

 冒頭の五分がすごい良かった(小並感)

 

SSFF短編たち

「マイリトルゴート」

PUIPUIモルカーの監督の短編。モルカー、結局2話しか観てないのだけれど。個人的には「あたしだけをみて」の方が好きかも。

いや、割と恐ろしいというかおどろおどろしい作風なんですけど、狼(パパ)の半ケツチラリズムとかドラえもんズの合体とか、要所要所で笑ってしまった。

 

 「ラッシュ/プライドと友情」

え、これ音楽ジャブロンスキーじゃないの?ジマー?マジですか?てっきりジャブロンスキーだとばかり・・・いやジマー門下生だからジャブロンスキーのできることをジマーができてもおかしくないのだけれど、あそこまでバカっぽい感じの音楽やるのか、という感じが。いやしかしジャブロンスキーも参加してまへんかねこれ?

内容自体はうーんまあ面白いと言えば面白いのだけれど、「グランプリ」とか「フォードVSフェラーリ」みたいなエッジの利いた作品群を先に観てしまっていたためか今一つ物足りなさがなくもない。

というかお話自体はどちらかというと「ボルグ/マッケンロー」に近いともいえるのかしら?

ロン・ハワードなので手堅くはあるんだけれども。

 

スケアクロウ

さらば冬のかもめ」的な。アメリカンニューシネマど真ん中の作品、なのだろうか。ハックマンとパチーノのホモソは良いものだ。

 

「キッド」

通しで初めて見たのだけれど。印象自体は変わらず。つまり、エッセンスのみ、ということ。

 

南極物語

ジョン・フォードの「駅馬車」を想起させる運動の快楽みたいなものが見えた気がする。