dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

TOKYO TELEPATH 2020 from tokyo in シブヤ

ペンタクル、リバースペンタクル、フラクタル、リバースペンタクル、リバースペンタクル、スペクトル、以下∞略・・・

この映画にフュージョンして文章書こうと思ったのですがダメでした。失敗しました。フュージョン失敗です。解除まで30分待ちます。

 

中編ですし普段ならスルーしていた(というか気づかなかった)であろう映画なのですが、さるお方の激推しで観に行ってきました。凄い映画でした。

ただなんというかですね、言語化するのにはあまり向いていない映画というか、言葉をひりだそうとすると「映像がすごい(小並感)」といった具合でにっちもさっちもいかない感じになってしまう。のですが、それだとさすがにあれなので無い知を絞って書きます。

といっても問題系は割とシンプルで、アプローチは全く違いますけど楫野裕監督「阿吽」と並べてもそこまで違和感はないと思う。遠藤麻衣子監督の場合はもっと抽象的ですが。

映像がすごい、だけだとまるで〇痴なので無茶を承知で一番卑近な例に無理やり引き付けてアナロジーすれば、吉田大八監督「美しい星」(include「未知との遭遇」)の覚醒シーン(渡邊琢磨の音楽も含め)が全編にわたって全面展開している(しかし恐ろしく緩急がついている)、といえばいいだろうか。「美しい星」もある意味で電波系の映画ではありますし、遠からず近からずだと思う。いや「TOKYOTELEPATH」の方が遥かに超なのですが。

それにまあ宇宙人もオカルトの範疇ですし。だがしかし、これは何度でも書きますが、私は幼少期に友人と一緒にUFOを目視したことがあるので個人的には宇宙人というのはオカルトの埒外なのです。それでも一般的にはテレパスも宇宙人もオカルトのカテゴリでしょう。話はそれますが「虚空門GATE」観てないんだけど、こんなこと書いてる人間があの映画を観るというのはなんかまずい気もする。

 

それと、この作品の名前を出すと品性というか性癖を疑われそうなのと、「あんな低俗なものと一緒にするな」「持ち出すならタルコフスキーの「ソラリス」の首都高シーンだろ」とかお叱りを受けそうなので躊躇われるのですが、それを覚悟で名前を挙げると、ショタコンアダルトOVA(今となっては男の娘表記の方がしっくりくる)「シリーズぴこ」の第3作にあたる「ぴこ×CoCo×ちこ」にも、TOKYOという都市(を象徴するランドマーク)を逍遥しつつ「何か」が展開されるというのは結構通じるものがあると思うのですが、さすがに血迷っているだろうか。

 

かっちょいい画の連続、ノイジーで耳心地の良い頭が痛くなる音は、残飯監督の映画で使われたノイズとも違う。彼の映画のノイズはまさしくノイズであり露悪でしかないノイズ(だがそれがいい)なのだけれど、それとはまた違う。

 

物語らしい物語は、ない。辛うじてキョンちゃん・よ8888・お兄ちゃんの関係性から読み取ることはできようが、それも盲目・足のないの彼らがジャミングし上滑りさせているようにも見える。それはフリーメイソン的プリズムで光を掌握しようとも・よもや日常風景化したサンバイザー(=フェイスガード)によって光を遮断しようとも・数珠繋ぎの疑似龍脈で光を回折させようともしない、光を持たないがゆえに光を必要としない者たち。中心たるTOKYO・オリンピック、フェンスで囲われた国立競技場の外苑・パラリンピックに象徴される周縁。もとい、双方ともに外縁的。

ところがぎっちょんてれすくてん。パラリンピックは文字通りparaである。ゆえに中心たる彼らは並置され相克され物語は無化される。おお!そう考えるとドキュメンタリーであったからこそ相克できなかった佐々木誠監督の「ナイトクルージング」の先んじてはいまいか!?などと興奮する。 

物語はない。けれど意味はある。というか、意味しかない。虹色の階段上で、まるでビット単位で蠢くおよそ人影には見えない影を見ながら、距離を思う。距離によってその視線の対象物は姿形を変える。残飯監督の短編を観ていた思ったことと似ている。つかず離れず、適度にバランス、だから中庸。それが処世術。

だけど、それだとつまらないのも事実でありけり。だから超接近してみたり、離れてみてみたりして、あたかも形状変容しているように見るのである。

 

とはいえである。果たして、距離そのものを喪失させるテレパシーなるものが、テクノロジーなるものの誘惑を無根拠に受け入れていいものだろうか。

少なくとも私は「リジェクト」したい気持ちがある。ノーサンキューです。

 

どうでもいい個人的なことなのだけれど、キョンちゃんが見ていた風景を私も見たことがある。あのまま競技場が未完成だったらすごいいいのになーと思ったりもしたり。それはオリンピックに反対していたからというより、完成の退屈さとか、単純にオブジェクトに対する美的感覚が違うというだけなのだけれど、今になって思えば、生まれる前から死んでいたこの「中心」的建造物の、2018年の生まれようとする姿をその「外部」から観れるというだけでも、この映画の素晴らしさがあるように思える。

2020/9

オペラ座の怪人

うわー今思えばシュマッカー監督の映画を観るのは初めてでしたよ。「バットマン」すらも観ていない。

んが、なんというかこの「オペラ~」だけをとってみると、そのフリークへの眼差し(とセットの感じとか)がバートンのそれと非常に似通っている。

しかしなんというか、全編通してセリフも含めて歌ってみせるというその過剰さや全編にわたってクライマックスな絵面といいカット割りの豪胆さといい、なかなかどうして面白い映画である。

印象的な音楽の力もあって、ひたすらにパッショナブルでありながらフリークスの悲哀が貫いている。それはさながら青い炎。

画面全体が豪奢なのも、すべてはその画面の裏に充満し続ける怪人の悲しみの裏返しなのではないか。

 

わたしは、ダニエル・ブレイク

黒澤明「生きる」のような哀愁をまとう寄る辺すらなく、ただただ宙ぶらりんな悲観しかもたらさない。だからダニエルの死すらもあっけなく、余韻など微塵もなく、トイレで突然死して終わり。死ぬ瞬間すらも画面のフレームから剥奪され、死に顔一つ画面に場を与えられない。

未来世紀ブラジル」における戯画化された官僚制・・・すなわちモンティ・パイソン(ていうかギリアムなんだけど、まあ一緒でしょ(暴論))の茶化しが機能していなかったのか、イギリスのセクショナリズムたらいまわしっぷりは文字通り生殺しである。あるいはセーフティネットへのアクセシビリティの格差という問題もある。

つまるところ、これは構造の問題であるわけで。彼女がポン引きに捕まってしまったのも貧富・性的な抑圧の構造によるもの。逆差別だ、などとのたまうつもりはないが一方でダニエルは性的なサービスによって金銭を得ることはできない。

女性の性風俗産業それ自体が女性を抑圧する構造の賜物である。それで救われる人もいる、という言説もあるし誇りを持っているだとか職業に貴賤はないだとか言う人もいるのだろうが、それがどれだけの「嫌嫌・渋々・仕方なく」従事せざるを得ない人の声の上に覆いかぶさるノイジーであるのかと考えたことはあるのだろうか。それは単に内面化しているだけに過ぎないのではないか。

 

若干話がズレたが、要するに役所はちゃんと仕事しろ、ということである。というかこういうことはどこにでもあって、それこそ障碍者の分野にも当たり前のようにはびこっておりまして、本来なら回数制限のないサービスを勝手に回数付きにされたりなどなど、こっちが知らないと思い込んで勝手に適用範囲を捻じ曲げることもままある。

んで、そういう貧しい人というのは情報へのアクセシビリティ(ダニエルがITに特段疎いのは年齢的なものばかりではないだろう)も低く、情報格差によってそれをうのみにしてしまうこともある。

こう見ると生活保護の制度があるだけ日本はまだいくらかマシなのかもしれない、とすら思えてくる。無論、それは単なる需給のしやすさという意味に限るわけだけれど、すくなくとも身近な生活保護受給者を見る限りでは衣食住は確保できているし。

しかしまあ是枝監督のようなお行儀のよさよりも怒りをしっかりと発露させてくる分ケン・ローチの方がかなり好印象である。

 

「クラウン」

ジョン・ワッツらしく大人コエーな映画。

すってんころりんとか噴き出してしまいそうなディテール、オチも含めてB級な佇まいでありながら結構な力作。

無垢な子どもも意地悪な子どもも等しく死ぬ、その心意気やよし。スパイダーマンが「スパイダーマン」でなければ殺されていたのではないかとすら思う。

 

 IT/イット THE END “それ”が見えたら、終わり。

前作の細かいところ覚えてなかったのですが、それでもまあ楽しめましたかね。

ただまあ、今回は解決編でもありますので倒さなければならないために、ホラーというよりもむしろファンタジー路線というか。セルフも含めパロディや確実に笑かしに来ている描写が結構あり(前作もあったとは思うけど)、特殊効果もふんだんに使われていて退屈はしないのですけれど、それにしても終盤のバトルはステージも含めてゲーム感がもりもり。「イドリス・エルバ呼んできて」といった風情。

解決方法はグレート・スピリッツ的で(まあ武井さんはキング読んでるだろうけど)、そういう意味でも前作から一貫して心の(葛藤、どうあるか)問題であり、Jホラー的な理不尽さはない。

ある意味でわかりやすい映画ではある。

 

ロミオとジュリエット

こんな笑える映画だとは思わなんだ。

これが作られた時点ですでに擦られまくった後なのでしょうが、だからこそパロディっぽいというか小学生並みの恋愛(ごっこ、とは言いませぬが)をそのままお出しされた感じで実に可笑しい。と言って差し支えあれば微笑ましい。

異様に胸を寄せているのも精一杯の艶美さを出そうとしているようにしか見えない。寝巻きなのだろうけども。

ロミオの友人たちのからかい方も小学生のそれ。ジュリエットの乳母への悪態(原語はたぶんWhoreと言ってたのでかなりアレなのですが)にいたっては保育園レベル。

カメラワークといいジュマンジ並みの下手くそキス合戦といい、笑うなという方が無理である。まあ人のセックスを笑うと怒られるらしいので彼らの恋愛も笑ってはならないのかもですが、ポエムもなんか稚拙な感じがする。

 

んが、その後の両家の人間の死にまつわる洗練さのかけらもないドタバタ(字義通り)を見るにつけ、しかるにこれは赤いナントカが言うところの若さゆえの云々であり、それがもたらす悲劇=喜劇であると。

しかしその必死さに胸を打たれるような気もしてくる。

超どうでもいいのだけれど、ロミオのケツとジュリエットの一瞬映る乳首になんというかどうでもいいこだわりを感じるのですが。

 

「誘拐犯」

マッカリーの過去作。こう見るとデルトロってやっぱりブラピに似てる。

コーエン兄弟+アメリカンニューシネマ的な。

 

ネバダ・スミス」

16歳・・・は無理がある。とまあそれはともかく「復讐は何も生まない」系をハリウッド映画で見るのは私初めてでございまして、ラストシーンのあれで「ダーティ・ハリー回避」と心の中でツッコミを入れていたのであった。

殺しはしないけど手足は撃つ、というのは個人の落としどころとしてはいいのかもしれませんがそれでいいのかと思わないでもない。

一か所、序盤で気になったカットがあったのだけど、あれは何か意図があったのだろうか。

 

「セブンイヤーズ・イン・チベット

これ原作がどうなっているのかわからないのだけれど、ンガプーに対するハラーの反応というのが、あまりにマッチョイズム的というか取り付く島もなかったのが、あれ自体が戦争被害な気がしなくもない。

無論、ナチに入るような人だしもとからああいう気質だったのだと言えなくもないのだけれど。やっぱりどこかこの映画にはアジアに対するエキゾチズムが鳴りを潜めている気がしてならない。

 

「夜霧よ今夜も有難う」

石原裕次郎の主演映画ってもはや沈黙シリーズのようにすら見えるのですが。

ソフトフォーカスで裕次郎のリップピカピカは流石に笑う。

あとボクシングの存在感というか、ごく当然視されている感覚、というのも時代なのかなぁ。

 

「レッドサン」

ブロンソン×三船という垂涎モノの映画があったとは思わなんだ。

にしてもブロンソンの軽さは素晴らしいですな。

とにもかくにも三船とブロンソンのブロマンス的な、しかしあまりべたつかず、しかし締めるところは締めるという素晴らしさ。

三船よりもブロンソンのすばらしさ。あんなオス臭い男でありながらコミカルであることを全くいとわない軽さ。

対峙するのがアラン・ドロンというのも良い。素晴らしすぎる。

 

「バニー・レークは行方不明」

これ面白いですね。バニーが顔見せされないことで信頼できない語り手的な構造が浮かび上がってくるという。

「え、それ本当にそうなるの?!」という感覚はちょっとシャマランに近いかもしれない。

明らかにミスリードな人がいるにしても、メイン二人の言動に齟齬が出てくる感覚とか、だんだん奇妙になってくるのが面白いのですが、これはこれで精神障害に対する偏見を増長するものな気がするのですが、人種とかジェンダー的なことにはうるさいのにそういうツッコミを入れる人はあんまり見かけないんですよね。

あの狂気的なやりすぎ顔演技とか見どころはかなりある。

テネット記事消失につき萎える

一週間ほど前、「TENET」を観に行って、感想記事を書いていたのですが、モニターが唐突にご臨終し、保存かけておらず、記事もおしゃかになってしまい・・・もう面倒になったのでテキトーに。

 

・科学考証はアントマンと同程度だと思います。はい。

別にバカにしているとかそういうことではなく、それくらいとっつきやすいのではないかということ。

・ノーランの映画というのは、広告も含めて知性的というか深淵に見せているようでその実は結構おバカな(良い意味で)ことをやっているので、それが好感に繋がるかお高く留まっているように見えるかが映画ファンにとっての評価(というか好悪)の分かれ目なのではないか。

私は映画ファンではなく一介の映画好きでしかないので、「わーたのしー」といった具合にノーラン映画を観ていて、今回も割とそんな風に観ていました。普通に楽しい、という感じ。

もちろん色々と「おいおい」と言いたいところも相変わらずなくもない。ニール(ロバート・パティンソン演)への言及の少なさとか明らかに後で何かを関係してくるであろうという。ミステリアスと言えば聞こえはいいけれど。まあそういうの含めてノーランの映画の設定(とそれを表現するための演出)は「それっぽく」見せるためのギミックであることが多く、よく考えたらそれおかしいよというのが今回も結構あって、じゃあなんでそういうのがノーランの映画においては気になるのかと言えば、映画のルックがそういう風に見えない(見せない)ために、かえってそのギャップが気になるという罠。ポンコツイケメン的な。個人的にはそれもノーランの愛嬌として受容することも難しくはないのだけど、鼻持ちならないという気持ちも分からないでもない。

あと、やっぱりノーランはアクション苦手な気がします。アクション映画では、特にフィジカル重視の場合なんかは早回ししたり逆にスローにしたりすることで徒手を素早く見せたりするわけですが、一瞬のカットですがワシントンの攻撃がぽかぽかなってる部分とかあったりする。ところどころ編集のぶつ切り感があったりするのは編集のジェニファー・レイムの仕業だろうか。この人「ヘレディタリー」とかやってたりするし。

今回やってること自体はテクノロジーという意味合いでは別段すさまじいものを投入しているというわけではなく、それこそわかりやすい例でいえば佐伯ユウスケの「ナウオアネバー」のMVと同じでしょう。

まあ、だからこそ役者(スタント)の肉体が映えるというのもありんす。

どうでもいいですがこの映画って2009年の「トライアングル」という映画に非常に似ているというか、まあオチ自体は割とありがちではありけり。

 

本当この四倍くらいは書いていたのだけれど、正直モチベーション落ちに落ちたのでこの辺で終わり。ほんと最悪だよ!

 

 

 

2020/8

「ローグアサシン」

暗殺者といえばまだNINJAだったころですか。なんかこう、いろいろと惜しい感じというか。これをむりやり「ジョン・ウィック」世界にぶちこんでリーチあたりに監督させたらもっと面白くなりそうな気がしなくもないのですが。

そこまでひどくないけど良くもないというか。あのラストとか、せめてもう20分くらい尺があればあんな「え、これで終わり?」とはならなかった気もするし、目新しいアクションがあったわけでもないとはいえ、残り20分くらいなら付き合ってやってもいいと思えるくらいにはそこそこ楽しんではいたので、その辺は惜しい。

 

怪物はささやく

ファンタジーな映画かと思ったら全然そんなことなかった・・・。

ナラティブ映画だった。しかしリーアム・ニーソンのラストの粋な使い方(本編では未登場)はグッとくる。継承の話でもあったという。「あれはイマジナリーフレンドでぇ~」などと誰でもわかるような無粋な解説をするつもりもない。

ありがちな鬱屈(を発露させるため)のメタファーとしての怪物ではない、というのが個人的には新鮮だった。「キャリー」でも「クロニクル」でもなんでもいいけれど、ナウなヤング(死語)のフラストレーションやリビドーの力としての怪物や超能力という、ある種の破滅願望・破壊衝動のような力はあの怪物にはない。

あの怪物は、怪物自身が言明するように徹頭徹尾、コナーひいては人間の二律背反した心の写し鏡でしかない。だからどんなに空想の中で破壊を行っても、いじめっこを殴りつけても、コナー自身を超越する結果をもたらすことはない。なぜならこれは解放のカタルシスは徹底的に抑えられた、不全の映画だから。

コミュニケーションの不全、フラストレーション(その発露)の不全。コナーはそれらを表出するにはまだ幼い(それゆえにイマジナリーフレンドを創り出す)。だから怪物として、超能力として発散することはできない。

ではどうするか? 語る、そして受け入れる。自己(怪物)との対話を重ね、自分を受け入れたその先に他者(祖母。そして母親の死)という「現実」がある。

そうやって自分を受け入れたからこそ祖母を受け入れることができたのだし、母親の死を受け入れることができたのでせう。

祖母は登場した時点ではちょっと嫌な感じ(ってわけでもないんだけど、ちゃんと見れば)に描写されているのに対し、後半の描き方は大きく違っている。

これ、シガニー・ウィーバー以外だとかなり難しかったのではないだろうか。彼女の強権的な顔面力で嫌な感じを醸し出しながら、それが表面的なレベルで留まっているというのは中々。

 

この監督が「ジュラシックワールド」の続編に選ばれた理由はスピルパーグ味がそこはかとなくあるからでしょうか?

怪物が登場する際に家が揺れるのとか「未知との遭遇」っぽいですし、怪物のニュアンスとか「BFG」ぽい。父親は健在ですけど確執を抱えていなくもないですし。

 

しかしリーアム・ニーソンシガニー・ウィーバーの子どもがフェリシティ・ジョーンズってどんな世界線なんですかこれ。下手な殺し屋一家よりも最強でしょこの家族。

 

 「新・ガンヒルの決斗」

これ最後の最後までフラストレーション貯める感じで結構イライラするかも。

びんたされた方向と逆の方向はさすがにどうかと思ったけど。

 

「動いてる庭」

ジル・クレマンについては何も知らなかったのですが、なんかラブロック臭がするというか。

放射線ときのこのくだりとかは、「蟹の惑星」の吉田さんに比べるとかなり直感的でサイエンスというよりはスピリチュアルというか、そっちよりな気がするのですが、どうなのだろう。

が、しかし文化としての保全と動く庭としての二律背反などはかなり興味深い話ではありました。植物とて動くということ。その自明性にあまりにも無頓着だったことに思い至る。でもそれは何となく当然の話で、文字通り植物と人間ではライフサイクルのスケールが違う。スケールと言って語弊があればスピードといえばいいだろうか。

植物の動くスケールというのはアハ体験的で、だからこそ人間というのは時間をかけて徐々に動いていくものを認識することが困難なのでせう。人間は連続性で物を見るから。

植物に限らず、この星そのものもそうだろうし、自然物、あるいはその流れを汲むものというのは遠大な時間をかけて徐々に変化していくものなのではないだろうか。

動きすぎてはいけない。人間はどんどん加速しているが、それによって認識に弊害をもたらしている可能性を考えなければならない。

ところで澤崎 賢一・山内 朋樹・松井茂のアフタートークが面白かったです。

「第三風景」「物騒な共存」

 

あゝひめゆりの塔

青酸カリ牛乳といい、最後まで救いがない。「野火」のサイドA`というか。

 

「あやしい彼女」

うーん。リメイク元はどういう感じなのだろう、これ。

妙な長回しはまあ、銭湯の構造をわかりやすく図示していたりするので効果的っちゃ効果的なのでしょうが。

これ「21世紀少年」の問題をクリアしていない気がするんですけど。笑えないことはないんですけど、最後のあれは蛇足な気がする。

 

「ガス燈(1944)」

観たつもりだったのですが全編通して観るのは初めてだったことに今更気づく。

しかしセットにやたら既視感があるのは何故だろうか・・・。たしか「ガスライティング」の語源はここからだった希ガス

イングリッド・バーグマンの上品な服装と、それに締め付けられることで立ち現れるボディラインのエロさは、しかし物語と同じように夫から圧迫されたものであるかのように見えてしまう。

これは同じ年代の「若草物語」にも言える女性の閉塞感と同じ類だと思う。ジョージ・キューカーは実際に1933年に「若草~」を撮っているし。まあ私が観た「若草~」は別の監督のでしたが、しかしそこにある基本的な構造は変わりますまい。

してキューカーはおそらくそういう女性を・・・というかそういう風に女性を囲う話が好きなのかもしれない。

正直、この映画に出てくる男性陣はブライアン含め誰一人として信用ならんのですが。

 

「クレイジー・リッチ」

何か目新しいものがあったか、と言えばアジア系アメリカンが~ということは言えるのでしょうが、テンプレを逸脱する何かがあるかと言えば「うーん」である。

ヘンリー・ゴールディングの細マッチョなやさおなルックは個人的にどんぴしゃりなので、まあそれでも十分と言えば十分ではあるのですが。麻雀の駆け引きとかは確かにアジア(というか中華圏)テイストではあったりするし、メインストリーム=白人ヘテロ向けのこてこてテンプレとはディテールは違うし、そこを楽しめないこともないのではあろうけれど、しかし「現代の金持ち」を描くとどうしても似たり寄ったりになってしまうのは制作側の想像力の限界なのか実際にあの程度の金持ちというのはああいうことしかしないのか、ド平民な私には存ぜぬところではありますが、面白みに欠けなくもない気がしなくもない。

いや、まあまあ楽しくは観てましたけどね。料理おいしそうなものも結構ありましたし。

アストリッドにしても、もうちょっと上手くできたのではないかと思うんですよね。まあ原作との絡みもあるのかもですが。

 

まああとアジア系というくくりもそれはそれで危険な気もするんですが。キャストの多国籍っぷりを見ると。この辺はちゃんと指摘されているようですが。

 

ミッドナイト・イン・パリ

恥ずかしながらウディ・アレンを観たのはこれが初めてなのです。別に積極的に避けていたわけではなく、かといって積極的に観ようとも思っていなかったのでこうして偶発的に遭遇するまで接触することがなかったという。

これが彼のいつも通りの作風なのかはわかりませんが、思ったより全然楽しめました。なんだかもっと癖の強い映画をイメージしてたのですが、全然すんなり楽しめた。

まず役者が個人的に好みだったのもある。面白いAGOことオーウェン・ウィルソンの佇まいはギルにぴったりだし、レイチェル・マクアダムスの「ザ・マス」的な退屈さ・・・というか凡庸さも見事ですし、20年代の人たちもいい具合にカリカチュアされたウィットを含んでいる。

現代におけるレア・セドゥはむしろ20年代パリの住人のような妖艶さを醸し出していて、それがマクアダムスとの対比になっている。朝と夜、というのはまあ明確に対比的に使われていて、それがまあ「夜の女」というシニフィアンが醸し出す性的な表象(実際、夜の街で娼婦が描かれる)というのはウディ・アレンの視線なのかどうか。

しかしレア・セドゥって笑うと口まわりの皺がすごい。正直彼女に笑顔は似合わないと思う。というか、イメージが完全に反転する。「スペクター」のときは全然笑わなかったし、気づかなかった。

懐古主義の否定、ではあるのだけれど。なんだかギルのフィルターを通すと絶妙に言い訳がましく、というか未練がましく聞こえなくもない。

 

追想

これ結局のところ真偽とは別のレベルで受容し合う、ということでは。

本物か偽物かは関係なく、ただお互いが求め合うのであればそれで良い(母娘の物語だけど)。

そこには言うまでもなく欺瞞があるわけですが、むしろこれは欺瞞こそが二人を結び付けているとも言える。

美しいなどとは口が避けても言えない

けれど、そもそも他人の愛にあーだこーだ言うことが無粋なのでは。

まあラストがあれな時点で無駄な考えな気がする。

ばヰお映画祭

なるものに行ってきた。

映画祭と言ってもバーのような昔ながらの?極小ミニシアター(定員10名だし)で短編映画を流すという(しかも全部同一監督なので、実質は特集上映)ものだったのですが、実験映画的な趣。何の実験か。

それは端的に言って、どれだけ映画(というか映像?)というメディアを使って人を不快にさせることができるか、だと思う。というか、そう思わざるを得ないほどに露悪である。

全部で11作品あったのですが、趣の違う「ハウス残飯映画200513」を除いてほぼほぼそれは通底している。特に「濁ッた佃煮」を筆頭とする「かんぼつ」や「けんべん」なるキャラクターを使ったアニメは特にそうだと思う。といっても、どれもこれもストーリーらしいストーリーはない(一応、撮りたい映像を先にストーリーを後付しているとは言っていましたが監督は)ので、そういう意味ではNHKの短いアニメーション的ではある。もちろん、こんなの流そうものなら苦情殺到子どもはトラウマ確定なわけですが。

すごーく平易にたとえるならば「まごころを~」の心理パートをすべて汚物的なものでコラージュしたもの、といえばいいだろうか。

まあ、映画祭のオープニング映像からしてホットドッグにソースぶちまけたり何かを食べているだけの映像を編集でああもグロテスクにするような監督ですからね。このアバンは結構好きだったりするのだけれど(というか、一番わかりやすくバランスがいいのがこのオープニング映像ではないだろうか)。

音声にしてもそうで、意図的に不快な音を不快な音量(音割れやヴぁーい)で不快な言葉を羅列する。というか、言葉すらもコラージュされている気がするのですが、実際監督はAVのパッケージの云々と言っていたりもしたので間違いではないでしょう。

ことほどさように、この映画は監督の視点によって切り取られた「世界」のコラージュで出来上がっているのではないでしょうか。「みんちゃあ」に対する監督のコメントなんかを聞くに、そう思う。

そして、監督の視点を通過して彩られた映像たちは「世界」を異化し、当たり前のように生きているこの世界(のシステム)がいかにおぞましいのかを見せつけてくる。

わらび餅をミクロで見ることでああも「何か見てはいけないものを見せられている」感覚を催すとは思わなんだ。というか、あれ見ている間は絶対に内視鏡が何かで人体内部の粘膜系を映しているのかと思っていたので、わらびもちだというので驚き桃の木山椒の木でござんした。

で、オープニング映像の「食べる」ことのグロテスクさもそうですし、ある種「生命」に対するグロさでもあるのではないかと。そういう意味じゃビーガンの人なんかとも相性がいいんじゃないかと勝手に思うのですが。

汚物や雑多なコラージュ、セリフのズレや替え歌の歌詞のひどさ(ハッピーバースデーの歌の歌詞を「はみだして鬱~」という置換)にしてもそう。

はれときどきぶた」とか「ねこぢる」とかのシュールさとも違って(まあテレビ放映できる時点で当然なのだが)、かなり露悪的なので好みは分かれそうだし、私ももろ手を挙げて称揚する気にはならないのですが、それでもちょいちょい笑ってしまう部分もありますし、何より依って立つこの世界の意識しない側面を見せてくれるので全然アリアリです。

 

それと「しあわせのちょきんばこ」を観ていて思ったのだけれど、「レインボー」って七色だから美しいのではなくて、それが整然と並んでいることが美しいのだな。ということを七色のモザイクを観ていて思った。

サメのポリティカリー・コレクトネス

久々に映画館で映画を観る。本当に久しぶりに。

とはいえいきなり重い映画を観る気もせず、リハビリがてら軽めのサメ映画を観てきました。「海底47m」の続編である「海底47m 古代マヤの死の迷宮」を。

公開から少し経ってますけど、前作は結構な良作だったので観に行ってもいいかな、と。

世間的にも前作は好評だったらしくわかりやすくグレードアップしていました。

・製作費倍増

・メインキャラクターが2人から4人にグレードアップ

・ケージの中のみ(厳密にはちょっと違いますが)という限定空間から迷宮へと空間の広がりがパワーアップ。

・パンフレットが作られる。

・シャークネードの風味が香り立つ。

などなど。まあ最後のは冗談ですしそもそもグレードアップなのかわかりませんが、まあわかりやすく豪華にはなっていました。

 

んが、それに対して絵面はジリ貧な感じが否めない。基本的にヒット&アウェイの連続(まあ前作もそうだと言えばそうなんですが)で、迷宮を進んでいく中で途中でサメに遭遇→回避を繰り返していくわけですが、回避の仕方が狭いところに逃げるという方法なのですが、それがもう絵面が同じこと同じこと。それに加えて空間が狭っくるしく暗いため何やってるのか分かりづらい。役者も判別しづらいですし。

これは前作がまだ明るかっただけにちょっと残念。この後退の仕方はちょっとAVPシリーズっぽくもある。

 

あとスローの多用が謎。食われるシーンでスローを使うのも、あの緩急は完全にギャグの領域ですし、終盤の射撃シーンのスローとかそうですが。というか、終盤のあれはテンポでごまかしていますが作劇的にはバッドエンドに持って行った方が良かったのでは。前作ではそうだったわけですし。

噛まれても生存、というのはサメ映画では珍しいかもしれませんが、だからどうだと言われるとよくわからない。サメの牙でサメを撃退するのも含め、がんばればシャークネード路線もいけそうな感じで、むしろそっちにシフトするのが正解なのではないかと、ちょっとこのシチュエーションでの頭打ち感が(少なくとも監督には)出てきている気が。撮影は大変だろうし、それに対してのクオリティが追い付いてないなーという気はします。

 

 個人的に一番面白かったのは字幕。

この映画でサメは傷つけられていません。サメによる人間の死者は年間10人程度。人間によるサメの死は年間1億とか。

つまり「サメを恐ろしく描いている(ステレオタイプ)けど、実態はその逆なんだよ」という。いや、生き物は傷つけてないよ、というのはまま見るのですが、まるで弁明するかのように人間とサメの加虐と被虐の事実をエンドクレジットの後に字幕表示するというのは中々新鮮だったというか。

まあ、これならPETAにも難癖付けられないで済みますしね。彼らの守備範囲に魚類が含まれるのかどうか知りませんが。

 

あとパンフレットの情報も結構薄かったですねー。まあ理由はわかりますけど、これで850円というのはうーん。まあ苦慮しているのはうかがえるのであまり文句を書く気はないのですが、これは700円でもちょっとどうかと思うレベルでした。相対的なものですが。

やややけくそみのあるパンフではあるので、それを楽しむことはできますが、そのために850円出せる人だけにしましょう。

2020 7月

クォ・ヴァディス

この時期の叙事詩映画ってどれもこれも似たようなものに見えてしまうんですけど。

いや、かなり豪華なんで話自体はぶっちゃけ退屈でもともかく金をかけているので釘付けにはなるんですよね。これに関してはスタントにしもて危ないシーンがありますし。

ペトロとヘラクレスを除くと男連中はそろいもそろってうざすぎるし(将軍はまあ)、ああいう価値観をよしとしていたという時点でまあどうなの、と思わなくもないのですが。

でも画面は豪華なんですよねー。

 

「ハリーの災難」

いや、これ「サイコ」より登場人物がサイコ(ネットスラング的に)っぽいんですが。

まあ音楽の調子といいやたらもカラフルな画面といい、明らかにコミカルに描いているわけですが、にしてもである。

衣装がいいなーと思ったらイーディス・ヘッド。いいですねぇ。

 

炎のランナー

通して観るのは初めて(こういうの多いなぁ)ですが、なんか期待値あげすぎたのは否めない。

冒頭とラストの繋ぎは泣けるんですけど、それは間違いなく史実を知らされたことによるものであるからして…。

 

ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男

相変わらずだっさいサブタイトルな邦画センスでございますが、内容はとても素晴らしい。今年観た中でトップクラス。

というか、やはりNHKBSプレミアムはある程度テーマを組んで流す映画決めていますな、これ。「グラン・プリ」も同じような映画だったし。

もっと言えば、テニス版「聖の青春」と言うべきでしょうか。つまるところ、その世界の頂にいる二人にしかわからない二人だけの世界。

ことこの「二人だけの世界」を描く映画というのは、実世界の人物しかも勝敗を決するアスリート/プロフェッショナルばかりがモチーフとされている気がする。

この手のタイプの映画が好物なのとシャイアが好きというだけでもう私としては万々歳なんですけど、この映画かなりストイックというか、とても抑えた演出を貫くんですよね。もっと盛り上げてもいいような場面でも静かな音楽で抑制しますし、決して説明的にしない。

ただ氷の男と炎の男(ほんとださい、これ)という両極端な選手という世評に対し、二人の過去の出来事を描くことそれだけで実は二人が同じ性質な人間であることをあらわにしてしまう。

だからマッケンローは決勝で、ボルグとの試合では試合にだけ集中することができたのだ。なぜならそれは、ようやく分かり合える相手と巡り合うことができたから。

二人は孤独である。それはほかのプレイヤーにもいえることで、コートに立ってしまえば頼れるのは己だけ。

けれど、この二人の抱くそれは、その才能・実績ゆえに他の選手よりも遥かに重いものなのです。以前、「エニー・ギブン・サンデー」についてチームスポーツゆえの高揚感があると書いたのだけど、もちろんそれがあるということは個人スポーツにしかない、彼らにしか感じえない世界も確実にあるのであります。

それを如実に表現しているのがこの映画なのでせう。

試合後のラストシーンで、二人が会話をする場面でマリアナは彼らを真横からしか見ることができない。真に分かり合えるのは顔を突き合わせ対面し、ネットを挟んでコートに対峙した二人だけにしかわからない。たとえ彼女が同じくプロテニスプレイヤーであったとしても(劇中でボルグからも言われることである)。

けれど、観客はその世界の一端を、2人にしか分からない世界のかけらを、映画というフィクションによって我々凡夫に垣間見せてくれる。アングルだったり、ストーリーだったり「グラン・プリ」がそうであったように、最高峰のトップアスリートに直接届かずとも、彼らの周囲の人物を数珠繋ぎにして描いていくことで観客は彼らの観る世界の一部を感じることができる。

これこそがフィクションでなくてなんであろうか。

 

ミネソタ大強盗団

ジェシー・ジェームズ強盗団映画だとこれかなりすきかもしれない。

しかしまあ、市中引き回しじゃありませんが、時代背景を忠実に再現したがゆえであrのでしょうがやることが野蛮すぎる。

ノワール、と言っていいのかわかりませんが、ホモソーシャルの快楽と友情の妙がすごいいい味を出している。

あと何と言っても(?)ジム・ヤンガー!口元をマフラーで覆うあれ!実写であんなにかっこよくてお茶目なのはなかなかいませんよ!

画面で起きてることの凄惨さに対して間の抜けたような音楽といい、なんだか奇妙な外し方でそれがかえって面白いというか。

正直ジムだけでも十分すぎるくらい楽しめた。

 

翔んだカップル

こういっちゃなんですが、大林宣彦よりも相米信二の方が薬師丸ひろ子を魅力的に描けていよるのでは。制服一辺倒な「時かけ」よりも都度都度衣装替えさせる相米を見ればそれはわかることである。

思うに、大林はロリコンとして少女を求めているのであり、一方で相米はそこから先を見ようとしているのではないだろうか。そうでなきゃベッドシーン(ベッドに隠れていますが)を描きますまい。

カットを中々割らないわ自転車ツッコミ(これもノーカット)を本人にやらせるわ道路のど真ん中に置くわ、今考えるとコンプラ的に問題ありまくりな演出があってハラハラする。「あ、春」が初めて見た相米映画だったのですが、あちらは登場人物がみんな大人だったこともあり、比較的落ち着いていたのですが、こっちは高校生がメインでありますゆえそうはいかんざき。

テイストは軽いのに恋愛関係の中に潜む(人間関係というと軽く聞こえるのであれば、人間と人間のかかわりといってもいいかもしれない)暴力性が見え隠れする。監督はもっと冗談ぽく軽めにすればより悲しさが際立ったはず、とは言っていますけど、これでも十分すぎるくらいだと思う。

思春期のあの反動形成と自意識、それが引き起こす自傷。悶々きゅんきゅんする。一見してコミカルでありながら表出する暴力性・破壊性(自転車のシーン、びんた合戦、そもそもボクシングという殴り合い、グローブでガラスガシャーンなどなど)。それがこの映画の魅力なのでせう。

さすがに相米の演技指導は今じゃ到底無理でしょうが(インディーズだと割とありえるらしいですが)、しかし是枝監督が応えていたように、ああいう風に追い込むことでこそ到達するものもある。尾美としのりのひねくれた感じも、石原真理子の理知的でありながらその内実に衝動的なものを抱えている感じも本当にいい。あと真田広之の屑男っぷりも。なんか詳しい情報出てこないんですが絵里訳の前村麻由美もすごくいい(ボキャ貧)。ていうかみんないい。

モグラたたきのシーンとか最高。あそこでカット割って変に薬師丸の顔をアップにしたしりしないのがすごくいい。アフレコなのもよい。

この映画には徹底して大人が不在である。それはたとえば、少年マンガライトノベルなどにありがちなご都合的主義な設定として飲み込むには、あまりにも自然なのである。圭・勇介・秋美の一人暮らし勢の家(空間)は描きながら、わたるの家は描かない。なのに閉じてるわけでも閉塞しているわけでもない世界。なんというか、ジョン・ヒューズを想起したりもする。

 

どうでもいいけど「家族ゲーム」を思い出したのはやっぱりこのモグラたたきのせいだろうか。

くじらといい立ちしょんの撮り方といい、ともかく他の人はやらんでしょう、というシーンが目白押しで、まあそれをみるだけでも割と楽しかったりする。

 

丹下左膳 百万両の壺(2004年)」

柳生パートとトヨエツパートがなんだか乖離してる気が。

オリジナル版がどういう感じなのかわからないんですけど、多分「銀魂」好きな人は好きなんだろうなーと思う人情とユーモアもの。しかしトヨエツの顔。

しかし麻生久美子顔変わらないですね。

 

「アバウト・タイム~愛おしい時間について~」

 

      ,.r''´      ; ヽ、
    ,ri'  、r-‐ー―'ー-、'ヽ、
   r;:   r'´        ヽ ヽ
  (,;_ 、  l          ::::i 'i、
 r'´    i'   _,   _,.:_:::i  il!
 ヾ ,r  -';! '''r,.,=,、" ::rrrテ; ::lr ))
  ! ;、 .:::;!    `´'  :::.   ' .::i: ,i'
  `-r,.ィ::i.      :' _ :::;:. .::::!´
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     r-i.     、_,.: .::/
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     l::::::::ト __` 二..-',r'::::-、
     l;::i' l:     ̄,.rt':::::::/   ` -、
    ,r' ´  ヽr'ヽr'i::::::::;!'´

 ソレナンテ・エ・ロゲ[Sorenant et Roage]
     (1599~1664 フランス)

 

まあふざけたAAを張っておきながらアレなのですが、このAAを使うべきは「ミスターノーバディ」だったな、と。

ただシャーロットと再会したあたりの展開がちょっとそれっぽかった(エロゲというかレディコミだろうか)ので勢い余って使ってしまった。スマンカッタ。

しかしこれだけ魅力的な女性がいながら最萌えはデズモンド叔父さんという転倒っぷり。あたし、そういうの嫌いじゃないから!

というおふざけはこの辺にしておくとして。ユーモアのセンスが凄まじくイギリスっぽい(曖昧模糊)なーと思ったら監督はリチャード・カーティス。とか知った風な書き方しておきながらこの人の監督作はこれが初めてという相変わらずな体たらくな私でございますが、「ミスタービーン」の脚本とか手掛けてるしそういう言い方も許してほしい。でもオーラルセックス(原語ではクンニリングスとかいう直球っぷり含め)のくだりとかイギリスっぽいし。

 

タイムトラベルものの割に何か大きなインシデントがあるわけでもない、というのがちょっと珍しいかも。タイムトラベル自体がそうだろ、と言われてしまえばその通りなのですが、それすらも素っ気なく描く。暗がりに行って目をつぶったらポンである。SEだけで演出する省エネの巧みさなど、その辺も割と英国風味であるように感じる。

「メッセージ」との共通点を上げている人もいましたが、確かに「時間」の不可逆性と可逆性についての話と言う点では共通していますな。当然っちゃ当然なんですけど、そこに含まれるのは身近な人間の「死」であり、そうなると私などはキューブラー=ロスの死の需要過程じみたものも感じてしまう。

 

で、先に述べたようにこの映画には劇的な何かがあるわけじゃない。たとえば妹の事故にしても、時間を戻さずとも命に別状はないことが判明するし、その事故そのものよりもジミーというクズな彼氏と別れることが主題とされているわけですし。

であるからこそ、ともすれば教訓的で説教臭い「何気ない日々が大切」なのだというテーマを抵抗感なくすっと受け入れらるわけです。

 

個人的に一番ぐっと来たのは、最後に父親と卓球をしに行く場面。あそこで卓球部屋に行くまで主観になるのですが、部屋に入って見るとそこには主観の主であるはずのティムの姿もあるわけなんですね。つまり、ティム自身がティムを見ているという構図になっているわけですよね。

それは、ある種の解離した自分(乖離ではなく)を見ること。その断絶性。それから彼はタイムトラベルをしないことを決める。

そういう細かな演出がそこかしこにみられる。全編通してカメラは揺れ続けるし、終盤でティムが朝食を作ろうと起床したあたりで、メアリーの寝返り動作を微妙に異なるアングルで4回ほどカットバックしてみたり。

つまり「同じ」でありながらも「異なる」「時間」「空間」に置かれた「不安定さ(落ち着かなさ)」を、ついにはティムが受容する話なのでせう。

 

だからこの映画は素っ気なく終わる。日常は素っ気ないものだから。そこにこそ価値を見出すこと。何か劇的なものを経験せずともそこに共感できるのは、身近な人の素っ気ない死と地続きに繋がっているから。

それと選択の話でもありますね。もちろん、その選択はごくごく限られた選択でしかなくそこに自由を見出すのは「マトリックス リローデッド」的なおためごかしでしかないわけですが、それを受け入れたうえて選択をするということが重要なのだということ。

 

「劇場版 Fate/stay night[Heaven's Feel] Presage Flower」

 

こういう、どう見ても一見さんお断りの映画というのは初見の人がどれくらいいるのだろうか。いや別に私は一見さんじゃないし、むしろそこいらのにわかや新参にくらべればFateというコンテンツに親しんできた人間だもんで、だからこそどう考えても初見の人間には説明が足りなすぎる(サーヴァント? セイバー? アサシン? 何それ?)のがちょっと見ていて気になった。

まあ明らかにこれまでお布施をしてきた既存のファンに向けたボーナスステージでございますから、そういうのは気にするだけ野暮なのでしょうが。

なんて偉そうに古参ぶっていますが私自身もHeaven's Feelのルート(移植版)をやったのは10年前でございますから、細かい部分は憶えてないんですが。

というか、Fateを筆頭とする型月まわりに関してはなんといいますか、あまり積極的に触れたくない気がしないでもないのでございます。型月というのは私にとっては別れた恋人のような存在というか。

 


しかし守銭奴な私はタダで観れるとなれば観てしまうショミン・センシズな持ち主ゆえBSでやっていたのを観てしまいました。タダ観には勝てなかったよ・・・。

 

前置きだらだら書くのもあれなので本題に入ります。

三部作の一作目ということでたっぷり2時間かけてようやく物語が動き出したところで終わるので、何とも言い難い消化不良感は否めない。まあ、それなりに上手く(調教厳選されたファンにとっては)スタートダッシュは切れている気はするので、「わくわくしかしねぇー!」とも言えるのですが。

キャラデザはまあ、Zeroのころからこんな感じなので今更言うのも詮無いことではあるんですが、鼻梁だけ曲線一本で表現するあのキャラデザって正面とかだとそこまで気にならないんですけど、角度が付くとちょっと違和感出たりするんですよね。あと顔のパーツのバランスがカマキリっぽいというか。中割とかそいうのじゃなくて桜の顔とかちょっと気になる部分もありました。まあこれは好みの問題ですし、言うほど気になってるわけではないですけど(じゃあ書くなよ)。

 

劇場版だけあって間の取り方とか贅沢なので、おかげて緩急がついている。序盤の日常だけでかなり尺を取ってましたし。その割にはルール説明とか劇場版UBWDEEN制作だったかしら?)並みの省き方で、とにかくまあ桜を描写したいのだな、と。

ただですね、これはもう本当にできてないアニメが割とあるんですけど、台所にキャラクターを立たせるなら服の袖は捲らせてくれませんかね、マジで。言っておきますけど、こんなのは小学生の家庭科で習うことですからね。押井じゃありませんが、映画の神は細部に宿るんですよ(よく細部を見逃すことがありますが私は)。

 


いやね、キャラクターの関係性とかに関しては描写は細かいんですよ(慎二と桜と士郎周り)。だけどこれ原作か移植版やってないと伝わんないよね絶対。10年前に移植版をプレイしたきりだったので私もまあまあうろ覚えですが。

 

さてFateのっていうかufoの売りの一つであるアクションシーンですが、「空の境界」のころからカメラをすんごいぐりぐり動かしてエフェクトモリモリにするんですよね。これはもう監督というよりは会社の色と言ってもいい感じで。まあ主要スタッフだいぶかぶってますから当然っちゃ当然なんですけど。

ただまあFPS高い箇所とかはもうちょっと厳選していいのじゃないかとも思わないでもない。あと撮影。ほとんどは問題ないですし戦闘も(バーサーカーとセイバーまわりはちょっとディーンのUBWと似てるような気が)すごいことやってるんですけど、終盤のセイバーとアサシン(部屋の内側から描いた部分)の揺れ方がちーっと安っぽい気がしました。

 

個人的に一番良かったのは黒桜の出現と消失演出。これはなかなか良かったです。気づいたらいる感じと、カットを割るといなくなるのとか。特に寺での消え方の、士郎が黒桜のいたところに画面外から入ってくるところ。ジャパニーズホラーな感じがして。CGの描画のおかげでかなーり異物感はなっておりましたし。自動車のCGとかもそうですけどCG班がかなりいい仕事しています。

 


桜に関してはなんていいましょうかね。まあ桜ルートなので桜を魅力的に描きたいという思いはビシバシ伝わってくるんですけど、こんなにあざとかったっけ? 表現メディアの違いかこれ? それとも監督の愛情の注ぎ方の違い?

冬に薄手の半そではさすがに狙いすぎだし雪降ってるんだから靴下くらい履いて出てきなさいよ、という感じが。アピールすごいよ本当。という所感。

 

個人的には津嘉山さんをあまりアニメでは聞かない(観てないだけでもありますが)ので、津嘉山さん声のアニメキャラというだけで結構ポイントが高い。いやキャラはきもいんですけど。氏はクモ膜下出血やら脳梗塞やら脳卒中やらで活舌が明らかにアレなのですが、コンスタントにドラマなどにも出ててそっちだと割と問題なく聞こえたりするんですけど、やっぱり声だけのときと身体が画面に映るのとでは違うのだろうか。まあ唇の動きもあるから違うのだろうか、やっぱり。

 

あとものすごいどうでもいいことなんですけど第三章の副題がspring songでちょっと悲しい笑いが。コロナがなければ予定通り4月に公開できてたのになぁという哀愁が。

 

HFルートで映像化するなら言峰がイリヤを抱きかかえて走るシーンがいろんな意味で好きなので、それを期待。

一応2章も録画してあるので気が向いたら感想書く。書かないかも。

 

 「戦場」

前半は割とコミカルなので後半との落差にびっくりする。

後半の爆撃食らうシーンで倒壊に巻き込まれて死んでしまう兵士のカット。片目が手前の木材に隠れているあのカット。あのカットを筆頭に、爆撃を受けるシーンはともかく凄まじい。

 

「モンスターズ 新種誕生」

「モンスターズ」に続編があったことすら知らなんだ。監督はギャレスではないので(時期的にゴジラを監督してたはずなので当然)、かなり毛色は違うような気もするのですが、ただまあモンスターが背景的に使われつつ(画面には頻繁に登場しますが)メインとなる人間ドラマと連動していく、というのは実のところギャレスの方と同じだったりして。

 

ナイロビの蜂

なんだか撮りかたが「シティ・オブ・ゴッド」ぼいと思ったら監督同じフェルナンド・メイレレスだし撮影監督セザール・シャローンで同じだった。この人はなんかこう、ジモティー感(あくまで感。というのも私が現地を知らないので)を出すのがすごい上手い気がする。まあ「シティ~」は現地の素人をメインに起用しているという手法もかなり影響しているのではあろうけれど。

「シティ~」でもあったけれど、「途上国」への問題意識と怒りを確かに湛えながらも、しかし安易な救いに結び付けず現地の在り方・現実の在り様に従うのがジモティーっぽさなのだろうか。

ややおセンチなくどさがないわけではないですが、実際にありそうな(というか原作者リサーチと体験から導出された話なので現実にあるわけですし、スウェーデン制作の「国連平和ミッションの闇」というドキュメンタリーがほぼこんな感じの話)サスペンスとしても単純に面白い。前半のメイン二人の部分はややかったるくなりそうな部分も時系列を細かく入れ替えてささっとスタートダッシュを切って興味を持続させてくれるし編集もなかなか凝っています。

あとロケーションも良い。最後にジャスティンが自死を選ぶあの場所とかね。

それとすごい余談なんですけど、「ジョン・ウィック」のホテルコンチネンタルと同じところ思われるロケ地が中盤のバーナードとの食事のシーンで出てきたような。

 

Fate/stay night [Heaven's Feel] II. lost butterfly

文字に起こすことのほどはなかったんですが、桜が調理のシーンで腕まくってたので前章で気になってたところはOKです。しかしそのあとで遠坂と料理するシーンで遠坂は袖まくってないのなんなんですか。まくれ、袖を。てめーの特異な中華料理なんて油飛びまくるんだぞ。
相変わらず黒桜周りのホラー演出はよござんす。逆に言えばそれ以外はそこまで前作と同じ感じ。仕方ないとはいえ色々と省いているところもあったり、編集のつなぎ方がちょっとどうかと思う部分もあったり。
しかし黒桜がああなってしまった以上は第3章でのホラー演出は望めないでしょうし・・・うーん。
あとはまあ、これは何というか、原作が発表された年代や当時のエロゲー旺盛時代を考えれば仕方ない(?)とはいえ、桜のキャラクターってすさまじく男の欲望の投射だなーとこうして見返してみると思う。ボンテージでキャラ付けするのもやむなしというか。
エロシーンは空の境界がちゃんと描いていたのに対してこちらは濁している(TV版だから?)あたり、作り手の意図がよくわからない。こっちエロゲーであっちは一応小説なのですが。別に望んじゃいないけど。
そういうシーンでハイライトめっちゃ盛ったりとか、まあ桜のあざとさは相変わらず。桜ってセリフのトーンと種類が少なくて(「先…輩…」大杉)単調なので、それくらいあざといほうがいいとはおもいますけど、ちょっと笑っちゃいますね。
電車の心理描写とかも「おいおいこの時代にエヴァかよ」と。桜側からの心理描写とはいえ遠坂家の人間が電車乗ってるのってなんかシュールですしね。本当に優雅な人間は電車とか乗らないでしょっていうね。
第2章でここまでやったということは第3章は戦闘メインで進めていく感じなのでしょうね。お姫様抱っこ言峰VSアサシン、セイバーVS腕士郎&ライダー、腕士郎VS黒バーサーカー、姉妹対決、この辺消化しなきゃいけないわけですし、かなり食傷気味になりそうな。
慎二も退場しちゃいましたしねぇ。正直、HFの面白いところとして桜を介した士郎と慎二のホモセクシャル手前のホモソーシャル感も個人的には結構好きだったので、今回でかなりおいしいポイントが削られてしまった感じ。その辺は映画は結構わかりやすく描いていた感じ(まあ基本的なキャラ設定を知っていないと伝わらないでしょうが)もしますしね。
それと稲田さんの高いキチ声は結構好きです。前回あんまり意識しなかったけど。どっしりした重みのあるイケボだと東地さんと稲田さんが好きなんですけど、稲田さんのキチ声って結構レアな気もする。
あーあとですねー、Fateにエメは合わない気がします。というか、前作のはともかく今作のは歌詞的にエメのねっとりしたボイスは合わないでしょ。キャラソンとして下屋さんに歌わせて別バージョンとしてリリースするのか知りませんが。
 
「harmony」
基本的には原作をなぞった感じでしたね、はい。
記述言語の表現とそれを出力する端末のデザインはどことなくリンゴっぽく墓標っぽかったり、建築デザインの有機的な感じや色合いなどはかなり良かった。オーグ上のタグの表現なんかも微細でしたし、こういう全体的なデザイン設計は良かったです。ガジェットはまあ、こんなとこなのかな。しかし螺旋監察官の制服のデザインがappendミクのほぼトレースなのはどうなのだ。
それとですね、一番気になっていたジャングルジムのくだりや冴木博士の部屋の知性天井をどうやって表現するのか、というのがまさかの全オミットというところにかなり不満が残る。ミァハがかなりファンタジーでファンシーなキャラ造形になっていて、回想も含め彼女が登場する場面は抽象的なイメージで表現されているのですが、ジャングルジムのくだりは世界のやさしさを表すためには必要だったような気もします。まあ、なんとなく絵面としてはバカっぽい気がしなくもない、というのはわかりますけど。
あと音響デザイン。これがすんごい良い仕事しておりまして、下手にBGMを入れないのは良し。これのおかげでかなり格を保っている感じがする。どことなくゲームっぽいですけどね。SF系とか神話モチーフのアクションゲームのラストステージ付近に流れていそうな。
ただ、一本の映画を観た時の満足感はあまりない。なんというか、映画というよりも小説の映画化、コミカライズ的なメディアミックスの産物に収まってしまっている気がする。
原作を読んだ時のセンスオブワンダーがあったのに、なぜか同じストーリーラインをなぞった映画版を観終わった後では妙な虚無感が残った。それが映画の世界観に浸ることができたからなのかどうか。
まあ原作読み直していて思ったのですけど、これあんまりアニメーション映画には向いてないかもしれない。いや、「イノセンス」くらいの言語量ならあるいは、とも思わなくもないのだけれど、とにかく会話のシーンの演出に苦慮している気が。かといって会話やモノローグも絶対省けないところはあるし。俳優の身体を介してならあるいは、という意味で実写映画ならまた違ったかもしれないけど。
あと百合成分がかなり強く、エモーショナルな方向へとセリフも細かく映画化にあたって変わっている部分もあり、原作者がエモーション部分が苦手という自白をしていたことからカバーしたのだろうか?
と思ってインタビュー読み直したらなかむらさん「当初は原作に感情移入できなかった」とか書いてるし、やっぱりエモーション成分強めにしたんだろうなぁ・・・。
映画を観終わったあとの虚無感がそのエモーションの喪失であるならばこの映画は確かに勝利しているのだろうけど、本当に私の感じた虚無感がその手のものなのかどうか正直疑わしくはあるのですよね。
私は原作・・・というより原作者が好きなので、五年前のこの映画を含めたメディアミックスに比べて、現在や10回忌にあたる去年に何もなかったことなど、早川まわりも含めて、結局のところ本人が望んだ「語り継がれる」ことができているのだろうか、と、この映画を観て、この映画がまったく語り草にならないことなんかを考えながら思ってしまった。
それに対する虚無感だったりするのではないだろうか、と。
 
陽暉楼
五社英雄の映画を観るのは何気に初めてなのですが、これ傑作でしたね。
原作がどうなのかは未読につきよくわかりませんが、そもそも浅野温子のキャラクターがいなかったということもあり、かなり原作とは違うみたい。まあ結果的に傑作になっているのでむしろ良いとは思いますが。
これ、浅野温子演じる珠子(浅野温子めっさ若く、観月ありさ松嶋菜々子を足して割ったような顔)がいなかったらここまでにはならなかったでしょうしね。
女ダブル主人公といった感じで、しかしウーマンスとも異なる、もっとどろどろした情念によって結び付いた二人の関係と、その元凶であるダブルミーニングの「父」である緒形拳演じる勝造の因果なつながりとその応報。
 
ともかくこの映画は女性が輝いている。いや、輝いていると書くとやや語弊があるかもしれないし、たとえ輝きと形容できたとしても、それがどぶ底をさらうことでしか見えない輝きでしかないかもしれない。んが、書割的な男性諸兄に比べて芸妓も女郎も魅力的であることは否定できないでせう。唯一、書割的でない勝造(緒形拳に依るところは大きいですが)ですら、生き生きとした(後ろ暗さがあっても)女性たちを彩るためのサブテキスト的人物でしかない。
無論、彼女たちはすでにからして抑圧され搾取される世界に生きている。芸妓だろうが女郎だろうが、桃若だろうが珠子だろうが、実娘だろうが愛人だろうが、彼女たちに自由はない。下種な男根的絆で自縄自縛する男どもの縄に一緒に巻き取られているのだから自由などあるはずもない。
それでもなお彼女たちに自由を見ようというのならば、それはどう生きるかというないに等しい生き様の選択をすることだけ。生き様とはすなわちどう死ぬかという死にざまであろう。
男に囲われることを拒み苦しみに死んだ桃若と死臭を放つ男を慕いながら孤独に永らえる珠子。どちらがいい、なんて話じゃない。対置こそすれ比較するようなものではない。
ただ、情のもたらす因果の結実でしかない。
それでも、家に囲われていた忠がラストカットで房子の娘と外の世界をおう歌していた。
 
とにもかくにも情である。人間の。女の。
芸子たちが医者(男性)に診察されるときのヴァギナに関する会話など、女性の本音というか女性の身体性というものがとかく強調される。それは職業的に当然なのだけれど、ここまで包み隠さない人間の意地汚さというか生き汚さは「ハスラーズ」のような金に括られた価値観では不可能でしょう。まあ昭和初期の日本を描いた、この時代の邦画だからというのと、新自由主義&資本主義的価値観が根底にあるアメリカにしてみれば金はかなり切実な問題ではあるのでしょうが。
 
温泉での取っ組み合いもあるし「ゼイリブ」に負けずとも劣らない主人公二人の取っ組み合いもあり、なんというかもうその念と情の熱量がすごいっす。
「大奥」と並べても遜色のない女の世界を描いた傑作ではなかろうか。