dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

2022/6

「LION/ライオン 〜25年目のただいま」

なんか普通に良かった。普通に良かった過ぎて特に書くことがない…。

 

「光る眼(1995)」

今見返すとクリストファー・リーブ主演だったりマーク・ハミルが出ていたり、役者の面でも「あー」となる。

つまらないというわけではないのですが、カーペンターにしてはやや地味すぎなきらいがある。

 

里見八犬伝

音楽まわりのダサさを除けば凄い良い。そのダサさ、と言うのは多分古臭さなのではないかと思う。

濡れ場で洋楽流すセンスやら、ファミコン的ダサさやら唐突に止まるBGMなど。

が、そこを除けば楽しい。

まず役者が揃いも揃って特撮的空間に映える映える。薬師丸ひろ子もなんか普通にかあいい。で、なんとなく既視感があったわけだが、その既視感とはおそらく時系列は逆だが上白石萌音の顔なのだな、と。

夏木マリはなんかもう、言わずもがな。真田広之もそうだけど、やっぱりこういう時代劇・特撮的空間に映える役者というのは確実にいて、この手の映画はそういう役者を揃えてケレンがあれば勝ちなのではないかと思う。

 

悪人ではない、というエクスキューズ

「ベイビー・ブローカー」観てきた。暑すぎて外出ることが億劫すぎて、気づけば今月映画観るのこれが最初という。

にしても宣伝や監督自身のプロモーションに比べて回数少なかったですな。近所のシネコンではスクリーン一つだけな上に一日3回しか回ってなかったし。おかげさまで平日昼間なのに人がまあまあおって良い席が取れず、前から二番目という首の痛くなる位置に。なのに横に人が座ってくるというストレス。

万引き家族」後なのにな~と思ったりもしたのだけど、「真実」も扱いとしてはこんな感じだった気もする。それに加えて「トップガン~」が強すぎてハコ増やされてたりまだまだ「シン・ウルトラマン」の勢いも良いのでそのあおりを食らっているというのもあるのでしょう。

でもまあ「万引き家族」がカンヌ受賞ブーストあったからあそこまで話題になっただけで、ジブリみたいなんと違ってブランドとしての是枝裕和って前からこんな扱いだったような気もする。

 

で、本題。

「奇跡」以来のロードムービーでしたね、これ。や、実際、「ベイビー・ブローカー」はロード―ムービーとして観れる。だもんで景色が結構変わる(といっても海沿いメインなのだけれど)ので観ていて飽きない、というのはあるんじゃないかしら。

景色、と言えばなのだけれど、これはもうなんというか、誰が撮ってもこうなってしまうんじゃないかというほど、街並みの高低差がすさまじい。最初のカットからして坂から始まるわけで、この「街中の高低差」は同じく韓国映画ポン・ジュノの傑作「パラサイト~」において重要なモチーフとなっているわけですが、ある意味では韓国という国の格差社会を街(どこでロケしたのかわかりませんが)それ自体が表象しているとすら言えるのではないだろうか。

それを意識しているのか、あるいは単なる運動としてなのか、それともそういった環境がもたらす必然なのかまではわかりませんが、人物が坂や階段を「登る」「降りる」といった動作が目立つ。まあ意図的でしょう。ヘジン(いい具合に小デブサイクで小生意気な感じがいやにリアルである)がブローカー一味に加わるのも、彼が階段を「登」ってきてサンヒョンたちのいる部屋を訪れたことがきっかけになっている。

まあ「パラサイト~」のほうが卓抜した描き方ができていると思うけれど、是枝監督の場合はその上下の高低差を個人の能動性によって乗り越えられるものとして描いているように思える。登るにせよ降りるにせよ、その地点に立つ誰かのもとに到達するという意味において、そういった格差を無化しようとしている。「パラサイト」においては、それをもっとニヒルかつすさまじいアングルによって、ダイナミックに表現していたという点で双方は対極的といってもいいのではないだろうか。

是枝監督のそういった「やさしさ」はほぼすべての主要登場人物に注がれ、それぞれの事情を徐々に開陳させていくことによって単純な「悪人」を排していく。しかし、その善意(無論、この善意も100%純粋なものではない。純粋な悪人が是枝映画に存在しないように)が社会規範・法を逸脱させていったり、あるいはそもそもの大前提としてそうせざるを得ない環境に置かれてしまった人たちを描いている。というのはほぼ一貫している。

ただ今回に関しては、そういった善意による駆動性がひと際目立つような気がして、ちょー大雑把にまとめてしまえば逆「悪の法則(リドリー・スコット)」とでも言いたくなる感じ。

役者はみんな良いのだけれど、個人的にはペ・ドゥナ!なんてったってペ・ドゥナだろ!と。いやーぶっちゃけソン・ガンホよりも断然良いでしょうペ・ドゥナ

張り込みのためにメイクほぼ皆無な感じとか、セリフだけでなくその表情からも過去に色々あってこんな荒んだ感じになってしまったのだなぁと、ありありと伝わってくる所作の妙技。彼女のバディ役もどっかで見た顔だなーと思ったら「野球少女」のイ・ジュヨン!とにかく役者はみんなよござんす。

飯食う描写も、デカ二人の方がよい。雑に食べてるときが一番美味そうに見えるのである。そう考えると、ブローカー組に食事描写がなく(皆無というわけではないが、食事をしている人物が同時にフレームに収まっていることが少なかったり)、中盤まではもっぱらチェイサー組に担わされているのは、作劇上で人間性を描くのが難しいために「食」によって表現しているのではなかろうか。実際、二人がソヨンに接触するまではかなりグレーなことまでやろうとしていたり、後半になって内面が滲みで始めるまでは悪徳まではいかないまでも観客には悪い印象を与える役回りであるからして。まあペ・ドゥナの演技力をもってすれば序盤から「この人も何か腹に抱えてるのだなぁ」というのがわかるわけですが?

 

中身は相変わらず?「家族(生殖)」と「疑似家族(非生殖)」を巡る幸福の形についてで、一応はハッピーエンドではあるのですが、しかし私は最後の最後のそのハッピーエンドは、ある二人組を非人間化することによってもたらしているように見えて、ちょっと萎えたというか欺瞞的に思えた。

あのハッピーエンドは、その二人組ーー赤ちゃんを買おうとした夫妻ーーだけが、明らかに都合の良い存在に堕してしまっている。彼女たちだけが善意100%の存在に見えてしまう。あの二人は、子どもが欲しかったから非合法な手段を取ってまで(これは制度の不備への遠回しの糾弾であることは言わずもがなだが)我が子としようとしたはずで、にもかかわらずあのラストにおけるあの役回りへの配置はソヨンにとってあまりに都合が良すぎるのではないか。ソヨンの選択自体は分かるのだが。

 

といった感じ。

あと安藤サクラのアレを狙いにいったろこれ~(笑)と思えるようなカットがちらほらあって、感動云々というよりもちょっと笑ってしまった。

202107

「バリー・シール アメリカをはめた男」

なんかやたらカメラワークが特徴的だな、と思ったらダグ・リーマン監督だったんですな。こんなにギャグセンス高かったっけ、と思うほど爆笑ポイントが結構あって今年観た映画の中では一番笑ったかもしれない。

無重力セックスとかJB爆死とかDEA・FBI・州警察などが一同に会するシーンは特に吹き出しポイントが高く、すわサウスパークか!と思うほどでした。

ダグ・リーマンの作品はそこまでちゃんと追ってるわけではないのだけれど、この人が監督する作品のメインキャラクターって即物的なことが多い気がする。演出(浮薄なセリフと紋切型の愛情描写)とかカメラワーク(やたらアップにしたりズームインしたり)が余計にそうさせている、というのもあるのかもしれない。

一方で、表面的にはそういった即物的な欲望を全面展開していながら、その内実はもっとエモーショナルというかロマンティックな部分が垣間見えたりもするのだ。

今回に関して言えば、バリーはあそこまでのことをしていながらそれでもやっぱり家族のことを愛していたというのははっきりと読み取れるし、過去作の「ジャンパー」なんかも表層的な欲望に対してのユースフルな空気感がむんむんとしていたような気もするし。

というか、「大局に踊らされる個人」の内面を描きたいのかもしれない。というか、それを人物に寄ってではなくあえて即物的に捉えることで逆説的に、つまり描かないことで描き出すのがこの人の手腕なのかもしれない。

今回はカラっとしている分、余計なしみったれ要素もなくて、だからこそ観終わってひと段落すると物悲しくなったりもする。

いや、これ良い映画じゃないかしら。

 

デス・ウィッシュ

なんか、すごいちょうどいい映画。

 

極道の妻たち

情念がすごい。姐さんを揺らがない女として描きながら(反応を描かないのとか)、最後には妹のことで感情をあらわにする。

やくざ映画って基本的に情念みたいなものと裏切りが常だと思うのだけれど、そこに男女の彼我はないのではないか。いや、まあ、死にやすさという意味においては男の方が遥かに脆いのだけれど、それは立場の問題であって、基本的な構造としての対称性は担保している気がする。

しかし役者がみんな演技が濃ゆくてよい。

 

極道の妻たちⅡ」

和田アキ子柳沢慎吾で不覚にも・・・。

煙草を渡されて吸おうと手首を返すしぐさのところで止めるのはすごい良かったんだけれど、そのあとで撥ねられるところで止めるのはくそダサかったとです。

五社英雄に比べるといかんせん男性が出しゃばりすぎなきらいもあって、というか岩下志麻が良すぎたというのもあるのだけれど。

ラストの「かたせ梨乃とセックスしたら死ぬ」の天丼は笑うのでやめてほしかった。

 

 

「悪の法則」

午後ロー。

ヤクザ映画観た後にこれ、というのがなんともはや。原理自体はヤクザ映画のそれ、特に北野映画ぽい無機質さがあるのだけれど、しかし無機質さやドライさというよりは、やはり即物的な面が目立つ気がする、というのはやはりお国柄なのだろうか。

 

ネバーエンディングストーリー

やっぱり特撮すごい良いなぁ、と見返してみて改めて思った。

 

マイマイ新子と千年の魔法

良かった。「この世界の〜」に比べると高畑よりも宮崎ちっくな気がする。

トップガン マーヴェリック

本当は「犬王」観たかったんだけど、近所のシネコンでやっておらず、夜勤明けでもありさすがに遠くまで行くモチベーションがなかったので近所のシネコンでやってた「トップガン」を観る。だもんで、予告編までは割とウトウトと微睡んでいたりもしたのだけれど……まさかである。まさか、ブラッカイマー製作の映画でこんなことを書くことになろうとは思わなかった(失礼)。

 

これ、今年ベストかもしれない。や、今年は例年に比べてほとんど映画観てないんだけど、IMAXも相まって映画を観た後の興奮度では今年一番だった。

いやね、日本語版タイトルで「字幕:戸田奈津子」が出た瞬間の絶望&「生きとったんかワレェ!」な心の叫びとか、それに続く「デンジャー・ゾーン」のクソダさい字幕で噴き出してしまって(多くの人は「ややや けったいな」というフレーズが出てくると思うのだが、実はこの人「ボーン・アルティメイタム」(「ジェイソン・ボーン」でもやってたかもですが、あれは劇場で酔ってしまって意識的に目をつぶっていたので内容覚えてない)の テーマであるMOBYの Extreme Waysでも字幕を振っており、そっちもクソダさかったり、ほかにも「スピード」でもやってたりするし意外と色々やってる)、「おいおい大丈夫かいな」と日本人観客だけ余計なデバフを食らうという、いらんおまけがついてきて出鼻をくじかれたりもしてしまった。冒頭のこのあたりだけ字幕観ないように必死でしたよ。

 

続けて前置きすると、私は前作「トップガン」に対してはまっっったく思い入れがない。数年前に一度テレビで流し見した程度だったりするばかりか、予告編観るまで「前作で死んだのってヴァル・キルマーじゃなかったっけ?」と勘違いしてたほどである。それでもすんなり物語に没入できたし、変にこねくり回す脚本でもなければ奇をてらった演出があるわけでもない。前作のオマージュシーンというのもなんとなくわかるし、役者の表情の妙でエモーションをしっかり掻き立ててくれる。実際、涙腺が緩むシーンが結構あった。「遺族に言え」というセリフとか、マーヴェリックの過去を考えると(トム・クルーズの己に対する怒りを湛えた表情も相まって)その言葉の重みに私は思わずほろりとしてしまった。ほかにも色々あるのだけれど、戦闘シーンは言わずもがなでせう。私はミリオタ成分はほとんどないので、劇中の作戦や戦闘にどれだけのファンタジーが盛り込まれているのかはわからないし、わからない方がむしろ素直にノることができるだろうと思う。

むしろ、この映画はほとんど「パシフィック・リム」的なロマン一点突破の映画と言って差し支えなく、すべてはその一点の圧力を強めるために貢献しているといっていいのではないか。そのロマンとは何か。時代錯誤かつ抽象的であることを承知の上で、「男(の子)のロマン」と言い切ってしまう。

そのロマンを担うのは、言うまでもなくピートもといトム・クルーズ(と彼の男根のメタファーとして見立てるビークル)。

 

冒頭の架空の戦闘機(SR-72ダークスター)でマッハ10を出すまで耐えるピートがのちの訓練で9Gに耐える場面に反復され、それはピートというキャラクターが仲間を助け導くためにその力を証明する、確固たる意志を持つ者として観客に刻まれる。

すでに有人の限界としてのダークスターとテクノロジーのより進んだ無人機の話の対置は、終盤のF-14というオンボロ(にして前作でピートが搭乗していた機体)VS第5世代戦闘機で反復され、それはそのまま、還暦を迎えんとしているトム・クルーズがそれでもなお映画界の最先端を、CGという洗練され完成された技術に対しその老いたる肉体で以て食らいつこうとする姿でなくてなんであろう?

正直、トム・クルーズのアクション映画は内容以前に彼の「がんばり」が強調され喧伝され、観る前にその「がんばり」が刷り込まれることによって作品の良し悪しがうやむやにされるところがあり、またその「がんばり」がCGで代替可能であるのであれば観客としてはそこに宣伝効果以外の何を見出すべきなのか(まあこれは押井守を引用するまでもなく突き詰めていくと「すべてCGでいいのではないか」ということになるのだが)、ということを考えたりもしたのだけれど、しかしそれが映画として寓意的に描かれることで、「トップガン」という映画と「トム・クルーズ」という役者のレイヤーが合わさることで重層的になり強度を増す。

 

だが「男のロマン」は必然的に男根主義を呼び起こす。

亡き旧友の息子とトラウマ、過去の恋人との復縁・奮起、病に伏す親友との友情と別れ、上官との対立(を実力で説き伏せ和解)、部下を導き救い、その部下によって助けられる。綺麗なまでに「男のロマン」が詰まった物語であり、喪失した父性の回復とホモソーシャルをより強固なものにすることに貢献している。そして父性の回復とは、世界の父としてのアメリカの権威の回復であり、ぼかされこそすれ『ならず者国家』と形容された敵が所有する戦闘機のモチーフは明らかに旧ソ連・ロシアであり、またこれは別の人の指摘からだがF-14を所有しているという設定はイランを想起させるとのことだし、山間部というのも北朝鮮を思わせるものであり、すべては(そりゃ当然なのだが)アメリカの仮想敵国のミックスであり、それを時代遅れのF-14という機体ーー過去の栄華ーーで打倒する。

前作の女性キャラクターは登場させず男性キャラクターは続投(グースのダブルとしての息子ルース)させられる。老いた女性は廃し、その代わりに倫理的に許される程度の年齢の「美しい」女性キャラクターを(前作のちょっとしたネタを拾い上げる形で)あてがう。これをホモソーシャルの強化と言わずしてなんとするか。

つってもこれブラッカイマー製作の映画なので。せっかくトップガンの精鋭の中に多様性取り入れたのにほとんど活躍ないというポーズだけな感じとかさすがブラッカイマー。あなた、クレジットに何度「Bruckheimer」の表記が出てくるかお数えになって?

 

しかし、である。トム・クルーズという役者に完全にライドし、物語的にエモーションを掻き立て、倫理だとかそういう細かいところは音速に下に置き去りにしていく。それを実現するだけの画力がこの映画にはあると思うし、私はそれに完全にノックアウトされてしまったので、この映画の軍門に下ることにしました。

だって良いんだもん!という極めて○痴的な肯定の仕方しかできないあたりが自分の知性の限界である。すまない。

 

あと最後の主要キャストの紹介の仕方が80年代ハリウッド映画らしくて、それも良かった。「プレデター」とかああいう感じだったですよね、確か。ここで「プレデター」が出てくるあたりお里が知れてしまうのですが、事実としてその程度のお里出身なので仕方あるまい。

 

不思議博士の多言世界解釈

というわけで「ドクター・ストレンジMoM」。公開二日目に観に行き、その日のうちに感想を書いてはいたのだけれど、あまり自分で納得のいくものがでてこなかったので下書きに留めておいたのですが、「サム・ライミのすべて」をちょろっと読んだり、もう一度映画そのものを考えていく中で面白い視点が見つけられたような気がしたのでようやっと本日書き終えたのだった。

 

どうでもいいがIMAXで観たからなのか、結構長めの「トップガン マーヴェリック」の予告編みたいなのが上映前に流れて、それが思いのほか良くて俄然観たくなってきたりしたのだった。

 

とりあえず先に一言言っておくと、「ウォン、私はお前がアメリカ・チャベスを犠牲にしようとしたことは忘れてねーからな!」である。

 

本題。

10年代からこっち、多世界解釈な宇宙への見方・考え方が人口に膾炙したのか、なんか平然とマルチ・バースがどうとかいろんなフィクションで言い始めている気がする。少なくとも日経サイエンス誌の2017年9月号ではマルチバースと多世界をメインに持ってきているので、つまるところそれ以前から人気が出てきていたということになる。

まあ、科学にせよ医学にせよ、その時々の流行りというのはあるもので、90年代からゼロ年代前半当たりまではラブロック(まだ生きてて御年102歳!!)のガイア論が隆盛を極めていたし(いたのか?)、それは日本のゲームやアニメにおいても結構取り入れられていたように記憶している。なので、多世界解釈ーー映画にならってマルチバースと呼称するーーを取り入れた映画は、今やハードSFに限らない。日本公開を控えている「Everything Everywhere All at Once」とかもそうだけれど、割と気軽に使えるようになってきているようである。

もっとも、アメコミは昔からマルチバースのシステムを取り入れているので、それをMCUに適応しただけ、と言ってしまえばそれまでなのだけれど、広義にはタイムスリップものというのもある種のマルチバースものだし、タイムスリップ(ループ、トラベル等など)にせよマルチバースにせよ、そういった「『いまここ』の自分とは異なる時間を生きる(生きていた)自分」を描くもののテーマは基本的には同じだろう。

実際、本作の芯はライミのスパイダーマン三部作と同じで「アルターエゴ=もう一人の自分との対峙」という点は今回も共通している。

そういったテーマ性を含め、今回の「ドクター・ストレンジ」はMCUの中でもかなり監督の色が出た一作であることは一目でわかる。

 

んが、そのアルターエゴの解釈が「内なる自分」といった、極めて内省的・心象的なものからマルチバースというシステムを導入することによって「もう一人の自分」どころか「様々な別の自分」がいるということになるわけで、それは心と体の相互作用の比重関係において、physicの荷重をより大きくしていく作用をもたらしているように思える。

というのは、同じサム・ライミのスーパーヒーロー映画であるスパイダーマンと比較すると、ライミのスパイダーマンアルターエゴは、その自我を発露させる身体は一つしかなかった。が、本作では冒頭から「異なる(身体を持った)ドクターストレンジ」が出てきて、死に、あまつさえその死体は私たちが慣れ親しんだ身体を持つドクターストレンジによってコントロールされてしまうのである。

これを身体の拡張として見ることも不可能ではないだろう。現在のテクノロジーにおいても、ブレインマシンインターフェイスなどを通じて他者の感覚を共有することも可能な領域へと進んでいる。この身体性については色々と考える点があるので後述するかもしれない。

 

本作はカメラワークや音楽の使い方(そもそも今回はダニー・エルフマンだし)、随所にちりばめられたセルフオマージュに至るまで、「サム・ライミらしさ」が発揮されている。音楽といえば、あんな「音楽」の使い方、実写映画ではなかなかないのではないだろうか(笑)。というか、まあ、ディズニーだからというのもあるのだろうけれど。

ライミ映画といえばおなじみ、ブルース・キャンベルももちろん登場しております。思えば彼はライミスパイダーマンシリーズの時点で一人マルチバースをやっていたようなものなのではないか。いや、単に転職しただけなのだろうが。

そして、自己との対峙を経ることで自分への「赦し」を与えるという点も、スパイダーマンから引き継いでいる一貫したモチーフだろう。この映画はそういう意味で、「サム・ライミ(のスーパーヒーロー映画)らしさ」全開。

が、この辺は一つの作品ではなくあくまでMCUという大きな流れの一部としての「ドクター・ストレンジ」というパーツであるがために、本来ならば「マルチバースだからなんでもアリ」なはずの本作に余計なノイズをもたらしている部分も確実にある。

たとえば本作のヴィランであるワンダもといスカーレットウィッチが、そもそもなぜヴィランとしての役回りを演じなければならなかったのかということが、ほとんど説明されない。

というのもディズニー+で配信されている「ワンダビジョン」でその辺の話が丸々と描かれているからであり、「ドラマで描ききったし尺ももったいないからいいよね」といった具合で割愛されておるのです。ディズニー+に加入してないとはいえ、最終回以外は一応「ワンダビジョン」を観ていた(MoM鑑賞後に最終回観ましたが、ポストクレジット観て「!?」となりました)自分は話の流れはつかめていましたけれど、これドラマの方観ていない人はストレンジとの会話でもほとんど闇落ちの経緯を類推するのは難しいのではないだろうか。なぜワンダがあそこまで子どもに固執するのかとか、ヴィジョンはどうしたのだよ(ていうか白いヴィジョンはどうしたんだよ)とか、その辺の説明ないので。今までは少なくとも映画を追っていれば問題はなかったのだけれど、いよいよ今回のフェーズを以てサブスク加入者以外の足切りが始まったようにも思える。

ほかにもスピンオフや別のシリーズを展開しているがゆえに、今回登場したイルミナティ(おいおい)の面々との同一性の問題も気になりだしてしまう。

 

また、それとは別の問題も孕んでいるように思える。それはライミのスパイダーマン潜在的に含んでいたホモソーシャル……とは違うかな。童貞マインドがもたらす、ある種の、周縁においやられてしまう&モノ化する女性。もっとも、2作目、3作目においてはその童貞スピリッツな視点が女性のキャラクター(特にMJによって)によって相対化されていたりするので、決して大きな瑕疵とは思いませぬが。

それでも、本作でも女性のキャラクターがほとんどギミックとしてしか描かれていないように思えるというのはある。まあ、これは前述のとおり「この映画単体で観た場合」という部分も多分にあり、ワンダにすればすでに描かれ切っているし、ほかのキャラクターにしても今後描かれるのであろうという予感自体は孕んでいるのですが、それにしてもアメリカ・チャベスのキャラの薄さ、それをカバーするためにぞんざいに挿入される過去の映像などは(脚本がライミではないとはいえ)「どうなの?」感はいなめない。セリフ回しで結構キャラ立ちはしていたので、個人的には許容範囲ではあるのだけれど、やはりもうちょっとどうにかならなかったのかとは思う。

唐突にウォンと「ラブコメの波動を感じ」させ始め、一応の仕事を与えられて殉職したものの最後まで「で、お前は誰だったんだよ」感は残ったままであったあのキャラクターとかも扱いが気になる。それに引き換え牛(ミノタウロス)というそのルックだけで存在感を放っていたリントラくんを見習ってほしいものである。

一方で、アメリカの両親の件は、お粗末ではあるけれど、おそらく普段なら「欺瞞」臭さを感じる(というか「エターナルズ」には感じた)だろうが、そこはむしろ「マルチバースだから」という設定の妙でむしろ全然アリな感じではあったりしたのだけれど。

それにしても女性に託しすぎ問題はあると思う。ワンダにせよアメリカにせよ、クリスティーンにせよ、男どものツケを払っているのはみんな女性キャラであり、男性の主要キャラクターはもっぱらそのホモソーシャル内で戯れているのである。

だからというわけではないが、ワンダが自分を許す場面こそがグッときたりした。あの顛末でいいのか、という反駁ももちろん有効だと思うけれど。

 

が、こんなこと書いたとはいえスカーレットウィッチに関しても、演出面やセリフにおいて抑圧される女性性の訴えはされている。ストレンジに対し「あんた(男)がやったらヒーローで私がやったら悪なの?(意訳)」とか。

なので、その点に無自覚であるかというと、決してそんなことはない。ないのだが、MCUという大きな流れの中ではそのエクスキューズがどこまで効果を発揮できているのかは不明である。

ただ、この点に関しては少なくともライミは自覚的である、ということは付記しておかなければなりますまい。それは「死霊のはらわた」のとある女性キャラクターが樹木にレイプされるシーンに関して、後年彼は「女性へのリスペクトの欠如だった」といったような主旨の発言をしていたし、バランスをとるためにアッシュが首無しゾンビにレイプされかけるシーンを用意していたともいう。まあ今ではどっちもアウトかもしれないが、ともかくジェンダーバランスという点において無自覚ではなかったということだ。

 

それを勘案しても、個人的に「キャリー」の頃から若者(特に少女が顕著な気もするけれど、ジョシュ・トランクの「クロニクル」みたいなのもあるわけですが)の(性的な)当惑や感情の高ぶりや刹那的に生きている(と見なされる儚さとか)、ファムファタールという概念それ自体(自分も使うことあるけれど)が、権力的にマイノリティに対するマジョリティ=男性視点の一方的な押し付けあるいはフォビアによるものではないかと悶々とするものもあるわけで、「スカーレットウィッチは原作からしてこういうキャラだから」というのは甘えではないか。MCUならば、そこを乗り越えてみせよ、と。

女性ヒーローの悪落ちという展開に対し、「幸せに息子二人と暮らす善なる母親」としてのワンダを並置することで単純な女性ヒーローの悪落ちを相対化しているという見方もできるのだろうけれど、しかしそれはマルチバースのキャラクターの同一性をどこまで信用するかという、観客個人個人の感性に投げているような気がする。

脚本は「リック&モーティー」の人なので、多元宇宙ネタはお手の物であり、「リック~」の方ではなんでもアリであるがゆえに、そしてそれがカートゥーンであるがゆえにそのなんでもありも素直に受容できてめちゃくちゃ面白いわけですが、10年以上も付き合ってきたMCUという世界において、すでに「ワンダ」というキャラクターとも5年以上の付き合いであり、好き嫌いはともかくとして私たちが慣れ親しんだ「ワンダ」とマルチバースの「ワンダ」を単純な二面性の表現として見ることは、少なくとも私には少抵抗がある。

なぜならマルチバースの自分とは、異なる身体を持つ他者、という感覚が強いからだ。クローンの問題とも似ているけれど、あれともまたちょっと違うニュアンスである。

 

と、ここまで書いてきて思ったのは、マルチバースが観客に訴えるーーというよりもはや要請だがーーは、『「あるキャラクターが、そのキャラクターでありながら同時にそのキャラクターではない」という矛盾を内包したままにそれを受容せよ』、という中々にヘビーな思考様式である。

もっとも、これはメタレベルというか場外においては似たような問題系が昔からあったわけで、性的加害を行った役者や監督と、その作品や演じられたキャラクターとの同一性や切り分けをどう行うかという問題と似通っているわけで、ある意味では位相の違いと言ってもいいだろう。

ただ、それを物語内の設定として臆面もなく導入してきた、というところにMCUの大胆不敵さがある。傲慢さ、と置き換えてもいいだろう。

 

本作においては、キャラクターの同一性はもっぱら役者の身体に依拠しているように見える。ドクターストレンジを演じるベネディクト・カンバーバッチ、スカーレットウィッチを演じるエリザベス・オルセン……といった具合に。そして同時に、役者はその演技の幅、つまり身体運動によって別のキャラクターであることを表現しなければならない。

無論、それは同じ身体で以て作品ごとに別人を演じるという、役者の在り方そのものであるわけで、それ自体は何も目新しいことはないむしろ当然のことなのだが、前述のとおりそれを同じ物語内で展開するというのが、いよいよ一線を越えてきた感があるのである。

その点で、アメリカ・チャベス役のソーチー・ゴメスの身体運動ははっきり言ってショボい。特にここ一番のアメリカの見せ場である正拳突きのポーズのダサさは結構ひどいと思う。しかし。だから、というわけではないだろうが、彼女はまだ役者として拙いがために、その身体運動の幅によって「(同一のキャラクターでありながら)別のキャラクターである」ことを表現しえない。であればこそ、彼女はマルチバースにおいてただ一人である、というアメリカ・チャベスというキャラクターの設定にも逆説的でありながらも倒錯的な説得力がもたらされるのは面白いところである。

 

と、書きつつも本当に役者の身体およびその運動が必要なのかというのは、CGによってここ10年ほどでさらに揺るがされて、その問題を立てること自体がすでに陳腐化しているような気もするのだけれど……とはいえ明確な答えが出ているわけでもなし、問い自体はまだ有効だろう。

話を戻すと、役者の身体でもって特定のキャラクターを体現する、という事実は、しかし「スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム」でやってのけた通り、もはやあるキャラクターが寄って立つものは必ずしもその役者「だけ」である必要はなくなってしまった。なぜなら、一つの作品においてピーター・パーカーを演じたのは三人の役者であり、それぞれが異なる役者の身体を待ちながらも、我々はその全員を「真のスパイダーマンである」と認識しているのだから。もちろん、あれはそれまでの20年にわたる積み重ねがあるからこその力技ではあるわけだし、本作のそれとは違うわけだけれど、同じMCUマルチバースを考える上では重要なファクターだろう。そこ、ドン・チードルテレンス・ハワードは?とか言わないように。

 

まとまりがなくなってきたのでいい加減切り上げるが、マルチバース以後のキャラクター(とそれに付随する役者とその身体運動)の問題は、より身体論的に考える必要があるのではないかということが言える。そして、もはやキャラクターとは役者によって演じられる客体ではなく、むしろ役者をその付属物として客体化し返すほどの概念的強度を持ち始めているのではないか。

ここにおいて、私は「推し」なる概念と合わせて一抹の不安を持ちつつも、しかし現実を超克する可能性を見出してもいたりするので、エンターテイメントのメインストリームであるMCUの今後の展開がどうなるのかを戦々恐々としながらも期待したいと思う。

 

あと少し残念だったのが魔術が結局は現実にあるものの代替でしかない、という点だろうか。某氏の引用をするならば、それはハリー・ポッター」における現実に存在する何かの劣化コピーとしての魔法と相違ない。それは「我々の現実ある何か」の影でしかなく、オルタナティブな、別の世界の現実としての機能を持っていない。いや、そもそも魔術自体がこの世界内の技術体系ではあるので、それを突き詰めるのであればなんだか矛盾しているようだがアニメーションに寄っていくしかない(が、その可能性はアメリカとストレンジがポータルを通過する際の無数の可能性世界に内在しているのだが)のではないかと思ったりもする。

 

ぐちぐち書きつつもサム・ライミの映画なのでやっぱり楽しいです。マルチバースを通過する際のビジュアルイメージとか、シュマゴラス(ではないが、正確には)まわりの一連のあれこれとか、ゾンビな上に悪霊を纏うとかいう面白すぎるビジュアルとか。ただ、現代において作家主義的な映画の観測の仕方にもやはり限界があるのではないか、ということを思い知らされた一作でもある。これまでのMCUがインディーで才能を見せた新人をフックアップし、ある程度のコントロール下に置いた上で作品を作っていたのに対し、今回はサム・ライミという大御所を起用し、そして彼すらもその作家性を発揮させながらもその手綱を握り続けた。

サム・ライミはインタビューで「スパイダーマン」のヒットに至るまで映画界でサバイブしてきたことにおいて、「大事なのは、人気ではなく、自分が作る映画のクォリティだということはわかっている。だから、こういったスーパーヒーロー映画がとても人気があるのは興味深い。大事なのは僕じゃない。大事なのは、みんなにとても愛されているキャラクターたちなんだ。~中略~ 僕は人気というのは不安定なものだと知っていて、その本当の価値を軽視しないといけなかったんだ」と語っている。

サム・ライミという監督は「キャラクター」の持つ強度に自覚的であり、その人気というものに対して背を向けることでしか映画界を生き抜くことができなかった。そのような監督が「キャラクター」というものの概念を再考させる映画をMCUの下で監督したということが、果たしてどういう意味合いを持つのであろうか。

サム・ライミのすべて」において伊藤美和が彼の映画を社会批評的に読み解くとき、その作品群は消費社会やサブプライムローン問題への応答として描かれており、現在のエンタメ界隈における「『キャラクター』とは何か」という問題を定義しているようにも見えるからだ。

 

 

余談

アメリカ役のソーチー・ゴメスが知り合いに似ていてちょっと親近感わいた。

シルトラマン

観てきた。「ドクター・ストレンジMoM」の感想をなんとか書き上げたそのままの足で劇場に行って。

や、普通に面白かったです。

ゴジラに比べればウルトラマンへの思い入れはほとんどないに等しいのでイースター・エッグを楽しむというようなことはほとんどなかった(といいつつ冒頭のどろどろ背景のオマージュとか、ゴメスの明らかなゴジラモデリング流用とか「そんなとこパロせんでいい」とかツッコミ入れたりしてましたけど)のだけれど、まあそもそもそういう類の映画を撮るタイプでもなし、そこは心配してなかった(シン・ゴジラの初日の初回に観に行く前は基体半分不安半分といったところだったが)のである意味安心して観に行けた。

でまあ、監督樋口真嗣と言いつつもクレジット観たら案の定、庵野秀明がっつりかかわっており、編集、絵コンテ、選曲、果てはモーションアクションアクター(要するに中の人をやりたかったのだろう。どことなく挙動の怪しい部分があったのでゾーフィあたりではないかと睨んでいる。まあそれ自体庵野秀明の学生時代の自作のセルフオマージュともいえるのだが)とかほかにも色々やっていた。それにしてもこの庵野ノリノリである

とはいえ、仮面ライダーやらエヴァやらで忙しかったのかパンフレットのインタビューも、庵野はなしで監督の樋口真嗣と助監督の尾上克郎だったし、どれだけ庵野秀明が関わっていようと監督としてのクレジットが樋口なのであればその責任は樋口が負うべきなのであろうが。その割には喧伝されるのは庵野の名前ばかりなのでもう少し樋口真嗣をフィーチャーしてやってもいいのではないかという気がしなくもない。あ、だからメディアの矢面に立たされているのか。

 

久々にパンフレット買ったのですが、あんまり面白い内容はなかった感じ。むしろ、わざと情報を小出しにしているというか、「ああ、シン・ゴジラのときみたいに後々のパブで開陳していくのだろうな」というにおいがプンプンしております。公開初日には行けなかったのでデザインワークス買えなかったのが痛い。今回、個人的にメフィラスのデザインのリファインがとても良かったのでこれも欲しい。おそらくはパンフレットよりも充実した内容が載っていると思われる。値段も倍以上だし。

 

余談はともかく本題。

私はあまり特撮の批評や社会あるいは民俗学的なあれこれについてはほぼ何も知らないので、極めて表層的な見方しかできなかったのが少し惜しいところではある。とだけエクスキューズじみたものをあらかじめ付記してみる。

まずもって本編に入る前の段階で気になる要素をぶちこんでくるあたり、相変わらず意地が悪いというかなんというか。なぜ本作のタイトルの直前に「シン・ゴジラ」のタイトルがでてくるのでしょう……?

いきなり観客を困惑させようとしてるのか、考察厨への撒き餌なのか知らないけれど、事前情報一切なしかつ鑑賞後もこの感想文を書き終えるまではほかのレビューなども観てない身からすると「なんじゃそれ」である。いや別に腹を立てているわけではないのだけれど。

まあ、忖度すれば別に世界観が同じというわけではなく(クウガとアギトくらいはあるのか?キャスティング的にも)、今回の「シン・ウルトラマン」は時系列的には本編開始以前からすでに怪獣が数回に渡って出現しているという設定なわけで、「シン・ゴジラ」のようにゴジラという真に未知なる存在との初遭遇という段からスタートするわけではない。その意味で、未知なる存在との初遭遇(「シン・ゴジラ」)をすでに済ませた、ポスト「シン・ゴジラ」以後の社会であるという意味合いとして、「ULTRAMAN」のタイトルの前に「シン・ゴジラ」のタイトルを持ってきたのかもしれない。

 

頭から怪獣ダイジェスト(もといDIEジェスト)で掴みを持ってくる、という作劇は「シン・ゴジラ」と同様で、そこから現在へと飛んで目下怪獣への対応を、というところで謎の外星人としてのウルトラマンが登場という流れ。

この時点で神永は死んでいる、というかコラテラルダメージ(ですらないのだが、実際。しかし、「着地しただけで人間は死ぬ」というのは、それ自体がすでにからしウルトラマンの超然性である)によって死んでいるのだけれど、この時点ではそれがわからず、戦闘後に場面が変わり長澤まさみ演じる浅見が合流し、どうも神永の様子が変である(しかし他のキャラクターは特に指摘したりはしない)、ということを観客が読み取れるようなセリフ回しや話し方を斎藤工がするのである。

 

そして次なる怪獣の登場。ここで「おお~」となったのが、ウルトラマンの赤い色の意味。これが原典からしてそうなのかは知らないのだけれど、本作のウルトラマンの体色の赤を、ヒトの血の色として見立て人間と融合したことを端的に色だけで視覚的に表現しているところは面白い。実際、初登場時の人間神永と融合する前のウルトラマンの体色は銀色オンリーなのである。

このように、今回は(も?)人物の描き方がかなり比較的スマートである。基本的にはセリフそのものは「それいらんよね」なものも含め説明的なものばかりなのだが(あとは状況に対するリアクション)、人物の横顔や細かな表情のカットイン、セリフの発し方によってその心情の変化やキャラクター自体を描出することに成功している。実相寺を意識してるのかやたら珍妙なカメラアングルが登場するのは気になったけど。イマジナリーラインを平然と超えてきたり、「お前は小津か」と変な笑いが出たり。

まあ、とはいえ滝くんのあれは「ジェバンニが一晩でやってくれました」案件すぎて、「シン・ゴジラ」のときのようにチーム全体で徐々に解析していくハッタリの楽しさに乏しい上にご都合がすぎるのであるが。また、キャラクター単体を抜き出せばともかく(いやまあ、キャラ付けとしてどうかという部分も結構あるが)、それぞれの人間関係があまり見えてこず(なして神永の変化に誰も気づかんのかとか、現場にいないことを不自然に思わんのかとか色々)、それが結局のところラストを筆頭に本作のテーマの訴求を弱めているということは言えるだろう。

ただお忘れの方もいるだろうが、樋口真嗣が実質的な監督をした「進撃の巨人」のキャラクター描写がアレだったことを考えるとだいぶ練られていることは間違いない。少なくとも樋口真嗣が監督としてクレジットされている映画としてはかなり良い方である。

 

ところで今回のウルトラマン(を筆頭とした外星人)は、かなり異質感が強い。それはザラブのびんぼっちゃまスタイルほど露骨ではないにせよ、すべての外星人がおそらくCGのモデリングのレベルで意図的にライティングを通常とはやや異なる当て方をしているものと思われる。その差異は怪獣ともまた違っている。

この辺のセンスは、オリジナルの製作話の時点で欧米とのセンスの違いが明確に出ている点であると言える。ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』からまんま引用すると

アメリカの或るシナリオライター実相寺昭雄に対して、ウルトラマンの銀色の表面は衣装なのか皮膚なのか、なぜ空を飛べるのか等と次々に質問したが、まともな答えが得られないことに苦笑してこう語ったという。「アメリカじゃ、子供だましでもいいから、最低のエクスキューズを用意しておく。たとえば、スーパーマンのマントとか。……理屈がつけばいい。さもないと根本から得体の知れないものになってしまう」。ウルトラマンにはまさに「得体の知れない」穴があいており、そのイメージの来歴についても理にかなった説明を拒絶するところがあった。その結果、この謎めいたアイコンはたんなる科学の象徴を超えて、さまざまな連想の横滑りを引き起こすことになる。例えば、その卵型の頭部デザインについて、実相寺はジョルジュ・デ・キリコの影響をあげたが、しかし当のデザイナーの成田亨はそれをきっぱりと否定している。

~中略~

実相寺が後に「ゲテものの生命力が和製の特撮にはあった」と述べながら、そこに「傾く特撮精神」を見出したのは、ウルトラマンシリーズの本質を鋭く突くものである。ハリウッドのSFXがいかにも本物らしい壮大な人工世界を作ろうとするのに対して、「和製の特撮」はどうしても生の風景や人間というノイズを打ち消せない。だからこそ、偽物を偽物のまま本物と言い張るための見立ての技、つまり「かぶく」芸や大見得を切るパフォーマンス──実相寺ふうに言えば「児戯に類する話」「チャチと言われるのを恐れぬ造形」「コマ撮りに頼らぬ縫いぐるみ」等──が必要になってくる。

~この不完全な「嘘」の世界をチャーミングに見せようとするところに、特撮の賭けがある。

 

ということなのである。三宅も言っていたが、私たちがいわゆる特撮を観るとき、ハリウッドのリアルなCGのように、それを本物と見紛って観るというセンス(感覚)は働いていないように思える。(が、聞いたところによると今回の「シン・ウルトラマン」の予算はだいたい9億円くらい(!!???)らしいので、かなりの制約があったものと思われる。ネームバリューに比べて予算規模があまりにも少ないのだけれど、いいのかそれで。いや、予算がどうというのをあまり言い訳として使うのもよろしくはないと思うが、どう考えても企画に対して予算が少なすぎやしないか)

あるいはその挙動。オリジナルでは人形であるがゆえに「そういう動きしかできない」という制約を本作でもあえて導入することによって、むしろ「人間の理解の外」であることを示せている。それを、前述の引用にならって「かぶいている」と形容してもいいかもしれない。

まあ、それでもVSメフィラスのシーンの背景はせいぜいがPS4のグラフィックぽくてファイティングレボリューションを観ているような気がしなくもなかったけれど、ハリウッドでさえこの手の映画で戦闘を夜に行わせて誤魔化していたことを考えれば、大作とはいえ所詮は邦画レベルのバジェットでは頑張ってはいるだろう(嫌な擁護の仕方だが)。パンフレットのスチール(?)だとそんなに違和感ないですし、メフィラスのところ。メフィラスのとき、まどマギのキュウベエが出てたんだけれど、あいつの役回りを考えるとメフィラスって本作のテーマにおけるかなり重要な気が……というかメフィラスの元ネタの元ネタがメフィスト・フェレスなことを考えれば、さもありなん、なのか。

それにしてもメフィラスのデザインはいい。多分、ライティングを意図的に減らしてペンタブラックのような感じにしているかもしれないけれど、いい……。「使徒じゃん」とかいうツッコミはなしの方向で。

あと人間態のときの山本耕史のうさん臭さと理知的な感じのバランスも良い。戦闘が始まってからでさえ最後まで合理主義を貫くところも良い。その引き際の良さで以てゾーフィの強者感すらも引き立ててくれるし。というかゾフィー(ゾーフィ…という名前、と劇中での行動が誤植じみたものが発祥というあたり、庵野の面倒なオタクスピリッツが炸裂している)、本作ではやってることは人間から見るとアレだけれど格を保ち続けているのは立派である。オリジナルでは兄弟から「ゾフィーのことなんかいいよ」と言われていたというのに。

 

ことほどさように、ウルトラマンを筆頭とする外星人というのは「シン・ゴジラ」におけるゴジラほどではないにせよ(あれは劇中での巨災対の名が示すように、原子力という制御不能性を含めた上での災害なのでそもそもからして身体を持つ他者ですらなく、あえて言うならばシステムそのものである)、理解を拒む絶対的他者として描かれている。そして、それはウルトラマンが当初「神(に最も近い存在)」として形容されていたことからも明らかだ(そもそもが「外」星人である)。外星人が揃いもそろって人型でありながら一目で人間ではないと分かるシルエットをしているのも、そういうことだと意味を与えることもできる。(庵野、神という形容を多用しすぎ問題)

けれど、これは決してウルトラマンという神の物語ではない。むしろ、これは神殺し=神の否定による、人間の善性と智慧の賛歌の話といってもいいのではないか。

本作において、絶対的な神として顕現したウルトラマンは、しかしその余波から弱者を守って死んだ神永と融合することによってその神性・絶対性を失う(それに伴い、メフィラスに指摘される通り地球上での活動制限ができたりするなど、明らかに能力的な弱体化がなされる)。そして、人間の持つその善性(とされる)行為こそがウルトラマンをという絶対的他者を触発し、神永=人間を理解しようとし融合による蘇生を実行する。

ほかの生物が必ずしもそういう行動をとらないとは思わないが、少なくとも人間の善性の象徴として本作では自己犠牲を厭わずに他者を救済することがある。それは神永だけではなく、西島秀俊(好き)演じる田村が、ゼットンへの特攻を、ウルトラマン/神永の身を案じて却下する(それはすなわち自分を含めた人類の死である)ことからなどもわかるように強調して描かれる。やたらとスムーズに進んでいるからわかりづらいが、浅見が単独で神永の救出に行ったのも同様の行為以外の何物でもない。

 

そして、ゾーフィとゼットンという天使と神(あるいは悪魔)を思わせる連中の登場、その裁定・審判との対峙によってウルトラマンの存在はダメ押しと言わんばかりにおとしめられる。VSゼットンのシーンのカットを観ればわかるとおり、文字通り画的にもウルトラマンは矮小化されている。ていうかゼットンでかすぎ。

その後の展開自体は、正直言うと前述のとおり滝のジェバンニ化で「それどうよ?」感もなくもない(というか、ドラマパートは結構しんどい部分もある)のだが、ともかく神に縋って祈るのではなく(「困った時の神頼み」というセリフが劇中にあるが、当然ながらこれは反語である)人間の智慧と、人間化したウルトラマン(半神半人)によってゼットンを退けることになる。

ここで重要なのは、ウルトラマンの攻撃それ自体はゼットンからの防衛に一切寄与していないところだ。ゼットンの撃退に必要だったのは、あくまでベータカプセルの機能であり、ウルトラマンに要請されたのはその機能を使うタイミングを調節するための貶められ不完全な(人間の)超越的身体でしかない。暴力的・破壊的な神に対し、矮小な火力しか持たない人類(神永/ウルトラマンを含む)の攻撃が通用しないのは自明である。

であればこそ、神を退けるのに要求されるのは武力ではなく人間の智慧(の正しい使い方)なのである。人間の善性から始まった神(ウルトラマン)と神永(人間)の物語は、ここにおいて人類最大の発明である「科学」を必要とする。

そもそもが「神」自体、人間の発明の産物に他ならず、その神による人間の抹殺という話自体が一種の人間に対する楔(もとい教訓)であり、人間の手を離れた、過ぎたる神に対し同じく人類の発明である科学(を人類という他者のために用いて)で相克するというのは至って自然な流れではある。

 

掌握不能な大きな外部に人間の智慧で対処する、というモチーフは「シン・ゴジラ」と同じであるが、今回の「シン・ウルトラマン」ではそこに「絶対的他者の身体(への恐怖)」という、いわば庵野秀明私小説的な「エヴァ」で扱ったテーマを外挿している(というより、ウルトラマンを扱う上ではそうせざるを得なかったのでは)。

庵野秀明はSFオタクであるし、「科学」(それこそ、特撮自体が科学の表象そのものである)というものを信じている人間ではあるだろう。だからこそ、疑似科学=オカルト要素の強いエヴァンゲリオンという、ある意味ではその科学が人間の意思によって汚される物語を描きえたのだし。だから、市井の人々が出てこないとかいうのは、そもそも庵野秀明が人間不信ぽい(まあ過去を思えばわからいでもないが)ということを考えれば当然なのかもしれない。だからダメ、と言うつもりはないけど。むしろ、最近はヒーロー映画などを観ていても「市民の視線がないからダメ」とかで評価を下げる人が多くて、それもそれでどうかと思うが。そもそも、それってどういう意味合いで使われているのか。ヒーローなどの超然性の補強としての意味合いなのか、ヒーローがパンピーのことを考えていないからだめだということなのか。

もっとも、その指摘から分かるように、おそらく庵野秀明は科学は好きだけど人間はそこまで好きじゃないのではないだろうか。だから人間の善性をテーマに掲げながら根っこの部分で人間を信じ切れていない(シン・エヴァもあれは対父親なのでう~ん)ために、ディスコミュニケーションを含めたコミュニケーションが描けず、状況に対処する個を描くしかないのである。

奇しくも途中まで「シン・ゴジラ」の脚本にかかわっていた神山健治が「攻殻機動隊」において荒巻に「我々の間には、チームプレーなどという都合のよい言い訳は存在せん。有るとすればスタンドプレーから生じる、チームワークだけだ」と言わせていたセリフの裏返しになっている。これは、人間不信の対極にあるものだろう。

というか、「シンゴジ」に対して政治劇を含めて状況そのもののディテールの書き込みが甘く精彩を欠き抽象的になっているので、全体的に色々とふわふわしている。まあ、異星人を導入したらそうならざるを得ないのだろうが、時々刻々と状況が変化していく「シン・ゴジラ」に対し、テレビシリーズのように一つ一つにとりあえずの呼吸が置かれる本作では、ちょっと趣が異なる。

 

「シン・ウルトラマン」におけるウルトラマンが戦う相手というのは、それぞれに位相が異なっている点も結構面白いのだけれど、面倒なので書くのは諦める。

 

色々書いてきたけど、鷺巣さんのスコアは相変わらず良いし、SFオタクらしい庵野秀明のテキトーなサイエンスジャーゴンの使い方(マルチバースってそういうもんじゃないのでは)とかも含めて、笑って楽しめますよ、ええ。庵野秀明の提示してくるSF要素って見掛け倒しなところがあるので、その辺に一々目くじらを立てるほどの気力など私にはありませんし、ウルトラマンのことも大して知らないのでギャーギャーわめきたてるようなことも特になく。むしろ久々の和製怪獣プロレスものでもあるし普通に楽しめましたよ。へんてこりんな部分も含めて。

ただまあ、「シン・ゴジラ」に感じた以上の興奮はなかった。ウルトラマンのデザインはエロくていいと思ったけれど。このエロさがフェティッシュなのか、あるいは「子供を宛先とした『ウルトラマン』のような商品からうっかりセクシュアリティを形成してしまった存在として、つまり「欲望を誤って受信してしまった青年」として定義」されたオタクとしての庵野秀明(まあ悪い意味でオタクっぽさがにじんでいる部分はたくさんあったが)が出ているのかどうか。

ウルトラマンシリーズの本編そのものはあくまでこのような「青年」の危険な欲望を遮断し、非性的な「少年」との共生を選んだ。内容的に言っても、このシリーズの中心には「子供の世界認識」があった」とすれば、庵野秀明が真に向き合うべきは子どもたちなのではないだろうか。

某氏が半ば冗談で「子供向けにテレビシリーズ撮ればいいんだよ(笑)」と言っていたが、大人にとっての絶対的他者である子どもに向き合うということが、庵野秀明に求められていることなのかもしれない。よく考えたら本作には子どもは一応出てくるが、そもそもあの子の生死すら不明ではなかったか。見落としているだけかもだが。そういうところに、庵野秀明が子どもに向ける(向けていない)視線のおざなりさがある。

などと偉そうなことを書いているが、別に庵野さんに説教をするつもりなど毛頭ないし、普通に楽しみましたし仮面ライダーも観に行きますよ。ええ。

 

あとこれは冗談なのだけれど、東京独身男子の記者会見で斎藤工があるエピソードをダシに高橋一生のことを「一生さんは本当に神がかった方です。地球に舞い降りた神なんじゃないかと思っています。神が主演です」と弄っていたのだけれど、楽屋落ち的に考えると高橋一生ウルトラマンの声だったというのも頷けるのである。冗談だが(二度目)。

 

2022/4

アデライン、100年目の恋

悪くないけれど、目新しさはない。それでも小奇麗にまとまっているとは思うけれど。

主役の人どっかで観たなーと思ったら「かごの中の瞳」でしたか。この女優さんブレイク・ライヴリーは演技達者で、表情の機微が上手いので彼女を観ているだけでも割と見れる。

 

「ルーシー」

ギャグマンガ日和の女優のアクションを代わりにロボットにやらせる話があるのですが、なんとなくそれを思い出した。

モーガン・フリーマンとスカヨハに徹頭徹尾依拠した映画であり、脳の10%が~というあまりにもあまりな設定をどうにかそれっぽく観ることができるのはひとえに彼女らの俳優力によるところである。モーションブラーも90年代の映画かよという感じなのだけれど、ランニングタイムといいバカバカしさといい午後ロー映画としてはめちゃくちゃ丁度いい気がする。

 

ドラゴンボール超 ブロリー

……あれ、思ったより面白かった。数年前にテレビで観た「神と神」「F」がまあはっきり言ってつまらなかったというか色々と残念な出来栄えだったのに対し、この「ブロリー」は色々な意味で面白かった。

というのもこの「ブロリー」は「ドラゴンボール的なドラゴンボール」を、しかもメディア越境的に自己参照し純化したちょっと特殊な映画だったもんで。

これまでの「ドラゴンボール」、大衆に受容されているイメージとしてのドラゴンボール、それらすべてを参照し、煮込んだ映画というか。それはつまるところ「格闘(戦闘)シーン」と「覚醒シーン」、あとはグミ撃ち(超高級路線)などなどの、多くの人がドラゴンボールと聞いてイメージする、そのイメージをひたすら高水準の作画で出してくるという。

戦闘、戦闘、戦闘。この映画はひたすら戦闘シーンの繰り返しだ。なぜならそれが大衆のイメージとしてのドラゴンボールだから。一方で、ブロリーというキャラクターをリファインするためのドラマも一応は用意されており、そちらの方の解釈も割と好きというか、今までのドラゴンボール映画の粗雑さに比べればだいぶまともな描かれ方をされていると思う。良くも悪くもネタ的に消費されてしまいがちなブロリー(主にニコニコのせいだが)に新しいキャラ付けがなされ、パラガス以外の新しいキャラをグループ化したというのも良かった。色々と雑なところはあるにせよ。

ひたすら戦闘とは言ったけれど、前作や前々作にくらべるとセルルックのCGの進化や、その使いどころの選択、粗雑だった背景CGも格段に良くなっているし、それ自体が真っ当に進化しているのとそこまで長尺ではないので冗長ではあれ飽きるということはないと思う。まあ、そのせいで箸休め的なフュージョン前後の作画が著しく不安定になっているというのはあるのだが、リソースすべてをドラゴンボールドラゴンボールの画作りに割くための必要な犠牲だったのだと思えばまあ仕方ない。あと、フュージョンまわりの話の展開の仕方の雑さもといある種の合理さというのも、ネット世論における悟空の怜悧さっぽくもあって、その辺のレファレンス具合がなんか面白い。

また、演出面ではドラゴンボールの一連のゲーム的な演出も見られる。たとえばこの映画における技を放つシーンは、そのセルルックのCGも相まってゲームにおける必殺技の演出のそれとほぼ同じといっていいだろう。もちろん、そのゲーム的演出というのも原典たるドラゴンボールを参照しているわけで、自己参照の自己参照、その連続としてこの映画はある。話の展開それ自体も観賞者のドラゴンボールに対するイメージを頼りにしている部分は大いにあるだろう。

その結果として整合性が破綻している場面ももちろんある。たとえば、悟空がスーパーサイヤ人に覚醒した場面をフリーザが思い出し、その反復によってブロリースーパーサイヤ人に覚醒させようとした場面。あれはクリリンという悟空にとっての親友の死によって引き起こされた強い怒りによるものだったわけだが、ブロリーとパラガスの間に痛みによる隷属関係こそあれそのような強烈な感情を惹起するような関係性を見出すことは困難だろう。そもそものブロリーのキャラクター自体がその凶暴性≒純粋さとの間で衝突を起こしているように見えるので、あまり細かいことを気にしだすとキリがない。

それ以外にも過去のドラゴンボール映画(というか前のブロリー映画)のセルフオマージュによる場面が多々見られる。

ひたすらに戦闘シーンの連続があり、フェーズの移行としての段階的なサイヤ人への覚醒があり(詳しくはわからないが、ゴッドになることで戦闘スタイルが剛性から柔性になるなどの戦闘描写における変化も見られるのだが、戦闘の余波における破壊の規模が規模だけにそれが薄まっている)、また戦闘が続行される。

セリフを排し、その代わりと言わんばかりに叫び声の応酬がなされる。島田敏さんの喉が心配になるほどでしたよ、ええ。

なので、戦闘そのものが退屈になるということはない。何気に疑似的な一人称視点などもありそのライド感はかなり新鮮な観心地だったし、ほどよいギャグも上手い具合に緩急をつけていると思う。

ブロリー」がドラゴンボールというコンテンツを煮詰めてできたものである以上、クリエイターのビジョン・欲望の形にキャッチアップすることができる少数の人にのみ訴求が可能なインディー系の映画の在り方に近いはずなのだが、しかし実に恐ろしきは「ドラゴンボール」というコンテンツの人口に膾炙している範囲である。

同じ(というとかなり語弊があるが)近年の大ヒットしたジャンプ系列の劇場公開映画である「呪術」や「鬼滅」の世界興収と国内興収の比率の逆転具合と公開国の規模を比べると分かりやすいだろう。もちろん、様々な要素を勘案しなければならないのは言うまでもないことだけれど。

しかし、30年後に果たして「呪術」「鬼滅」が新作映画を公開してこのような現象を引き起こせるかどうか。別にこれをもってドラゴンボールを称揚したいわけではないのだけれど、しかしその作品の方向性として、実は一貫した「物語」というものよりもドラゴンボールのようにひたすらインフレーションという現象を指向し、そのサブとして物語があるというコンテンツの方が案外長く存続できるのかもしれない。

現代のように欲望が多様化する中では物語というものは観客一人一人の中に委ねられており、大きなイデオロギーは必要とされているとは思えないのだ、個人的には。

何とは言わないが、過去のコンテンツを掘り起こして殺してしまったものもいくつかあったわけだし。

 

「映画 ハイ☆スピード Free! starting days

テレビシリーズの放映当初からその人気ぶりは認識していたのだけれど、映画もテレビシリーズも思ったよりたくさんあって驚いた。まあそれはどうでもいいのだが。

クリッツァーの論考を通過した後だからかもしれないのだけれど、この映画を観ていて思ったのは男がその男性性たる「べき」とされるマスキュリニティ・マチズモを超克することができるとすれば、劇中の彼らのようにナラティブ(言語化)による赤裸々さを持つことなのかもしれない。そう考えるとお笑い芸人的な「茶化し」は、ウィル・スミスの一件が示すように暴力(既存の男性性に基づくpower行使の発動)を誘発しかねない。何故なら茶化すことそれ自体が(当のコメディアン、お笑い芸人がどう考えてるか知らない)攻撃性を帯びているのだからさもありなんというか。ネトウヨに近接しがちな、いわゆるアニオタ的な男性が腐的なものを忌避するのは自らの寄って立つホモソーシャルなマチズモ的価値観を脅かされるからなのかもしれない。オタク的な男はそのマチズモ社会からも排斥されがちであるにも関わらず。いや、だからこそというべきか。DV被害者が加害者になりがち、というあれのような感じというか。

キャラクターデザインのレベルから男性性(マスキュリニティ)が中和されていることからも言える。まあ京アニだし、と言ってしまえばそれまでなのだが。

 

 

 

嵐が丘

白人男性をマイノリティに位置させようとする。そして、その裏返しとしての暴力性を潜在させ時に発露させる。

千葉雅也が女性の生理と男性の性欲について共通点を見いだすのと同じ。

 

ガール・オン・ザ・トレイン

呪縛された女性たちが一矢報いる話。トーンポリシングガスライティング……ミソジニーに基づく抑圧。それを取り上げること自体は良いのだけれど、スリラージャンルとしてはカタルシスに欠ける。なんか惜しい。

 

素晴らしき哉、人生!

通しで観るのは初めてなのです。「素晴らしきかな、人生」という謎の邦題をつけられた2016年のウィル・スミス主演の映画は観た(内容は忘れた)のですが、原題全然違うし、これってやっぱり日本の配給会社の謀略?

で、こっちのクラシックの方は、まさか天使の登場があんなに後半になるとは思わなんだ。お話自体はシンプソンズとかあるいは世にも奇妙な(の元ネタのトワイライトゾーンとか)の感動系で観たりしたわけですが、そのバランスがちょっと変な気がします。

描かれる実存の問題、自分によって他者がどのような未来を歩むのかという自己による他者の規定とその裏返しとしての他者による自己規定。一種のバタフライ・エフェクト的な世界像。

まあそういう問題に引き付けることも全然できるのだけれど、個人的には電話の受話器のシーンにおける二人のアップの長回しワンカット(しかもソフトフォーカス!)における超絶イチャイチャシーンや、ビリーのエゴの強さをなじるシーンで彼の肖像画を一緒に収める弄り方とか、そういうてらいのない画面設計とか普通に良いと思いますです。特にイチャイチャシーンのボルテージがだんだん上がっていくジョージの「辛抱たまらん!」感とかいいですよね。あれってソフトフォーカスかけてるのにそこまでどぎつく感じないのってやっぱりモノクロだからかもしれない。とか考えたり。