dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

2023/8

青いパパイヤの香り

話も映像もジメジメしていてこの時期に見るとすげぇげんなりする。

「そこでそんな音ならすか?」という描写もあったりなんか全体的に変なバランス。

手と足を映すことにやたらと拘りが見える(というか使用人を描くと畢竟こうなるのだろう)が、自分の琴線に触れないのは手元を映すことに作為的すぎるからなのだろう。

あと役者の表情が画一的で、機微をかなり読み取ろうとしないとこぼれ落ちそうなものが多い。

これがドキュメンタリーだったらなぁと思わないでもないのだが、50年代頭のベトナムが舞台じゃ厳しいかもしれない。

 

「聖杯たちの騎士」

映像は美麗なのだが、完全に今の自分のモードとはそぐわない映画でした。なんだかなぁ、という気はするんだけど村上春樹っぽいのかな。

 

シンドラーのリスト

久々に見た。改めて観るとやばいこれ。スピルバーグの真骨頂は感動云々とかではなく、やはりこの人体を物質として捉える才覚なのだと実感。

 

「MEMORIES」

三本の短編のオムニバスということなのですが、個人的には岡村天斉監督の「最臭兵器」が一番面白かった。CGを実験的に使うというのはこの「MEMORIES」の一つの方向性だったと思うのですが、「~兵器」にはそこまで目立った使い方がなかったけど。

やっぱりこの人はギャグセンスと動きのコミカルさが抜群なので変にシリアス方面に依らない方が良いと思うんですよね。あと煙の動きとかね。まあ原作は大友ですが。

逆に一本目の「彼女の想いで」は脚本・設定だけじゃなくて絶対に作画に参加してるだろ今敏!と思うような今敏あじが強い。ソラリスがやりたかったのかなぁ、という気も。

それで言うと「大砲の街」は一番実験的であると言える。ワンカット風の絵本(大友曰く絵巻物)というは、線の強さと流線はどことなくロシアアニメーションを思わせる。

まあ短編じゃないとこういうことは出来まいしな、という感じで観ていて面白くはありましたな。片渕さんが地味にメインで参加していたりする。

 

「ミトヤマネ」

オンライン試写にて。

この映画の美点:上映時間が短い(80分未満)

以上。

これマジで「大和(カリフォルニア)」とか「VIDEOPHOBIA」の宮崎監督の映画か?と思うほどキツかったです。自慢じゃありませんが「VIDEOPHOBIA」とか私CFに金出したんですけど。

久々にこのレベルの映画を観た気がする。普段午後ローやらBSやらで観てる映画にケチをつけたりしてますが(もちろん良い映画もたくさんある)がいかに面白い映画なのかということを思い知らされる。

サブイボ映画、観てるこっちが恥ずかしくなってくる映画。いやほんとオンライン試写で一人で観れたから「うわー」「きつい」とか声出してリアクション取れたから耐えられたものの、映画館で観てたら溢死していたかもしれん。

そもそも、上映時間が短いとは書いたけど編集のテンポ悪すぎ(特に会話)るし脚本も甘すぎて冗長が過ぎる。マネージャーが王城ティナの家に来て案件の説明をするシーンなど、直後に妹ちゃんが帰宅して彼女に対してもほぼ同じ説明を繰り返すという二度手間すぎる場面などは正気を疑いましたよ。

 

黒沢清の助監督も務めたことがあるからある意味で師事していたということもできるのでしょうが、ドライビングシーンのスクリーンプロセスの使い方とかディープフェイクが白い空間にでかでかと額縁入りスクリーンで展示されてるのとか、表現主義と言えば聞こえはいいのかもですが……クラブでのシーンである種の「逆転」が行われたというのは分かるのだけれど(そういう意味で妹ちゃんの髪型の変化とか絵的に見せることを放棄してるわけではないのだが)、おじいさんのデモシーン(?)とかそこに突っかかる女性とか、あのシーンもすっげぇ上辺をなぞっただけの薄っぺらいイデオローグをたらたらと撮り続けるのとか観客のことバカにしてるんじゃないかとすら思いましたよ。

というか、割と本気で手抜きで撮ったんじゃないかしらこれ。「PLASTIC」の方に注力してこっちは片手間なんじゃないのかしら?と思うくらいペラペラですよ。

長編映画として出すために無理に引き延ばしてるんじゃないですか、マジで。それでも80分切ってますからね、ランニングタイム。

早稲田の政経出てるから私なんかよりよっぽどインテリなはずなのに、なんでこうも頭悪い人にダメだしされてるような映画になるんですか。

もっとちゃんとやってください。

 

「サイダーのように言葉が湧き上がる」

光堕ちした「悪の華」とでも言うべきか。

細かい部分は違うけど、どちらも群馬県が舞台というのも共通しているしクライマックスが祭りのやぐらで「未成年の主張」というのも共通している。まあ、「舞台」だし使い方としては正しいのかもしれないけれど、意地悪な言い方をするとありきたりではある。で、私がこういう意地悪な言い方をするのは、久々にある種の力関係を想起してしまったからなのだが、それは後述する。

 

まずアニメということで絵そのものに関して言及するのであれば、本作は背景とキャラクターが均質化している部分に特徴がある。光冠まで、というのは結構インパクトがあるが、それは背景をある種簡略化することによる、同化による異化ともいえる効果をもたらしているのかもしれない。もっとも、それ自体はもっと手間のかかる方法で「かぐや姫の物語」が先んじている。というかあれはほとんどアート映画の部類な気がするので、比べるべくもないかもしれないんだけど。

某映画ライターは「シンプソンズ」を引き合いに出し、むしろアメリカのカートゥーンに見られるように動画(ここでいえばアニメートされたキャラクターのことだろうが)と背景がマッチして記号と感じさせないことで豊かさを獲得しているとしていることや、日本のアニメにおける美麗な背景は、リッチであるほど、演劇における記号的な“書き割り”と同じものに過ぎないと無意識に感じさせてしまう、ということを述べている。

よく考えればクレヨンしんちゃんサザエさんとか(特に冒頭の動きなど顕著にそれを思わせたのだが)もそういう作り方ではなかったか。だとするとそれは単に超長期にわたるテレビアニメ制作上の必然なのでは。

ただ私に言わせれば、背景はむしろ動く方が不自然ではなかろうか。なぜなら背景というのはキャラクターを包含する世界そのものであり、特にここで言及される背景=空はあらゆる意味においてキャラクターとはスケール自体が違う以上、動的(に見える)である方がおかしい。そもそも人は背景=世界(自然とか宇宙とか、そういう抽象的なもの)を記号として以外に捉えようがないと思うのだが。

もちろん、背景というのはもっとスケールの小さい建物とかそういったものもあるわけで、それらすべてをひっくるめてのことだというのはわかるし、その場合はキャラクターと近似したスケールではあるのだろう。だから背景の一部分がセルで描かれたものであることもあるわけで。

でも、第一、アニメを観るときってそれを「記号である」と承知した上で観るものじゃないのかしら? たとえば特撮(特に巨人・怪獣など人外スケールのもの)の着ぐるみを見るとき、我々はそれを「着ぐるみ(=記号)」と分かったうえで怪獣として認識しているはず。どれだけリアルなCGで作ってみたところで、というかそれこそアニメと同じわけで。そこに身体性を持ち込むことでアニメの記号性を揶揄することは(今は難しいかもだが)可能でしょうが、「記号的に見えてしまう」というのはなんだか妙な話で、その言動にはある種の実写偏重の眼差しがあるように見える。

そも、シンプソンズの背景、こと空(特に夜空や夕暮れ)の背景描写はグラデーションをかなり流麗にかけていて、キャラクターと部分的な背景の一致は絶妙に崩されていることが少なくない(もっとも、デジタルに移行してからのシンプソンズはほとんど観てないので現状どうなっているのか分からないんだけど)。

また、わたせせいぞうを引き合いに出していたけれど、私自身は少路を思い浮かべた。というのも本作のザ・田舎な田園風景は冒頭のタイトルバックでぐーんと動くカメラに捉えられるのだが、その中心には巨大なショッピングモールが鎮座しており、その屋上と思しき場所でチェリーらが話し込んでいる風景などは、色味の強い色彩設計も相まって田園やそれを取り囲む山や空を相対化しているように思える。

宅内では開放的なデザインのスマイルの家も、団地の一部屋でありこじんまりとしたチェリーの家も、すべてフラットに描かれることでスケールを同質にして、部屋・建物といったそれらの閉塞した空間こそがむしろ魅力的に映る。私には。ていうか空とか山とかよりも廃墟含め建物観てる方が楽しいでしょ(暴論)。

 

絵そのもの以外にも特徴的なものがある。それは何気なくかつここぞというときに使われるスプリットスクリーン。

スプリットスクリーンの使い方はそれこそ「500日のサマー」のようで、別の場所にいながら二人が同じ挙動をする空間越境的ダイナミズムは普通に良かったし、それをクライマックスに持ってくるのも気が利いてる。端的に世界から二人だけが切り取られ、やぐらの上とその下、という空間的な上下の隔たりをこのスプリットスクリーンの演出によって同じ地平に立たせるのも良い。

(余談だが実写版「ちはやふる(の上の句だったはず)」で不満だったポイントも、この演出を使えば良かったのだなと、振り返って思う)

で、実質的に二人の一対一のコミュニケーションになっている(スマイル側に祭り客がいるのだが、全員花火の方を向いているのでチェリーの方に意識が向いていない)がゆえに、チェリーは俳句を詠むことができたのだ、という理屈をつけることも可能。だが、まあそこは普通に彼が頑張ったからということで手を打つのがよろしいのだろう。無粋だしね。

でもまあ、「歯」と「葉」の部分は「は」にした方が良かったのではないだろうか。

という感じでロマンス、青春グラフィティとしては楽しかった気もするのだが、それとは別の位相で腹立たしいことがある。それが冒頭の意地悪な物言いに繋がる。

 

それはコンプレックスの問題だ。

「竜とそばかすの姫」でも感じたが、というか多くの創作でそうなのだろうが、キャラクターの抱える容姿のコンプレックスはそれが裏返されチャームとして踏み台にされるものとしてしか描かれない。チェリーに関しても、お前それ葉くんの前でも言えんの、という。

これは私が都度都度主張しているのだが、醜を美に回収すること、弱さを強さと言い換える欺瞞・強者の理論がルッキズムやマチヅモを温存させるんじゃないか。

痘痕も靨じゃねえ。痘痕があっていいじゃんか。いやそれが困難だってことは身に染みてわかってるけども。

 

そういう既存の「そうある」ことに乗っかることの偽物の無謬性は、スマイルの求める「カワイイ」に代表される。「カワイイ」は「KAWAII」に直結し、グローバルに敷衍されるその概念は「カワイイ」もの以外を捨象する。それは今時の、というか今昔の若者(とりわけ女子高生)のリアルなのだろうが、それはスマホを通して世界を認識するバーチャルなリアルでしかない。だからこそ最後に意味があるともいえるのだが、それはしょせん「やまざくら かくしたその歯 ぼくはすき」という他者に肯定されることでしか解消されえない。

「ぼくはすき」じゃねえ。お前に好きだと言われるからなんだというのか。誰かに肯定されないと出っ歯は存在してはならないのか? 

まあ、アニメはデザインされたキャラクター=記号であるため、本質的にこの問いに対して答えることは不可能なんじゃないか(肉体としての身体性の不在)という気もするのだが。

 

今回はちょっと野蛮な物言いが自分でも抑えきれてないのだが、別にこれはこの映画に限ったことではない、それこそ自分の中のコンプレックスによるところが大きいので共感なんてされないし、して欲しいとも思ってないが(そもそも共感原則を疑ってるし)、見るタイミングによってはそんなこと思ってなかったかもしれない。

俳句を詠むという婉曲表現(つってもかなり直截的だが)それ自体は肯定したいが、そのふわふわした感じが私が指摘する問題にもつながっているような気がするので煩悶とする。

 

とはいえ、やっぱり最初に書いたように青春映画としては面白いしテクい部分もあるので私のようなこじらせ人間じゃない人はストレートに楽しめるはず。

 

あとCV山寺の擬態力すげぇっす。途中まで気づかんかった。それと、すごいどうでもいいんだけどSNSで親と相互フォローとか地獄では。

 

志乃ちゃんは自分の名前が言えない

これをNHKが8/31に放送する文脈も含めてあまり好きではない。原作をほぼなぞった感じだが、そもそもとして私は押見修造があまり好きではない。特に自分自身の最近のモードがそう感じさせる。

で、原作ほぼそのままのこの映画だが、マンガと違って音がつくことでその分の迫真さは獲得できているとは思う。その意味で実写化に意味はあったとは思う。

アリスとテレスとお前はおかん

というわけで試写会で「アリスとテレスのまぼろし工場」を観てきた。

これタイトルがいまいちしっくりこないんですけどね、未だに。アリストテレス要素はキャラクターが「ある哲学者が”希望とは、目覚めている人間が見る夢である”と言った(意訳)」てなことを発したくらいで、アリスが出てくるわけでも(百歩譲ってあるキャラクターが別の世界に迷い込んでくるという部分にフォーカスすれば不思議の国のアリスとして見れなくもないけど)、ましてテレスというキャラクターが出てくるわけでもないので。まぼろし工場はまあわかるけど。

 

という余談はさておき。

わたくしはマリーを熱心にフォローしているわけではないのですが、ある程度深夜アニメに触れていると彼女がメイン脚本だったりシリーズ構成を担当していた作品を必然的にいくつか観ていて、最近でもBSで再放送されてる「とらドラ!」とか「ウィクロス」とか今や話題にすらならない「M3」とか、劇場作品でも確か「ここさけ」は観た気がする(けど記憶にあまりない)。ほかにもいくつか知っているのがちらほらあって、まあ売れっ子脚本家であることは違いない。

で、愚者なりに経験則から感じるのはなんとなくこの人の脚本て(特にオリジナルの場合)人間関係がドロドロしていることが多い気がするということだ。昼ドラみたいな展開を思春期のガールズ&ボーイズにやらせたり、親子の間(あるいは親同士)の間で問題を抱えていたりとか。そして、そういったティーンの視点から見た性に対する関心が見える。どこかむっつりっぽいというか興味津々というか。本作にもそれらの特徴は見られる。とはいえ、レファレンス乏しすぎて片手落ちな印象論でしかないのですが。

ただ私にとって岡田麿里というのはそういう作家と認識してはいるくらいに作家性なるものがあるタイプだと思っている。

前述のように脚本家としては知っていたのですが、監督作については知らず、てっきりこれが初監督作品だと思ってたのですが5年前にすでに長編アニメ監督デビューしていたのですな(無知)。とまあ、このことからも分かるようにマリーに関してはそれくらいの熱量でしかなく、特に過度な期待も不安もせず比較的フラットに見れたと思うのだけれど、結構面白いアニメだと思いましたですよ。

 

個人的に特にツボだったのは廃墟というか廃工場(…ではないのか、一応)。冒頭の出来事から点検などはされていたようだが稼働はしていなかったっぽくて、まあでも普通に廃工場な見た目なので廃工場でいいと思うのだが、そこのディテールが良い。全体図が見えるような鳥瞰視点とかあればなお良かったのだけれど。bingの画面で観たことあるようなのとかあったし。おそらく明確な参照元があると思われるのだけれど、パンフが出たら載ってたりするのかしらん。

で、そこが山間部っぽい田舎というのも良い。「田舎はクソ系」の映画として閉塞的な空気感(というかマジで世界ごと閉鎖されるんですが)と廃工場の寂れ具合がマッチしておる。これ本当かどうか知らないんですが、もしかしたら小説の方に書いてあるのかもですが、舞台が1991年らしくそうなるとマリーがちょうど中学生の時期であり彼女が秩父というド田舎出身であることを考えるとかなりプライベートなものが入り込んでいるんじゃなかろうかと勘繰りたくなる。

じゃあこれは私小説なのかというと別にそんなことは多分なくて、むしろこの映画で描かれる少年少女たち(厳密にはそう言い切れないのだが)の在り様を見ていると、それはむしろ今を生きる若者に対する「両論併記」の訴えに思えるわけです。厳密には若者だけではないというか、むしろこの映画でいえば大人こそがそのような在り様を率先しているわけですが。

では何を訴えているのかというと「安定志向、現状維持」の(非)永続性、あるいは不安定性であり、その対としての「変化」を並置させようということ。

「安定志向」とは、とりわけ日本の今の若者に見られる傾向であることは都度指摘されることで、リスクを避けチャレンジ精神が少なくコスパを重視するという。あくまで相対的な見方でしかないと思うが、少なくとも去年から一昨年あたりまでの若者の自民党への投票率などがそれを示す一つの指標として持ち出されることを考えるとあながち間違いでもあるまい。

その在り方は劇中の中学生たちに表象され、しかしそれは当初否定的な世界観として描かれる。主人公たちが否応なしに住まわざるを得なくなった「まぼろし」世界の季節が冬のままであること、冬とはつまるところ生命の育たない季節であり、まさに時間の止まった、停止した=永遠の=無痛の=死の世界なのであるということに他ならない。同時にそこはバーチャルな世界でもある。

 

それに対して劇中で描かれる「現実」の世界の季節は夏=生命に溢れ=動的で=有限な世界であり、「まぼろし」世界で経過した分の時間がはっきりと表れている。要するに冒頭の事象によって停止した世界とそのまま進み続けた世界とに分岐した、ある種のマルチバース的なものだと考えるのが昨今の流れを考えると理解しやすいだろうか。

生=変化=現実であり、生命=熱を帯びた季節として現実世界が夏であるのだが、しかしこの映画の言辞を借りるなら現実にこっちの世界が侵食されるとはまさにこのことで、よりにもよって世界新記録の暑さを記録した今夏は、その暑さによって死人が多発したことを考えると、やはり現実はクソでありバーチャルな「まぼろし」世界の方がいいじゃねえか(そうしたのは他ならぬ人類なのだが)と言ってしまいたくなる。

まあ、バーチャルはバーチャルで痛いものに溢れているし、実際に心の痛みと体の痛みは脳内では同じ処理をされるということを考えると決していいもんでもないと思いますが(経験則)

 

けれど「まぼろし」世界の永続性というのは極めて脆いものであり、何度も世界に亀裂が生じてしまう。その上世界そのものがその場その場で修復されようとも、そこに住む人々は大きく心が動かされてしまうと当人に亀裂が生じ、世界の修正力=神機狼(どうみても龍だろオイ)に飲み込まれ事実上の死を迎えてしまう。

その心の動きとは恋慕だったり将来の夢だったりするのだが、それ自体というよりもむしろその喪失(失恋、夢が実現しない現実による絶望)によってこそ心は大きく動かされ、それが世界の働きによって「修正」されてしまう。恋愛リアリティショーも真っ青な、恋愛に敗北した者は死ぬという容赦のなさはちょっとぶっ飛びすぎて笑ってしまいましたが。

ここがマリーのダークな部分だと思うのだが、失恋によって「修正」されるキャラクターとは別に、主人公二人を覗いて恋愛が成就するキャラクターがいるのだけれど彼女たちは「修正」されないのだすな。このことは、「正」の情動よりもむしろ「負」の情動の方が世界に(そしてセカイ)に与える影響が大きいということだ。少なくともマリーの中ではそういうことになっていると考えられる。だからドロドロしたものばっか書いてるのだろうか(偏見)。

 

で、ひたすら「変わらず」「現状維持」を固持しようとする「まぼろし」世界の人々に揺さぶりをかけてくるのが「現実」世界から迷い込んだ少女(というか当初は幼女)の五実なのだが……ぶっちゃけどうなの、このキャラ?

狼少年(野生児)と神機狼を照合させたいのはまあ、それ意味あるのかどうかは置いておいて言葉遊び的なアレなのねというのは分かる(というか睦実の義父がそこからこじつけたのだろうが、設定的には)。わざわざ正宗に「サルというより狼みたい」と言わせたり。

そういうイノセントな属性を持ったキャラクター(大体白のワンピース着てる)の扱いはさておき、この五実がかなり厄介なキャラクターで、「現実」世界の正宗と睦実の娘で、かくかくしかじかで「まぼろし」世界の中学生で時間停止した正宗に恋をしてしまい、あげく正宗と睦実の濃厚キスシーンを目撃してしまいその心の揺らぎで「まぼろし」世界にでっかい亀裂が入るという面白場面を導く存在として描かれるのですな。

(余談だが、マリーは「荒ぶる季節の乙女どもよ。」でも幼馴染のオナニーを目撃するという場面を描いていて、単なるギミックとしてよりも何かそういうのに対するオブセッションでもあるんじゃないかと思うのだが)

BTTFの近親相姦ネタに両親のセックスシーンを見てしまったイノセントな娘という性癖爆発シーンで思わず噴き出したのですが、これのために五実は無垢性を帯びさせられたのではないかと勘繰ってしまうほどです。いやもちろん物語的に巫女をこじつけられてしまうので無垢性が必要だったためにああいう描き方をされたのだというのは理解しているけれど。もっとも、その無垢性というのはある意味で本質的なものではなく「イノセントな存在であれ」という家父長制の欲望によって虚偽的に作り出されたものなのでちと違うのだが。

でも睦実はあれだけ長い間世話をしていたのだから言葉を覚えさせることはできたのではないだろうか、とか色々思っちゃうんですよねぇ。少なくとも10年は経過してんだから言葉は教えられたろ。あと惚れさせたくなかったなら男連れてくなよ!とか。だから正宗の外見の女性性を強調してたんだろうけど、これもこれで疑似百合的なシーンを描きたかっただけなのではとか邪推してしまう。最初はヤングケアラー的な在れかと思ったけど別にそんなことなかったZE。

 

色々あって五実を現実世界に返そうとする派とそれを拒もうとする派による対立が生じて、この辺の一連のアクションシーンがシリアスな笑いが結構あってその意味でも必見なんですが、中学生の身体のまま少なくとも精神的には(主義に反するが心身相関をこのさい度外視して)成人している正宗たちのカーチェイスが文字通り車で行われるというのは一考の余地がある。

それは「キッズ・リターン」であの二人が自転車を乗っていたことの裏返しだからだ。あの映画において自転車とは若さ・未熟さ(=脆さ、儚さ)の象徴としてあった。

翻って本作では中学生連中が手繰るのは自動車だ。それは本来、大人が使うものだが、停止した「まぼろし」世界においては青春は無限に延長されその刹那性を予め封殺されている。だから最後まで自動車なのだろうと思うとやるせない。

正直、クライマックスはいろいろとなあなあになって感が否めないのだけれど、「好きな人と一緒にいたい」というあるキャラクターの永遠への願望は、正宗と睦実がそちらに傾斜することの布石ではあるし、二人がそちらを選択し、一方で五実を「現実」世界に返したことで「トイストーリー4」的な両論併記に持って行ったこと自体はアリだとは思う。

まあ「その選択って悪役と進む道が同じなんだけど」とか「正宗の叔父がセカイ系主人公と化してるんだけど(だから兄貴に負けんだよおめーはよぉ)」とか、土壇場で実の娘にマウンティングして勝利宣言する母親=睦実とか、どうかと思う部分はあるのだけれど、それも含めてこういうねじくれた感じは大歓迎。笑えるし。どうでもいいが親父と叔父の声優が瀬戸康史林遣都って、趣味が出てませんかね。特に叔父がああいう役回りっていうのが。

 

そういう楽しい部分はさして気にならないし、映画にドライブできるのでいいんだけど、普通に気になる部分もある。

 

たとえば設定として時間が止まっている(劇中的に言えば「季節が止まっている」)ので、長期的スパンの時間経過がすごい分かりづらく、そのせいで登場人物の関係性も分かりづらい。特に睦実と園部の関係性はいじめとはいかないが陰湿な行為を双方向的に行うものであったけれど、睦実自身は園部のことをかなり近しい友人だと思っていたように描かれる。しかし、いかんせん二人の間柄、さらに言えば正宗と園部に関してもちょと飲み込みづらいかなと思う。

ただ好きになった理由というのはそもそも明確に描くべきかどうかというのは私自身も疑問には思っていて(それこそがむしろ作為的過ぎるので)、やっぱりこれに関しては自分確認票も含めて、セリフでなくてもいいのでもうちょっと明示的に無限反復であることを示した方が良かったのではないかと。「中学生が車を運転している」という絵面がある意味で説明ではあるんだけど。

まあこの辺は細かくつつきだすと本当にドツボなので(身体の恒常性がどの程度なのかとか)この辺にしておきますが。

 

あと細かい部分だけどカーチェイスパートの、カット割ったら一瞬で平然とバンに乗せられてる五実とかは、もっと編集の仕方あったでしょう。アニメだと作画作業増えるのでおいそれと編集でどうにかできないのかもだけど。

 

まったくの余談2だが、「AIの遺電子」で恋愛感情を捨てたいヒューマノイドの話が出てきたりして(レズビアンという設定なのでこちらとはちょっと外装が違うんだけど)、恋愛感情の排斥というのが効率化のいきつく果てなのかと思うと荒涼とした未来しか見えない。その荒涼とした風景とトー横界隈の、恋愛よりも先に性交を経験するということの問題系を投影することも可能だろうと思う。

 

色々書き綴ってきたし思想的に相いれない部分も結構あるのだけれど、なんだかんだで勢いで持って行ってくれる映画ではあると思うし是か非で言えば割と是よりでございます。

 

無垢者たち

各所で「童夢じゃねーか」「童夢だこれ」というのを聞いて公開終了前に観てきた。

いうほど童夢かな?と思いつつ明らかに狙ったカットがあって「童夢だコレー!」となったりしたのは事実だ。

みなさんはもうお忘れかもしれないが今から10年前(!?)に当時新進気鋭(と言われたかは知らんが)のジョシュ・トランクが監督した「クロニクル」という映画があった。彼のその後のキャリアは惨憺たる…というとさすがにアレだが、ともかくあれも「AKIRA」だと言われていたのを思い出す。

しかしあそこまで派手でもなければ、思春期の自意識を巡る葛藤のようなものが描かれることもない。超能力を扱う人物がティーン未満(わざわざ9~11歳と設定していることからもかなり意図的)の少年少女であるゆえ、もっと幼稚で単純な感情を動機としている。これがメリケンと北欧の違いなのだろう。マコーレ・カルキンの「危険な遊び」みたいな即物的な方面のサイコスリラーに行きがちだし。

どことなく「ハート・ストーン」を思い出したりはしたんだけど、あれはアイスランドでしたか。あっちはあっちで別に超能力とかないしティーンの自覚を持ち始めた少年の話だから違うんだけど、やっぱ土地柄的なものもあるんだろうなぁ。

閑話休題

劇中で超能力を使う子どもたちは皆、何かしらの傷――という言い方は確実に不適切に思えるというかそれだとアンナが疎外されるのでここでは「聖痕」と書くけれど――を持っている。それによって適切なコミュニケーションを取ることができず、そうであるがゆえに超能力というコミュニケーション手段を得たのだと思う。

けれど、そうだとするとアンナが生き残ったのは、彼女の超能力がアイシャやベンのように「傷」を根拠にしていないからなのではないかと逆説的に思えてくる。アイシャとベンの超能力の発露の仕方というのは、共感とケア・支配と強制という方向性の違いは明確にあるけれど、どちらも孤独と疎外感の埋め合わせとしてあるように見える。そうでなければああいう家庭環境の描き方にはならない。

翻って、アンナはそういうものに依らない。きっかけがアイシャであれ、彼女の佇まいは生来のものであるはずで、超能力によって(防衛目的や純粋な遊び以外で)他者をどうこうしようとはしない。ある種の「開かれた」状態にある。

四人の中でもっとも俗っぽく超能力を持たない一般人代表イーダが最も観客に近しい存在で、無垢であるがゆえに善悪に偏らないのではなくどちらにも傾斜しうる存在としてのアイシャとベンの代わりにそのどちらの偏りを行ったり来たりする。

そんな彼女が最後に覚醒し、姉のアンナと手をつなぎ共闘する場面は、スペクタクルもなければそんな熱いバトルマンガじみたものでもないのにやはりアガるものがある。

あと「真打登場だぜ」みたいな、マンガだったら「ドン★」みたいな効果音ついてそうな登場シーンとかあって、ギャップに思わず吹き出しつつもこういうのをてらいなくやってくれるのはグッとくるので好印象。

 

ロケに関してはノルウェーの住宅事情がどういうものなのかわからないので、「童夢」がそうであったように日本における団地という空間が持つ特殊性(ホラーやスリラーで選ばれやすい理由)と直結させるのは難しいが、少なくともこの映画においては団地の各部屋の同一規格性というものが「超能力を使った」描写をより分かりやすくしているというのはある。

別々の空間にいながら間取りが同じであることで、片方の部屋の台所で起きた出来事をもう片方の部屋の超能力者が同じく(何もない)台所を確かめるなど、空間の超越を分かりやすく描いている。

色調含め撮影も巧みで、ベンが幻覚を見せているパート以外はそこまで極端にすることもなく、ノルウェーは日が落ちるのが22時ということもあって常に一定の明るさを持っていて、その明るさのスペクトラムが良い。

派手さはないものの子どもに寄り添ったカメラと団地+森の中で捉える際の引いたカメラ、超能力殺人によるサスペンスや音(音楽だけでなく。ベンの嘱託殺人パートなど)の使い方も上手く、飽きさせることはない。

ただスラッシャー映画などと違って怪我や痛みの描写が生々しくて結構エグいのでその辺は耐性がないとちょっと気分が悪くなるかも。猫好きの人はかなり気分悪くなるだろうし。

 

あとこれは難癖なのだが、キャスティングについては思うところがある。この映画についてというよりも社会全体の認識と現実問題としてのギャップについてなのだけれど、要するにある設定(というか属性)を持ったキャラクターを登場させるにあたって、その設定を実際に持つ当事者に演じさせるべきだという問題。

それ自体についてはまあわかるのだけれど、ジェンダーや身体障碍については考慮される割に、精神障害についてはそもそもあまり俎上に上がらない気がする。だから、それを議論するにあたって、法律用語で「心神喪失」なんてものがあるように、そもそもメンタル系の人は役を演じられるのかという、それこそ今回のように自閉症という状態の当事者に演じさせることは可能かという別のフレームの問題にぶちあたるわけだが、しかし前述の属性を付与された人に比べるとここはそもそも顕在化すらしていないような気がする、というのを監督のインタビューを読んでいてふと思ったのだった。

トランスフォーマー ビースト覚醒

観た。字幕で。

TFに対する偏愛がある自分にとって日本のプロモーションの醜怪ぷりにげんなりしているため、最推し声優の玄田哲章のためとはいえ吹き替えを観に行くかどうかは悩みどころではある。というか本国から二ヵ月近くズレて公開って。遅すぎ。その代わり(?)が芸能人吹き替え&ジャニーズ主題歌ですか? あまつさえ「声優無法地帯」だのと、またぞろファンダムのくだらない内輪ネタを公式が拾って宣伝に使うという始末。もうね、公開前からこっちのモチベーション下げるのやめて欲しいですわ。

という、こじらせた厄介トランスフォーマーオタクの意見がどれだけ参考になるのか甚だ不明だが、はっきり言えば「まあこんなもんだろうな」という印象。

トランスフォーマーファンとしての自分が映画好きとしての自分を凌駕してくることはなかった。「No Sacrifice, No Victory」「Arrival to Earth」が流れた時は込み上げるものがあったことは白状しておきますが。

つまらないか面白いかでいえば面白い…というか楽しかったし、少なくとも寝落ちすることはなかった。

とはいえ、イースターエッグやら小ネタを拾う以外にこの映画の中身とは一体なんなのか。まあ、それが既存の巨大なフランチャイズであることを除けば毎年公開されるハリウッドのビッグバジェット映画の一つでしかないと言ってしまえばそれまでなのかもしれない。

マイケル・ベイの方に関しては、少なくとも一作目に関しては当時のCG技術の革新をした映画であったことは事実であろうし、それを以て語ることはできただろうし、ある種の作家性やライド感みたいなものを取り上げることはできるだろう。

しかしスティーブン・ケイプル・ジュニア(以下SCJ)に関しては「The Land」は観てないし「クリード2」に関してもまあまあ楽しかったけどそこまでハマったわけでもなく、その作家性から語ることは困難で、実際にSCJの作家性よりも「トランスフォーマー」というフランチャイズの巨大さに飲み込まれているような印象は受ける。

それと、これは監督の作家性というか彼がラテン系・アフリカ系アメリカンであるがゆえの無意識のものなのかもしれないが、本作において明確に描写こそされないものの「これ絶対に死んでる(もしくは瀕死)だろ」という被害を被っているのは、揃いも揃って白人男性なのだ。たとえば、この映画には警備員が二人出てくる。片方は黒人男性でもう片方は白人男性。別々のパートで登場する警備員であるため直接的な関係性は両者に存在しないのだが、黒人男性の方は主人公ノアを車泥棒と思い込み(実際にそうなのだが)銃を向けるのだが、ここで彼が被害を受ける描写はない。

一方で、エレーナ(ドミニク・フィッシュバック)の務める博物館の警備員は白人男性で、彼女を助けるために駆け付けたにもかかわらずテラーコンの攻撃による爆発に巻き込まれてします。既述のように直接の描写はないが、どう考えても死んでいなければおかしい描写である。また、窃盗犯としてノアを追うパトカーの運転手も白人男性なのだが、大型トラックに突撃されたり分離帯に正面から激突したり、明らかに致死的な描写がある上に、博物館の件とは違ってこちらは味方側であるミラージュによる作為的なものである。

そういう職業に就くのは大概白人男性だ、という言い方もできるのかもしれないが、それだけで片付けるにはやや偏りがあるように見える。

主役二人を演じるアンソニー・ラモスとドミニク・フィッシュバックも監督と同じ人種であることを考えると、監督には少なからず「人種」に対する意識はあるはずだ。まあ日本では放送していない現行のアニメシリーズの方では黒人の少年と少女が主役であることを考えると、そちらと合わせる(アニメシリーズと映画の方で名前を合わせたりすることなどはこれまでもあったので)ためというだけで、どこまでSCJに采配があったのかはわかららないけれど。

別にそれがこの映画の瑕疵であるとかモヤモヤするとか言いたいわけではない。ただそういう視点を与えるような描写があるということは指摘できるのではないだろうか。問題があるとすれば、そこから私が監督の作家性といったものにつなげるだけの発想がないということだけで。

ストレートな熱さ、愚直さみたいなものはあるし、それはアニメシリーズ「マイクロン伝説(Armada)」のオプティマスプライムが「勝った方が正義なのではなく、正義こそが勝つのだと!」というあまりにも青臭く、そうであるがゆえに心を打つあのストレートさに通じるものはあったとは思う。

ただ、これは技術的にかなり難しいがゆえでもあるのだろうが、ビースト勢がメカアニマルではなく完全に獣であればまた違った映像的革新があったのかもしれないということと、それによって人間(有機生命体)ともトランスフォーマー(無機生命体)とも違うハイブリッドな存在としてのうま味をより強調でき、かつ環境論的な(ラブロック的な)観点からも色々と語り得たのではないかとは思う。

まあどっちみち彼らの生体が具体的にどういうものなのかというのが分からない以上はそれも難しいんですけど。

 

観なおしたらまた評価変わるかもしらんがとりあえずこんなとこで。

 

 

 

2023/7

青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない」

なんというかこう、ゼロ年代後半~10年代前期の空気感とキャラデザ(と劇場版とは思えない低コストな作画)で、それだけでノスタルジーが刺激されてしまうのですが。

よく考えたらこういうラブコメ(コメ?)って20年代に入ってからどれだけあるのだろうか、という感慨もあって、ラブコメ自体がそもそも減っているのではなかろうかとか思ったり。若者の恋愛からの後退というのはよく言われるし、それ自体が人間性にかかわる問題として取り上げられることもあるが、それはさておくとして、ここまである種の決断主義的なことを主人公が迫られるというのは最近の日本アニメでは観てない気がする。少なくともテレビシリーズでは。

量子力学については「それってそういうことか?」と思わなくもないが、やってることはいわゆるタイムリープものやBTTFとかのあれに近く、終盤からラストにいたる展開についてもまんま同じのをどこかで観た気がするのだが思い出せない。

この映画の描いていることというのは、要するに「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」「ザ・フラッシュ」のような「自己決定」による「運命の受容」に連なると思うのだが、しかし本作では量子力学を取り入れているにも関わらず周到にマルチバース的な並行世界の概念を隠蔽している。それこそがBTTFにおける「「いま、ここ」の否定」問題となるわけだが、あくまで「青春ブタ~」においては徹底して「いま、ここ」として描き続ける。いや、多分これだけではなくそれこそが日本アニメ的な特徴なのではないか。

それは、この映画(および原作)のタイトルの「青春」というキーワードがもたらす思春期の若者の自意識への固執によるものなのではないかと思ったり。細田守の「時をかける少女」にギャルゲー的想像力を注入したのが本作とするならば、私が感じたジュブナイル風味も頷ける。

まあ、ある種の決断主義の完徹にもかかわらず、ちゃぶ台返し的なラストはどうかとも思うが、ハッピーエンドとしては満点な気もする。そのせいでどっちを取るのかという問題が再発生しているのだが、それも隠蔽されているあたりは周到である。

で思い出したけど「メモリーズ・オブ・ノーバディ」だこれ。

 

プリンセス・プリンシパル(第1章・第2章)」

架空年代記のイギリス舞台のチャーリーズエンジェル…にしては割としっかりエスピオナージュぽくしてて、なおかつスチームパンク風味という。

ただテレビシリーズがあったことをまったくこれっぽっちも知らず、侍従長のあたりとかキャラクターの設定とか全然わからなくて話についていけんかったです。

 

「リッブヴァンウィンクルの花嫁」

疑似家族というか似非家族というか、何なんだこの感じは。前半はなんかもう見るに堪えないというか、岩井俊二ってこんなSっけあるんか?というくらいメンタルダメージが。観てるこっちが辛いというか、共感性羞恥というか、黒木華のたどたどしさや幸薄さに対するいら立ちに似た何か(それは自分を顧みてのことでもあるのだが)などなど、ともかく感情が揺さぶられまくる。まあ学校でのこと以外は綾野剛がかなり関与しているっぽいが…ていうか綾野剛の胡乱でうさん臭い感じ半端じゃない。そのくせ最後まで関与し続けるわラストに至ってはなんかさわやかな(服装の色味が前半と後半で違うのは割と意図してるのだろうが)感じなのもかえって得体の知れなさが増すという。真白の母親の前で泣いていたのもあれは演技なのかガチなのか。ともかくこいつの存在感が半端ない。このうさん臭い綾野剛を見れただけでも割と満足感高い。

しかし「シャニダールの花」での二人を先に観ているとこれはなんか変なものを見せられている感覚が。

あと、明らかに観客に対して窃視の共有のようなものを意識させるような造りになっている。まんまAVの構図やんけ、というホテルでのくだりは、本当に綾野剛がカメラを仕掛けていたわけだし、中盤で真白が「天井で誰か見てたりして」という発言があってからの、二人のウェディングドレスベッドインをまるで天井からのぞき込むかのように真上からの俯瞰ショットで長回しでズームしたりアウトしたりというように。

そうでなくとも、このカメラワークはどことなくドキュメンタリータッチでもあり、それがより「見ている」感覚を増幅させている。

Cocco黒木華レズビアン(ではなく、限りなく百合)の関係性の尊さは本当にてえてえのだが、ああいう形でしか描けないというのが弱さでもあるという気がする。

いやでも面白かった。

 

「プックラポッタと森の時間」

やはり八代監督は良い。無論、彼が初めてというわけではないのだろうが、ストップモーションの撮影上、屋外での撮影の場合だと現実の時間の流れ(雲、影、日差し)が被写体となる人形の時間と異なる。なのだが、それこそが被写体である人形が、我々とは異なる身体を持ち、現実と異なる時間を「生きる」ANIMATEDされた存在であるということをそれだけで見せてくれる。それをモノローグで語ってしまうのだけれど、その語り自体はあくまで「語り」であり説明的ではないのでアリアリだし、子供向けであることを考えればこれくらいがちょうどいい塩梅。

本来はそれは悪手なのかもしれないが、精霊(とは言われてないけれど)的なsomethingを描くのにはその方がむしろリアリティがあるとすらいえる。

途中でセイヨウタンポポをプックラポッタが斬首するシーンがあるのだが、そこで糸(というか針金)が消しきれてなかったのが惜しかった。

 

30年後の同窓会

さすがリチャード・リンクレイターといったところ。少し鈍重な感も否めなくはないが、そこはフィッシュバーンとカレルとクランストンのおかげで問題なく観ていられる。ていうか、サルがブライアン・クランストンだとは全然気づかなかった…この人こんな野蛮さが表に出る感じのイメージがなく、もっと内向的というか自己省察的な感じの役柄のイメージがあったので…なんならブラッドリー・クーパーにすら見えていたくらいなので。フィッシュバーンについては暴言を吐きだしてからはもう「よ、悪罵屋!」といった風でもう定食屋の定番メニューみたいな安心感が。

まあ、とにもかくにもこの三人のアンサンブルの勝利。「さらば冬のカモメ」の原作の続編を原作にした(ややこしい)映画ではあるのですが、映画の方の「さらば~」とは繋がりがない。とはいえ、やはりオマージュしたようなカットは散見できる。あれもあれでかなりの傑作でござんした。

個人的にグッと来たのはベトナム戦争イラク戦争を一作の中で繋いだことだ。どちらの戦争も米国の欺瞞によるところが大きいことについての一兵卒(軍曹だけど)たちのポリフォニー、ナラティブを通して、しかし最後はそれでもなお亡き息子の意志を(結果的に)尊重する父の、マチズモの肯定と否定、戦うことそれ自体の意義(イーストウッドイズムである「国のためではなく仲間のために戦う」ということ)への言及。

ベトナム戦争時の売春宿の話などは、もちろんリンクレイター自身も倫理的に許されざるものであることは理解しているだろうが、それでもあの四人の楽しく話す様をどうして否定することができるだろうか。それはオリバー・ストーンが戦場や疑似的な戦場(スポーツ)において描いてきたものの延長線上にある。

だから、同じ過ちをおかしながら、その生き証人としての老兵とその息子の死によって紡がれるベトナム戦争イラク戦争の「いたみ」を、その多面性を臆面もなく、メタな分析的な視点ではなくその当事者たちの声として(もちろんフィクションとしての劇映画ではあるけれど)描いたことは一つの達成なのではないかと思う。

 

メメント

今更。なるほど、これは確かに巧みな脚本で前情報なしで観ていたこともあってかなり混乱をきたしました。しかしWikipediaが妙に力入ってるんだけどなんだこれ。図説まであるし。ノーランは映画と時間、というよりも映画の時間(をどう切り取るか)を常に問い続けてきた映画作家だと思うのですが、もちろんそれは映画を扱う上で多かれ少なかれ誰もが行うことだとは思うのですが、遡って観ている感じになるのでキャリア初期からこういうことをやっていたのだな、と。

それが裏目に出てしまったのが「ダークナイト ライジング」だったんだな、と。

 

落下の王国

ターセム・シンだったのね、これ。

ロングロングアゴーからわかるように、「映画」を、おとぎ話の中のおとぎ話とい体裁で語る映画のように見えた。

ある意味で映画史の映画であり、しかもそれをおとぎ話の産物として、アクション、映像としての映画として称揚するという。

衣装も含めプロダクションデザインの勝利としかいいようがない。

 

テリー・ギリアムのドン・キ・ホーテ」

夢の継承、というより物語の肯定。制作の困難さを考えると、この映画自体がこの映画の制作過程そのものなのだろうと思わざるを得ない。

それでもなおギリアムは現実を超克する物語の強さを信じ続ける。というのがとても熱い。今はその「物語」がとても弱い立場に(というか、ヤバい方向に強烈に)作用してしまっているのだけれど。そういう良し悪しや善悪という部分に回収されない物語の強度をギリアムは信じ続ける。

(このクソみたいな世界で)君たちはどう生きるか

観てきた。「君たちはどう生きるか」。ジブリ弱者にもかかわらず。

思えば、劇場でジブリ映画を観た記憶がないことに思い至り、おそらくは宮崎駿の劇場公開の長編アニメとしてはこれが最後になるであろう作品でジブリを劇場(ほぼ)初体験という。

だというのにジブリ映画は大体の作品について観た記憶があるというのは、それだけジブリというブランドが人口に膾炙しているということの証左であり、それがほんの30年前までアニメに対する偏見がある中でもジブリやディズニーは別という治外法権の扱いを受けるだけの力があったということなのでせう。

つまり、アニメーションの力というだけでなく「教育的によろしい」という、ある種の政治的な在り方の下(そこには彼の才能だけではなく時流や徳間の戦略も多分にあるはず)でそのように受け取られたという見方もできるのだろうが、その実、宮崎駿の世界観というのはもっとグロテスクに現実を捉えるものとしてあるはずで、それはもちろんアニメーションのダイナミズムとも密接に繋がっていることは確かなのだろうが、今回の「君たちはどう生きるか」を観て改めて思ったが、宮崎駿のアニメには毎度毎度かなりおどろおどろしい描写がある。

また、宮崎駿という男が半ばネタ的にロリコンと揶揄されることもあるのだが、火のない所に煙は立たぬわけで、山本直樹などを例に挙げるまでもなく、深夜アニメ的な少女趣味の根っこ部分には間違いなく宮崎駿の撒いた種があるわけで、その辺を乖離して受容する世間の在り方というものにはまあ色々と言いたいこともないわけではないのだが。

でもジブリ弱者の自分はまともにジブリ映画観た記憶ないというか、襟を正して通して観た記憶というのはないので、その手の客層と一緒ではあるという自覚はしています。なので以下に書く文言はほとんど戯言だと思ってもらいたい。

 

にしてもである。これどういう映画だ?

歴代の宮崎アニメで一番近いのは「ハウルの動く城」かとも思うが、トンネル(道)を通り抜けると異界というモチーフは(別に彼の専売特許でもないクリシェではあるが)「千と千尋~」ぽくもあるといえばそうだろうか。もちろんそれは表層的な表現の部分であるのだけれど(あと妙にババアが生き生きとしているというのも通じている気がする)、しかし私がこの二作の名前を挙げたのは無論それだけではない。

というのは、その二作というのはそれまでの宮崎駿のアニメとは違う異質なものだったからだ。どう異質なのか、と言われると困るのだが、それは伊藤の「ハウル~」についての評を読むと納得できると思うので賢明な諸兄にはぜひそうしてもらいたい。

そこへ来ると「風立ちぬ」というのもよくわからない映画なのだが(押井守に言わせれば「どう見ても大人のための映画」)、しかし「千と千尋~」「ハウル~」「ポニョ~」と並べた後で、あくまで戦時下の日本という歴史的現実を描き、その中で死の世界を全面展開させたあとの「君たちはどう生きるか」という並びで観ると、いよいよ限界突破したなという感じがする。はっきりいって、物語的な整合性というか説明など一切排している。

上昇・落下によって連なる空・地上・地下というのは初期から通底する宮崎駿のモチーフだが、それと同時に別の位相で夢(の世界、あるいは虚構もしくは異界)と現実というモチーフがあり、特に「もののけ~」までは現実ベースではありながらハイファンタジー的世界観であり現実と夢(魔法とか怪異)が同居していた。

それが「千と千尋~」以降になると、それらは扉や通路といった明確な境目によって分断されるようになった。「ポニョ」は細かい部分をほとんど覚えていないのでアレだが、「風立ちぬ」では夢をそのまま堀越二郎の夢として描き、本作でも塔を通じて異界に行くというプロセスは同じ。なのだが、婆さんたちが語るように、塔は(おそらく)地球外からの落下物であり、かつアオサギが塔の外において言葉を発するように、実のところ夢の世界と現実の世界が地続きのものとしてある。それはとりもなおさず、生と死の世界が地続きのものとしてあるということだ。

宮崎駿作品における死の世界と夢の世界は等値線で結ばれた、ある種のユートピアだ。そのユートピアを下支えするのが、ルロワ=グーランの理論において「~洞窟それ自体がすでに女性であることから説明され、そうであるとすれば、その胎の中に動物と人間をかかえる洞穴とは、動物と人間を生み出し、その死をも生によって克服するところの自然、「大いなる母」のシンボル」として機能する女性の身体、母胎であり母性なのである。というのはすでに指摘されるとおりだ。

そうはいっても完全な理想郷ということではなく、むしろグロテスクな存在としての生命が戯画的に躍動する生の世界でもある。逆に、日常としての現実は眞人の父親や千尋の両親に代表されるような「つまらない」世界としてあり、ここに夢=死の世界こそが生き生きしているという逆転が生じる。それを成立させているのが生命の象徴としての母性なのである、というのは既述のとおりだが、もちろんそのもっと根本部分には宮崎駿が天才的なアニメーターであり世界観を創造することができる才能を持っているから、ということも忘れてはならない。

宮崎駿が女性を描けないというのは散々指摘されているとおりだし、それは性的なモノとしてまなざされるアニメ界隈の少女表象に通じるものであることも確かであるから、フェミニズム的に批判されてしかるべきではあろう。ぶっちゃけ、「バブみ」のルーツって宮崎駿にもあるだろうし。海外では「強い女性」像として逆に称揚されるというねじれが生じていたりもするのだが、それはある意味で宮崎駿の作品がそうであるということの補強として見ることもできるのかもしれない。

面白いのは、高畑勲が死の世界を取り付く島もない徹底して無慈悲な世界として描いたのとは逆、というところだ。高畑の怜悧でありながら倫理的であるところは、だからこそ「かぐや姫~」でフェミニズム的再解釈として受け入れられたのとは宮崎駿はむしろ真逆だったのではないかとすら思える。その正反対ぶりというのは、宮崎駿が監督である前にアニメーターという「無いものに命を吹き込む」性分だからではなかろうか。そして、その才能があるからこそ夢=死の世界をアニメーションできるのだ。そこにこそ高畑はアニメーションの勝機を見出し乗っかったのだろうし。

そういった矛盾を成立させてしまうアンチノミーの作家、宮崎駿は、それだけでなく思想としても自己矛盾を抱えている。ロリコンでありマザコンであるところ、反戦思想なのにミリオタなところ、子供向けといいながら大人を喜ばせる作品を作ってばかり(押井守談)というところなどなど、言われれば得心するものばかりだと思うが、最後の部分に関しては高畑の思想が大いに影響している気もする。

 

話を戻すと、これまで宮崎駿はそのユートピア=夢=異界=死の世界との調和を描いていた、と言える。まあそれは、落としどころを見つけるというようなものであったかもしれないが。

ポニョにしても、重要な要素としての「水(海とか波とか)」という点で繋がりがある。宮崎駿の描く水は物質的で透明感といったものよりも「重さ」を感じさせる絵になっている。そこには「美しさ」といったものはなく(というと語弊があるが)、せいぜいそれにもっとも近しいものとしては「畏怖」くらいなものだろう。しかしその畏怖というのは、「死」が誘発するものにほかならない。元々、イシスのように大地と生命を象徴するものは同時に死を象徴するものでもあると考えれば、それは必然なのだが、「もののけ」におけるだいだらぼっちの水の質感が放つ死の臭いからもそれはわかる。「風立ちぬ」において「空」がそのまま死の世界であることと同じように、なればこそ観客はそこに感情を揺さぶられるものを見出す。

反対に「火」は「生」的に描かれ、本作ではそこに宮崎駿のマザコンかつロリコン趣味を一人で満たすことのできる少女化した母親という一粒で(駿的には)二度おいしい属性すら付与されたキャラクターがお出しされる。それによって、これまでの宮崎作品において「強い女性像」として出てくるものの実は母胎回帰的な欲望によってのみ存在させられていた「機能美」…つまり世間が思うような深夜アニメ的な少女像まんまのキャラクターが登場しさえすることになるのだが。

だけでなく、それに加えて真人の父の後妻になる叔母(!)が登場する。これをどう解釈すべきなのか全然わからない。身重であるという設定も、救出される対象であるという役回りも、従来の女性キャラクターのポジションと一見すると変わりないように見える。

一方で、唯一といっていい物語的要素を担うのもナツコだけだったりする。死んだ母親を忘れられない眞人が、後妻であるナツコを母親として受け入れるという部分。が、普通ならその二人が冒険を通じて関係を構築していくというのが本当だろうが、別にそういうわけではないのだ。そもそも死んだ(とされる)母親が少女の姿で出てくるのも意味不明といえば意味不明だろう。説明もされないし。よく考えたらキリコの存在も謎ではあるんですよね…なんで若返ってるんだよとかどこからきたんだよとか、別人格っぽかったのに帰るときは一緒で帰ってきたらまた婆さんに戻るのかよとか、ともかく整合性という部分を気にしだしたらまともに観てられなくなります。言うまでもなく、そういうことを気にさせずアニメーションに没頭させるだけの力が宮崎駿にはあるので、観ている間は気にならないのですが。

そういう意味で、この映画は「ハウルの動く城」(と「千と千尋~」に似ているとはいえるのだけれど、これまでの宮崎映画とは決定的に違う点が一つだけある。

それは夢の世界の崩壊だ。先に書いたように、これまでは夢=死の世界と現実と折り合いをつける形で両者の均衡を保ってきていた。それが、今回はその夢の世界の維持を明確に自分の意志で拒み崩壊させるに至る。そうして現実に回帰した眞人は、たいくつな「父」(CV木村拓哉なのが笑う)に迎えられ、モノローグによって第二次世界大戦終戦し二年経過したことが告げられる。

最後のカットで父と後妻と幼い子供(おそらく弟?)に合流する眞人を映し、映画は終わる。

これがどういう意味なのか、そもそも意味があったのかどうかすらわからないのだけれど、これが宮崎駿の終活だったのではないかと考えると何となく納得できる部分もあるかもしれない。弟の存在というのも、彼なりの倫理だと解釈できなくもないし。

 

いつも以上にまとまりを欠いた文章だが、この映画自体がそういう感じなので……。

批評が出そろったらもしかしたら追記するかも。しないかも。

 

2023/6

「フィッシュ・ストーリー」

バタフライエフェクトがやりたいのはわかるけど…まあPKに比べればいいか?

 

「柔らかい肌」

何気に冒頭の家でのやりとりがワンカットなのですが。

フラストレーションをためにためてからのラストは最高!

 

「日曜日が待ちどおしい!」

タイトルに比べておどろおどろしいんだよ撮り方が。いやもちろんコミカルに描かれてはいるのだけれど、この唐突な暴力性とその結果の切り取り方が、なんというかこう…黒沢清を想起させるというか。いや時系列的には逆だが。

 

「コーダ あいのうた」

金ローで。想ったより良かった。まあマイルズとのちょっとした衝突パートはあまりにも手順的かつクリシェ的だし、別に仲直りという理由付けがなくても湖ダイブのくだりはできただろうからその辺はちょっとどうかなぁ、と思う。どうかなというかいらないのでは、というか。

色々な側面から切り取ることができるとは思うのですが、ヤングケアラーの問題として観た場合、身体的な介助がないという点ではまだ身体的負担は少ないのだろうと思うのだが、あれだけ顕在化していたり漁業仲間とも良好な関係を作れているようにも見えるので公的扶助や共助(菅の顔を思い出して吐き気が)はできないのだろうかと思ったりするのだが、日本とは制度も違うだろうし難しいのだろうか。要するに、その辺の詰めの甘さというか、ルビーとの葛藤という作劇場の都合もあるのだろう。

なので、そっち方面をあまり考えすぎるとドツボにはまるのが見えているので、もっと面白そうなことに関して考える。

それは、手話という言語も発話という言語も本質的にはフィジカルな運動なのではないかという視点。当然と言えば当然なのだが、腹式呼吸のくだりや感情を表現するためのジェスチャーなどに特に感じだ。

それゆえにラスト、クライマックスの歌唱シーンの、二つの言語を使い、言葉を届けることの感動はあった。あれこそが、先生が見出した彼女のオリジンに寄って立つ彼女だけの歌い方なのだと。「こうすればろう者にも歌を伝えられるのだ」という(もちろん、本質的な問題は「ナイト・クルージング」や「俺が公園で~」所収の尼さんの話が描き出す絶対的断絶は浮かび上がらないが)感動を与えてくれる。

これがデフォになればいいではないか、というのはさすがに酷か。

 

「プライベート・ウォー」

冒頭と最後のまさに哀鴻遍野な風景で閉じるのは中々。細かい戦場ネタとしてのジムの会員証で通れる、ストレスで母乳が出なくなるなど、前者はともかく後者については戦場だけでなく被災地などでも見られることだろう。

それにしてもここまで酒とたばこが単なる依存対象としてしか描かれないのは珍しいような。

かなり手堅く真摯に作られている映画である。