dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

2024/11

「キング・オブ・コメディ」

よく考えたらちゃんと観たことなかった。

に、してもである。これすごい怖い、怖いのに笑える。正直、切実さのほうが全面的に展開されてしまっている「ジョーカー」よりもよっぽど切実でしょうこれ。

切実というよりも深刻、というべきか。

観衆をプリントしたパネルの前に、しかし本物の観客(つまり映画を観ているこの私)には背を向けているだけでなく、どんどんとズームアウトしていき、彼が隘路に立たされていることを象徴しているカット、ジェリーのオフィスで警備員に追われるカットなどなど、ともかく印象的なカットが多い。

下手したら被害妄想が肥大化したメサイアコンプレックスですらあるのではないかと、妄想での結婚シーンなんかをみると思ってしまう。

傑作。

 

ブロブ/宇宙からの不明物体」

これ58年のリメイクだったんですな。実はアメリカが~というネタはありがちだが、ここでソ連の名前が出るあたりベルリンの壁崩壊間際という感じがして中々趣がある。

それはそうと容赦なく人が死ぬし子どもまで死ぬのはびっくりした。生態が生態だけに仕方ないのだがみんな死に方がグロい。そしていわゆる特撮(メイク、造形含め)が凄い。いや、これ今見ても全然違和感ないです。

これは確かに傑作だし、ラストにいたるまでB級スピリットがあって大変よろしい。

 

オンリー・ザ・ブレイブ

どっかで聞いたタイトルだなぁと気になっていたのですが、「トップガン マーヴェリック」の監督であることと中々評判が良かった気がしたので観賞。

いやぁ…お辛い映画でございました。こがどの辺まで事実に基づいているのか分からないかれど2013年の災害を2017年に映画化したっていうのはなんかすごいスピードですな。

この手のディザスター映画にしては(史実ベースというのもあるのだろうが)極端に派手にしようとしたり泣かせに来たりしていないのに、おそらく私が観てきた映画の中でも1,2を争うレベルで滂沱の涙が出ましたですよ。いや誇張抜きで。

プロフェッショナルの仕事かつチームもの映画として前半は軽快に進んでいきながら、その仕事の危険性故に家庭での問題が描かれ、それがリーダーたるエリック(ジョシュ・ブローリン)と新米であるドーナツ(マイルズ・テラー)に対置/同置される。

そこに生じる差異がまた最後の展開のやるせなさに繋がっていく。

編集に関しては時間経過をあんな露骨に文字でカットインしなくてもいいんじゃないかと思ったりはするのだけれど、全体としてはあまり下品な演出はない。それどころか、キスシーンなど以外では感情が表出する場面はむしろ遠目から人物を切り取ったショットと無音(の背景に流れる主張しすぎないアンビエントなBGM)がむしろ寂寥感を増幅させる。その極がドーナツの無線に仲間19人の死亡が伝えられた瞬間だ。

19人が炎に飲み込まれるシーンも、迫力というよりはただ無情に淡々と火に飲まれていくだけで過度なスペクタクルはない。だからこそ怖い。

その後の街の人たちが体育館に集められる前後のシーンはもうキツイなどというものではない。一人だけ生き残ったという情報だけが遺族に知らされ、それぞれの家族が「その一人が夫・息子・彼氏であることを祈る」というあまりにも空恐ろしい場面。

誰一人として悪くない(強いて言えばヘリの操縦者だが、一瞬たりともその人物が映らないことを考えれば監督の意図は自ずとわかる)、にもかかわらずただ何かを恨めしく思ってしまうということ。それがここまでキツイということを、寡聞にして創作物の中でここまでの解像度で喰らったことはなかったと思う。その点でこの映画は自分にとって新しい感情の揺らぎをもたらしてくれたと言ってもいい。

あとやっぱり広大なロケーションの力もあるのかも。正直あれだけの広々とした広大な(荒涼な)風景は日本ではありえないし、おそらくはそこに必要以上の派手さはいらないのだろう。

 

 

ザ・ウォーク ~少女アマル、8000キロの旅~」

これは一応ドキュメンタリー、ということになるのだろうか。しかしドキュメンタリーというにはあまりにも作為性が強い。いうなればドキュメンタリーのガワを被ったメタフィクションかつそれ自体のメイキングとでも言えばいいのだろうか。感覚としては「帰ってきたヒトラー」に近いだろうか。

本作はアマルと言う名のシリア難民である少女の名を付けられた3.5mの少女の人形が、各国を渡り歩く様子を切り取ったドキュメンタリーである。それは確かだ。けれど随所に作為的な演出がなされ、それがこのドキュメンタリーの中にフィクションとしての作為性をもたらしている。これを良しとしないということもあるだろうが、私としては良し悪しよりも好悪の問題でしかないと思うので、その手法自体の是非を問うつもりはない。たとえその演出のすべてが良質なものとは言い難く、俳優でもない難民の少女や少年の拙い演技(表情、セリフ)を補うほどの演出ができていないとしても。とはいえ巧みな部分もある。アマルが格子状のドアの中から外を見るカット(これは極めて作為的で、おそらくは作り手が意図的に彼女にそうさせているのだろう)なんかは、彼女の置かれた状態を示唆する極めて絵的な表現であるだろう。

ただこの映画の真骨頂は、全体として緩いそのフィクショナルな演出だけにはない。言うまでもなくそれは現実を切り取ったドキュメンタリー部分にこそある。

アマルの依り代としての「アマル」が各国を練り歩くことで、そこに浮かび上がる欺瞞性を露わにすることがこの映画の本質であり、そこにまぶされる作り手の「悪意=作意」がそれをブーストすることによってより一層それを強烈にするのだ。

フランスを訪れた時の「第九」とか噴き出してしまいましたよ。あるいはイタリアを訪れた時のアフリカンの少年にまとわりつかれるローマ教皇との対峙場面における、「アマル」の声としてのアマルのボイスオーバーによる「子どもたちが大好きなのね(原語版ではIt seems he loves all the children in the world)」と言う言葉。このカトリックのお偉方がその子どもたちにたいして行っていた性加害に対する批判、というわけではもちろんなく(そう読み取ることも可能な程度には連中は腐っているわけだが)、そこには救済されない子どもであるアマルの声の裏返しとしてある。

あるいはフランスで「アマル」がパスポートをもらった際に、なぜ彼女がパスポートを手にすることができて声を吹き込んでいるアマルがもらうことができないのかと言う告発のナラティブ。

つまるところこれは、アマルという現に難民という立場に置かれどこへ行くこともできない少女が「アマル」というフィクショナルな(それでいて3.5mの人形という、人間以上にどうしようもなく存在する身体としての)存在の眼差しを通じて、この現実を告発する映画なのだ。

その点でこれは、「マン・オン・ザ・ムーン」に似た精神性があると言えるのではなかろうか。

現実の中でフィクションを徹底しようとすること、それによって醜悪な・欺瞞的な現実を告発すること。それがこの映画の持つ強度なのだろう。

一方で、この映画は……というよりも多くのドキュメンタリーがそうなのかもしれないが、アマルという少女を被写体=主人公に選んでしまったことで、この映画が舌鋒鋭く指摘した問題はそのままこの映画それ自体にも逆照射されているだろう。

それは私がかつて「ソニータ」に対して抱いたものと同様のものだ。作為性が強くなればなるほどに、その問題は強烈に立ち現れてくる。

それについて不断に考えなければいけないのだ、本当は。

 

人形の少女アマルについて

youtu.be

ハンドスプリング人形劇団による、少女アマルの人形の製作について
少女アマルは、思いやりと人権の国際的なシンボルです。彼女は、世界各地で避難生活を送る人々、特に家族と離ればなれになった子どもたちに希望のメッセージを伝えています。アマルの人形をデザイン・製作したのはハンドスプリング人形劇団です。ハンドスプリング人形劇団は、世界的に大ヒットした舞台『戦火の馬』の人形を製作し、世界で最も重要な人形劇団のひとつとしての地位を確立しました。

アマルは行く先々で、現地の人々にとって意味のあるイベントに出迎えられてきました。アマルは、10歳のシリア難民の子どもを反映した3.5メートル)の人形です。人権、特に難民の人権の世界的なシンボルとなっています。

2021年7月以来、アマルは17か国166か所の町や都市を訪れ、路上で200万人、オンラインで数千万人に歓迎されています。アマルがこれまでに訪れた475ものイベントは、何千人ものアーティストや市民社会、信仰のリーダーたちによって、アマルのために独自に創られてきました。アマルの旅は、戦争、暴力、迫害から逃れてきた膨大な数の子どもたち、それぞれが独自の物語を持っていることを知ってもらうための芸術と希望の祭典です。世界に対する彼女の緊急メッセージは、「私たちのことを忘れないで」なのです。

本作の芸術監督であるアミール・ニザール・ズアビ(Amir Nizar Zuabi)は、この映画を製作した目的を以下のように語っています。
「難民危機についての会話を再燃させ、それをめぐる物語を変えることは、これまで以上に大切になってきています。難民には食料や毛布も必要だが、尊厳と発言権も必要なのです。本作の目的は、難民の悲惨な状況だけでなく、難民の可能性を強調することです。アマルの身長が3.5メートルもあるのは、私たちが世界を大きくして彼女を迎え入れたいからです。私たちはアマルに、大きく考え、大きく行動するよう鼓舞してもらいたいのです」

 

シリア難民が生まれた背景と現状について

2023年2月、大地震の被害にあったシリアの様子
シリア危機は2011年以来続いています。 この危機の政治的解決に向けた進展はほとんどなく、数百万人のシリア難民が近隣諸国に避難し、約680万人の国内避難民が国内に残されています。 近隣諸国(主にトルコ、レバノン、ヨルダン、イラク、エジプト)は、シリア難民を寛大に受け入れてきましたが、自国の経済的課題を乗り越える一方で、シリア難民に安全と保護を提供し続けるために、国際社会の支援を必要としています。そうした状況の中、2024年9月下旬以降、レバノンの情勢が著しく悪化し、レバノンからシリアへと避難する人々も出ています。

 

 

 

「ぼくたちは見た -ガザ・サムニ家の子どもたち-」

2009年ガザ侵攻直後の現場を映したドキュメンタリー。

「ウォーク」が徹底してフィクションの眼差しで現実を告発しようとするのであれば、こちらはむしろ徹底して現実を切り取ることに専心している。

それは当事者の声、そのほとんどが年端も行かない子どものものなのだが、果たしてそれが子どもの口から語られるものとは思えないほど惨く、そのグロテスクさは言葉にならない。現場の血を指さしながら父親が、母親が殺された瞬間を淡々とカメラマンに説明する少年、姉の目玉が飛び出していたと言う3歳のこども、親族の頭が吹っ飛んできた瞬間を、真っ二つになり脳みそが飛び散った父母の血を浴びたことを語る少女。イスラエル兵の真似をして顔を黒く塗り、彼らの絵を描き、そうして忘れないようにすることで彼らに同じことをしてやるのだと口にする少女。

考えることがある。彼女たちがこの強烈な現実に直面していることに対して、果たしてフィクションはそれに対抗することができるのかと。その一つの手法が「ウォーク」だったのだろうが、それはそれでまた別の問題を提起する。

厳然と立ちはだかる現実を前に、フィクションの力を信じることができるのか。それはそのまま「世界の平和」と信じることができるかという強烈な問いを我々に突き付けていることに他ならない。

 

 

古居みずえ監督がこの作品にこめた想い
「平和はきっと、つながりの先に」

古居みずえ監督
一つの家に100人が閉じ込められ、そこに3発のミサイルが落とされた。当時の私にとって、あまりにショッキングなニュースでした。生き残った子どもたちの声を伝えたくて、作ったのがこの映画でした。
残念ながら、この映画に出てくれたみんなが、今どこにいるのか、無事でいるのか、わかりません。 通訳として一緒に子どもに話を聞いてくれたラミーさんは、2023年11月に撃たれて亡くなりました。子どもが泣き出すと、一緒になって泣いてしまう、心やさしい人でした。
 
閉じ込められて、移動しろと言われた先でまた爆弾を落とされる。食料もなくなり、子どもは痩せこけてきている。恐怖やトラウマから、大人もおねしょしてしまうほど、追い詰められているそうです。
 
パレスチナの人々は、外の世界には、安全に、心穏やかに生活できる人々がいることを知っています。でも自分たちは閉じ込められて、その中で一人また一人と、命を消されてしまう。怖いと思います。孤独だと思います。きっと、自分たちと外の世界をつなぐ扉は、閉ざされてしまったと感じています。
 
私は、その扉を叩きたい。ずっと見ているよ、なんとかしたいと思っているよ、そう声をかけ続けたいのです。
 
平和とは、場所や信条の違いを超えて、人と人の心はつながれると、信じることだと思います。それは、人間が心のある人間として、生きていくということでもあると思います。
 
皆さんの心に今、なにか湧き上がる感情があるなら、どうかその感情を大切にしてください。そして、どんな形でもいいので、外に出してください。世界はすぐには変わらないかもしれない。でも、諦めずにつながりをつくり続けませんか。それが、私たち一人ひとりができる、暴力への抵抗だと思います。

(2024年10月実施のインタビューから)

 

「ピース・バイ・チョコレート」

事実に基づいた劇映画。再現VTRのようである。

またそれはそれとして家父長制の温存をそのままにして美談としてまとめていることには顔をしかめたくなる。

 

実在するこのシリア人一家は、30年近くにわたり、中東とヨーロッパ全土にこだわりのお菓子を作り、出荷してきました。2012年末、シリアのダマスカスにあったハドハド家のチョコレート工場は爆撃で破壊され、家族はすべてを置いてレバノンに逃げなければならなくなり、3年間、チャンスも希望もない避民生活を送りました。その後、2015年にカナダに第三国定住することができたのです。
カナダでは、アンティゴニッシュのコミュニティとノバスコシア州の人々の支援により、一家はチョコレート会社を再建し、再び大好きな仕事をできるようになりました。2016年の初めにピース・バイ・チョコレートを設立して以来、チョコレートへの情熱をアンティゴニッシュのコミュニティの新しい友人たち、ノバスコシア州全体、そして今では世界中の人々と分かち合うことができています。
(出典 https://peacebychocolate.ca/pages/our-story

 

「学校をつくる、難民の挑戦」

これが一番オーソドックス?なドキュメンタリーでした。NHKでやってそうな。

UNHCRという組織の問題を手弁当で学校を作るという行為によって覆していく。それ自体、ボトムアップとしての市井の人々の活動・営みそれ自体は素晴らしいことだが、だからこそ国連を筆頭とした世界を統治(笑)する組織体の歪さにも目を向けなければならない。いうまでもなく、それは国というしがらみの問題でもある。

 

チサルア難民学習センター(CRLC)について
インドネシア初の難民主導型学校
映画に登場したチサルア難民学習センター(CRLC)は、インドネシア初の難民が設立・運営する学校であり、難民主導の教育革命のきっかけとなりました。
2014年、難民の小さなグループが、教育は大切な人権であることから、子どもたちのために学校を始めることを決め、まず女性たちがボランティアで教師になりました。
小さな部屋で、数冊の本と200ドルの寄付金でスタートした学校は、たちまち成功を収めました。1週間以内に40人の子どもたちが学び、さらに40人が待機リストに加わりました。それまで存在しなかったコミュニティが学校を中心に形成されたのです。
彼らが写真や動画をオンラインに投稿すると、外部の人々が本を持ち寄り、教師の訓練やシラバスの作成を手伝い、より大きな建物の家賃を提供してくれるようになりました。3か月も経たないうちに、学校はより大きな場所に移転し、100人以上の子どもたちと15人のボランティア・マネージャーと教師が集まりました。
CRLCはすべてボランティアの難民によって運営され、5歳から65歳までの200人以上の生徒が学んでいます。CRLCのアプローチは、少なくとも他10校の難民主導の学校にも受け継がれ、現在インドネシアでは1800人以上の難民が難民主導の教育センターで教育を受けています。

② チサルア難民学習センター(CRLC)の活動
 チサルア難民学習センターでは女性たちがボランティア教師として活躍
CRLCは、18歳未満の子ども約130人に初等・中等教育を、成人80人に基礎的な識字レッスンを提供しています。CRLCはコミュニティの中心であり、難民同士がつながり、情報を共有し、小さな経済的支援を分かち合い、精神的に問題を抱えた難民やリスクのある難民を見分け、スポーツやその他の活動を組織する場所です。
学校は安全な場所で、子どもたちは子ども時代を楽しみ、友情を育み、英語、数学、科学、スポーツ、美術、演劇などの科目を学ぶことができます。大人の難民がすべての授業を担当し、カリキュラムやスタッフの決定、ソーシャルメディア、訪問者の受け入れ、コミュニティとの連絡など、学校の運営全般を管理しています。
また、難民コミュニティ以外の人々にとっても、難民との交流や出会いの場となっています。学校には毎年、インドネシア、オーストラリア、そして世界中から何百人もの訪問者が訪れます。インドネシアやオーストラリアの国会議員、学者、スタディーツアーの大学生、難民支援者、報道機関などです。
来訪者一人一人が、自分たちが何者であり、どこから来たのかを難民に伝える機会となります。CRLCは、UNHCRインドネシア事務所が難民のニーズについて情報を発信したり相談したりする際の連絡窓口を提供しています。

③ チサルア難民学習センター(CRLC)の課題
課題は、地域社会との関係、国の政策への関与、個人の経済的苦境や学校を支援するための資金調達などです。
以前にも地域コミュニティとの関係がうまくいかず、いくつかのNGOがチサルアから事務所を移転したことがあります。難民たちは学校での簡単なイベントや集まりに地元コミュニティを招待し、友好を深めています。村を挙げてのイベントで、地元の村長は「チサルアではインドネシア人と難民が兄弟のように一緒に暮らしている」と語ったことがありました。
インドネシア当局への学校登録はまだ実現していないため、生徒たちは正式な教育単位を取得していません。この学校には、多くのインドネシア当局や国会議員が視察に訪れており、全員がこの学校の目標に前向きです。
コミュニティ内の難民には経済的な支援はなく、多くの難民が借金を強いられています。貧困のためにホームレスになったり、拘留されたりしている生徒や家族もいます。
CRLCを支援するために、オーストラリアのチャリティ団体チサルア・ラーニングが2015年に設立され、家賃と教材費、そして教師とマネージャーのためのわずかな給与を支援するのに十分な額を集めています。

④ チサルア難民学習センター(CRLC)の活動がもたらした成果

チサルア難民学習センター
CRLCはチサルアの難民コミュニティを変えました。センターができる前は、難民たちは孤立し、お互いに信頼し合えず、外部の人間も信頼できず、一日の大半は眠っていました。CRLCは、難民たちに、日々取り組む活動、「難民」を超えたアイデンティティ、そして、誇りと目的意識を与えました。
CRLCは、レジリエンス(困難を乗り越える力)と相互支援、社会的信頼の絆、信頼できる情報、そして支援のネットワークを広げています。子どもたちは順調に発達し、長期間放置されたことによる悪影響から守られています。CRLCの教育は、どこの国の平均的な小学校と比較しても遜色ありません。彼らはオーストラリアの教育プログラムで学び、流暢な英語を話し、深い文化的理解を持ち、移住先の人々との関係を築いています。第三国定住したCRLCの生徒は、年齢に応じた学年に入学し、そのほとんどが第二言語としての英語のサポートを必要としていません。
(出典 https://globalcompactrefugees.org/good-practices/cisarua-refugee-learning-centre


ムザーファとハディムのその後について

(左から)ジョリオン・ホフ監督、ハディム、ムザーファ
ムザーファは現在、家族とともにオーストラリアのアデレードに第三国定住し、学校を支援する非営利団体で働いています。ハディムはオーストラリアへの人道的ビザを拒否され、アメリカに第三国定住しました。現在はロサンゼルスに住んでいます。映画製作を通して、彼はCEOやオスカー受賞映画監督、有名俳優と会ってきました。アメリカで暮らすLBGTI難民についての映画を製作し、映画学校で学んでいます。 (出典 https://thestagingpost.com.au/blog/2017/11/1/a-study-guide-for-the-staging-post-5arar
インドネシアでのUNHCRの活動について
UNHCRは、1979年にインドネシア政府がUNHCRを招き、東南アジアの紛争から逃れてきた17万人以上の難民を収容するための難民キャンプをガラン島に設置して以来、インドネシアで活動を続けています。
その一方、インドネシアは、難民の地位に関する1951年条約や1967年議定書の締約国ではなく、難民認定制度もありません。そのため、政府はUNHCRに難民保護の任務を遂行し、国内の難民の解決策を特定する権限を与えています。
この映画が製作された2017年頃、インドネシアには難民保護のための包括的な国内法的枠組みが存在しないため、難民の移動の自由、教育や医療へのアクセス、無国籍を防ぐための措置としての出生証明書へのアクセスなど、難民の基本的権利の享受が制限されていました。
UNHCR等の働きかけを受けて、インドネシア教育・文化・研究・技術省は2019年に通達を出し、2022年以降、難民・庇護申請者が国の教育制度で初等レベルから中等レベルまでの正規・非公式教育を受けられるようになりました。現地の学校に入学するには、有効なUNHCR文書とインドネシア語の能力が必要です。インドネシア語と基本的な能力(読み、書き、数え)をカバーする準備クラスや、追加的な支援(授業料、交通費、学用品)がUNHCRとパートナーによって提供される場合があります。
2023年末現在、UNHCRに登録されている難民は12,295人で、その69%が成人、29%が子ども(18歳未満)です。UNHCRは政府当局と連携しつつ、様々なパートナーとともに、難民や庇護希望者の保護・支援活動を行っています。

 

「孤立からつながりへ ~ローズマリーの流儀~」

これは難民の中でもさらにマイノリティに置かれる女性についてスポットを当てたドキュメンタリー。

ケアという概念をそのまま女性の特性と直結することは批判もありえるだろうが、やはり男根主義や家父長というものを転覆するのには必要なのではないかと思う。

 

ローズマリー・カリウキは、パラマタ警察の多文化コミュニティ連絡官です。彼女は家庭内暴力や言葉の壁、経済的困難に直面している移民の支援を専門としています。
1999年、家族からの虐待や部族間の衝突から逃れるために単身ケニアを脱出した彼女は、オーストラリアでの最初の数年間は孤独でした。その経験から、ローズマリーは多くの移民女性にとって孤独が大きな問題であることを認識したのです。一人で外出することに慣れておらず、交通手段もなく、英語もほとんど話せません。そこでローズマリーは、女性たちが家を出て、同じような境遇の女性たちと出会えるような方法を考案しました。
アフリカ女性グループと協力して、彼女はアフリカ女性ディナー・ダンスの開始を支援しました。このイベントには、毎年400人以上の女性が参加します。また、移民や難民の起業を支援するプログラム「アフリカン・ビレッジ・マーケット」を立ち上げ、4年間運営しました。
ローズマリーの温かさ、勇気、そして優しさは、彼女に会うすべての人に勇気を与えてくれます。2021年「Australia's Local Hero」賞を受賞しました。
(出典 https://rosemaryswaythefilm.org/local-hero/

 

オーストラリアでのUNHCRの活動について
オーストラリアは難民約6万人、庇護希望者約8万人を受け入れています。そのほとんどが中東やアジア出身です。無国籍者は8,000人と推定されています。
UNHCRキャンベラ事務所は、オーストラリア、ニュージーランドパプアニューギニア、フィジークック諸島ミクロネシア連邦キリバスマーシャル諸島ナウル、ニウエ、パラオサモアソロモン諸島、トンガ、ツバル、バヌアツにおける難民の権利促進に努めています。
オーストラリアは、難民の地位に関する1951年条約と1967年議定書の締約国であり、UNHCRは、国内難民法の整備、難民認定能力の向上、入国手続きにおける保護措置の導入においてオーストラリアを支援しています。また、第三国定住や補完的な経路の構築に関してもオーストラリアと協力しています。
オーストラリアは10年以上にわたり、ボートで庇護を求めてやってくる人々のために、パプアニューギニアおよびナウルとの間でオフショア移送協定を結んでいます。UNHCRは、これらの取り決めにおける法的および保護上の懸念に関連し、また残留者のための解決策を模索する上で、アドボカシー活動を行っています。

 

日本政府の第三国定住支援について

9月末、日本の第三国定住事業を通じて、11世帯18人の難民が一時滞在していたマレーシアから来日
第三国定住による難民の受入れは、難民問題に関する負担を国際社会において適正に分担するという観点からも重視されています。 日本においては、2008年12月、閣議了解により第三国定住による難民の受入れが決定されました。2010年に開始された第三国定住による難民の受入れは、当初は、タイの難民キャンプに滞在するミャンマー難民を毎年30人(家族単位)、5年間にわたって受け入れるパイロットケースとして実施されました。 
その後、2014年1月、閣議了解により、パイロットケース終了後も第三国定住事業の継続的な実施が決定され、2015年度以降は、マレーシアに滞在するミャンマー難民を受け入れることになりました。さらに2019年6月の閣議了解により、受け入れ可能な難民がマレーシアのミャンマー難民から、アジア地域に一時滞在する難民への変更や受入人数の拡大等が行われました。コロナ禍で一時中断後、2022年度からは年2回の受け入れとなり、これまでに合計で122世帯305名を受け入れています。
入国後約6か月間の定住支援プログラムにより、日本で自立した生活が開始できるよう、難民事業本部(RHQ)支援センターが様々な支援を一体的に行っています。
(出典 https://www.rhq.gr.jp/what-refugee/p03/

 

 

「永遠の故郷ウクライナを逃れて」

どこにどうカメラを向けるかということで、大文字のテーマが同じでもここまで違うのかと、当然の事実に改めて気づかされる。

 

 

ハメラ監督は、80年代初頭にポーランドワルシャワで生まれ、学校でロシア語を強制されなかったポーランド人の最初の世代です。2013年、ウクライナのヤヌコヴィッチ大統領はロシアからの圧力を受け、EUとの連合協定への署名を拒否しました。ウクライナにとってだけでなく、EU加盟10周年を迎えようとしていたポーランドを含む地域全体にとっても、非常に重要な時期になる予感がした監督は、3日間だけ滞在するつもりでウクライナに向かったものの、結局3か月間滞在し、マイダン革命の参加者についてのドキュメンタリーを撮影することになりました。
ウクライナとその人々に対する特別な愛着を感じていた監督は、2022年にロシアがウクライナへの本格的な侵攻を開始したとき、無関係ではいられないと感じ、戦争が始まって3日目にバンを買い、ポーランド国境から難民の輸送を始めました。1週間も経たないうちに、もう2台のバンを購入し、ポーランドとの国境に到着した人々を輸送するために他のバスも手配しました。ウクライナの各都市からポーランド国境まで、友人の家族を乗せてウクライナを走りました。やがて、家族の移送を依頼する電話が毎日のようにかかってくるようになり、外国人、妊娠中の代理母、障がいを持つ人々など、弱い立場におかれている人々の避難を支援する国際的な援助団体とも仕事をするようになりました。
ウクライナ語とロシア語の知識があったため、監督は国内の遠隔地に到達することができ、乗客全員の宿泊施設とその後の移動を効率的に手配することができました。
その後、日中はカメラマンが車内で撮影を行い、夜間は運転手である監督が代わって撮影を行うことで、これまでと同じように支援活動を行うことができ、同時にテロにさらされているウクライナの市民が悪化していく状況を記録することができると思い至りました。
この映画では、事実の後付けの解説や分析なしに物語にアプローチし、その主人公はまさにその瞬間に逃げることを決めた人々です。車内の親密な空間は、人生、夢、不安、計画、期待について、運転手と乗客の間で率直な会話をする場、しばしば初めて語られる戦争体験の深い感情の告白の場となりました。
このドキュメンタリーの意図は、個人的なストーリーや体験を紹介することに加えて、目の前で起きている戦争の風景を見せることにあります。この映画はまた、全国のポーランド人が莫大な援助を動員し、両国が困難な過去を乗り越え、歴史的に和解していることの証でもあるのです。(出典 https://intherearview.eu/about/

>>マチェク・ハメラ監督の映画にかけた想いをもっと知りたい方はこちら

 

 

ウクライナ人道危機について
2022年2月以降、ウクライナに対するロシアの戦争が大規模にエスカレートしたことで、これまでにない民間人の犠牲と重要なインフラの破壊が生じ、何百万人もの人々が安全、保護、支援を求めて避難を余儀なくされています。ウクライナでは、攻撃の激化によりエネルギー発電能力が著しく低下し、重要な電力、熱、水の供給が滞っています。
ウクライナ国内の避難民360万人以上に加え、数百万人の難民が国境を越えて近隣諸国に避難しています。2024年9月現在、ウクライナからの難民は世界で約670万人以上に上り、その多くは女性と子どもです。

 
ウクライナと周辺国でのUNHCRの援助活動について

ウクライナ緊急:小児病院等に大規模な攻撃

UNHCRは1994年以来、ウクライナで、地元当局、NGOパートナー、コミュニティ組織とともに、支援を必要とする人々に保護と人道支援を提供する活動を行ってきました。

ウクライナ国内では、依然として莫大なニーズがあり、1,460万人以上が緊急の人道支援を必要としています。UNHCRは、地元や国際的なパートナー組織と協力し、戦争で被害を受けた市民に現金や現物による様々な支援を提供しています。たとえば、家屋が損壊した人々には緊急シェルター修理キットを渡し、住宅修理が行えるようにしています。また、戦争のトラウマに苦しむ人々には法的支援や心理カウンセリングを提供しています。2023年、UNHCRとパートナー組織は、ウクライナで支援を必要としている250万人以上の人々に、現金支援、法的支援、住宅支援などの支援を提供しました。
近隣諸国では、ウクライナからの難民を受け入れるために、国家間、受入コミュニティ内、そして家族の間で、他に類を見ないほどの連帯と支援が広がっています。UNHCRは、各国政府の対応を支援する地域難民対応計画(RRP)の一環として、国連機関や国内外のNGOを含む300を超えるパートナー組織の調整を主導しています。

 

「」

2024/10

「スノーピアサー」

冒頭のBGMとかいかにも一昔前のアクション映画ぽくて実際そんな感じのディストピア映画なんだけど、各車両のデザインや列車の長さを利用した銃撃シーンの緊迫感などめちゃんこ上手い。それにブラックユーモアのセンスもちゃんと盛り込まれていて何だかんだ面白い。

 

「疑惑」

何だこれ、面白い。いや正直なところ裁判というか事件の落ちについてはかなり最初の方で予想できていたのだけれど、そういうのはどうでもよくて役者がとにかくもう良い。

桃井かおりという女優については私が映画を多少なりとも見るようになった時にはすでにパロディの対象であったので、こういうガッツリ映画してる映画で観るということがあまりないので、それ自体が結構な面白さがあったというのもある。

といっても、やっぱりパロディされるだけの演技のクセがあるわけで、それはこの映画でも顕在であるわけで。

そのクセのある演技が鬼塚球磨子(ってすげぇ役名でござんすな。本人も劇中で言ってたけど)という人物の本心を覆い隠している。しかもその本心というのがラストカットの止めの絵に至るまで実のところ彼女が亡き夫に対してどう思っていたのかはぐらかしているように見える。

私は未見なのですが和歌山カレー事件を扱ったドキュメンタリー「マミー」にも通じる部分があるっぽい。あの事件よりも前の時代の話なので現代は言うに及ばずカレー事件の当時よりももっとこう、マスコミ(新聞記者)が偏向的な記事を書き立てまくっている様が描かれるんですよねぇ。

いやぁしかし柄本明がこすい。こすいしダサい。ダサさの極みですね、これ。一周回って惨めで、この人の顛末もかなり笑えるところなんですよね。

それと、ちょっと面白い塩梅なのが、序盤では警察(および記者)側の視点から事件を追っていく作劇になっていて、しかもそれが比較的ニュートラルなもんだから球磨子に対して疑念を抱くようになってるんですよね。

そんでもって球磨子もまたああいうキャラクターだもんで、真面目な人ほど球磨子に対して反感を抱くかもしれない。

で、序盤を含めた前半では球磨子というよりも彼女を取り巻く周囲の状況・人間の動きが中心になってるんですよね。この辺もまた面白くて、裁判を引き受けるかどうかという部分にもちょっと尺を割いていて、大口叩いていた弁護士が結局世評を考えて降りる(しかもそれが丹波哲郎で、このちょっとの役だけでもう出てこなくなるという)なんて茶番も描かれて、最後にお鉢が回ってくるのが岩下志麻という。

岩下志麻も最高なんですよね~この映画。この人って表面的には絶対に脆さを見せないんだけど内面では割と懊悩しているという演技がぴか一だと思うのですが、本作でもそんな絶妙なニュアンスが上手い。

まあでも本作で一番あくどいというか酷なのは彼女と言ってもいいかもしれない。勝つためなら中学生でも追い込むし、その中学生を法廷に引きずり出すためにはノースリーブで迎えに来ることも辞さない。いや、ここは単に季節的な服装として違和感はないのだけれど、しかし法廷でのぴしっと決まった服装に対してこの中学生男子を証言台に立たせようと説得するシーンのそれは大人の色香をまったくエロさを感じさせず、極々自然に演出しているように思える。その後の法廷での(飴に対する)鞭の使い方といい、実のところ岩下志麻演じるこの弁護士こそが最も冷静で怜悧な判断力を備えているわけです。

が、そんな彼女にも家族(というか娘)に対する情愛があり、それが佐原律子という人物の人間性の象徴として描かれる。その溺愛っぷりは食事シーンに顕著で、あの年ごろにわざわざ食べさせてあげる必要もなければ音のなる人形を与えたり、ともすればそれが彼女の欠点(=これも人間性)とすら捉えられる。

そんな彼女が娘の幸せを願って最終的に下す決断、というのもまたグッとくるところである。まあ球磨子の裁判とは別の話なんで、本筋に直接的には必要なものではないのだけれど。

球磨子の方に話を戻すと、まあ基本的にこの女も前科者だしそれを差し引いても屑よりの人間ではあるわけです。しかしそれは、ある意味で自由奔放に生きていることの証でもある。無論、本当の意味で自由であるわけではなくて、それは檻の中に都度都度入れられるシーンや凌辱を想起させるような場面もある。六法全書を読みながら飯を食べるシーンも、明らかに「囲われている」ことを強調するようなカットである。この辺は宮尾の「ティファニーで朝食を」の評に通じるものを思わせる。

また、この映画は最後まで球磨子の人間性についての態度を確定させない。証言者が何人も出てくるが、どいつもこいつも絶妙に信用できない人ばかりで、球磨子もそのたびに反論したりするものだから、実際のところはどうなのかわかったものではない。

もちろん最終的な判決は彼女の無罪として終わるわけだけれど、かといって彼女が清廉潔白な真人間などではない。

しかし、である。これはおそらく撮影監督の川又昴の手腕なのだが、ほかの多くの人物にはなく、球磨子にだけはほぼ絶対といっていいほど描かれているものがある。

それは目のハイライトだ。もちろんすべてのシーンで、というわけではないが彼女が法廷にいるとき、その瞳には強烈なハイライトがある。ほかの人物にはないそのハイライトが、この映画におけるある種の誠実さを表しているといえるのではないか。そして実のところ、ほかにも球磨子ほどではないが目にハイライトが描かれる人物がいる。それは彼女の元カレの豊崎だ。

彼は当初、球磨子を陥れるような証言をするのだが、佐原の毅然とした振る舞いを見て態度を一変させ、偽証罪にあたりかねないにもかかわらず自らの証言を覆すのである。この辺の会話の屁理屈めいたやりとりも面白いのだけれど、とにもかくにもこの映画においては目に光を宿した人がそこに誠実さを湛えていることの証左であると、言外に描いているのである。

それでいうと岩下志麻は法廷においてハイライトが描かれないので、実のところ彼女もこの法廷という男性優位のゲームの盤上で戦う上の欺瞞や立ち居振る舞いを纏っている一人でもあるわけなんですよね。

煙草に関しては…これを男根として捉えるべきか当時は単にそういうものだったかと捉えるかによって結構変わってくると思うのでよくわからないが。

本作はウーマンスとして見ることもできるだろうが、女性両者の通じ合わなさは割と即物的で面白い気はする。というのも、女性はとかく相互ケア的な心の通じ合いが描かれることが多いわけだけれど本作においては最後まで結局はそういう和解がない。どころか、最後まで「弁護士」と「被告人(依頼人)」という立場に留まり続けるし、球磨子にいたっては佐原に「時間があれば(元夫)殺してたかも」とすら言ってのける。

そして最後のシーンに至るまで球磨子は無罪でこそあれ無実ではないような描かれ方をする。のだが、やはり私としては前述したハイライトの描写から、彼女には少なからずあの爺に対しての愛情はあったのではないかという気もしなくもない。

結婚が男による女性の軛であるならば、保険金は女による男性の手綱なのだ。その相互支配的なバランシング、束縛しようという意思は愛情の裏返しなのではないかと、思わずにはいられない。

 

わるいやつら

疑惑と続けてみると、表面的な印象からくる善悪の二元論をかき乱すことを主題にしているのだな、というのがわかる。それは話だけではなく撮影やそれこそ女優の顔においてこそ体現している。そういうレベルで。

しかし先生クズすぎますね。

 

「空の青さを知る人よ」

「ふれる。」の公開に合わせてテレビ放映していたのを見る。岡田脚本の劇場映画であり、いわゆる秩父三部作のラストを飾る劇場アニメ。別に熱心なアニメファンでもないし岡田麿理(脚本)作品のファンというわけでもないのだが、比較的テレビで流れる頻度が多いためか何気に彼女の劇場作品は全部見ているという。「アリスとテレス~」なんて試写会で観てるし。まあ「さよならの朝に~」は観てないんだけれど。

超平和バスターズの座組として作られた秩父三部作とは違って「ふれる。」に関しては舞台は東京らしいので、田舎ディス映画(違)のテイストはないのかな。

 

正直なところ、「あの花」も「ここさけ」もいまいちピンと来ていなかったのだけれど、これはかなり良いのではないだろうか。

というのも、まあこれは完全な当て推量なのだが、岡田さんが監督をした劇場アニメ「さよならの朝に~」というのがどうやらハイファンタジーぽくてですね、これを「空の青さを知る人よ」の間に挟んだことで、そこで得た「跳躍力(文字通り)」が前2作にはない爽快感をもたらしてくれたのではないかという気がする。岡田麿里脚本でここまで爽快な、それこそ跳躍のモチーフなんてあっただろうか。

まず一つ本作で特徴的なのは背景がほとんど実写をそのまま使っていると思えるような情報量であることだろう。別にこれ自体が特別に目新しいというわけではないのだけれど、いわゆるアニメーションの絵柄としての人物がギリギリ浮かないくらいには調整しているらしく、その精緻な背景の情報量の統制具合が面白い。

なぜこのような手法を取ったのか。それはおそらく、秩父という「閉じられたセカイ」に圧倒的な情報量を持たせることで、圧倒的な現実として浮かび上がらせるためではなかろうか。

キャラクターを圧倒する(そもそもアニメーションの絵柄というのが実写に対して情報量が少ないので)だけの背景美術の視覚的情報によって、実際にはそこまで田舎ではないが各々のキャラクターにとってはそれだけの檻となる磁場を発する世界/セカイとして言外に表現できている。

言い換えれば、あの背景美術は劇中の人物にとっての「リアル」なのだ。その証拠に、「デザインされた」(アニメ的に抽象化された夢・理想)詩音の家の中なんかは普通の背景美術として簡略化された絵で表されている。

姉妹で同じ相手に好意を寄せるという相変わらずドロドロさせるのがお好きなマリーさんですが、ある種のクローン的方法によってその辺を絶妙に緩和している。これ自体結構なファンタジーというかちょっと反則な感じもするんですが、そのファンタジー的な存在(生霊)である「しんの」だからこそこの映画の白眉に説得力を持たせることができたわけでもある。

とこの映画のクライマックスは情報量過多な背景に囚われたキャラクター(詩音)が、「しんの」というファンタジーの跳躍力=想像力で以てその囲いの中から(一時的にせよ)突き抜けるシーンであり、このためにこの映画があるといってもいい。

この映画を観ていて思ったのは「時をかける少女」であり、そこから「風立ちぬ」に至る「死の世界」としての空だった。

しかしもちろん、本作における空の青さは、確かにある種の解放として見ればこの二作とも通じるが、それよりはむしろ「E.T」のそれに近いのではないかと思う。

吉沢亮のダミっぽい声も中々よござんしたね。

 

 

影の車

それでいいのかオチは…と言う気がしないでもないのだが。

 

殺人の追憶

ポン・ジュノってやっぱり相当なレベルの監督ですわ。

こんだけシリアスな題材なのにブラックユーモアでめちゃくちゃ笑わせてくるかと思いきやゾッとするような(ほとんどジャンプスケアじゃないですか)カットを編集の卓抜さによって見せてくる。

地味に長回しのカットが多い。にもかかわらずカメラは割と動く。近い時期にキュアロンが「トゥモローワールド」でもっと長い長回し擬似ワンカットをやっていたが、何となくそれに通じるのだが、この長回しによってもたらされる緊張感と不意を衝くような編集によってゾッとさせてくる。

かと思いきや列車に人がはねられるシーンはほぼそのまま撮る(まあ暗いからほぼ分からないだけど)し、何この黒沢清

下にパンして死体を映した直後に焼肉の肉が鉄板の上で焼かれるカットとかいう底意地の悪すぎる演出。

あるいは桃の実を膣から取り出すグロさ(そもそも題材が題材とはいえ女性の腐乱死体が出てき過ぎ)。最後の一個はくすんでてマジの肉塊みたいで本当に気色悪い。こういうことを平然とやるのがポン・ジュノ。おもえば「ほえる犬は~」でも犬がひどい目にあってたりするんですよね。

階段モチーフはこの作品でもやってるし。

この人ってかなり作風は一貫しているのだけれど、毎度違う手法でやってくるのでちょっとこう、レベチな作家ではないだろうか。

前述したけれどシリアスなのに笑わせてくるし、そのくせバランスは絶対に崩さないんですよね。

まあ今更ですけど傑作。吹き替えで初めて見たんですけど、石田彰で笑ってしまった。

 

 

「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」

エルかわいいよエル。

 

ジェニファーズ・ボディ

ミーガン出てなかったら観なかったかもしれない。

正直途中まではこのポンコツ激安映画をどうやって観ればいいのか分からなかったのですが、JKシモンズがアップで出てきたときに「あ、これ完全にギャグを狙ってるんだな」と判断できたのでそこからは割り切って観れたので結構楽しめた。

何気にねじれたウーマンス映画としても見れるし、まあ本編は演出とか色々アレなんですけど、エンドクレジットで評価爆上がりした。

 

ペギー・スーの結婚

何だこの乙女ゲーに詳しくない人が何となく作った感じの乙女ゲーっぽい感じは。

時期的にバックトゥザフューチャーと被るんだけれど、あっちに比べるとあまりにもペギーの目的がわからないせいでとりあえずニコケイをキープしているようにしかみえない。

まあBTTFが明確に「〇〇を阻止する」という目標があるのに対し、ペギーの場合は「~しない」という否定形であるから仕方ないのかもしれないのだけれど。

ラストの謎のカルト団体もギャグなんだろうけどそのせいでおじいちゃんの株下がっとるやんけ。フリーメイソン的なあれは必要だったのだろうか。

色々と惜しいところはあって、男性三人もそれぞれに良し悪しがあってそれが書き割り的な部分を脱臭しているのはあるだろうし(成功しているとは思わないが)、フェミニズム的な価値観の萌芽をペギーの自由闊達な振る舞いには見出せそうではある。

しかしそれがあのラストに結実してしまうのだと思うとすべてが徒労に見えてしまう。

いや、ラストショットの鏡から抜け出すカメラワークはすげぇびっくりしたんですけど、コッポラ的にはむしろあれがやりたかっただけなのでは。

 

プリティ・リーグ

レナードの朝の監督でしたか。妙に余韻の残る映画だなぁとは思いましたが、なかなかどうしてグッとくる映画でござんした。

で、レナードよろしく史実に基づいたものなのかと思ったのですが主役二人の姉妹プレイヤーがいたような記録はないらしく、割とフィクショナルな要素が強めらしい。

世界大戦時のアメリカ国内における女性と野球という組み合わせゆえに、中々重いシーンもある。

そもそもが当時の女性の扱われ方を割とそのまま持ってきているのでそういう意味でもドン引きなシーンが多々あるわけですが、それは意図したものであり、それをそのままに描くことによってグロテスクな映画としても観れてしまうという。

たとえば文字の読み書きができないせいで危うく選抜から落ちそうになる人物など、その識字率の差を浮かび上がらせるなどちょっとした場面が妙に印象に残る。

それは挙げれば枚挙にいとまがないほどで、いかに女性が客体化されモノとして扱われていたかというのがありありと分かる。

一方で野球というものを通じて女性の自立した意志も描かれる、というかそれが主題であろう。姉妹が担うのはその両義性であり、ドティがある意味で既存の価値観を温存するのに対して(完璧な姉に相対化され、トレードに出されながらも勝利を手にする)「残る」選択をしたキットが試合後にユニフォームを着ていたのは示唆に富む。

「がんばれベアーズ」的なへっぽこたちが集って、という要素もある。

フェミニズム映画としての輝きを持ちながら、同時にトム・ハンクス演じるトキシックマスキュリニティばりばりのジミーが、やはり彼自身もそのパターナリズムを内面化し纏わされていることを示唆してもいる。

易怒的であり叫んでばかりであるせいでややもするとその価値観に埋没してしまいがちだが、ドティに対して言い放つ「苦しいから楽しいんだ」という言葉はあらゆるものに言えることかもしれない。

あと選手のミスに怒号をおさえてめっちゃ震えながらアドバイスに徹するトム・ハンクスが最高だった。あそこでめっちゃ笑いました。

 

「エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に」

うーむやっぱりリンクレイターは良い。野球で選抜された大学生の話なのにほとんど野球をしないというあたりが凄くいい。

変なやつはいるけれど、決して悪いやつではなく、そういう変な奴をからかったり笑ったりはするけれど排斥するわけではなく、生暖かく見つめてくれるナイスな連中ばかり。

極めてホモソーシャルな世界にいながら(そしてそれ自体は特に苦にしていない)同時に文化的な素養もある主人公が、その二律背反の世界をただただ楽しんでいるだけの映画といっても過言ではないのではないか。ラストが大学生活最初の授業が始まる中で幸せそうに居眠りに入ろうとするところで終わるのですよ、これ?

ありがちな不安や怖れなんて微塵も感じさせない、ただひたすらにこの映画からは多幸感があふれている。

とはいえ、スポーツとアートそれぞれの世界(の住人)が折衝する場面にはわずかに邪推が去来するのだが、しかし本質的に悪い奴らではない野球部の連中は上手く(あるいは下手っぴに)やれてしまう。その象徴がグウェン・パウウェルだろう。

とにもかくにも笑えるディテールが満載で、一つ一つ取り上げるのが難しい、演技の間や軽妙なやり取りだけにこれはもう観て笑うしかない。

スプリットスクリーンのシーンとかキュン死にしますですよ。

いわゆる「しごき」やイニシエーション的な新人いびりはある。野球部だし。けれど、それをホモソーシャルの宿痾として片づけられがちな今だからこそ、その表面的な行動の裏に流れる仲間意識のようなものを感じ取るべきなのだ。

私は今までにホモソーシャルなものを批判してきたけれど、しかし同時にそこには人と人とのフィジカルな繋がりの可能性があることは忘れてはならないのだ。これは自戒もこめて、だけれど。

エンドクレジットまでナイスな連中のナイスな歌唱が聴けるので、ともかく最初から最後まで幸福にあふれている。

 

 

ライフ・アクアティック

そういえばウェス・アンダーソンの映画ってまともに観たことないかも。いや「犬ヶ島」とか結構良かったけど、あれはあれでちょっと異色というか意欲的すぎるというか。

2024/9

「乱れる」

こうじさん!からのおかえりなさいをまさかカット割らずにやるとは

電車の時間の冗長さが叙情になる。

家制度の告発、それが次男によって、未亡人に対するものというのが面白い

 

 

「 サンダカン八番娼館 望郷」

 

小さな巨人

なんか冒頭15分のまじめ腐った感じでいくのかと思ったら予想に反してもっとコミカルだった。その手つきも含めてフォレスト・ガンプっぽいというか

 

「ザ・イースト」

なんだかなぁ…劇映画でやると途端に陰謀論臭くなるのはなんでなんだろう。

分からなくはないけど。

 

ラストキング・オブ・スコットランド

歴史上の人物を架空の人物の視点を通して描く、というのはまあいいとしてこの人種の配置はナイーブさゆえなのかどうか。

マカヴォイという白人イケメンで若き医師がウガンダという黒人世界に取り入るのだから、どうしたって意識せざるをえない。

それが監督なりのシニカルな目線なのか。まあそうなのだろう。

人肉ジョークなども、黒人が自分がどう見られているかを理解した(という前提)上で描いているのだろうが、どうなのだろか。

物語もオリジナルだというなら白人の欺瞞性には自覚的だろう。イギリスに対するスコットランド人の自意識という部分をつついてもいる。

そういう意味ではやはり0年代的といえよう。

ドアを閉じる時にチラッと銃が映るのもゾッとさせるカメラワークがあってよき。

 

「ベイビーわるきゅーれ」

前評判が高かったし某氏がジョンウィックを引き合いに出して推してたので期待してたんですけど別に言うほど面白くもなかった。てかジョン・ウィックの方がちゃんとしてるじゃん。

良くも悪くも、と書くけれど割と悪い意味でインディーズっぽい感じではあって、おそらくはそこまで予算がないのだろうというのが分かってしまうだけに居たたまれない感じもある。

じゃあそれを編集や物語でカバーや演技や音楽でカバーできているかというと別にそんなこともなく。というか演技は酷いってわけじゃないけど演技に見えないというか、エチュード的といえば聞こえはいいのかもしれないけれど、それがあのマンガ的・アニメ的なやりとりとは絶望的に合わないと思う。そういう意味でこれがアニメだったらもっと良かったのだろうなと思う。

会話にしてもひたすら冗長で、それを「リアル」と受け取らせたいのかもしれないけれど、すでに書いたようにだとしたらあそこまでマンガ的に描いては食い合わせが悪いだろう。

そもそもがそういった退屈な会話で間を埋めようとしているのでアクション以外のシーンがキツい。

こういうことは20分のドラマとかならいいんだろうけど(実際に深夜ドラマになってますしこれ)、長編映画としては退屈すぎる。

思うに、中編か短編映画だったらもっとグッとよくなったんじゃないかと思う。昨今の潮流に乗っかって中・短編として作ればあるいはそのポテンシャルを発揮できるのでは。

アクションシーンが白眉と聞いていたのでどんなもんかと思ったが、確かに終盤のアクションは「おお」っとなったけれど序盤のコンビニでのアクションは「アトミック・ブロンド」が先んじているし色彩設計もしっかりしている。まあそこは予算の都合とか考えれば仕方ないんだろうけど、観客としてはそれをおもんばかる必要とかないですし。

普通にジョン・ウィックの方がいいじゃんすか。

 

ほえる犬は噛まない

ポン・ジュノの長編デビュー作ということで今更観たのだが、「パラサイト」で使われたモチーフがほとんどこの一作目にも用いられていて、ほとんどあの傑作に結実することの予告に近いのでは。坂道、地下、屋上といった(社会的)階層性は、「パラサイト」においては明白な貧富の差として描かれていたが、こちらでは富める者がおらず貧しい者たちのグラデーションが描かれている。そしてその最下層に位置しているのが実は人間ではなく「犬」といったあたりがポン・ジュノらしいというか。

物語のすべてはマンション(というかマンモス団地的な画一さとそのデザインから来る均質化された乏しさ)という空間でのみ展開するのだが、それを強調するように団地(の通路)を横から平面的に撮った望遠のコミカルなショットは「パラサイト」において真上から撮ることで階層性を鳴らしてしまうという極めて技巧的なショットに通じる。

2000年の映画ということは撮影されたのはほぼ90年代末期。それはまだテレビが力を持っていた時期であり、この映画においてもそれは有効なのだろう。

だからペ・ドゥナ演じるヒョンナムがあまりにも退屈でやりがいのない低賃金の事務仕事の中でくすぶっている生活の中で、テレビの向こうで報道される銀行員が強盗を撃退するというニュースに羨望を抱く。

ここシーンにおいて彼女と、友達のチゃンミが例のヌードルを啜る文房具店のあまりにも狭い空間は、そのまま彼女の心理的な(そしてマンションという囲われた空間)の閉塞さに通じる。だからこそ、彼女たちがクレジットが流れていく中で森の中を歩いていくシーンは開放的で(バックにはアニメ「フランダースの犬」のパンクなカバーversionが流れている!)、しかしその木々によって空は閉ざされていて(そもそもアングル的に解放感を出そうとしていないのだが)完全にその閉塞さから抜け出たわけではないことが覗える。鏡の光を反射させるのも、画面を通じた観客への挑発だ。

あと人物の着る衣服の色も分かりやすく意味が生じている。その色素の濃薄も含め、黄色いフード付きのパーカーやレインコートを着込むときはある種の「善意」による(犬への)行動がなされる。

しかし、この「善意」は同時に「独善」でもあり、各々の人物が各々の「独自の善意」に基づいた行動をしているに過ぎない。それはあの小学一年生の少女が犬を抱えるのですらそうだ。

ここに立ち現れるものは、ポン・ジュノは「純粋」なものなどというナイーブなものを信じていないのではないかということだ。

そこにあるのはグラデーションでしかない。だからそれを表現するための衣装の色なのだろう。それでも警備員のおっさんはかなりヤバめなので暗い色の服を着ているが。

社会的なテーマ性も含め、この人の怜悧な視線でコミカルに描かれるとかえってシニカルに見えるのは本作からだったのだなぁとしみじみ思う。

 

「劇場版 あの日みた花の名前を僕達はまだ知らない」

基本的には再編集して新規カットを追加した感じなのだが、その新規カットによって本編が過去・記憶化されているのが割とうまい構成になっている気がする。

焼き魔女

「BURN THE WITCh」観てきた。まあ映画そのものというよりもパンフレット目当てではあったのですが。2週間限定上映ということで上映終わったらパンフも販売終了しそうだし(通販でもしそうだけど)、ということで観に行ってきました。

話としては読み切り版の冒頭とケツを連載版に張り付けた感じで、オスシちゃんの「鳴き声」などについては特に言及なしなど、単なるマスコットとして配置されております。まあ連載版でも現状は単なるマスコットでしかないのですが。

BESTIAという形式で観てきたのですが、音でかいっす。これはシネマサンシャインオリジナル規格の上映方式らしく

・最新鋭の4Kレーザープロジェクション
・2種類のイマ―シブサウンドDolby atmos」「DTS-X」による3D音響

だそうな。

映像的には多分、そもそもオリジナルのフィルム自体が4K向けに作られたわけではなさそうなのでそこまで違いが判らず。音に関しては、もとからそうなのかこの形式だからなのかわからないのですが、キャラクターのセリフの音量がでかいのに反してBGMやSEはむしろ抑え目になっていて、あまり映画観てる感じはせず。

 

 

古くて新しい新世代のトランスフォーマーとして

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トランスフォーマー / ONE」を観た。

ファンスクリーン…いわゆる試写会が当たったので世界最速で劇場観賞した一人ということになるわけでございますが、日米同時公開で日本語吹き替え(しかも3D)ということからもタカラトミーがどれだけ力を入れているのか伺い知れる。

今年はトランスフォーマー誕生から40周年のアニバーサリーであり、本作の宣伝以外でも各種イベントやコラボレーションなどで盛り上げている。今回の異様なプロモーションの力の入れ具合というのもその一環ということだろう。

トランスフォーマー」の実写シリーズ以外でいわゆる(本国も含め)タレント・俳優の吹き替えを押し出すというのも珍しい(劇場用アニメではよくあることだが)ことで、そういう宣伝の仕方の手法というのも賛否はともかくとしてマスに向けて大々的に訴求しているということではあるだろう。そもそも「トランスフォーマー」のコンテンツでいわゆるファンではなくマスに向けられたもの、というのが(ハリウッド製ビッグバジェットとしての)実写映画シリーズくらいだとは思うのだが。

正直なところ「トランスフォーマー」が日本国内でどれだけ人口に膾炙しているのか分からない。自分に限って言えば本コンテンツのファンと呼んで差し支えないと思うが、たとえばマーベルやDCのヒーローのように「スーパーマン」「バットマン」「スパイダーマン」といったキャラクターがそれ自体として一つのコンテンツとして成り立つようなものは別として(MCU以後はその幅もより広がって入るだろうが)、「トランスフォーマー」はともかく、「オプティマスプライム」や「メガトロン」まして「オライオンパックス」などと一般人が耳にしてその図像を思い浮かべることができるのかどうか甚だ疑問である。

実写シリーズであれば「よくわからないけどハリウッドの大作だし観てみるか」という層にリーチするだろうが、CGアニメとなったときに、それが基本的に事前情報なしに1作単体で完結するディズニーピクサーやイルミネーションなどのアニメに対して本作のようなある種「キャラクターありき」なのに「そこまで当のキャラクターが浸透していない(と思われる)」アニメがどのように受容されるのか。そういうどうでもいいことをファンとして考えてしまうのである。

というのも、この「トランスフォーマー/ONE」は実写シリーズに対する個人的な偏愛を除けばあらゆるトランスフォーマーの映像作品の中で突出した傑作であるからで、しかしそういうファンの欲目を度外視した場合に一本の「(アニメーション)映画」としてどう感じられるのかという評価が自分にはほぼほぼ不可能だからだ。

繰り返すが、本作はあらゆるトランスフォーマーの映像作品の中で現時点でトップの作品だと思う。これまでのテレビシリーズ、本作が作られるまではトランスフォーマーの中で唯一の劇場アニメ映画だった「トランスフォーマー THE MOVIE」、実写シリーズも含めておおよそ自分は観てきている(それでもいくつか抜けはあるし言語版を観ていないものもある)が、純粋に「一本の物語形式を持った劇映画(あるいはアニメ)」としてであれば、本作以上の水準のものは「トランスフォーマーフランチャイズにはないだろう。

 

当然ながら歴史あるコンテンツという以上、それまでの積み重ねに対するオマージュやリスペクトも本作にはあるわけで(それはふんだんに散りばめられているし、そういったもの以外でのイースターエッグを見つけるのもファンとしては楽しみの一つとなる)、しかし一般客はそういうことはよくわからないだろうと予想される。

このように、自分の中にはトランスフォーマーファンとしての視点と映画をたまに観る人としての視点を切り分けられないため、このレビューにしてもどう書くべきかというのが非常に困難なのである。それが浴びるように観ていた実写版トランスフォーマーシリーズのレビューを書かない理由の一つでもあるし。

とはいえこの「トランスフォーマー/ONE」に関して試写会で観たときの興奮は「ビースト覚醒」を観た時にはなかったものだし、どうにかして称揚しなければならないという自分自身に対する奇妙な使命感みたいなものを感じてしまったのだった。

 

などと、どうでもいい前置きを書き連ねてきたが、ここからはファンの欲目とそれによるアクロバットでダイナミックな誉褒を全面展開していきたいと思う。そしてそれは、書き終えて読み直した今、映画のレビューなどではなくなってしまったということを予め付記しておくのが良心というものだろう。この映画に関する、あるいはこの映画に留まる文章を読みたいという人がこの文章を目にしたら、単なる怪文章でしかないのだから。

 

最初に言及しておくと、この映画は予告でも言われているとおり「始まりの物語」である。であるからして、本作で提示される物語上の問題は根本的な解決には至らない。いやもちろん倒すべき敵は倒すのだけれど、その背後に暗躍(というにはハッキリと登場しているし主人公たちにも知られているのだが)する巨悪であるクインテッサは言ってしまえば完全に放置である。

多分、ここは一般観客からすると気になる方もいるだろうが、TFファンからすると(本作での設定がどうかは分からないが)クインテッサを一作でどうこうするにはあまりにトランスフォーマーという種族にとって因縁深いキャラクターなのである。というのはまあ一応「最後の騎士王」でも彼らにとっての創造主という位置づけであることは言及されているので勿体付ける必要もないのだが。

後述する観点から、このクインテッサをユーザー・観客として見立てるとなおさら彼らの打倒というのは容易にはいかないのかもしれない。

だから本作はあくまで「はじまりの物語」であって、めでたしめでたしで終わらないのだ。ヒーロー映画におけるオリジンと構造的には同じだが、本作が少し特殊なのはヒーロー=オプティマスプライムの誕生譚でありながら同時にヴィラン(イーヴィル)=メガトロンの誕生譚でもあるということだ。

そういうものがこれまでに全くなかったというわけではない。マーベルやDCについては実写映画周りのことしか知らないのだけれど、それこそ「ドクターストレンジ」ではサイドキックがヴィランに落ちるというオチだったし(その後の「で、お前結局なんだったんだよ」は置いといて)、あるいは両者の誕生ではないもののヒーローと同じかそれ以上に魅力的でヒーローの存在を食いかねないヴィランもいた(キルモンガーなどはその筆頭だろう)。

しかし、本作のようにヒーローとヴィランが同時に誕生し、それぞれがあくまで同等の存在感をもって並置され、そのヴィランが打倒こそされ、むしろそのあとにこそヴィランとして真に目覚めるというのは本作の特徴的な点であろう。

また、これは一定程度恣意的であることを承知しつつ書くのだが、メガトロンはヴィランというよりもむしろアンチヒーローやダークヒーローとしての性質も強く、それは例えるならばバットマンとスーパーマンの並びに見立てるべきであり、バットマンとジョーカーという見立てではないという感覚が自分の中にはあるため、その点でもやはりこの十数年のヒーロー映画との比較で考えてもオーソドックスな路線からは少し外れているだろう。

ヒーローとヴィランの同時誕生というのは「スターウォーズ エピソード3」におけるルーク・レイアの誕生とダースベイダーの誕生が並置されるという形式と類似だが、あれは実質的な過去編だからこその表現だった。

翻って「トランスフォーマー/ONE」は、TFファンからすればオプティマスプライムという「コンテンツの顔」が誕生する物語という点においてある種の過去を描いたものと言えなくもないが、「ZERO」ではなく「ONE」が示すように本作は過去編ではなく実質的にスタートラインなのである。

それこそが本作の作り手(ハスブロタカラトミーなどの権利元も含め)が「新世代(に向けた)トランスフォーマーのオリジン=(Y)OUR ORIGINのトランスフォーマー(映画)を作り出す」という志の証左なのではないか。「これまでのファン」=OURと「これからのファン」=YOURを繋ぎ、さらなる10年、20年、40年へと展開するべく。

そしてそれは一定の成功を収めていると言っていいのではないか。

たとえばキャラクターの踏襲と発展性。

TFファンであればあるほど、オプティマスプライムの前身であるオライオンパックスというキャラクターとそのバディであるディーの軽妙さには虚をつかれるのではないだろうか。

オプティマスプライムというキャラクターは、多少の振れ幅はあれど基本的に「総司令官」「リーダー」であり、頼りになる父親的な存在だ。それぞれのシリーズによるけれどオリジナルは血の気が多かったり物騒な発言したり脳筋だったりするしコミックの方では割と懊悩するキャラだったりもするのだけれど、少なくとも本作のオライオンパックス(=オプティマスプライム)はむしろ言葉数が多く何事に対してもはっきりものを言い、(偽りの)秩序や安寧よりも正義や冒険を掲げて憚らない探求心に溢れる若者として描かれる。冒頭からして書庫に忍び込んで記録を盗み見しているという具合である。これはコミックス版のデータ管理員としての役職を踏襲しつつ、むしろそれを越権的に使うシーンにすることで「オプティマスプライム=オライオンパックス」というキャラクターの転倒を起こしている。

ディー=メガトロンにしても暴力性を積極的に用いながらも思慮深く一方で誰も信用していないような内面が描かれがちなこれまでのメガトロン像とは、やはり少しズラされているように見える。

しかも、この手の片方が闇落ちするバディものパターンでは珍しく(?)、行動を先導し常にアクションを求めるオライオンパックスの方こそがヒーローなのだ。むしろ制度や権威を気にしているのはメガトロンの前身であるディーの方だったりする。

ここが面白いところなのだが、本作においてこの両者は本質的な部分は似通っていながらも最終的にお互いの価値観を交換したようなキャラクターへと至るのだ。にもかかわらず、一方はヒーローの誕生として描かれ一方はヴィランへの堕落として描かれる。

前述のとおりオライオンパックスは正義や友のためなら多少のルールの逸脱を辞さなかったのが、オプティマスプライムとなることで秩序と平和を重んじ、そのために無二の親友を追放する(まあ仕方ないけど)のも厭わない決断力を発揮する。

一方のディーはそれまで規則の順守や権威(≒力)を崇めていたが、それが虚飾であることを知り、無法の民の長に上り詰める。まあこの辺細かいこと言うと力を信奉する無法者たち=ディセプティコンたちが一騎打ちに敗れたメガトロンの下につくのは若干気になるのだが。

両者がそれぞれのかつての価値観を(意図の有無にかかわらず)取り込み、それをこそ己の信念のために用いる。それまで並置され内面の異なる(しかし志を同じくする)二人の鏡像関係・対象関係がここにおいて極大化される。

ここにこそ「トランスフォーマー」というコンテンツ・フランチャイズの持つ特筆すべき二面性が現れているといえよう。

それはヒーローとヴィランの同質性と異質性の交換可能性だ。もっと分かりよくいうならば本質は表裏一体であるがゆえにどちらのサイドも常に(は言い過ぎか?)別のサイドに転倒する可能性を持っているということ。

とはいえこの二項対立は別段「トランスフォーマー」だけのものではなくて、それに先立つヒーロー映画・コミック(もっと遡って英雄譚でもニーチェでもいいけど)で言及されるものではある。

しかし、トランスフォーマー(アメコミ版のグロ趣味とかファンパブとかそういうのは抜きにして)がそれらと異にするのは、マーベルやDCといったアメリカン(ヒーロー)コミックの大家がまずもって「物語」が先行してあったのに対し、「トランスフォーマー」は(その起源が日本であるということもあるのか)は「玩具」が先にあり、それを売るためのプロモーションとして「物語」が用いられているということだ。

ここで無暗に資本主義とか市場原理やらを持ち出してそこで売られる「物語」という商品があーだこーだなどと論ずるほど私は頭が良くないので、上記のようにあえて単純化して考える。

つまり、「トランスフォーマー」においては「物語」は後付に過ぎないのだ。言ってしまえば「物語」を偽装……ひいてはそれに擬態(Disguise)することで今の地位を得てきたのだ。

市場で売れるための分かりやすい物語。徹底してマスプロダクツであるその安っぽさ、軽薄さはともすれば嘲笑や揶揄の対象となるだろうし、それ自体はアート側からの舌鋒として確実に機能するだろう。

しかし、その安易さ・安っぽさ(後述するリミテッドアニメーションとの繋がり)があるからこその価値というものも確実にある。

本作でもそうだが、メガトロン、というか彼を筆頭にしたディセプティコンヴィランとして描かれる。「トランスフォーマー」においてはオートボットディセプティコンという二大勢力、あるいは善と悪の組織として明確に(例外も多くあるが)描き分けられる。これ自体は安易な二項対立図式だと言えるだろう。一方でトランスフォーマーの初代アニメーションおよびその玩具販促における惹句に「君が選ぶ!君のヒーロー!」というのがあり、それは決してオートボットだけを指して言っているわけではない。悪のディセプティコンデストロン)すらも子どもたちにとってはヒーロー足り得るということであり、それはある意味では単純な勧善懲悪をベースとした(ベースとしているからこその)「物語」としてのテレビアニメーションを飛び越えたことろにある想像力を頼りにしているともいえるのだ。

比較対象としてのアメコミ文化はどうか。前述したようなほかのアメコミ大家はむしろ「トランスフォーマー」のような単純な善悪の二元論に回収されるような単純さを捨て「成熟」することによって今の地位を確立しているはずだ。幾度もの戦争や現実の社会状況を経て単純な正義を語り得ないがゆえに複雑化していると言えるだろうし、繰り返しになるが、そのような複雑さがあるからこそ今般の社会的評価があるのだろう。

もっともこれだけの規模で展開し40年の歴史を持つ「トランスフォーマー」というコンテンツにもそのような社会を反映した要素を取り入れることはままある。アメコミにおいては明らかに北朝鮮をモチーフにした国とディセプティコンが手を組むといったような軍事的要素もあるし、最新作のアーススパークにおいてジェンダー多様性がそれとなく仕込まれていることもある。

しかし、それこそがむしろ私には「軽く」見える。なぜならそれは結局のところ「人間」の問題であって、「トランスフォーマー」それ自体の問題ではないからだ。ほかのアメコミは基本的には現実の・人間のメタファーであり、そこに人間社会の問題を反映させることはある意味では必然だと言える。

しかし、「トランスフォーマー」は必ずしもそうではない。そもそも厳密に言えば機械生命体であるトランスフォーマーに性別はないわけだし…などと書きつつも初代のアニメーションの時点で「ウーマンサイバトロン」とかいうおもっくそ女性型のTFが出てきてるんだけど……要するにその「分かりやすさ」こそが「トランスフォーマー」の軽薄さなのだ。

再三になるがそれは善悪やヒーロー/ヴィランという二項図式を単純化して展開しているように見える(それは玩具のメインターゲットである児童に物語を分かりやすく把握させるためのマーケティングの一環でもあっただろう)し、それ自体はあながち間違いではないだろう。

しかし、単純であるからこそ、その軽さはほかにない価値を持ちうる。空っぽの方が夢詰め込めるのである。

そうして単純化された善悪二項図式は、前述のようなアメコミ群が複雑な社会状況を取り入れることで善悪や正義を揺さぶったのに対し、その単純さによって両者の可変性を容易にし善悪の境界を軽やかに越境するのだ。

それはまさに彼らの「変形」というアイデンティティひいては(ドグマ的な)存在理由に他ならない。トランスフォーマーのファン、特にグッズを集める者の中には「変形しないトランスフォーマー」のプロダクトに価値を見出さない者も一定数いるように、往々にしてその「変形すること」ひいては軽々しく変転することこそがほかにはない

トランスフォーマー」の魅力なのだ。

ドラスティックに異なる見方をするならばトランスフォーマーという種の持つその移ろいやすさ=可変性(とその限界性)はまさに彼らの変形する身体性に宿っているのであり、本質的に切っても切り離せないものだ。

そしてそれは「乗り物(あるいは生物)からロボットに変形する」という、ごまかしのきかないフィジカルな玩具がこのフランチャイズのオリジンであるからに他ならない。言うまでもなく「メディアミックス」の歴史を紐解けばその前後関係は必ずしも明確に区別できるものではないのだろうけれど、玩具そのもののフィジカリティがほかの玩具の性質や物語に先行して存在感を放っているのは「トランスフォーマー」の特筆すべき点だろう。

 

と、ここまでメタな視点から書いてきたが、実はその「変形」というモチーフが本編の物語にも大きくかかわってくる。

トランスフォーマー/ONE」では(劇中でそういう名称で明言されたかは忘れたが)彼らは機械生命体でありサイバトロニアンという種族である。しかしその種族の中には変形できるもの(トランスフォーマーとオライオンは呼んでいた)とそうでないものが明確に峻別され、変形できないものの多くは低い地位にあり、惑星レベルで枯渇したエネルギー源を賄うために危険な炭鉱労働をさせられているのである。

一方で変形できるものは煌びやかなレースイベントに参加して黄色い声援と喝さいを浴びるのだ。このように本作では社会階級のメタファーとして単純に「持つ者」と「持たざる者」として描かれるている。ただ、これまでのトランスフォーマー歴史の中では運搬車や建設車両に変形するTFもおり、そういったものがブルーワーカーとして描かれていることもあるので変形の有無それ自体が即・階層化されるというわけでは必ずしもない。

が、変形できるものは変形できないものに比べて体躯が一回り大きく描かれ、光沢のテクスチャも明らかに違っており(それは置かれた環境の違いなのだろうが)、視覚的に明瞭に差異化されていることからも本作劇中では「変形の有無」が重要な価値判断として働いていることは確かだろう。そして既述のように、それは「トランスフォーマー」ファンダムの中心を占める価値基準の一つである。

本作のメインキャラクターの四人も当初は変形できない者たちであり、それゆえに過酷な炭鉱作業やごみ処理といった3K労働の地位に追いやられている。

ゴミ処理担当のビーがその廃棄されたゴミ屑で作った木偶の中に物語のキーとなる情報を収めたメモリが紛れており、それを頼りにエネルギー問題を解決する糸口となるアルファトライオンという原初の偉い人の一人を探す冒険に出ることになる。そしてそのアルファトライオンと接触することで、彼らは生存の術として「変形」能力を「取り戻す」のである。

ここで重要なのは新たに「獲得」するのではなく「取り戻す」という物語構造になっていることだ。物語が進む中で明らかになるのだが、本来サイバトロニアンはみな「コグ」という変形能力を有したパーツを伴って生まれてくる(この設定自体は初代のアニメーションシリーズの中にもある)。だが、ゼータプライム(ここで初めて言及したが、要するに現在のサイバトロニアンのリーダー的存在)が実はそのコグを奪って意図的に階層を作り出し体のいい労働力として変形できないものを使役していたことが明らかになる。

そしてこともあろうにそのゼータプライムは侵略者であるクインテッサと密約を結び、アルファトライオンを含む原初の偉い人たちを陥れることでサイバトロニアンのリーダーの座を得、見返りとして炭鉱労働者が集めたエネルギーをクインテッサに横流ししていたのだ。

それを知った四人は仲間の元に戻ってこの事実を明らかにして現状を打破しようとするのだが、その手法を巡って最終的に対立しながらオプティマスプライムがとりあえずの勝利を収め新たなリーダーとなるというのが物語の大筋だ。

 

すでに述べたように、本作の物語・世界観レベルでは徹底してその階層構造が明確にされており、それはキャラクターの大きさや光沢感だけでなく、彼らの生活圏が「地下」であるということも重要だろう。「地上」は危険な場所とされ、よほどのことがない限りはサイバトロニアンは地上に出ることない。

が、四人はアルファトライオンを探すべく地上に出る。そのプロセスとして「廃棄物を積んだ列車に乗って地上を目指す」のだが、そのビジュアルイメージがジェットコースターの上昇時のような軌道なんですな。要するに日本人的な馴染みで言えば「未来少年コナン」や「天空の城ラピュタ」(「君たちは~」でも使ってたか)がそうであるような「上昇」のモチーフが強烈に使われているわけです。

要するに階層構造(「上」「下」の関係)が明示されているわけで、物語としてはその転覆が(とりあえずの)ゴールとなっている。すでに書いたけれどクインテッサに関しては完全に野放しなので、ある意味では革命は成功したがその後の内紛を予期させる終わりであり、しかも本質的な被支配構造は温存されているので問題はより入り組んでしまったわけですが……まあ最初に書いたように「はじまりの物語」なんでね、これ。

また、これがアメリカで作られたということを考えると少し興味深いビジュアルも散見される。というのも、四人が乗る列車がひた走る地上の風景は、明らかに荒野(無機的ではあるが)であり、しかも夕陽に照らされているような色合いなのだ。この組み合わせは否が応でも西部開拓時代のアメリカの風景と重ならないだろうか。

そして、彼ら四人は「変形する能力」というトランスフォーマーにとってのスピリットのようなものを奪われ、その土地と資源を奪われ地下へと追いやられている。

そのような設定とビジュアルイメージを合わせて考えると、クインテッサはコロナイザーとしてのヨーロッパ白人にも見えてくる。クインテッサの乗る巨大な宇宙船は、海の向こうからやってきた侵略者とダブる。

そして、これをさらに拡大解釈することで「トランスフォーマー」という新種に対する創造主・略奪者としての「人間(ユーザー)」というキャラクター論を見出すこともできる。

話を戻すと、奪掠された「コグ(=変形する能力=スピリット)」を取り戻し、その力によって偽りの権威を打倒し、「マトリクス(=土地・資源≒神性)」を解放し自由を奪い返す。それが「トランスフォーマー/ONE」の物語だ。それはとりもなおさず「トランスフォーマー」という身体性を(再)獲得することそのものなのだ。

 

このことからも「トランスフォーマー」において「変形」できることが枢要なモチーフとして取り入れられていることは言うまでもないだろう。

一方で、物語中盤まで四人は(はおろか大半のサイバトロニアン)変形能力を持たないために、変形シーンそのものがない。本作が「トランスフォーマー」であるにもかかわらず。しかし、だからといってあらゆるレベルにおいて何らかの価値が棄損されているとは誰も思わないだろう。

そして、この事実こそが「トランスフォーマーフランチャイズにおいて実は重要な価値転倒が起こっていることに他ならないのではないか。

それは劇中で変形できない彼らが活躍し躍動しアニメートされることで、変形できないものにすら魅力を生じさせるという「トランスフォーマーフランチャイズにおける「変形」の価値観を逆転させ「非変形」(だからこそ)の価値を4人を筆頭にしてまさに「変形できるもの」との対置によってこそ見出させる。物語前半において「変形」という極めて機械的なアクションを担わされるのは、機械的・書割的に描かれる(ダークウイングを筆頭にした)キャラクターだ。

そして、ここがおそらく「トイ・ストーリー4」のジョシュ・クーリーの手腕の最も光るところだろうが、4人が「変形」能力を得た後のアクションはどれもが「変形」それ自体を生かしたアクションばかりなのだ。

たとえば戦闘シーンにしても、敵の攻撃をかわすために変形したり、攻撃から攻撃にスムーズに移るために変形を使用するなど、視覚的な快楽に満ちた描かれ方をされている。彼らがまだ「持たざる者」であった際に描かれた「持つ者」としてのトランスフォーマーたちの変形は、「変形」それ自体をマンネリズム的に見せているに過ぎなかったのとは好対照だ。

本作でやってのけた離れ業とは、つまるところ「変形」と「非変形」の両極端の価値を「キャラクター」を通じて双方丸ごと肯定して見せたところにある。

 

繰り返すと、この「トランスフォーマーフランチャイズにおける価値のメインストリームは変形する玩具であることは論を待たないだろう。だが40年の歴史の中ではそれ以外の膨大な数のプロダクトが生み出されてきており、その総数だけでいえばむしろ変形する玩具以外の生産品の方が多いだろう。

本作は「トランスフォーマー」というフランチャイズにおけるそれらの価値観のコンフリクト(ファンダムの内紛?と見立てるのも可)を乗り越える。「変形」というアイデンティティを否定せず、「非変形」という周縁を尊重してみせたのだ。

トランスフォーマー」/トランスフォーマーによって「トランスフォーマー」の本質を抉り出し、その価値観を問い直しながらも否定はせず、その傍流にある価値観を掬いあげて肯定する。

 

さらに「トランスフォーマー/ONE」はこれまでのトランスフォーマーの多くのシリーズと異なり、人間が登場しないどころか地球の地の字も出てこないという特徴がある。玩具付属のDVDにおけるショートアニメやゲームなどにおいてはそのようなケースもあるが、いずれも明らかに地球が舞台であったり、最終的には地球=人類への接触を予期させる終わり方をしていおり、ここまで徹底して排されていることはほとんどない。

これは実のところ、かなりアクロバットなことをやっているのではないだろうか(少なくともトランスフォーマーに明るい人にとっては)。

なぜなら、この映画のシーンは全て異星のエイリアンの文化・文明で構築されており、観客(=人類)は人類としてよって立つビジュアルを見出すことができないからだ。

無論、前述のとおり現実世界のメタファーとしての背景は出てくるし、言語・音声までもが独自の体系を作っているとかではないし、端的に言って人型で表情豊かで共感も容易な程度に擬人化されている。そもそも「バグズライフ」やイルミネーションなんかは人間ではない生き物だけで成立させているわけで、レベルとしてはそれらと同じだろうし、だからこそ2時間の劇映画として成立するわけで。そこまで徹底してしまってはもはやアバンギャルドな実験映画になってしまうだろう。

だが、程度はともかくとして実際にやっていることは現にそうだし、究極的には同根である有機体たる動植物などの擬人化ではなくこちらはルーツの全くことなる異星人の擬人化である。

異星や異界(人間の世界ではないと言う意味で)でのみ展開していくコンテンツ自体は、それこそゲームなどでは割とあることではあるが、ゲームのようにプレイヤーが操作することによって視点を一体化するほどのインタラクティビティは映画にはない。

それにもかかわらず本作ではそれを徹底している。

そして、それによってこそ(少なくともこの映画の中においては)「人間」による相対化を経ずに異星人=非人間であるサイバトロニアンの「(心身の)人間性」がより強調され絶対化される。

そもそも、映像内でもそれとわかるようにテクスチャが作られている無機的なフィジカルを持つトランスフォーマーと、所与として理解している肉体という有機的なフィジカルである人間。物質界においては全く異なるそのフィジカリティは、しかしそのどちらも映画という媒体においては二次元に押し込められ並列化される以上、少なくともスクリーンの中においてはその物質性に違いはない(というよりも問題が生じえない)。

これが重要なのは、あくまで「トランスフォーマー / ONE」はアニメーションであるということだ。つまり、ライブアクション(実写)ではないからこそ、アニメーションの本質としての「アニマ」が非人間であるサイバトロニアン=「トランスフォーマー」に与えられるのである(そもそも、実写映画であってもトランスフォーマーを描くとなればその実質は情報量の違いやディテイール・ライティングの違いでしかないのだが、それを突き詰めると実写ですら「CG」に置換可能なのであまりそちらには振らないが)。

そして、これはさらに「メディアミックス」という日本的なメディア越境の仕草もといシステムを通じ、先の話題に立ち返ることになる。

「日本的」「メディアミックス」とは言ったが、別にこれは日本独自のものでもないし、それこそアメリカでは「メディア・コンパージェンス」「コンバージェンス・カルチャーや「トランス・メディアストーリーテリング」として類似した概念がある。

だが、厳密にはこれらの概念と「メディアミックス」は異なる(この辺の用語の経緯はやや入り組んでいるので詳しくは立ち入らないけれど)し、私があえて「日本的な」「メディアミックス」という用語を使ったのは、「トランスフォーマー」というフランチャイズが「日本生まれアメリカ育ち(公式の文言)」であるからだ。

加えて、日本におけるメディアミックス史の起こりには「鉄腕アトム」という極めて「超ロボット」的なキャラクターの存在があり、それは直結とまではいかずとも日本的な想像力の結実としての「ガンダム」に類する搭乗型のロボット群とは異なる可能性である「トランスフォーマー」に連なるし、やはりそこにはアニメーションや(日本的なものとしての)アニメの存在が強くあるからだ。

そもそもアニメーションとは、エスター・レスリー曰く「極めて初期の時点から、アニメーションとは自己再帰的で自己暴露的であり、生命と破壊の回路を確立している。アニメーションは命を与え、その消滅と題しつつ常に克服し、運動というものの本質、連続と新生を強く主張するのだ」とし、アニメーションは、運動の力によって命をもたらしているのだと説明される。

であるならば、変形=運動それ自体を組み込んだ玩具であるトランスフォーマーにはまさに誕生のときからその可能性を内包していたとも言えよう。

 

そして「アニメ」とメディアミックスの関係性スタインバーグの著した分析をもとに考えるならば、そもそもメディアミックスの定義の一つとして、「文字通りに物語を伝えることのためというだけではない。物語は、メディアミックスにおいては必ずしも必須の要素となるわけではなく、たいていの日本の作品においては、キャラクターの存在の方がずっと重要」であり、「柔軟で融通が利き、物語や見た目 のバリエーションにも寛容」で、しかも「メディア形態間の階層化があまり見られない。理念的には、各要素は他の全ての要素と同じ重みを持」ち、「マンガ、アニメ、映画、フィギュアなどは、どれもが他と同じくらいに重要で、この中のどれもが、より重要な製品を単なる広告にするためにあるものではない」のだ。

加えて「アニメ(いわゆる日本的なリミテッドアニメーションのこと)では、ギクシャクと不連続に動くことこそが重要なのだ。この特徴的な動きこそが、商品の流通と結び付き、アニメを中核としてグッズやメディアの循環を発生させるメディアミックスと呼ばれる仕組み、アニメのシステムを産んだのである」とスタインバーグは指摘する。

先に引用したエスターの文言はフルアニメーションを指してのことだろうが、しかし日本的なリミテッドアニメーション=「アニメ」にもそれはあり、その本質を抽出し「アニメ」に適用する際にスタインバーグはラマールを援用し「動的静止性」と呼んだ。そして「絵の動的静止性やキャラクターの中心性は、玩具やシールやチョコレートなどのメディア商品と、アニメとが接続していった理由であり、メディアミックスを発展させ消費の様式を変化させ、アニメーションが商業的に成功し現在まで続いている理由でも ある」のだという。

「「アニメ」は 根本的に他のメディアや商品などに対して開放され~中略~単純に言えば、「アニメ」は、その始まりからしてメディアミックスのような形態だったのだ。「アニメ」というメディアは、最初からミックスされたものだった。システムとしての「アニメ」も、 アニメーションという媒体以外のメディアとのつながりを積極的に利用していた。」と。

「アニメ」と「メディアミックス」の関係性はそれこそ紙芝居にまでさかのぼることができるが、要するにここで枢要なのは「トランスフォーマー」がその日本的な「メディアミックス」を通じて現在の、そして「トランスフォーマー / ONE」に至ったのだということだ。

非物質的なメディアであるアニメと物質的なメディアである玩具を「メディアミックス」という手法を通じ相補的に、というよりはむしろ(資本主義消費社会の要請的必然としての)相互還元的にお互いの存在感を増幅させ、前述のとおり玩具としての「トランスフォーマー」にもアニメーションを通じた魂が宿るのだ。

アニメーションで以て玩具に対し逆照射させ、アニメ(を筆頭にしたメディウム)とそのオリジンである玩具を繰り返し反復して相互のアニマを増幅させていく。

これは、いわば「トランスフォーマー」に限らない「(キャラクター)玩具」の在り方と言えるだろう。ただ、「トランスフォーマー」はまさに「トランス」の通りそのフィジカリティにメディア越境性――「完全変形」がその暗黙に了解されていることを考えればメディア架橋性と言うべきか――を内在しているのである。

多くの玩具を主体としたフランチャイズが往々にしてその玩具と物語のメディアを同時進行で作り上げていくのに対し、「トランスフォーマー」はそれ自体は物語を持たない玩具がそもそもの「ゼロ地点」に厳然と存在する。

 

そして、既述のとおりだが「トランスフォーマー / ONE」が描いたように、「トランスフォーマー」はもはや人を必要としない。完全なる異星人、完全なる他者としてそのアニマを人間に依拠せずに持ちえることを、非物質的なメディアである「映画」のレベルではそれを達成した。(もちろん、今後続編が出るとしたら人間が出てくる可能性も十分にあるが、少なくとも本作はこれ一本で完結しており、仮に続編が作られ人間が登場したとしても本作の瑕疵にはならない)

そして非物質的なメディアたるアニメーションでそれが示されたとなれば、メディアミックスを通じて拡散・増幅・「トランス」する「トランスフォーマー」は物質界にもそれが無際限に転写される。その物質的メディアである「玩具」側の可能性の萌芽がRobosenによる「フラッグシップ」シリーズ(あるいはカラクリスタチューも含められるかもだが、若干ズレるかもしれない)というトランスフォーマーのハイエンドプロダクトだ。

これはいわば、ユーザーの物理的なインターフェイス(=手)の介在なしに声かけだけで変形(しないものもあるが)・アクションをこなす、まさしくロボットの玩具だ。

私個人の趣向としては、自分の手で変形させることこそが楽しいので、玩具としてはこの「フラッグシップ」シリーズに関心はないのだが(そもそも高額すぎておいそれと買えない)、ここで重要なのは「玩具」としての「トランスフォーマー」すらも、現時点において人間の介在を失わせつつあるということだ。

そして、この方向性の先にあるのは、あるいはAIとの融合による完全自立・自律した変形玩具のトランスフォーマーだろう。

その時にこそ、「トランスフォーマー」は物質・非物質のメディアの循環的往復によって獲得した疑似的なアニマを真なるものにし、もはや創造主たる人(=クインテッサ)の手によってアニメートされることなく人間に並び立ち、あるいはそれ以上の存在として顕現することになるはずだ。

 

余談だが、日本で最も成功したロボットコンテンツのフランチャイズである「ガンダム」は本質的に搭乗型であり、その物質界の玩具のメインがガンプラという徹底して人の手が介在することによる快楽を志向していることを考えると、アニマを持つことは難しいだろう(というかそれを目指してはいない)。原寸大のアレにしても、あれ以上の可能性はありえないだろう。もちろん、遊びとしてのガンプラ自体は肯定的に捉えているし、これはあくまで「ロボット(トランスフォーマーは厳密には違うのだが)」コンテンツの比較としてである。

 

とにもかくにも、この「トランスフォーマー / ONE」は、その先鞭をつけた偉大なる作品として歴史に名を刻むことになるだろう。

 

以上、ファンによる誇大妄想であった。

 

などとここまで長々書いたが、悪筆による駄文の羅列としか思えない文章群で、自己満足のためとはいえ読みにくいったらありゃしない。

なので改めて書いておくが、アニメーションとして面白いというのが大前提としてあるのでそこは安心してもらいたい。

前述のとおり「変形」を用いたアクションは戦闘シーンやレースシーンのそれぞれで工夫を凝らした見せ方(例えば路面がリアルタイムに生成されていくイマジネーションは過去にもあったが、ここまでカメラワークを大胆に動かしながらというのはほかにないだろう)になっているし、キャラクターのかけあいも軽妙で笑える部分もたくさんある。ファン的にはキャラの解釈が違う、という人もいるかもしれないが。

ランニングタイムはこの手のアニメとしては若干長いかもしれないが、初代のアニメを彷彿とさせるテンポの良さがあるので決して停滞することはない。

吹替えに関してもモーマンタイでござい。オプティマスプライム玄田哲章というイメージは今もって強いが、これまでのシリーズの中ではむしろ初代と実写版以外では別の声優が吹き替えることも多かったし。

むしろ、今回のオライオンパックス=オプティマスプライムはこれまでのオプティマスプライムコンボイと違うキャラ造形になっているので、中村悠一こそが今回のオライオンに適していると感じられるくらいハマっている。吉岡里帆もかなり頑張っていて違和感はなかったですよ。個人的には木村昴のディーはハマっているけどメガトロンとしてはもうちょっと凄みがあってもいいかなぁとは思いました。バンブルビー木村良平でもう固定でしょう。実写版の方は未だに違和感あるんだけどね。

あと錦鯉の二人も割とアリだとは思います。あの程度なら。

 

またこれもメタな見方になるのだが、ジョシュ・クーリーが「トイストーリー4」において描いたことを更に深化させ、作り手という神とその意図の下で動くキャラクターにまで敷衍できるのではないかとも思う。

トランスフォーマーそれ自体をトイストーリーのそれに見立てることはできるだろうし、なんならトイストーリーの世界に玩具としてのトランスフォーマーが登場させることも容易いはず。

というか、それをこそ当初は書きたかった内容の一つだったと思うのだが、書いているうちにあらぬ方向へと筆が進んでしまった。

 

とにもかくにも「トランスフォーマー」というフランチャイズの新たなる一歩として、これまでのファンにもそうでない人にも観て欲しい映画でござんした。

そしてファンダムにとって多幸感あふれる「トランスフォーマー」コンテンツはそうはありますまい。そういう意味でトランスフォーマーファンも必見。

 

また観るかもしれないんでその時は追記するかも。しないかも。

2024年7月

ハッシュ!」「恋人たち」

橋口亮輔の新作「お母さんが一緒」公開記念というか公式が直々に提供(一社提供!)となって過去の2作が放送していたので連続で観る機会を得た。

最初に結論だけ書くとどちらも傑作であった。

キャリアの割には寡作で、長編作品は最新作を入れても6作。今回のBSでの放送で長編映画は1/3を観たことになるという。短編を撮っていたり小説を書いていたりもするのだけれど、いずれにせよ少ない。

しかし何といえばいいのだろうかこの感覚。カット割りが少なく、どこかエチュード的でもあり、それが会話メインである高橋作品においては緊張感とおかしみをもたらしている。

ハッシュ!」に関して言えば横並びだったり相対している人物を横から撮っていたり画面の絵面自体は平面的でありながらも、カットを割らないということによって逆説的に人物の運動が生じ、カット一つ一つの空間に奥行を感じさせる。あるいはカットを割らないままカメラを少しパンしてみたり、動く人物に合わせてカメラを動かしたり、静的に見えながら実のところ動的であるというのは、高橋作品に通底するものなのかもしれない。少なくとも「ハッシュ!」と「恋人たち」からの印象としては。

ハッシュ!」はいわばWeird(として見られること)を自覚した、あるいは無自覚な人たちの話なのだろう(無自覚筆頭は事務員のつぐみで一歩間違えば人を殺しかねない怖さがある)。またその自覚を以てミソジニーに近い発言をする遠慮なくぶちこむユウジというゲイもいる。

もちろんここには反語的な意味合いが多分に含まれており、誰もかれも実に俗人的人間の魅力にあふれているからこそ何度も笑ってしまうし悲哀を感じもするのだ。

漂う空気の湿度は高い(それは高橋監督が「水」を重要な要素として使っているからだろうが)が、しかし殊更に人物がウェットになることはなく、むしろ人物同士の繋がりは極めてroughで、時に暴力的であると感じることもある。けれどそういった暴力が一線を越えることはない(死が描かれはするが、そこですらワンクッションが入れられる(それによってショックがなお増すのだが))し、まして、だからといって野蛮さがないというわけではなく、そこに多面性があることこそが高橋監督の人物造形・人間関係の描写の妙だろう。

勝祐と直也の関係にしてもその始まりはワンナイトスタンドだし(ゲイカルチャー的にはありふれているのかもだが)、朝子とチャラ男のレイプに近接する和姦がありながらもチャラ男をバカでアホとして描きながらも朝子は彼を侮蔑することはない。極めて家父長的に振る舞う勝祐の兄の勝治とそれに反骨の意志を表明しながらも従うしかない権力勾配の在り方の「これうちの両親じゃん…」「何でこの人たち結婚したの?」と言いたくなるようなげんなりする描写。

けれどそういった前時代的な価値観を持った勝治が勝祐がゲイであることを知りながらもその生き方を肯定するし(これは血縁とホモソーシャルという昨今では否定されがちな要素の反転としての可能性の提示でもあると同時に危うさでもある)、彼の死に直面した容子の様子はただの言いなりの従属的な妻のそれではないだろう。と同時に、エプロン(?)をたたむという行為の「妻」というくびきからの脱却という象徴的行為が切り取られたカットの何とも言えない空々しさは胸に来るものがある。

その前のシーンでさんざん前時代的な価値観を朝子にぶつけていた彼女にすら奥行が広がっている。

とまあ先に勝治夫婦のことを書いてしまったが、そういう重たいものばかりではないのがこの映画の魅力であって、勝祐と直也と朝子のトリオのシーンはもれなく面白いのがすごい。

ゲイのカップルと子どもというセンシティブな問題を、スポイトという面白ツールを使って性愛(性欲?)原理を周到に回避しながらもポジティブに着陸して見せる手腕も見事。

こういうこと自体はあることらしいし、そこに一定の説得力はあることを認めつつ、もちろんそこには女性の身体を依り代にしている事実はあるわけだ。

けれど、それを朝子が望んでいることである以上、そして彼女ゲイカップルにとって決して都合の良いだけの存在として描かれてない以上はそこを指摘するのはあまりにも意地が悪いだろう。

あまり派手ではないけれど演出も犬を渡し合う場面は明らかに赤ちゃんに見立てた擬似夫婦というか夫夫としての可能性を見ることができるし、勝祐と直也が二人で並んで歩くところのカメラワークなんかも実に良い。片方がおにぎりを食べていると思いきや「一緒に考える」と応じた瞬間にもう片方も実はおむすびを持っていて、それがカメラにフレームインすることによる「息ピッタリはまった感」は思わずガッツポーズするレベルです。

 

あと全く別の文脈で本作は傑作である。

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「恋人たち」に関しては

ほとんどが有名ではない俳優で揃えていたり、役名と俳優の名前が一緒だったりするもんだから、より劇中の人物と俳優そのものがリンクしてしまうような錯覚を覚えてしまう(黒田大輔とかは割と見るけれどメインを張ることはそんなにないし)。それが監督の意図なのか、それとも単に名前を考えるのが面倒なだけだったのか、それは分からないけれど。

しかし「ハッシュ!」に比べると全体の湿度が高く(特に田舎の家屋が絵面のメインになる瞳子パートは)、グラデーションこそあるものの割と絶望の色が濃く閉塞感も強い。

本作でとりわけ絶望しているのがアツシだろう。高橋作品では登場人物に何があったのかを最初に分かりやすく明示するということがない。
そうであるがゆえに当初はアツシという登場人物に対して、観客は少なからずWeirdな存在として認識してしまう。たとえばその時点では怪しい・あるいは偏屈な人としか思えないような描写として、仕事時のコミュニケーションの雑さや苛立った内心を道端で独白しながら歩き、その様子をすれ違う人に気味悪がられるというシーンはあからさまだ。
そのような意図の下であっても俳優の所作ややさぐれっぷり、周囲の反応や家の様子などからすでにからして何かを抱えていることはそういった描写の節々からわかる。直後のシーンの帰宅後の荒れっぷりなどは上手くいかなかった一日の最後にああいう形で鬱憤を晴らす人は少なくないだろう。
とはいえ斟酌をしたとて観客は彼のことをほとんど知らない。しかしだからこそ、それが、後半において世界に対する怨嗟としての独白ではなく、誰かに傾聴してもらうことによる語りとして反転する。あのスマホの機能をそのまま使ったかのような一足飛びのズームインも、その勢いに笑ってしまうのだけれど、しかしその時にこそ世界の眼差し=観客の視線はアツシにグッと近づくのだ。

いけ好かない弁護士の四ノ宮はどうだろうか。彼はメイン3人の中ではとりわけ嫌悪を持たれがちな人物だろう。高飛車で相談者のことなんぞ心底どうでもいいと思っており、パートナーに対しても高圧的ではっきり言って恋人関係ということを抜きにしてもパワハラ・DV的だ。いわゆるオネエに近い喋り方にはある種の緩さを隠れ蓑にした鋭利さがあり、その両義性を当人たちは「装い」としているのか内面化しているのかは当事者ではない自分に知る由もないが、ともかく四ノ宮にはそういった慇懃無礼さがある。

その人間性はゲイであることとは切り離されて考えるべきなのか。だが、ゲイであるというだけで友人の子どもに悪戯をしたのではないかとその友人の妻から疑われ、その友人からも冷めた態度を取られてしまった彼の人生に思いを馳せるならば、そういった歪みは完全に切り離せるのだろうか。
四ノ宮がその友人に学生時代から好意を抱いていたがそれを伝えなかったことは、彼の独白を、友人に通話を切られたスマホを通じて観客は知ることになる。
四ノ宮はイヤな人間だ。それはマンガ的巨悪でもなければサイコパス的な魅力を持っているわけでもない、極めて卑近な、どこにでもいる、あるいは自分自身の中にも少なからずあるであろう要素を肥大させた人間に他ならない。

 
そして瞳子である。なんでしょう、このありふれた絶望と諦念を全身で体現したような人間は。森三中の大島といとうあさこを足して芸人という変数を引いたような出で立ち。圧倒的な花のなさがゆえに圧倒的な存在感を放つこの俳優≒キャラクターは。
弁当屋のパートとして働いているのだが、その職場がもうなんか面白い。いや見てる分には「いるいる」「あるある」という感じで面白いのであって、その職場で働いている人たちからしたら居たたまれないであろう。もちろん、ここで言及しているのは弁当屋を取り仕切っているであろう店長の女性(とその夫)なのだが、まあヒステリック(要注意ワード)なのである。が、直接的な言及はされないし、出番自体も少ないのでこれは私の勘違いである可能性も大いにあるのだが、おそらく彼女は妊娠しているのだ。それによるホルモンバランスの乱れがあのような振る舞いに出ているということもあるだろう。
だからといってパワハラまがいの言動を看過していいわけではない。けれど個人経営の小さな弁当屋では現場を取り仕切る人間は限られるだろうから彼女が休むわけにもいかないのであろう。そういう奥行がちょっとした人物にすらあるのだ。

そして、こういう場景は表に出ないだけでどこにでも溢れているに違いないのだ。それこそが「ありふれた絶望」であるということだ。
で、瞳子はその職場に弁当の材料を卸に来た男にちょっとした恋心(という言葉が持つほわほわした感じは似つかわしくないのだが)を抱き、それによってまた別の「ありふれた絶望」に足を踏み入れることになるわけだ。

そうでなくとも瞳子の日常は何とも言い難い。人生のハイライトである皇居参観の時に撮ったビデオを何度も見返すことが楽しみであり、雅子さま好きであるがゆえに彼女をモデルにした小説を書き、その挿絵めいたものも描いている。

ここだけ切り取れば悪くないかもしれないが、マザコンの夫と姑と実質的な同居生活にピンサロ顔負けな愛のないインスタントセックス(コンドームを買いにいかされる始末)、ちょっとした冗談でマザコンビンタをくらう(のだが、このシーンからもわかるように姑は割に悪いわけではなかったりする)し、褪せた人生であることには違いないだろう。

だからこそ、ほんっとうに他愛のない、業者の男との鶏追いかけっこの(もっと簡単に捕まえられるだろ、というのも含め)本作において極めてフィクショナルなシーンのキラキラとした音楽を含めた彩はある意味での白眉である。その落ちも含めて。

で、まあ行きずりセックスをしたり小説を読んでもらったり(よく考えると褒めてるわけではない)と鶏男との仲を深めていくのだが、まあそこはこの映画らしく「事業おこすから金用意してくれや」という方向に進むわけである。

この辺もまあ細々とした描写が光るのだが、養鶏所に連れてこられたシーンの彼女の装いはデートだと思って浮かれていたやつのそれなのである。それの前のスナックのシーンで瞳子はシューズを履いているのだが、養鶏所ではブーツだしピアスしてるのだ。そのあともまあ酷くて、おめかししているシーンでいい感じの「さあこれからだ」といったBGMがかかったかと思えばアレですからね。

そうしてありふれつつも深い絶望に打ちのめされたところで瞳子がもらす夫にプロポーズされたときの話がそのあとの諦念まみれの日常への回帰にささやかな希望を回復させる。

まあ夫側の描写がないので、「ゴムなしでいいじゃん夫婦なんだから子供ができても育てりゃいい」発言も愛情として受け取るにはあまりに前半の描写が強いし、瞳子の口にしたエピソードもやっぱり極めてパターナリズムで前時代的なプロポーズに聞こえる。
だから、これは相対評価としての夫への帰着として見れてしまうのだ。もちろん、鶏男も被害者なのかもしれないという可能性は提示されてはいるし、同情の余地がないわけではないのだけれど。

ゲートボールの大会の結果次第では姑も気分を悪くしてまた険悪なムードになりそうだし、多分また同じようなことがあるのかもしれない。

ありふれた絶望の連続が我々の日常であり、そこにたまに希望めいたものがある。それをよすがに生きていくしかないのかと、そういう絶望が瞳子のパートには含まれている。

アツシの方はそれとは違う希望も提示されているのだけれど。 

一見この三者はほとんど繋がりが見いだせない(アツシと四ノ宮は直接の面識があるのだが)のだけれど、上司の黒田がアツシを励ますために買ってきた弁当が瞳子の働く店で作った弁当だったり、美女水のくだりだったりと、実は緩く繋がっていたりする。それくらいの繋がりこそが、あるいはこの世界の本質なのかもしれない。グラノヴェッターではないが、緩い繋がりこそがあるいは。

そして「ハッシュ!」と合わせて観て思ったのだが、この二作はどうも「水」というものが重要な要素としてある。いや、物語上は別になくても全く問題ないのだけれど、しかし前述したように世界としての個々人をつないでいるのは水なのだ。たとえば美女水がそうだし、そもそもアツシの仕事場が水の上、水路にほかならない。そして水路とは文明化された現代においても大きく手を加えることのできない、むしろそれにそって生活基盤を成さねばならない何かと何かをつなぐ不変の路だ。

そうして橋口監督は「水」によって人々を繋ぐ。あるいは、人間の身体の7割が水分で構成されているということを牽強付会的に持ってくるのであれば、その共通性こそが他者との究極の相関的身体性といえるかもしれない。

ハッシュ!」においても勝祐の仕事場では波による影響を調べているようだし、あるいは父親との関係性を「井戸」によって時間的に繋いでいる。どっちも風呂のシーンあるし。
そうやって橋口監督の映画において「水」がどのように使われているか見てみるのも面白いかもしれない。まあ気のせいかもしれないけど。

オリンピックへの怨嗟を2015年の時点で吐き出していたり(もちろん劇中の人物のちょっとした愚痴みたいなものなのでイコールで監督の思想というわけではないけれど)、それ一つをとってみても大文字の「政治」や「世界」といったものへの反意のようなものを感じる。高橋監督がマイノリティの立場にいるからなのかもだが、そういった大きなもの、特に権威的なものに対してはかなりあたりが強い。それは医者だったり役所だったりと性質はやや違うのだけれど、「ハッシュ!」も「恋人たち」も医者に関しては良く描かれていないし。


何にせよ傑作でござんした。

ファーナス 訣別の朝

監督の名前をあまり聞いたことがないなぁと思ったら「ブラック・スキャンダル」を撮っていた人でござんしたか。

あれは劇場で観た記憶はあるのだが、なんか面白そうな題材と良い感じの俳優を集めた割にパッとしないし印象に残らない映画だったなぁと思い出す。

それに比べるとこの映画はだいぶ良かった。まあ、やはりというかなんというか俳優の力に依存していると言えるが、しかし逆に言えば俳優の魅力を引き出すのが上手いとも言える。それは監督のスコット・クーパーが元々は役者であるという部分から来るものかもしれない。

役者の掛け合い、特にケイシー・アフレックとチャンベー兄弟のやり取りは軽妙な掛け合いの時もシリアスな掛け合いのときもどっちも良い。あの二人の役者が醸し出す空気感は、もちろん俳優の力は言わずもがなだがそれに加え巧みな撮影のカメラワーク(「世界に一つのプレイブック」や「スポットライト」の撮影を手掛けた人なんですな)がそれを補強する。

出所したときの長回しとか、普通はあんなシーンをあんなじっくりあんなにエモーショナルに描きませんよ。これをリドスコがプロデュースしてるっていうのがよくわからない。

それだけでなく囚人に絡まれるシーンのラッセルが文字通り隘路に追い詰められたカット。カメラがゆっくり引いていくことでそれがより強調されるのだけれど、そういう遠目からのショットもいくつもあって、俳優の顔面だよりなわけではなくそういったちょっとしたテクニカルなこともやっているわけで。

鹿のハンティングとケイシーの場面をカットアップして見せたり、そこでのちの展開を暗示しつつラッセルが鹿を撃たないことのやさしさとその真逆の暴力性を持っているということ。乗り込んでいくときに叔父さんが当初はラッセルを制止しながらも、いざやるとなったら二人で躊躇なく乗り込んでいくところの胆力と二人の信頼関係がそれだけで覗える(そもそも父親の見舞いにきているということが描かれているわけで)。

その肝の坐り具合がこの家族が何か暴力的なやり取りに対する慣れが、過去が描かれるわけでもなく読み取ってしまう。それを補強するのがやはり役者の力である。何せチャンベーとサム・シェパードである。言わずもがな。

ケイシー・アフレックケイシー・アフレックであのマスキュリニティを抱えながらもそれ自体の内圧で自分自身が壊れていく説得力。実際の人間性がどうあれ、こういう弱さを滲ませる役をやらせたらぴか一である。

また場所と記憶の繋がりをそれとなく(過去の回想をそっとはさんで)描いてみたり、それがまた製鉄所というのもいかにもホワイトトラッシュ的な、しがらみとノスタルジーの同居が工場のあげる噴煙によってやるせなさを一層際立たせる。

ウディ・ハレルソンもデフォーも当然のように良い。

湿っぽくありながらそれを許さない田舎の磁場。

「スリービルボード」を少し想起しましたよ私は。

まあしいて「それいる?」と思ったのはアバンのハレルソン場面。あれはぶっちゃけいらないと思うんだけど。

2024年8月

デッドプールウルヴァリン

というわけで久々のマーベル映画にして一応のMCU?映画。

エンドゲーム以降もちょいちょい付き合ってはきたものの、ディズニー+でのドラマの乱発にはさすがについていけず「マーベルズ」も結局観なかったし正直いまどうなっているのかというのはあまり知らなかったりする。

「LOKI」は数話見ていた気はするし、おそらくはMCUの世界観を拡張するにあたってあのドラマシリーズはかなり重要であることは確かであろうが、それこそが辟易した理由の一つでもあるわけで。ロキというキャラクターありきでのあの世界観ならばまだしも。

で、本題の「デッドプールウルヴァリン」ですが、まあ判断に困る映画である。茶化しではあるものの「キャラクター論」をメタ的に語っていることのある種の深みはあると言えるし、しかし肝心要のそのキャラクターがまさに「マーチャンダイジングのキャラクター」としてのキャラに収まっているような浅薄さもあり、キャラクターをメタ的に語りこそすれキャラクターの中身はその実「デッドプール」一作目と二作目には遠く及んでいないだろう。

まあデッドプールというキャラクターは「こういう空っぽさこそがそうなのだ」と言われればそれまでなのだろうけれど。しかしそれではこの映画の持つキャラクターへの批評性にまさに不死身であるがゆえにノーガードで受けまくると言うことに他ならないのではないか。そしてそれは「どうでもよさ」に繋がっていく。

そもそもがデッドプールの持つメタ認知能力がある意味ですべてを茶番にするのだから、それ自体がデッドプールの宿命ともいえる。それをデッドプールという作品内で自己批評的に描くことができるのであれば、あるいは真の意味で傑作足り得たのだろうが、私は本作がその水準まであるとは思えない。

もちろん20世紀FOXの「X-MEN」タイムライン=世界=映画作品の解釈を「エレクトラデアデビル)」「ブレイド」そしてそもそも未だ存在すらしていない「ガンビット」にまで敷衍させ、キャラクターそのものを一つの世界観を内包する存在(というか概念)として拡大解釈することで「物語」と拮抗させるというアクロバットはアリだ。個人的には。そう考えると本作にまっとうな物語がなく、「キャラ」一辺倒で押し切ったことは必然だったのだろう。果たしてそれが映画として幸福だったのかどうかはわからないし、その手法が成功しているのかどうか判断に困るのだけれど。

ある特定のキャラクターが世界を維持するくさびであるということ自体に悶々とするものはあるし、そもそも「涼宮ハルヒ」のようなSF的思弁の領域に到達しているかどうかという問題もある。

いやまあ、有り体にいえば「マーベルスタジオがMCUに行き詰っているから」という極めて現実の政治的・商業的要請でしかないのだろうけれど。

 

あとメチャクチャに見えて全然倫理的なんですよね。無数のデッドプール軍団との戦闘においてもキッドプールが先頭にいるのになぜかやられた描写はないし。まあそのおかげで犬も無傷なんだけど。

まとめると、この映画の持つ「キャラクター」に対する批評性は認めつつ、約束された破綻をきたしていると言えるのでは。

 

ちなみに私は吹き替えで観たので言語版のニュアンスがどういうものなのかわからない。が、ガンビットの訛りは日本語吹き替えでもかなり面白かったということは伝えておきたい。森久保洋太郎がああいう感じの演技するとは思わなかったのでクレジット観てビビった。

あとクリエヴァの吹き替えが神奈だったからそれで「そっちじゃねーか!」というのが分かったり。

字幕とは別の楽しさがあるとオモイマスヨ。

色々書きつつも色々笑ったところはあるしエンドクレジットとはいえジョシュ・トランク版を拾ってきたのは感心しましたし。

でもこれを見るなら「フラッシュ」の方が良いと思いますけどね。

 

「Q&A」

シドニー・ルメット監督さすが。レイシズムホモフォビアとパワー(暴力と権力)が入り混じる良作。

とはいえレイシズムホモフォビアはある意味で前提であり、それらすべてをパワーが一蹴すると言う話。そのパワーゲームの中で主人公が自身のレイシズムと向き合うということが主題であるという点で、やはりこの映画はレイシズムについての映画ではあるのだと言える。

だからこそマイノリティが周縁として中心に配置されているのだ。

 

 

リリィ・シュシュのすべて」

ヴァルネラビリティとどう向き合うか、ということを考えさせられる。

この映画を通して見ることで、旧エヴァの解像度がより上がるような気がする。

 

「ツイスターズ(4DX)」

4DXは今まで何度か体験しているのだが、ちょっと本作はレベチでしたね。

映画体験としてはかなり満足度が高いのですが、映画観賞として捉えた場合は割とノイジーではなかろうか、これ。

いや面白いしグレン・パウエルがナイスガイを演じていてすごい良いんですけど、序盤の友人みんな吹っ飛んでいくシーンの「そうはならんやろ」感とかは4DX抜きで見ると割とアホっぽい気が。

ラストの劇場シーンのシンクロ具合とかは気が利いているし4DXだとより迫真さが増すので、そういう意味で劇場で観るには良い映画ではある。

なんといっても気の利いた娯楽映画であるわけですし、変に肩ひじ張らずに楽しむものとしては十分でしょう。

 

岸辺露伴、ルーヴルへ行く」

盛り上がりどころどこよ、と言う感じでなんかイマイチ反応に困る映画でした。

ドラマの方法論をそのまま映画に適用した感じというか、劇場で観ても物足りなさが勝るのではないだろうか。いやテレビの方は好きなんだけど。

 

デジモンアドベンチャー LAST EVOLUTION-絆-」

これ田口監督だったんですな。

デジモンはとんと追っていなかったんでどうなってんのかよくわからないんですけど、割とメタな話ですた。triも知らんし何ならこの映画の後にもテレビシリーズの「デジモンアドベンチャー:」なるものが放送していたというのも今回知ったくらいですし続編で「02」もあるらしくてビビったのですが。

デジモンというコンテンツってものは妙に全貌が掴みづらいものがあって、かなりのメディアミックスをしているしなんだかんだで25年(といってもゼロ年代~10年代はかなり混迷していたような気もするが)選手と息も長いのだが、じゃあアニメやキャラクターコンテンツのメインストリームに位置しているかというとそうでもない気がする。

当時のコアなメイン視聴者によってのみ成り立っているようなコンテンツと言う気がしてならないのだが、四半世紀だしそろそろ一度ちゃんとした総括が必要なのではないかと思うのだが、私が知らないだけでそういう批評言説ってあるんだろうか。

閑話休題

前述したようなメタな話というのは、要するに成長=成熟に対するアンビバレントな感情を、デジモンとの別離という「現象」によって記述していることだ。

主役二人のモラトリアムの終焉を目前に、それが大人への成熟を二人に予期させながらそうして大人になること自体がデジモン(という「無限大の可能性」)との関係喪失=デジモンの消失として描かれる。

どうもこれは身体的な年齢ではなく、精神的な成熟を契機にしているようで、本作の黒幕であるメノアは飛び級で大学に入った才女として描かれ、それゆえに自立を求め早熟した結果としてパートナーデジモンが消失したという過去を持っている。

陳腐なミスリードとか細かい部分は別にいいとして、明らかにこれは当時のメイン視聴者に対するメッセージでもあるわけで。

ただこれは結構重要な食い違いだと思うのだが、これって結局のところは「選ばれし子どもたち」の「選ばれし子どもたち」による「選ばれし子どもたち」のための話でしかないわけなんですよね。

最後の進化にしても、あれはパートナーデジモンとの別離を促進させる代わりという意味で利他性として機能しているように見えるが、実のところあそこに囚われているのは「選ばれし子どもたち」だけであり、究極的には公共性はない文字通り閉じた空間内での話でしかない。そもそも、別離が心理的=成熟によるものだとするならば進化や戦闘をすることでリミットが削られるというのも納得はしづらい。

レジェンズドラゴンドライブ(誰が覚えてるのこのアニメ・マンガたち)のような不可避の別れとも違う。続編ありきという制約があったのかはわからないけれど、納得できない部分がある。

あとデザインがキモイ。擬人化のラインはフロンティアがギリギリだと思うのですよ。

まあ02の最終回で大人になった彼らとデジモンが一緒にいたような気がするので、あれに帰着すると考えるのであればこういう話もできるのだろうな、という感じがしなくもないのだが、あれは別ルートだったりするのだろうか。

 

ローズマリーの赤ちゃん

今更だけどこれポランスキーだったんですね。なるほどジャンル映画だし「オーメン」みたいに出産こそがスタートであるのとは逆に出産こそが(バッドエンド)としてのゴールであるというのは2時間映画だと興味の持続が結構つらいと思うのですが、それを見事に誘引する手腕は流石。

それはすなわち出産に対するオブセッションと母性に対する(極めて男性的な)信頼というところが他と違うところなのかもしれない。

 

「元カレと墜落だけは避けたい件」

うーん。そもそも脚本的には出発前に仲直りセックスしてる時点でダメでしょ。

 

「舞妓はレディ」

マイフェアレディのオマージュしつつミュージカル映画。まあ周防監督なので最低限の面白さはあるのだが、肝心のミュージカル部分の絵面が退屈ではないか、さすがに。

というかミュージカルというにはハジケ具合が足りないような気がする。

 

34丁目の奇跡

サンタの存在の有無と神への信仰を重ねるて肯定する、というのが中々アメリカらしいというか。それ三段論法じゃ?と思わなくもないのだけれど、クリスマスという日と信仰心というアメリカ国民の心理の中心に訴えることで成立させているのか。

宗教や信心の持つ統合の可能性を肯定。カルトが政治の中枢に蔓延る日本では無理だろうけど。

 

「恋はデジャ・ヴ」

時間ループに関する批評本を読んでいて同作のタイトルが出ていて気になってたのですが、まあ確かに何で「ピアノの経験値だけ蓄積するのか」というのはどう考えても記憶だけではなく身体による経験があるはずなのだが…というのはまあ置いておくとしてもまあ真っ当に人を愛することでループを克服するというのは良し。

 

「オシャレ魔女 ラブ and ベリー しあわせのまほう」

冒頭のゲームCGで突き通すのかと思って戦々恐々してましたがそうではなくて良かった。昨今のフェミニズム的に「魔女」という存在であることは割と重要な気がする(というかなんかの本で言及されていた気もする)のだが、このおしゃれ要素というのがつまるところ女性の経済参加以降の自由の一つであるということを考えられうる。

日本文化研究者スコフとモーランは、一九七〇年代の日本女性に関して 「女性の消費とセクシュアリティとのアンビバレントだが重要な関係は、 日本女性のパワーの著しい増加を照らしだし」、若い女性の経済的自立が、消費を加速させた。それがライフスタイルの向上、さらに「女性たちをより性化させること」と密接に関係し、女性の性的解放の意識を向上させた。一方、カワイ イは、再概念化され、若い女性の未熟さや子どもっぽさを強調する用語となり、大量消費社会 において浸透していった。

であると須川は書いていたが、これがなかなかプリキュアと見比べると面白い。

pixivの項目が結構豊富で(どこまでが信頼できる情報か分からないのだが)そのまま引用すると「~当時、ラブベリの一部ファン(およびその親)からは「プリキュアは喧嘩ばかりしてて乱暴で(映像効果が)あまりに暗くて恐ろしい」(から、子どもに見せたくない)というネガティブな意見が出ていた。なお、もっとも驚くべきは、これを大きなお友達からの支持ほぼ無しという条件である上、母親と子どもだけを味方にし、アニメetcメディアへの展開ナシでやってのけた事である。

上述の通り漫画は小学館が担当したが、これに関してもメディア側の積極的なマーケティングやイベンティングはあえてしない方針を取り、ほぼ純粋なゲーム筐体だけのアピールで人気をつかみ取った。(メディア展開を広く行わなかったのは上述した「大きいお友達の除去」を主眼目的にとったがゆえのものとみられている)」

これはプリキュアが大友への波及も(色気を見せているかどうかは別にして)しているのに対し、オシャレ魔女の方は徹底して大友を排することで女児だけのサンクチュアリを形成していたこと(それゆえにコンテンツとしての死期を早めたこと)は示唆に富む。

映画そのものは特筆すべきことはないのだけれど、本コンテンツを取り巻く環境はかなり面白いのではないか。

 

セントラル・インテリジェンス

バカっぽいけど地味に良い話だし主役二人のやりとりは漫才みたいで中々面白い。

まあそっちのアクション映画みたいな方向ではなく最初の方向性で突き進むのもありかと思ったのだが、世間的にドウェイン・ジョンソンにそういうエモーショナルな部分は求めていないのだろうか。

割とアリだとおもうんだけど。

バク中のくだりとか布石としていい具合に機能していたし徹底して楽しく馬鹿馬鹿しくあることを貫いているのは好感触。