dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

カッチリとした神さまと宇宙人が同居するB級映画

シャマランの「サイン」を初めて観たんですけど、なんだか奇妙な映画でびっくり。

まさか宇宙人で最後まで持っていくとは思わなんだ。いまもって「シックス・センス」の印象が強い自分もアレなのだけれど、そのどんでんがえしっぷりを期待していなかったといえば嘘になるわけで、そういう意味では「このテレビの映像も実はフェイクだったりで、宇宙人は物語的なデコイなんだろうなぁ」と思っていたわけです。

かと思ったら普通に宇宙人の仕業だったというオチ。まさか宇宙人ネタでここまで真面目くさった、というか馬鹿丁寧な撮り方をする人もそうはいないのではないだろうか。見方によってはドゥニ・ヴィルヌーヴはそのきらいはあるかもしれんですが・・・そうでもないか。

たしか、シャマラン本人は意図的にやっているとかいう話をどこかで聞いた気がするのですが、ソースは忘れた。

 

ともかく最初から最後まで宇宙人というのはかなり斬新だ。映画の後半も後半で妻の死に意味付けをしたりバットで倒したり、字面上は馬鹿丸出しなのに馬鹿丁寧に撮っているせいで観ているこっちは変に真顔になってしまう。

かなり最初の方から布石を置いていたとはいえ、水のくだりとか信仰を取り戻すきっかけがあまりに珍妙すぎるというか、だからなぜそれをそんなに大真面目に撮るのだ、というモヤモヤしたものが。

どうも「鳥」にオマージュを捧げたということらしいのですが、まあ確かに言われてみれば、という気もする。

ホアキンもなんか面白いし。この時期のホアキンってちょっと「グッドフェローズ」のレイ・リオッタに似ている気がする。マコーレかと思ったら弟のローリー・カルキンだったりとか、この映画は俳優もややこしい(?)。ていうか似すぎでしょこの兄弟。

そういえば製作総指揮に「最後のジェダイ」で色々と不評なキャスリーン・ケネディもいましたな。

 

いや、変な映画ですけど結構好きですわ、この映画。臆面もなく宇宙人が描かれ、それがバットで殺される(正しくは水だけど)バカバカしさとか。

シャマランバースそろそろ続編出てくれませんかね。

 

abemaロードが終わるらしい

まあ、なんとなく予想はしていましたけどね。

第一、日曜日の夜に映画を流すということがよく考えたらアレなわけですよ。明日仕事ですよ、仕事。そんなテンション激落ちなときに映画見せられても困るんですよ一般ピープルは。いや知らんですが。

とはいえ私の幼少期は日曜洋画劇場で大作を観ていたりしてたわけで、そういうあれこれを考えると「いつでも観れる」ということは「ずっと観ない」ということでもあるのだろう、娯楽や生活様式が多様化した昨今では。90年代や00年代のようにテレビで流せば観るというわけでもないし、パソコンやスマホをいじっているのであれば映画じゃなくて別のことをする人間が大半だろうし。

ていうか、コメントを打つのもメリット(がそもそも自分には思い浮かばない。見ている最中に解説とかされるのもなんか嫌だし)はあるのだろうけど同じくらいデメリットもあるだろうし。

 

とかなんとか、観た映画とは関係ないことを書き綴ったのは、それなりにアベマの日曜ロードは観ていたので終わるのが寂しくないと言うと嘘になるので、少しくらい書いておこうと思ったのです。ま、こっちとしてはこの時間を別のことに使えるようになるのでプラマイで言えばややプラスでもあるわけですが。基本、映画を観るのが好きな一般人でしかないので、何よりも映画を優先することは私には難しいですし。

ここ数週間は劇場行けてないしなぁ・・・。

 

6月最後のアベマでやっていたのは「サニー 永遠の仲間たち」という映画でした。

韓国映画。ぶっちゃけ韓国映画を劇場で観たのは「アシュラ」が初めてなくらい疎い。

いや、面白いんですけど、戯画化がすごいですな。吹き替えの感じも洋画系で聞くようなシリアスリータイプとは違って、どちらかといえばアニメとか昼ドラな聞き心地でしたし。ぱっと見ただけだとゼロ年代の邦画最悪時代を思わせるくらい(例を挙げ出すとキリがないので書き出しませんが)ベタベタでコテコテ(それゆえにヒットしているのでしょう)なのですが、パンで時間を遡ったりカットバックだったり「過去と現在のイム・ナミがひとつに…(もやし)」な演出だったり(個人的にはやりすぎな気もしますが)エモーショナルな演出は上手い。どうせなら時間の逆行の入りを丁寧にやるなら出るのもやってくれたらいいのに、とは思う。

80年代の韓国の高校生たちの服装とかは知らなかったんですが、あんな小学生じみた服がおしゃれだったんですね。

7人全員をさばききれていたかどうかは微妙なところですが、それぞれ個性は立っていたきはします。しかし高校時代のイム・ナミが高校時代の知り合いにそっくり(シム・ウンギョンの方が可愛いですが)で笑う。その知り合いはイモトに似ていることからイモトと呼ばれていたんですが、確かにシムも似ている。

なんだかんだで青春と現在の対比やそれが最後に同化していく(エンドロール込で)のは来るものがある。ちょうど今日「キッズ・リターン」のことを思い出していたりしたのもあって、相乗効果があったのかも。

 

ただ、相変わらずこの辺はこの映画に限らず軽視されがちなところなんだけど、もともとハ・チュナと仲の良かったシンナー吸ってた子の扱いね。

いや、わたしも名前を忘れてしまっているので大声では言えないのですが、扱い軽すぎ。何度も書きますが、こういうキャラクターのこういう扱いを見るたびに「大いなる西部」がいかにクズや雑魚に優しい映画かということを再認させられる。

いや、「大いなる西部」にいたっては少女時代のリーダー(からコミックリリーフさを薄めて下衆さを増加したくらいのキャラ)を抱き込むくらいの勢いではあるので、さらに凄まじいのですが。

ま、日陰者の妬み嫉みなないものねだりではあるのですがね。いや、好きですけどねこの映画。それに、どちらかというと学生時代は日向に身を置いていましたし、なんだかんだでああいう馬鹿をやったりもしましたし。今の自分はその反動というか、併存しきれなかった陰の部分の発露みたいなものですし。

 

DC版も観てみたい気はしますが、そこまでては伸びないだろうなぁ。

どうでもいいんですが、こういうグループ構成が7人というのはなぜなのだろう。やっぱり「七人の侍」にあやかっているのだろうか。

 

私はあなたのニグロではない

有楽町というか、ああいう夜の都会の喧騒は好きだけど怖い。

有楽町自体、実のところ「バケモノの子」の試写会で行ったことがあるくらいだし。

そんなわけ初・有楽町のヒューマントラスト行ってきた。下の階の中華料理屋さんが滅茶苦茶うまそうだったですぞ。

しかし私の入った箱のスクリーンが思ったより小さかったのとか右端の席がやや窮屈なのは若干気になったけど、雰囲気はよし。

 

前から気にはなっていたんですが、近所にやっているところがなかったので二の足を踏んでいたのですがトークライブつきだったのと水曜で安かったので行ってきた。基本、守銭奴で貧乏性な私は何らかの付加価値が付くことによって足を運ぶことが少なくないのですよね。「早春 DEEP END」とかもそうですし。

 

さて、今回の「私はあなたのニグロではない」は面白い映画ではない。というのは説明するまでもないか。そういう類の映画ではないし。ただ、それでも観に行くのは、書くまでもなく私がブラック・カルチャーや黒人の歴史について疎いからだ。

マルコムXは多少知っていたし、マーティン・ルーサー・キングも教科書で名前を聞いていたりはした(ここを深く突っ込まないというのがやはり日本の教育の浅さだとは思うが・・・とはいえカリキュラムの都合もあるだろうし)。が、今回のメインとなるジェームズ・ボールドウィンについてはほとんど知らなかった。

 

これまで、このブログでは「ゲット・アウト」「ヒドゥン・フィギュアズ」「デトロイト」「カラーパープル」「ブラック・パンサー」(それ以外にも黒人と白人の関係性への言及をした記事はいくつかあると思うけど)などで黒人について触れることはあったけれど、読んでわかるとおり私は彼らのことをほとんど知らない。

だからこそ観た。そして、身につまされることもあったし、自分の学習分野とダブる部分もあったりで、色々と考えることは多かった。

 ただ、やはり映画であるだけに映画としてのある種の複雑な構成を内包しているだけに、伝わりやすい反面わかりにくい部分もある。特に時系列に関しては当時のボールドィンの音声を使いながら現在のアメリカの状況を映し出していたり、ボールドウィンの引用(過去)ではありながらもサミュエルのセリフ(現在)で過去が語られたりしていて、何というか時間軸の錯綜・・・もといヘプタボット的にすべてのタイムラインを同一円上に並置しているような感じなのです。

過去の言葉を、現在を生きる者に語らせることの意味とは。アメリカの過去と現在を多少なりとも知っていればわざわざ書き起こすまでもない。

エンディングの演出や音楽もしっかりつけられてるし、編集もかなり意図されている。この複雑さは、アメリカという国の抱える複雑さではないのだろうか。そう思ってしまうほどだ。だから、映画を反芻したいのであればシナリオが再録されているパンフレットを買うことをおすすめする。

前から思っていたことがあった。「アメリカってかなりモザイク国家に似ているような」と。中東のように国家規模での武力闘争ではないだけで、それこそボールドウィンの生きていた時代から今現在に至るまで問題提起は連綿とされてきた。この映画で引用される映像・画像のように。しかし、彼が言うように身勝手な恐怖から安心感を得るために白人は黒人を「黒人」という軛に繋ぎ留め、あたかも融和しているかのように見せかけていた。

 

あとサミュエルね。普段の(ていうか映画に出てくる)サミュエルを知っている人ほど、今回の彼の声には驚かされるだろう。深く静かな声に。

 

 

 

 

いやあしかし、「犬ヶ島」の記事はイツニナルンダコレ

欺瞞母子

ポン・ジュノ。わたくしの御多分に漏れず、知名度や評価は知っていつつもなぜか観たことのなかった監督のひとりが彼なんですが、ちょっとびっくりした。

ポン・ジュノ、ちょっと凄まじい欺瞞の炙り出し方をしていて驚いた。
一言で書くとエントリーのタイトルどおり欺瞞に満ちた母と子の話なんですが、その欺瞞の描き方が凄まじい。

そもそも、わたしはウォン・ビン知的障害者の役という時点で「はい?」となったわけです。いわゆる知的障害者というのは、基本的には遺伝子の問題なので人種にかかわらず顔が似てくるわけです。が、この映画でウォン・ビンが演じる知的障害者(という設定を与えられたトジュン)は、ウォン・ビンなのでイケメンなのです。キムタクと山崎賢人を足したようなイケメンなのです。

それゆえにトジュンという役に対して当初わたしは「存在そのものが嘘くさい人物だなー」と思っていたわけです。振る舞いなんかも「知的障害者のように振舞っている」ように(本編を見終わった今となっては)見えるし。
そう。そしてポン・ジュノはそれを理解している。理解し、その設定を存分に使いメタ的に欺瞞を暴いていく。

トジュンの無実を信じて疑わない彼の母(キム・ヘジャ演)は、映画後半でしかしトジュンがやはり真犯人であったことを知るのです。そして、そのあとに取る彼女の行動がトジュンが真犯人であることを知るその人を殺すこと。母の欺瞞は、しかしここでまだ極に達していない。

その彼女の元に刑事がやってくる。「真犯人が見つかった」と。真犯人であるトジュンを拘留しているにもかかわらず。
そして、わたしはその「真犯人」の顔が画面に映ったときにポン・ジュノの恐ろしさを知った。

そこに映し出されたのは、知的障害者の顔を持つ男だった。確かに彼は殺された女子高生と性的な関係を結んでいただろう。彼の服に血痕が残っていたというのも本当だろう。しかし、彼女と性的な関係を持っていたのはほかにも少なくとも30人はいたし、血痕がついていたのはその女子高生がよく鼻血を垂らす体質だったからだ。

ここに来てウォン・ビンの顔を持つ真犯人トジュンと、知的障害者の顔を持つ「真犯人(役名忘れてしまいました・・・)」が対比される。ここには劇中で描かれる様々な社会的問題も内包しているのですが、それ以上に際立つのはトジュンという人物の欺瞞さ・嘘くささにほかならない。

なぜトジュンがウォン・ビンでなければならなかったのかが、ここで判明するわけです。あまりに臆面もなく突きつけてくるその怜悧さは、恐ろしくさえある。

そこからラストの母が腿に針を刺し踊りだすことで、この映画は存在そのものが欺瞞に満ちたトジュンという息子と、それを知りながら踊り狂う(踊り狂おうとする)母の欺瞞によって幕を閉じる。

伏線や布石となるものが随所に仕込まれている周到さは、ほかの人が散々ぱら書いてるだろうし面倒だから割愛するけれど、かなりレベルの高いことやってます。

しかし、母の針を拾っているあたり、あるいはトジュンは知的障害者ですらないのかもしれない。もちろん、軽度であればつつがなく意思疎通を行うことができる(この辺は制度とかの兼ね合いで何とも言えないので深くは突っ込みませんが)わけではあるのですが、そういう話ではないわけで。

 
なんだか胸がざわざわする傑作でした。

遅ればせながら観てきましたぞ

話題になっている割にあまり大々的な公開はしていない「バーフバリ 王の凱旋」の完全版を観てきました。

 前作も世界公開版も観ていなかったのですが、なかなかどうして滅茶苦茶楽しかったです。

いや、インターミッションなしのぶっ通し3時間でまったく退屈しない映画っていうだけで、集中力のない私にしてみればとてつもないことなんですよ。

友人曰く「決めゴマしかないマンガぶっ続け3時間」という表現をしていましたが、割と本当に言い得て妙だと思いました。

ひたすら楽しいのです。

わたしがこの映画を観ていて思ったのは「ベン・ハー」「アラビアのロレンス」「十戒」といった往年の大作の名作であった。この映画は、それほどの迫力を備えている。もちろん、絵ヅラとして砂漠が出てきたり動物が牽引している車輪の乗り物が登場するだとか、そういう部分もあるだろう。しかし、この映画が過去の名作を想起させるのはやはり絶対的なエネルギーを有しているからにほかならない。

そしてそこにザック・スナイダー的なケレン味溢れるスローモーションの使い方。

CGは確かに粗というかモーションの違和感などもある。しかし、それに何の問題があろうか。この映画は必要最低限の演出でもって話を強烈に話を牽引していく。それゆえにギャグスレスレの展開ではある。過剰とも思える演出(顔アップからの効果音とか)は、しかしこの「バーフバリ 王の凱旋」にあっては過剰さこそが適切である。おかしなことになっている。

正直、言語化するのが億劫なほどにこの映画は面白い。ただひたすら面白くて楽しい。

完全版で追加されたというダンスシーンにしたって、むしろそれがなければ物足りないのではないかと思うくらいであるのだ、完全版が初見の自分にとっては。

歌もBGMも最高である。ここまでテンションの上がる曲と歌で埋め尽くされているのにまったくくどくない。それはこの映画の持つ熱量に適切だから。そのくせサントラもスコアも出てないでやんの!こちとらCD派なんですよ!カラオケで配信するよりそっちが先だろう!

いや、ちょっとこれはヤバイです。

こんなに楽しくて面白い映画はちょっと観たことないです。確かにこれは「バーフバリ! バーフバリ!」と口にしたくなる気持ちはわかる。性格的にそういうことはしないですけど。

 

頭空っぽにして楽しむというのは、つまるところそれだけ作品に没頭させてくれて安心してその世界を信じさせてくれるということだと思うのですが、その点において「バーフバリ」は私たちに一切の疑念を挟ませる余地を与えない。

 

久々に胸を張って言える。「頭空っぽにして観れ」と。 

 

5月のまとめ

インサイド・マン

スパイク・リーの映画。「25時」と同じロケーションが出てきたり、なんというかシンクロニシティというかデジャヴュというか。

デンゼル・ワシントンの現実的な正義漢らしさとかいい味出してる。ていうかテーマはかなり真面目だし強盗の手法としてもかなり手が込んでいるので真似されたりしないんだろうかと思う。ないか。

 

ザ・スピリット

バットマンダークナイトリターンズ」「シンシティ」「デアデビル」などでお馴染みフランク・ミラーの初単独監督作。

お馴染み、とか書いておきながら彼のアメコミを一つも読んだことがないのですが、この「ザ・スピリット」はなんだか奇妙な映画でした。

この「ザ・スピリット」自体がウィル・アイズナーのアメコミを原作にしたものらしいのですが、すっごいバランスが変。

デュラララ+ボーボボを真説ボーボボで割ったみたいな。かっこつけたいんだかふざけたいんだかわからない、という意味では銀魂とも近いかもしれませんが、あれとは違って本当にメリハリのボーダーが曖昧で、そういう意味では本当にボーボボみたいではある。

あとサミュエル・L・ジャクソンね。これを見て思ったのは、mcuでフューリーの吹き替えを竹中直人が担当した理由がわかった気がする。

 

ジュリアス・シーザー(1953)」

マーロン・ブランドが若いのにカリスマを発揮していて笑った。さすが「スーパーマン」でクレジットを最初に飾っただけはあります。

話自体はシェイクスピアですし有名だしでこれといって特筆する部分はないかなぁ、と。あとブルータスの影がやや薄いというか、前半でもうちょっと彼に尺をさいてもよかったのでは、と思う。

 

泥棒成金

ヒッチコック映画。

007のパロディみたいな作風だなぁ、と。ヒッチコック映画を実はほとんど見たことがなくて、せいぜい「鳥」「ファミリー・プロット」とか授業でちょっと観た「北北西~」くらいですし。「鳥」は確かに怖いというか異様さが強く印象に残ってはいるのですが「ファミリー・プロット」はコミカルだったよなーという印象くらいしかなかったりする。「めまい」も「サイコ」も観たことがないというのは自分でもちょっとあれだなーとは思う。この「泥棒成金」は、しかし「ルパン三世」とかあの辺の定型としてあるような気がする。

 

「フラッシュダンス」

"Flashdance... What a Feeling"の主題歌でおなじみのゴキゲンな映画。万人向けにいじくり倒してハッピーエンドにした「ショーガール」みたいな。それもう「ショーガール」じゃないんですけど。

ブラッカイマーが製作に入っているというのも、中盤の恋愛パートらへんのくどさとか関係してそうなしてなさそうな。

恋愛パートとかはアレですが衣装の雑なエロティックさとか、ダンスシーンは観ていて楽しい。ラストのオーディションで街中の人たちの動きを取り入れていたりするのも上がりますしね。欲を言えば、恋愛パートを削ってストリートダンサーや交通整理の人と一緒に踊りの練習をしている部分を加えればもっと「元気玉感」が出たんじゃないかなぁ。

愛という闘争

まずい。

犬ヶ島」の感想を出だししか書いていないのに新しい映画を観て、あまつさえ「犬ヶ島」を後回しにしている始末。進研ゼミで今月分のテキストが終わっていないのに次の号が送られてきたときのような焦りに似たものが沸き上がってくる。

 

と、ここまでファントム・スレッドを観た日に書いた部分。

ここからが6月に入ってからの文なり。

 

えーどうしたものか。大声は言いにくいのですが、この「ファントム・スレッド」観ている間は楽しめたんですけど、こうしていざ感想を文章に書き下そうとするとあまり書く事が思い浮かばない。パンフレットの柳下毅一郎評がかなりうまく言語化しているので、不誠実ながらそちらを是非、とオススメして終わりたい気持ちもなくもない。

しかしやはりそれではあまりに不誠実なのである程度は書く事にします。

で、観て思ったのは「愛vs愛」。お互いが異なる愛し方でもってお互いを愛そうとすることによって生じる闘争が、この映画で描かれていることなんじゃないかと。面白いのは、監督自身が「この映画において、ファッション界やドレス作りは関係ない」と言っていること。つまり、これは特定の世界において特定の人たちだけの間で生じる闘争ではないということ。

さもありなん。レイノルズの自閉的なこだわりにも近い服への愛の注ぎ方はフィギュアを愛でるオタクのそれ。とはいっても、映画監督であるポール・良い方・アンダーソンがクリエイティブな世界に目を向けたのも必然ではあったわけで。

そんなオタクでヒッキーな天才レイノルズ(こうやって書くと「なろう」みたいだなぁ)は行きつけのカフェで働くお転婆(でもない)なウェイターのアルマ(ヴィッキークリープス演)を口説く。飛び抜けた美貌やスタイルを持っているわけでもない彼女を選ぶというのが、すでにからして通念的な価値観とは違うことがわかる。しかし、それはレイノルズが生み出すの服のマネキンとして価値を見出しているのであり(これはレイノルズにとっては愛なのだろう)、アルマからしてみればそれは彼女の愛とは違う。それゆえに齟齬が生じてしまい完全だったレイノルズの生活にヒビが入り始める。

しかし、完全であることはそれ以上はありえないということであるとブラックでマッドな研究者が申しておりましたように、アルマのおかげで飲み込んでいた不満を解消することさえできたわけです。

それによって二人の間の結びつきはより一層強まっていくのですが、それがさらに両者の愛の違いを如実に浮かび上がらせていく。

そして、そのズレがはぜたときに、巨大な揺れが発生する。アルマ地震である。これとかけているわけでは断じてありませんが、めちゃくちゃカメラが揺れるカットがありましたね。

「バケモンにはバケモンぶつけんだよ」

ということで、アルマはレイノルズの変態的バケモン的な愛に自身の愛を打ち勝たせるために毒を盛ります。

そして弱りきったマザコンハートを懐柔することで彼女は勝利を収め夫婦関係というトロフィーを獲得するのであった。

ところどころでヒッチコックを思わせるシーンがあったりするのも、わたしが上記のように思った要因としてあるかもですが、やっぱり本質的に恋愛って戦いなのですよね。

誰かが「恋愛ってスパイスにはならんよな、物語を暴力的にドライブさせはじめて、それ以外の要素を彼方に追いやるから」と申しておりましたように、それに集中してしまうのは、やはりそれが駆け引きを含む闘争であるからではないかとレイノルズとアルマを見て思いました。

レイノルズに一番近い存在である姉のシリル(レスリー・マンヴィル演)にさえ「彼女が好きよ」と言わせるアルマの魅力とは。というより、アルマに好意を抱くという逆説的な妙ちきりんさがウッドコックの血なのかもしれない。

でもまあ、なんだかんだでうまくやっていけそうかもね、この二人なら、といった感じで終幕。

しかし完璧主義者を据えて完璧の否定を描くというのはかなり屈折しているような、実はそれ以外に方法はないような、そんなよくわからない感覚に陥る。

 

しかしわたしが今作で一番好ましく思ったのは衣装!ていうかマーク・ブリッジスの仕事!

何を隠そう、わたしが衣装に目を向けるようになったきっかけが「イエスマン」のズーイー・デシャネルのドロドロゲロリンな可愛さにやられてしまったからなんです。もちろん、それはズーイーの本来の可愛さもあるんですが、その潜在能力を120%引き出すブリッジズの衣装が最高なんですよ。「イエスマン」の中では衣装を取っ替え引っ替えするんですが、家でのタンクトップとか黒メインの赤いアウトライン(ウォーゲームのオメガモンみたいな)のコートとかキラキラしたドレスとか、もうともかく「イエスマン」はズーイーのひとりパリコレ的な側面もあって、ともかくそれ以来マーク・ブリッジスには注目していたんですが、まさかこんな格調高いドレスのデザインまでできるとは思わなんだ。

まあ彼のウィキを見直したら「そりゃそうだ」という納得をしたんですが、ともかく彼の仕事がかなり生きていると思いますね、これは。