dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

レオノールの脳内ヒプナゴジア(LEONOR WILL NEVER DIE)と鶏の墳丘(Chicken of the Mound)セルフ二本立て

数年ぶりにイメージフォーラム行ってきた。コロナ前後に行ったきりだからざっと数年ぶり。まあそもそも滅多に来ないんだけど。低賃金労働者には電車代を惜しむ守銭奴マインドがありますし、割引料金でないと映画一本も高く感じるゆえ、ミニシアターにはほとんど行かないんですよねぇ。そもそも渋谷の人混み好きじゃないし。

ほんと渋谷は毎度毎度のことだが街中を歩くだけで頭がクラクラして疲弊してくる。それに加えて観た映画が「レオノールの脳内ヒプナゴジア」と「鶏の墳丘」というのだからもうクラクラが止まりませんよ。

まずもってこの2本はくどい。それはもう色々な意味でくどい。前者に関しては構造の反復がくどい(インセプションかよ)し、後者に関してはくどいというかもはやそういうレベルではなく「よくもこれを挫折せず長編にしたな」という一周回ってそのくどさに感慨深さすらある。

などと書くとどちらもよろしくないと受け止められかねないのだけれど、別にそういうわけではない。いやまっとうな傑作とかそういう言い方もしづらいんだけどさ。

 

最初に観たのは「レオノールの脳内ヒプナゴジア

これ、原題が「LEONOR WILL NEVER DIE」(英語なんだけどこれ原題でいいのかしら)なんですけど、こっちの方が通りがいい気がする。終盤からのラストを思うと。

白状しますと徹夜明けだったとはいえ前半は結構タルい。割と寝落ちしかけました、ええ。レオノールの頭にテレビが落ちてきてからようやくエンジンがかかり始めるんですけど、そこまでは(意図的とはいえ)カット割りも少ないしアングルも単調でロイ・アンダーソンの「さよなら、人類」みたいな間の使い方するしで「オモシロ映画」観に来たマインドセットの自分にはもう微睡みしかなかった。

んが、レオノールの夢の世界と現実の世界の両方で話が進みながらやがてそのどちらもが混然一体となって虚実の皮膜が剝がれていく感覚や、そこにもたらされるメタ構造が明らかになっていくにつれて尻上がりに面白くなっていく。

特に創作物におけるキャラクターの扱い、とりわけキャラクターの死(さらにこの映画はライブアクションである)をどう扱うかという創作者とキャラクターの対立。そこに息子を死なせた母の贖罪意識がダブらされることで(これは劇映画なので実際にはレオノールも創作者というロールを担ったキャラクターではある)キャラと人間の死を「劇映画の劇中」という仮想の土台ではあるがその土台の上では同じ地平に置かれることになり、一つの「キャラクター論」としても中々示唆に富む展開であった。

また、メタ構造にメタ構造を重ねた結果、話の本筋が元にもどるというのも面白かった。

ところでレオノールの脳内映画(営為製作中)のアス比がおそらくテレビサイズなのだが、彼女がVHSをよく買って観ていることや脳内映画が展開されるきっかけになる落下物がブラウン管テレビであるということを考えると、これはやはりテレビであるということが一つ、私の涙腺を刺激したのではないかと思う。ええ、ちょっと泣きましたよ私は。

具体的にはVHSを売っている男の子が、レオノール脚本の映画の登場人物としてレオノールがテレビ画面に映ったのを目にして友達を呼んでその映像を観るというシーン。

映画館ではなくテレビで映画を――意図せず事故的に――観るということの、そしてその映画に胸を躍らせてわくわくしながらキャラクターにシンクロすることの高揚感がこのシーンにはあった。すっかり忘れていた、けれど確かに自分にとって「映画を観ること」の原初的体験の悦びがそこにはあったのだ。これは世代的な感覚も大いにあるだろうし、私の感じたものを違う文化圏の監督に見出せるのか分からないし、必ずしも万人に通じるものではないかもしれない。

ことに自分より上の世代は映画館に足を運ぶことが映画の原体験だろうし、下の世代はすでにサブスクで観ることが当たり前なうえに映画以外の娯楽が充実しているからそこで「物語」に触れることも多いだろう。

けれど、私は午後ローやら洋画劇場やらで大作映画を観るというのが、もしかすると映画館で映画を観るよりも先立って映画体験としてあるやもしれず、このシーンにあるのはそのノスタルジーを刺激するものだった。

なのでまあ、このシーンだけでお釣りがくるくらい良かったのでそこまで文句もない。だけれど、まあメタ構造にメタ構造を重ねすぎてちょっとくどいかな~とか、兄貴の幽霊の突拍子のなさとか、意図的な演出だと分かっていてもアクションシーンのしょぼさはまあちょっと退屈と言わざるを得ない。もはや覚えている人も少ないだろうが「カメラを止めるな」の序盤の退屈さに似たあれ。それが前振りだとわかっていて、後からその真意が分かったとしても感じた退屈さ自体は減じないわけで。

あとちょっと異世界転生…というより悪役令嬢転生ものと似た感じもありましたな。「これ進研ゼミでやった問題だ!」というアレね。

 

で、次に観たのが「鶏の墳丘 Chicken of the Mound

思ってたのとだいぶ違った。少なくともルックはもっとソフト(それこそレッド・タートルみたいな)なものを想像してたんですけど、ちょっとエッジがききすぎていやしないだろうか。ハードコアすぎるでしょこれ。

上映後のトークでシー・チェン監督はCGクリエイターとしては我流でそういう意味で熟達しているわけではないといったようなことが言われてたのだが、それがゆえであるのかどうかはわからないものの、そのシンプルなテクスチャの質感や基調となる色彩の設計などはどこかユートピア的な静謐さや優しさを醸し出していて、そういう意味ではソフトではあるのかもしれない。無論、そこには反語としてのディストピアがあるわけだけれど。

まあ、この映画を無理やり(と言いつつも監督の中では一応決めてはあるのだろうが)ジャンルとして括るのであればSFであろうから、私の感じたソフトなユートピア感も遠からずといったところなのではないだろうか。

「人造人間ハカイダー」やら伊藤計劃の「ハーモニー(文庫版)」の印象を自分が強く抱いているから(特に後者)、あるいはそれ以前からの「白さ」の持つ欺瞞(「白々しい」)といったこれまでの創作物の反復によるパブロフ・ダァッグな半ば反射に近い反応でもあるのかもしれないが。

シー・チェンが中国ルーツであるということを考えると、どうしても「赤」に対する「白」を連想してしまうのは無理からぬ話ではあるまいか。

 

と、こんなことを書き連ねておきながらちゃぶ台を返すようだが、そんなものはほとんど後付けで、実際に観賞中はもっと酩酊したような感覚に陥っていたと素直に認めるほかにありますまい。

上映後のトークでは中国当局の検閲を回避するために物語を細分化(というか裁断)しまくったとか、そういう話をしていた。もし検閲を考えなかったとしたらどうなっていたのかはわからないけれど、少なくとも今回上映されたこの映画にはおよそ物語と呼べるような分かりやすさはない。と言っていいだろう。

スクリーンに映し出されるのはひたすら記号的な……というよりむしろ純粋な記号そのものの連なりだ。その意味において、これは一周回って物語を必要とするものではない原アニメーション的(そういう意味でもイメージフォーラムでやりそうなアニメではある)ですらある。

物語はない・記号の羅列とは書いたものの、明らかにメタファーとして描かれている描写が多々ある。侵略戦争include兵器、スマホによる(ディス)コミュニケーション、生殖、工業製品(特にフィギュアっぽいアレ。そもそもがメカ娘っぽいんだけど)…etc。どこか間の抜けた、ビデオゲーム的な(CGという映像手法も含め)SEのサウンドデザインもそうだろう。ていうか弾幕ゲーみたいなシーンあるし。

物語はない。んが、一方で映像にはしっかりと(こちらが汲み取れきれなかったものも含め)意味がある。いや、意味しかないというべきだろうか。

けれど、メタファーがメタファーとして立ち現れてくるよりも先に、記号としての記号性が強烈に機能するがゆえにメタファーによってもたらされる「意味」を無化してさえいる。それでも観客はそこにメタファーの残滓を汲み取り、なにがしかの意味を見出そうとする。

それは上映後トークの言葉を借りて「裁断された物語」の例えと使うと、一度シュレッダーにかけられた文書の紙片を集めて文章を再構成して読み取るような(「アルゴ」~)徒労感を観客にもたらす。観た後の疲労感は徹夜明けだとか二本目だからという以外にもあるはずだ。

そして、いかにもCGであることがもたらすゲーム的な箱庭的世界観、一つ一つのオブジェクトの情報の少なさ(作りこまれていないという意味ではなく)は、それが強烈な記号であるがゆえに現実ほどの情報量を持たないにもかかわらず現実世界を映し取る。もちろん完全に再現された電脳空間ではなく、現実世界から変数を減らされた仮想空間でしかない。この映画は、なんというかVRチャットをやっているときのような、あの形容しがたいノスタルジーにも似た既視感・寂寥感と通じる。

CGではない(まあ画面に現出した時点でデジタル化されてるんだけど)ドローイングの絵画がむしろ映像上ではマテリアルとしての異質さを帯びるのは、奇妙に思いつつそこに僅かなよすがというか取り付く島を見出して安堵する。

ぶっちゃけ、これは映画館で観ないと絶対に通して観る気にならないと思う。ずっと向き合い続けるにはあまりにも無間地獄めいていて、「映画を観る」という行動のみに制約される劇場という空間でないと中々キツいものがある。タルコフスキーとかああいうのともまた違うし。そういう意味ではやはり劇場で腰を据えて観るのがベストなのではないだろうか。

 

「スキップとローファー」の合小都美さんの上映後トークは、時間が短いこともあってあまり突っ込んだ話にならなかったのが惜しいが、まあどのみちあの時の小生のメンタルスタミナを考えると小難しい話されても頭入んなかっただろうけど。