dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

プロレーサーになろう

実は気になっていた「グランツーリスモ」を観に行ってきた。去年だったかに公開された日本映画「アライブフーン」が本作と同じような話で割と面白いというのを聞いたので、比較のためにもそっちを見ておけば良かったなと今更思ったり。

話としてはグランツーリスモで遊んでたゲーマーがリアルレーサーになるという話で、まあグランツリーリスモに限らず、CODプレイヤーが軍隊に入った(あれも色々ありそうですが)というのもあったりするし、そもそも軍隊の訓練でも使用されていたりするし、もはやMGS2VR訓練の世界が現実になりつつあるという。

 

ぶっちゃけると本命は「ミュータント・ニンジャ・タートルズ」次点で「ジョン・ウィック」の方を観に行こうかと思っていたのですが前者は近所のシネコンでやってない(あんだけ予告編やっておいて上映してないとかハゲすぎる)し「ジョン~」の方は座席ほぼいっぱいで良い席が空いてない(し上映時間長めなので回転少な目)というのもあって、「観れたら観るか」程度だった「グランツーリスモ」へ。いやまあ、気になってはいたのですよ、実話ベースだしつい最近になって某レーシングゲームをクリアしたばかりだったというのもあったし。などと言いつつ前情報はなしで観に行くくらいのニワカマインドで劇場に足を運んだのですが……中々いいじゃないですか、これ。

 

シミュレーターとしてのグランツ―リスモをぶち上げた男・山内一典~というアバンからのキメキメのスタイリッシュフォントでタイトル「Gran Turismo」がブォンと出てくるあたりのホビーアニメ(具体的には遊戯王5Ds)あたりを彷彿とさせる演出に「勝ったな」と内心で勝利を確信。

そして確信の通り、この映画はかなり面白かった。もちろん手放しで褒めるわけではないのだけれど、そういうのは割とどうでもよくなる程度にはこの映画はまさしくドライブしてくれる。

とはいえやはり気になるところは気になるところだし、それは決して放置して語るには些か主義に反するので先にあげつらっておく。

第一に、この映画の作劇は「車と少年」という(伝統的価値観としての)アメリカン・マスキュリニティのフォーマットを強固に温存している。ロベルト・オーチがかつてインタビューで述べたように、車というのはアメリカにおいて成熟の象徴であり、それはすなわち「オトコ」になることである。だから少年の成長譚として、その象徴として車が出てくるとそこには客体化された身体としての「女性」が描かれる。なぜなら「オトコ」になるということは脱童貞=女性とセックスするという禊を経ることでなされるからだ。それは数々の映画で卒業パーティ(あるいはバチェラーパーティーにも敷衍できるだろうが)と娼婦がセットで描かれる定型を見ればわかることだろう。

この映画で主人公であるヤンはそういった露骨な性的な描写こそないが、彼の意中の人物であるオードリーは、そういったトロフィー的な役割すら希薄であるがゆえに物語上は彼女のシーンを全部カットしたところで何の問題もないのだ。パンフにキャラクター紹介欄がない程度の扱いですよ、ええ。

いやまあ、日本人的には彼女との日本観光デートシーン(割と適当)があることである種の笑いがもたらされるということはあるし、異邦人によって撮られる日本の都市の夜景……衰退著しい日本とは思えない摩天楼感は邦画や邦ドラにありがちなしょっぱい空撮とは違うどこか異質なリッチさがあるので、それを観れたというのは中々の収穫ではあった。まあこれにしてもデートである必要はないし、単に機材や編集の妙によるところではあるのかもしれないし、くどいようだがこのデートシーン自体が(山内一典をカメオさせるためか?)不要といえばそれまでなのだけれど。

カーレースで成り上がる映画なので「車」と「男性性」の旧来的な価値観を転倒させようとすると、それはそれでまた別の重いものを背負うことになるので娯楽映画として成立させるには「少年と車」のコテコテのフォーマットに則った方がわかりやすいのだろうが(まさしく少年と車の物語だし、そもそも実話だし)。そういう意味でこの問題を回避するのは難しいのだけれど、わざわざ弟がサッカーで成功しかけていることや、そういったスポーツ=マチヅモ的世界観と対置させる形でヤンを描いていることを考えると、やりようによっては、という気もするのだが……まあ結局勝負の世界の話ではあるので「男の美学」にしかなりようがないのだろうが。

彼の父親が元プロサッカー選手であるが、ヤンはその道を歩まずレーサーの道へ、という構造はマスキュリニティの継承を換骨奪胎できそうではあるのだが、そうはならず本作は徹底して「男の世界」の話であり「父と息子」の物語として機能し続ける。それは実の父親に認められるというだけでなく、コーチであるジャック・ソルターとの疑似父子関係にも表象される。そこに主体としての女性=母親の存在はない。アカデミーで勝ち残って親に連絡するシーンでも、母への報告はできたものの父親は留守にしていて報告できなかったという「父に認められたい息子」の矢印が如実に描かれる。

マスキュリニティとそのカウンターとしての「ゲーマー」という立ち位置をリアリティとバーチャルの対比としても(すわ「アリスとテレス~」か)見立てることは難しくないのだけれど、身体性・フィジカルが導入されざるを得ない時点でバーチャルに傾倒することは困難ではあった。まして「ゲーマー」的なそれはナードのそれに近いわけで、何かラディカルなものが提示されるわけなどなく、その点はまあ私のないものねだりだった。

しかし、このゲーム的演出および実際のゲーム画面を(部分的に)使っているであろうレースにおいてラインや順位の表示演出あるいは三人称視点というカメラアングルは、それ自体が虚実の皮膜を穿ち、ともすれば私に「現実を侵襲する可能性」見出させたのも事実ではあるので(グランツーリスモが何のゲームエンジン使ってるのか知りませんが)、そっち方向での「なんかすごいもん見たな」という感覚はある。

「フォードVSフェラーリ」のような男の世界を完徹し突き抜けることによって超越した世界を見せてくれるような映画ではないのだけれど、レーシング映画として、そして何よりテクノロジーの可能性を無邪気に信じるニール・ブロムガンプの映画としてあるからこそ、ここまでいけたのだろうということは言える。

私はこの映画のクレジットを観るまで彼が監督していることはまったく知らなかったのだけれど、しかし観終わってみれば彼が監督であるということについては得心しかない。

これは都度書いてきたことだけれど、彼の作家性ーーというよりも根本的な価値観なのだろうけれどーーとして、テクノロジーに対する恐怖がない。それは核の恐怖にしてもそうだしAIやサイボーグ(による身体侵襲に伴う)が実存を脅かすということも考えていない。ちょうどこの映画の本編の前にギャレスの新作「ザ・クリエイター」の予告編がかかっていたけれど、ニールはこんな大仰にテクノロジーの脅威を描くことはないだろう。

そして、そのようなテクノロジーへの無条件の肯定によって、彼は今までのSF大作のような箱庭的虚構から踏み出し本作のような事実をベースとした映画でビジュアル的には現実を侵犯するというぶっ飛んだ映画を撮ってみせた。なにせアーチーのインタビューが本当ならこの映画はグリーンバックでの合成がないという徹底ぶりなのだから。

もちろん、そこにはゲーム(=現実のシミュレーション)としての「グランツーリスモ」のコンセプトや内包した歴史を援用することによるハイコンテクストなものがあるわけだけれど、それは劇中でも何度も描かれるのだから決して一見さんお断りというわけではない。ゲームの「グランツーリスモ」をプレイしていた経験のある私が言うのもフェアではないのだけれども。

 

物語の強度も、それが事実であるからこその裏打ちではあるが1位ではなく3位入賞というのでも1位であること以上の感動をもたらす。ともすれば「物語」は批判的に(特に社会批評界隈では)捉えられることもあるのだけれど、これが事実をベースにした物語であるということからくる1位<3位という価値の転倒を引き起こしていることを考えれば、やはり物語は人間にとって必要なものなのだろうと再認識。

 

ま、そういう七面倒なたわごとは抜きにして役者も良いし、アがるカットも多いので観ていて楽しいのですな。6秒差の表現として先行車が通過し、数秒の間があってから追従するヤンの車が通過していくところの緩急とか、新しいドローンカメラを使った視点とか、VR感覚に車体のパーツが細かく分離していく表現の巧みさ、レースシーンはCGなしというだけあってその迫力(および前述の虚実のあわいの曖昧化)は観ていて新鮮。

役者に関しても申し分なく、特におっさんたちが良い。デヴィッド・ハーバーの即落ちの愛嬌とかジャイモン・フンスーの(展開はどうあれ)泣き顔、オーランド・ブルームのいい感じに年を取った顔のおかげで今回のビジネス第一主義の賢しいおっさん役は何気に新境地では。というか事実ベースの話でここまで一種政治的な駆け引き(というほどでもないが)をありありと提示してくるのは中々太いなと。

何にせよ期待値を上回る中々の良作でございました。