「ダーティファイター」
多分、日本版のタイトルはダーティハリーにいっちょ加味したものだと思うのですが、それはさておき結構いい映画であった気がする。本国での評価は微妙っぽいですが。
イーストウッドということで、それはもう必然的にマスキュリニティやマチヅモという語り口が半ばオートで付随してくるわけですが、本作においてはそのマスキュリニティそれ自体の二面性の対比が描かれているのが面白い。
この映画はイーストウッドに象徴される肯定的に捉えられる男性性と、そうではなくくだらない嘲笑の対象としての男性性があり、それはもちろん暴力性と結びついているわけですが、面白いのが後者の男性性というのを担っているのが暴走族の連中だというところ。これ、サウスパークでもFagという言葉の中身をめぐる話の中でネタとして扱われていたのを思い出したのですが、一方で名前は忘れたけれどバイカー集団に襲われるホラー映画もあって、その扱いというのがいまいちよくわからないのだけれど、ともかくこの映画では完全に虚仮にされている。
また、男性性の二面性、暴力性ということを書いたけれど、実のところ暴力性というのは男性性とはまた別の次元の話なのではないかと気もする。男性性と暴力性を直結してはいるのだけれど、しかし暴力性の極致の象徴として描かれるべきが(特にアメリカの映画において)「銃」であるとするならば、イーストウッドも含めこの映画ではやはりステゴロやタイマンが散々描かれながらもどこかくだらないものを観る視線というのが通底しており、それらを見下ろす超越的立場にあるのが銃なのである。
この映画において、銃は絶対的暴力である。しかし、それを使って男どもの蛮行を撃退するのはみな女性であるということは注目に値する。そのうえ、イーストウッド+銃でありながら、おそらくはその使い手が女性であるということから導出されているのだろうが、死人がでないのである。誰一人として銃殺されない。
一方で、男性でも銃を撃つキャラクターがいるにはいるのたが、彼らの銃口の対象は空き缶であり、それは単なる遊戯に過ぎないのであり、それが人間に向けられることはない。
男性性も暴力性も、それらはすなわち即座に悪(的な観念)に結び付くものではないということ。後者に関しては、まあ少し難しいことではあるのだけれど、しかし自衛のための暴力という観点としてとらえるならば「専守防衛」を謳う日本国に住む日本人こそが考えるべき視座ではないかと思う。
そして、この態度というは、実のところイーストウッドの撮る映画の観照的態度と相似であるということが、イーストウッドの凄みなのではないかと思う。
「生きたい」
やべぇ、面白いこの映画。
「スポーツ新聞しか真実を書かないじゃないか」とかいう迷言や「太陽は差別をしない、満遍なく光を与えてくれる」という言葉の含みなど、セリフ回しもさることながらやはり役者のアンサンブルが良い。てか大竹しのぶ力よ。オーバーアクトなのにそれが全然苦にならない存在感。
マイノリティの過度な悪魔・天使化をすることなく、ありのままの心情を吐き出させ、最後にはカタルシスをもたらしてくれる。
この題材にしながら、娯楽映画としての水準が高い。
「我が母の記」
樹木希林ってこのときからなんかヤバ気な空気出してたのだな、と。
「尼僧物語」
これすげー遠回しにシスター(というかキリスト教)のシステム批判に見えるんだけど。しかしラストカット凄い美しい。
「ジュディ 虹のかなたに」
スキャンダラスなジュディ・ガーランドの晩年を、肯定的に語らりなおす、優しい映画。ひねくれものでも最後のシーンはくるものがある。
「ナイト・オン・ザ・プラネット」
恥ずかしながら今回のコレが初ジャームッシュだったのですが、やべえ面白い。
物語足り得ない物語を物語ることの価値、とでも言うべきか。
オムニバスではあるものの共通点はタクシーというだけで、何か話が有機的に結びついていくというわけではないのだけれど、しかしだからこそタクシーという共通点のみが抽出され、各国の物語が純化される。
ニューヨークの話とかめちゃくちゃ笑っちゃいましたよ。いや、あの話の中に織り込まれるマイノリティに向けられる極々自然な日常的な差別構造がしょっぱなから描かれるわけですけれど、それが全く鼻につかず、なおかつ笑わせつつも越境してくる感じとか。それに続くパリの物語、というのがニューヨークの話における人種(肌の色)という同一性による仲間意識を一蹴するだけに飽き足らず、そもそもそういった「見かけ」に囚われていること自体をあざ笑うという技巧。
ローマの話もタクシーの運ちゃんの懺悔のオナニーっぷりやその告解の内容がPETA激おこ案件だったりとかで笑ってしまう。
ラストはちょっと帯を締めていい感じに終わるのだけれど、いやすごいです。空間がタクシーの中だけということもあって何気にワンカットあたりが長いし。
流石、称揚されるだけはある。