dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

ノップ

「NOPE」観てきた。のだが、色々とバタバタしているうちに感想書かないまま2週間経ってしまった。個人的な感覚なのだが、劇場で観た映画はできるだけファーストインプレッションを大事にしたくて、鮮度が重要だと思っているので、ここまで時間が経ってしまうと「書くこと」に対するモチベーションを維持するのが難しかったりする。

それに加えてこの間、色々なレビューや批評を見聞きしてしまっているたため、あらかた満足してしまっている&大体すでに出回っているレビュー・批評と同じ感じに帰着してしまう、というのもあるし、そういったものを摂取してしまっているうちに自分自身の感じたものだったのかどうかという切り分けができなくなってしまっているというのもある。本来三人称的に語るべきを一人称で語ってしまったり、その逆だったりと。

 

面白い映画ではありつつも夜勤明けで眠気と戦っていたこととか、「これIMAXの方がもっとバキッとハッキリ観えたんじゃなかろうか」と小さい箱で観てしまったことをちょっと後悔したりとか、そういう惜しいことをしてしまった無念なんかもあって萎えてしまってもいるのだが。

冒頭のゴーディのくだり(見る見られる関係性、そこに含まれる人種的意味合い、ジュープとゴーディの目が実は直接は合っていないこととGジャンのこと)とか、マイブリッジの馬の映像が投射されているのが実はGジャンの体内(?)だったり、西部劇だったりAKIRAの有名ミームシーンオマージュだったり、映画を語る映画であるという意味深さを露骨に表しながら普通に面白い映画だった。

 

プロダクションノートを読むと、ジョーダン・ピールの黒人としての被差別意識を映画興行界隈にまで敷衍しているようで、だから今回の主役は俳優ではなくその裏方の様々なスペシャリストの一つである調教師を選んだのだ。

それはつまり、不可視化されていた人々を可視化するということ。無論、それはマイブリッジの記録映像の名もなき黒人騎手のくだりからもわかるように、一貫したテーマでありこれまでのピール監督の映画にも通底するものだ。

そういった社会批評性は相当意識しているらしく、もともと考えていたタイトルは「リトル・グリーン・メン」だったとか。その意味するところは「緑色のドル紙幣に刷られた肖像画と緑色のエイリアンというダブルミーニングを込めることで冨や名声への野望と、未知の地球外生命体をカメラに収めたいという野望を同列に語ろうという意図が初めからあった」のだと。あとスカイダンサー(あのくねくねした風船人形みたいなやつ)は大量消費の象徴や美しい者や自然に対する搾取の象徴でもあるのだそうな。本編ではGジャン(のジャミング能力)探知センサーとして活躍してましたが、確かにあれだけの数(70体)のケバケバしい色味があんな広々とした自然の景観の中にあるとそれだけで異様でございます。

とまあ、そういうネタはパンフを買って読めばいいだけの話なのであまり長々書き連ねることでもあるまい。

 

前述のように、あまりレビューを書くことへのモチベはないのだけれど、しかし巷間のレビューや批評で触れられこそすれあまりフィーチャーされてないな、と思う部分もあるにはある。

それはこの映画がカッコつきの西部劇映画であるということ。や、もちろんジュピター・パークとかそもそも馬が重要なモチーフであるとか、Gジャンの第一形態ってガンマンのハットに見えるとか(だからラストの巨大バルーンとの決闘なので)、普通に観てればわかることなのですが、しかしこれがアメリカ映画であるということを考えると、もっとその奥の方が見えてくるような気もするのです。

西部劇映画がアメリカの映画史の中で重要な位置を占めているというのは言わずもがなでしょうが、この映画が映画史の映画であることを考えれば西部劇的要素が多分に含まれることは至極当然である。しかし、この映画には西部劇映画において「馬」と並んで重要であるはずのアイテムが決定的に欠けている。

それは「銃」だ。

そう、「銃」はアメリカ建国、アメリカの精神史においてなくてはならないものではるはず。細かい解釈は人により異なるだろうが、アメリカ合衆国憲法の修正2条で武器の保持が認められていることや、あれだけの銃による事件や事故が起きてなお決定的な銃規制が進まないのはNRAがどうこう以前に、「銃」というものがアメリカ人の精神と分かちがたく繋がっているからだ。自由主義も資本主義もアメリカを体現するものであり、それはアメリカの国体を支える思想であり、その思想を支えるのはとりもなおさず「力(power)」による搾取の構造。その「力」の象徴の最たる具象化が「銃」なのだとすれば、アメリカの精神史・映画史としてを語るのならば、そのモチーフとして西部劇のガワを使うのであれば「銃」はなくてはならないはずだ。

 

だが、「NOPE」に出てくるガンマンたちは銃を使わない。代わりに彼らが使うのは多種多様な「カメラ」だ。英語において「Shoot」は「撃つ」という意味のほかに「撮影する」という意味がある。ここまで書けばもう明らかだが、この映画においてはカメラこそが銃なのだ。どちらにも見る・見られる、撃つ・撃たれるという主体・客体の関係が否応なく生じる。

しかし、不可逆な時間=死をもたらす銃と違ってカメラはむしろ時間を可逆なものとして扱う。同質の力を持ちながら、その作用はまったくの真逆だ。銃という「死」のメディアとは違い、カメラはむしろ「再生」のメディアであり、映像・画像として死者をもよみがえらせることのできる媒体だ。

だからこそピールは、あまたのアメリカの映画が銃という暴力による安易な解決を導入するのとは異なり、その逆の方向性としてカメラを映画内に持ち込むことを選んだのではないか。というか、映画の映画なので当然のことなのだが、しかしアメリカという国を一つの軸としてこの映画を見立てると、「カメラ」というものの一方に「銃」というものが仮構できるのは間違いないだろう。

まして、銃による被害=客体化されるのは往々にして黒人である。確かにこの映画は黒人(を筆頭とした有色人種)を撮影することによって客体化する。しかしそれはカメラによる再生であり、これまでのアメリカにおいて不可視だった彼らの立場をむしろ可視化させる試みである。

 

ラストにおいて、「見る」怪物であるGジャンがバルーン(空疎)のガン(銃)マンジュープを食うことで死んでしまうという結末=(銃VSカメラの)相克による決着を、撮影(shoot)するという入れ子構造によってカメラの勝利を絶対的なものにする。

 

つまり、この映画はアメリカ映画史の、ひいてはアメリカ精神史の語りなおし=黒人から見たアメリカという国の持つ血塗られた歴史に対する、銃ではなくカメラによるリナラティブとでも言うべき映画なのだ。多分。

 

どうでもいい話なのだけれど、Gジャンのデザインが「わー使徒っぽーい」とかレファレンスの乏しい今風のライトオタクみたいなこと考えてしまって自己嫌悪に陥ったりしたのだが、どうやらあのデザインにはやっぱりエヴァンゲリオン使徒参照元の一つとしてあるらしいぞ。良かったですね、私と同じようなことを考えた人たちb