dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

202106

ガンダムW エンドレスワルツ特別編」

そもそもガンダムWは一部界隈のネタとしてしか知らないので話の流れはCV大塚明夫のナレでなんとなくつかむ程度という体たらく。じゃあなんで観たのか、と言われると「なんとなく」以外にないのですが。

まあ腐女子のお姉さんがたの琴線に触れやすいキャラクターであることはよくわかるのだけれど、それってやっぱホモソーシャルの裏返しというか、カウンターというか、視座の逆転としてBLってあるんじゃないかと思う。

だから枝分かれ眉毛お嬢様と群衆の場面(私の知ってる男はあそこに~の箇所)というのは、「男性だって辛いんだ!」という居直りもとい逆切れ(いや、正当な怒りではあるのですが)というかやけくそ魂を煽っているように見える。

作り手のイデオローグの表現としては正しいのだろうけれど、見事に男しかいないのがもはや絵面としてはギャグであり、そういったシュールさというのは多分このガンダムには通底してあるのだと思う(お前を殺す(デデン)、とか)

不殺や兵器(ガンダム)の否定、というのがテレビシリーズを全く見ていないのでどの程度の思いによるのかというのがあまり推し量れないのですが、ビッグボス的な思想を垣間見せるキャラクターがいたり、この90年代末期の停滞・諦念のモードの中にあって、どちらかといえば夕方アニメ的な(夕方のアニメなんだろうけど)児戯的な・・・と書くと意地が悪く聞こえるけれど、そうではなくてある種の無邪気さみたいなものがしっかりとあって、けれどやっぱり90年代のモードとしてのダウナーさも取り込んだ結果としてのあのオチなのではないかと思う。

つまり、この映画は割と真摯なのではないかと、完全なる部外者から見て思ったり。

 

 

「聖衣」

皇帝の首の角度が気になってしょうがない。わかりやすい悪役であるのだけれど、なんかあの姿勢といい喋り方といいカリカチュアされすぎて逆にそんなやついねーだろ!と言いたくなる。とはいえ、今見ると紋切り型でしかない高潔()なマーセラスたちよりは見ていて楽しくはある。とはいえ、彼らも見方によっては狂人であるわけで。

全体的に映画というより舞台ぽい(冒頭の幕開けもそうだけど)のはアングルの問題なのだろうか。

 

市民ケーン

よく考えたらこれ通しで観るの初めてだった・・・と通して観て思い出す。

空虚。ゆえに虚飾。オーソンウェルズってジャックニコルソンに似ていて、すなわちディカプリオに似ているわけで、顔からしてすでにヤバげな空気がプンプンなのであった。

スーザンの偽りの各地デビュー記事の最後に音が萎み電灯が消える演出、好き。あのラストはベタだし予想の範囲内だけれど、やっぱり胸にくるものがある。

しかしよく考えたら0年代(90年代?)のアメリカンサイコサスペンスの萌芽ってすでにこの時点で撒かれている気がする。

この映画が当時としては革新的だったというのはよく聞くのだけれど、しかし今の時点から観てみると特段技法として何かすさまじいことをしているというのはわかりづらい。まあ、それこそがオリジンのオリジンたる凄みなのだろうけれど。

 

 

「ライト/オフ」

この映画で一番テンションが上がるのは冒頭のロッタ・ロステンの登場シーンであろう。何を隠そう、彼女こそ短編バージョンの主人公であるわけで、彼女を主役としたサンドバーグ監督の短編ホラーシリーズの顔でもあるわけで。まあ顔見せ程度の出演でしかないわけですが、ゆえに生存するという、ある意味で短編シリーズにおける彼女の無敵っぷりをにおわせてもいてグッド(違)。

ていうか「シャザム!」監督してたんだ、ということを今振り返って知る。ホラーはホラーでも妙に物理的なダメージ描写ばかりで、なんかその辺は共通点として挙げられるような気もする。

でも基本的には短編のギミック勝負の部分に無理やり物語を外挿した感じではある。ダイアナの出自とかはアメコミヒーローっぽくも貞子っぽくもあり、ともするとこれはX-menの「ニューミュータント」のヴィランにでもなりえるポテンシャルがあったのではないかと思ったり。ていうか「MAMA」か。あちらほど悲壮感もなく、その辺のサクッと済ませてしまうセンス(バジェットの都合もあるのやもしれんけど)は割と好ましい。

 

ザ・ファブル

期待値を上げすぎていたけれど、それでもアクションは事前に聞いていた通り良い。ちょいちょいギャグがテンポを乱しているというか、ギャグのために流れが止まってしまうのがやや痛いが、それでもしっかりと笑えるところは笑えるのはグッド。

あと柳楽君ね。サイコパス気質の三下というのは中々新鮮。彼が出てくるところは軒並み最高で、下手に生かさないで終わらせるのも幕引きとして素晴らしい。ていうか彼の最期は結構くるものがあった。あんな下劣な人間なのに。

 

座頭市と用心棒」

三船敏郎/勝新太郎。以上。ほかに語ることがあろうか?

 

「ギャルソンヌー二つの性を持つ女ー」

短編。インターセックス・・・DSDの人間の性自認、というよりもアイデンティティにかかわるもの。描きたいことはわかるのだけれど、短編として描くにはあまりにも尺が足りなすぎる。あるいは劇映画ではなくモキュメンタリー形式の方がもっと真に迫ることができたのではないだろうか、という気もする。冒頭のカットがドキュメンタリーを想起させるような撮り方(カメラワークのせいか)だったし、そういう選択がなかったわけもなさそうなのだけれど。

性のステレオタイプ、というのはかなりセンシティブな問題だと思うのですが、この映画では果たしてそこまでの問題意識を徹底していたのかどうか。とはいえ、たとえばいわゆるオネエ(ドラァグクイーンもそうかな)というのは、そういうステレオタイプな「女性らしさ」を極端に戯画化して身に纏うことによる「なりきり」であろうし、必ずしも「~らしさ」というのは一概に否定できるものでもあるまい。「女々しい」という言葉を明らかに悪く受け取れるように用いていたり、問題への意識というのはもちろん見えるのだけれど、問題提起はすれども、突き詰めきれていない。ゆえに劇映画としての顛末も陳腐にならざるをえなかったのではないだろうか。

モキュメンタリーならもっと可能性が開けていたのでは、と感じるのはやはりそこかもしれない。

 

「熱海の路地の子」

ファムファタールの亜種・・・なのだろうか。

カメラの目線と男の視線、女の目線とカメラのそれの乱交。冒頭の「カメラを拾ったので~」が男の言葉であるならば、もちろんカメラは、つまりスクリーンに映し出される画面というのはカメラを通した男の視線であるわけなのだが、女との遊戯に発展するやいなやカメラは分岐するし視点は入れ替わるし、乱交というほかない。

面白いのは「被」写体であるはずの女が、まったくもって受動化していないというか、客体化されていないように思えるのですね。これ、歩いているときからそうなのだけれど、カメラが追っているというよりも、女(の淫靡な歩き方)によってカメラが追わされているといった方が適切に思える。

それは最後まで通底していて、最終的にギャグボールを噛まされ弱弱しいその裸体をあけっぴろげにさせられた男は、しかして法悦の顔を見せ、女から遠ざかっていくのである。

この短編を観ていると、男女(の肉体)の主体・客体というのは果たしてどちらにあるのだろうかと考えさせられてしまう。本来であれば凸凹、あるいは妊娠可能性という点において、というか社会の在り方として男性→女性という構造が堅持させられているように思うのだけれど、ここにはそれを逆転するような何かがある。

そこにはバイオレンスな臭いは一切なく、にもかかわらず既存の男性優位の規範を覆してみせるポテンシャルがある。エロティシズムの可能性を観たような気がする。

 

「Startins Position」

映画は五部構成らしい。ロシアの映画大学のテキストにも監督の母校(日大?)の教科書にもあったらしく、起・承・転(危機)・転(好転)・結なのだと。それが「この世界の~」は承が3つあり、一つあたり10~15分だとすると、それぞれの起承転結にどれだけのエピソードを入れられるか、という話から始まる。

すずさんを「この人」と呼んでいるのがなんか面白かった。かなりの程度まで人格化しているんだなーというのが伝わってきて。

とはいえ延々と起承転結とそれぞれにあてはめるEPをどうするかなどを話しているだけなので。水道のくだりとかは「そこまで調べるんだ」と驚きましたけど。

この世界の片隅に」はきつすぎて劇場で一回しか観てないのだけれど、そろそろ見返してみてもいいかもしれない。

 

「マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画」

チャプター1:中島兄弟(2009年)

これはなんというか、割と自分に身近な問題だけになんか腹が重くなった。

実際、統合失調症で近所の家に放火した人とある施設で接したことがあったし、佐々木監督が口にした「ずるい」という言葉は、まあぶっちゃけ少なからず彼自身の本意も混じっているのだろうけれど、心神喪失のことを考えれば、そして「悪の教典」の原作ラストよろしくそれを悪用できうるだけの才覚(サイコパシーな)があれば、ということは言えてしまう。

というか、そういうのを抜きにしても「被害者」がいるというのは事実であるし、「障碍者だから~」という偏見と障害特性・本人の人間性の切り分けをどうするのか、というのは常にもやもやするものである。障害は個性、なんて詭弁で誤魔化せるようなフェーズではもはやないわけで。

中島兄の「それ(佐々木監督のトラウマ)はそっちの問題で弟とは関係ない」というスタンスにしても、相互理解からは程遠い。曝露療法って良くないって聞いたんだけど、あれはトラウマ治療に関するものだったかな。

 

チャプター2:クリスティ

ここのチャプター名がモンマではないあたり、確かに極私的という言葉がぴったりな感じはする。それにしても2007年は飲食店で煙草吸えた時期かぁ・・・と妙な気分になった。というかチャプター1でもモンマさんは割と印象的に出てきて、このあとも割と出ずっぱりな割にそこまで面白みがない(失礼)のは、基本的に彼は完成してしまっているからなのだろう。

ドキュメンタリー番組のディレクターとの会話にしても、あのディレクターのキョロっぷりや先輩風を吹かせたり飲みに行こうよという「いかにも」な面白みというのはあっても、モンマさん自体の面白みというのはあまりなくて、それはモンマさんにはあまり葛藤が見られない(すくなくともこの映画上では)からだろう。彼女(?)との渋谷デートでのエレベーターのくだりにしても、警備員?とのいざこざにしても車椅子の新調にしても、慣れたものである。あるいは「慣れてしまった」悲哀を見出すことも可能なのかもしれないが、それすらももはや鬱陶しいものでしかないとすら思える。

それは確かに一つの可能性としてあるのだろうけれど、多分、監督の意図とは別なんじゃないかしら。

 

チャプター3:リリィ

2010~2011年、2012年、2015年。

最初の子どもって、もしかしてクリスティとの子どもなの?と思ったり。

熊篠さんに関しては、彼が子どもに関することでああいう心境(今はどうなのかはわからないけれど)だというのはあまり驚かなかったのは、やっぱり自分の生きづらさを自覚しているし、原発事故で電気の必要性を実感したことでよりそれを痛感したこともあるのかもしれない。

この章ではモンマさんと佐々木監督のやりとりも面白いのだけれど、やっぱりクリスティを追いかけるくだりは色々と「この人やばいな」と思わされるという意味でそこが白眉かもしれない。あの日系アメリカ人の人には撮影許可撮ってないと思うんだけど、大丈夫なのだろうか。

 

直截的な言及はされていないけれど、監督自身も何かしら性に関する問題があるっぽく、だからこそ他人の性に興味を持つというのはわかるのだけれど、だとすると中島兄弟のチャプターはそこに全く突っ込めていないのはちょっと惜しかった。

 

とはいえ、それはある意味で「ナイトクルージング」に至る道程なのだと思う。

それに、この映画の在り方というのは、おぼつかない足元を映していることがまさにそれを示しているわけで。