dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

2020 4月

ローズの秘密の頁

雰囲気は小説っぽいのに内容は少女漫画的なのが妙に笑いを誘う。

役者はみんな良かったです。女性の抑圧とアサイラムの組み合わせに「チェンジリング」を想起したり、どこも変わらないのだなぁと。

 

 

「勝利への脱出」

 スタローン若い!ペレがいる!

なんというか、モデルとなった史実のバッドエンドを改良してやろうというワット・イフなつくりであるので、多少無理がありそうな気もするのですが、しかし色々とすごい。

日本じゃせいぜいコナン映画でへたくそな吹き替えをさせられる程度の役割しか担わされないサッカー選手がどばちょどばちょと登場してプレーしてくれるというのだから。

 

「ビリオネア・ボーイズ・クラブ」

スペイシーのこの手の映画のグルっぷりは何なのでしょう。

いかにもアメリカンなアップダウンな物語に、しかしアッパーなテンションを維持し続けるキャラクターに対して抑え気味の音楽。

信用できない語り手の語りそのものがないパートなどもあり、それが単なる雑さなのか別の狙いがあるのかどうなのか。

タロンの屑演技のハマり具合も中々なのですが、いかんせんナチュラルボーンクズというよりはむしろその演技からは必死さが伝わってくる。

典型的な成功からの没落物語としてはまあ。

 

「ある天文学者の恋文」

死者によって手繰られる生者の生。それを通俗的な恋という形で描出することのおどろおどろしさ。監督は本気でこれを純粋なラブストーリーとして観ているからここまで突き抜けているのではないのかしら。

いや、確かにこの物語を成立させるほどの強烈な何か、エドとエイミーを繋ぐことのできる何かは「愛」以外ではそれこそ「憎悪」くらいだろうから、正攻法と言えば正攻法ではあるのだろうけれど。

やヴぁい。これ結構好きなタイプの映画でござい。音楽モリコーネだし、何気に豪華。

これ「ニューシネマ・パラダイス」の監督だったんですね。言われれば何となく、という気はしますがこの監督の映画「ニューシネマ~」しか観てないのでなんとも。あの映画は特に印象に残ってはいないのですが、今回の映画はかなりキてる。個人的に。

 

というのも、これは死者の話、死者が生者に・・・死者こそが生者を規定するという話だからなんですね。私の好きな「ライフ・アフター・ベス」に通じる死者映画なのでせう。

 

前情報なしで観たにもかかわらず、冒頭からすでに画面いっぱいに死の予感が充満している。それはファーストカットのやりとりからもそうだし、ジェレミー・アイアンズエドから滲む空気のせいでもあるだろうし、あの年齢差の男女の関係として行きつく必然の帰結だからというのもあるだろう。

そういう肌感覚的なものではなくとも、最初のシーンにおいて別れ際に見せる両者の反応の違いなどから察することはできる。

そして何より、この映画の中で二人が直接的にはだえを触れ合わせるのが最初のシーンのみで、あとはメディアを媒介することでしか接し合わないシーンの連続(というかこの映画がそういうシーンの積み重ねだけでほとんど出来上がっている)しかなく、エドとエイミーの間に隔絶した一線が明々白々に引かれているからに他ならない。

 

そこからは観ての通り、ひたすら死者(エド)によって生者(エイミー)が、愛という名の下に徹底的に規定されていく様を描く。

死してなお駆動しようと(させようと)するさまは、愛というよりは狂気の執着に他ならない。劇中でエドの友人の教授が言及するように、エドは徹底的に自己中心的なのです。恐ろしいのは、その自己中心性は自分亡き後にこそ加速するというところ。

「ライフ・アフター~」のようにゾンビとして自身の身体すら必要とせず、手紙やメール(と同列に扱われる、身体を持つ他者)というメディアのみで生者を動かしてしまう。

けれど、それは何もおかしなことではない。よくよく考えれば我々の周りには死者によって遺された産物が充満しているのだから。本棚にある書物にせよテレビで流れる昔の映画にせよ、それらは生者に影響を与える。ともすれば生者によるものよりも。

それは10年以上も前に伊藤がスピルバーグについて語っていたことから分かっていることではあったけれど。

スピルバーグのような暴力性を纏うことなく・・・いや、この規定性がそもそも暴力的と言ってしまえばその通りとしか言いようがない。

 

生者あるいは「生」などというよりも死者・「死」の方が強度があるということ。

人間の生のみを肯定し称揚し、それがマスに受容される世の中にあって、このような映画が観れることは喜ばしいばかりであります。

 

アメリカン・グラフィティ

通しで観るのは初めてだったんですけど、今見るとすごい豪華なスタッフ。

ハリソン・フォードがあんなちょい役で出ていたとは。

にしても異様。ほとんどが車の中でのやりとりで完結してしまうのにまったく窮屈さがない。もしかするとこれが一夜の物語だからだろうか。

真っ暗な夜空の下の喧騒が白み始めた空の下でエンジンの音によって極を迎え、空の中の点としての飛行機によって収束あるいは閉塞していく。

極めてホモソーシャルな価値観ではありつつ、おセンチになるこの作り。プリクエルの監督とは思えないですな。

 

シコふんじゃった。+ファンシィダンス」

やっぱり周防さんの映画は笑える。それだけで貴重なのだけれど、変にべたつかないのが観ていて心地よい。知らなかったけどIF出身だったんですね、周防さん。

必ずしも演技が達者な人でなく、むしろそうであるからこそのスラップスティックな空気感というか。いや、柄本さんとかちゃんと抑えるところは抑えているからこそではあるのだろうけれど。

ずーっとソフトフォーカスで(これは作家というかなんというか時代?)、けれどそれが余計な熱量を持たせることなく青春の一幕・・・というよりもモラトリアムの延長としての甘い時間が広がっている。それはラストに至ってもっくんがああいう選択をするということからも明らかであるように見える。

あれだけの汗を垂らしながらも、この映画がまったく汗臭くないのはそれだ。淡々と進んでいく、その淡泊さは青春の甘ったるさになど目もむけない。

大学生(それも就職先の決まった四年生)という設定からもそれが伺える。青春というには少し遅い。なればこそ、青春という有限な時間の有限性をことさらに強調するのではなく、その先にあるモラトリアムを遅延させようという成長の否定。

いやー好きですこの映画。

 というのが「シコ~」のほう。「ファンシイダンス」も基本的な構造は一緒だと思う。前者の方がブラッシュアップされているというか、まあそんな気はします。

ただ両方しっかり笑える、というのはさすが。

で、これ両方の映画に通じるんだけれど、この人って周縁の・・・もっと言ってしまえばフリークの扱い方がすごい意識的ですよね。

臆面もなく言えばブスやデブスの扱い方。決してPC的な正しさではなく、けれどそこには正義感や使命感などではない愛情がある。まあ、その愛を無条件に受け入れることの恐ろしさというのはやっぱり考えなければいけないことではあるんだけど。

 

 

「卒業」

リマスター版で改めて。

年を重ねた今観ると、どうも見るに堪えない童貞感ががが。

スパイダーマン3」のマグワイアを最初から最後まで見せつけられる感じといいますか。最初から、は言い過ぎですね。ミセスロビンソンとのセックスがヴェノムとの結合なわけで、童貞映画としてはかなり良い映画ではあるのでしょうが・・・それにしても見るに堪えないよー。

不安定なカメラワークといいラストの二人の表情といい、若気の至りの酸甘さにライドできるかどうかで評価が分かれるのでは。

まあ、結婚という形式にこだわるあの姿勢がそもそもいかにも西洋的な男根主義が見え隠れするというのも痛いというか。そういうナイーブさも観てていたたまれない。

これを愛せるようになるにはもう少し年を重ねなければならない気がする。

 

「68キル」

いやーこれすごい面白かったです。ヴァイオレット以外のキャラクターが屑しかない。ヴァイオレットも退場の仕方こそあんなんでしたけど、セリフだけとはいえ世の理不尽をサバイブしてきた強くて脆い人間として一番キャラクターが描かれていましたし。まあ、それゆえにあの最期を迎えてしまうわけですが。

ヴァイオレットのとの再会シーンの露骨な甘ったるい空間も、しっかりギャグとして機能させるまでに甘ったるくしてくれているし。

最後のアレを成長と捉える屑っぷりも含めてすがすがしいです。ていうかあそこまでの経験をしなければあそこまでの転換が図れないというのもまた屑で良い。

あの能天気(というかノータリン)な屑っぷりというのも、実にこの映画のタイトルに相応しい。

その徹底した受動性ゆえに最悪の展開に巻き込まれながらも成長()する、というのもこの映画のスピリットであろうし。

ランニングタイムのちょうどよさといい「ハッピー・デス・デイ」と並べて観たい映画。

気軽に観れて満足度の高い映画です。

 

ブレーキ・ダウン

ターミネーター3」で有名?なジョナサン・モストゥ監督の長編デビュー作。

評されているとおり「激突!」じみているのですが、この人のアクションはやっぱり面白い。こうしてみると「T3」のアクションってかなり正当な進化だったのだな、と。

 

ヒットマンズ・ボディガード」

「エクスペンダブルズ3」の監督なのですねぇ。テンションの感じとか確かにそれっぽい。

スクリューボール・コメディとしてはなかなか。まあレイノルズとサミュエルのバディというのも新鮮ですし。どことなく「アザーガイズ」みのある馬鹿っぽいサミュエル。

日本では劇場公開はせずネットフリックスということですが、続編やるらしいですけどそれに合わせて劇場公開するのか、続編もネトフリなのか。

 

ねらわれた学園

 そういえば大林宣彦の映画をまともに観たことがないことに訃報を聞いてから思い至る。

にしても自由闊達ではある(のか?)。その戯画化っぷりやSFXを使うことに(その使いかたも含め)躊躇なかったり、なんというか特撮映画ではある。内容もサイキックものではありますし。

確かにはっちゃけてはいるのに違和感はないし面白い。

リアリティ、という言葉について再考するのにこの人の映画は最適やも。

 

「かごの中の瞳」

どっかで聞いた名前だと思ったら 「ワールドウォーZ」やら「プーと大人になった僕」の監督でしたか。なんかあんまりおんなじ監督って気がしないような気がしないでもない。

身体の変化が人間性の変化へと直結する。その身体性を楽しむ映画。

ジェイソン・クラークの保守的で父権的さの描きかたが、全く露骨ではないのに確実に自分の優位性におんぶにだっこなサイレント屑っぷりがうまい。

何度か登場するベッドシーンの体位の変化やプレイ内容の変化は、そのまま二人の関係性(ジーナの身体性の変化による)の変化を表す。

新しい世界への扉が再び開いたとき、彼女の中の童心はくすぶられ世界に対して己を解放する欲求に駆られる。

んが、ダニエルはダメだった。あの最期の涙は観てるだけで腹立ちますね。無自覚の屑キャラ(いや自分の感情には自覚的なのでしょうが)としてはかなりポイントたかいので見ごたえ自体はあるんですけどね。

男根に一擲くれてやる映画です。

 

真珠の耳飾りの少女

これは撮影監督と証明の大勝利では。

随所にみられるまさに絵画と言わんばかりのショット。それを堪能する映画ではなかろうか。しかしスカヨハ。しかるにスカヨハ(意味不明)。

「スパイダーパニック」で蜘蛛に襲われていたあの町のイケてるおねーちゃん感とは全くことなる浮世離れした端正さ。浮世離れさせらせてしまった悲哀。絵画に別なる意味を付与し、以前と以後に隔ててしまう。

 

あとコリン・ファースオーランド・ブルームぎみに見えてこんなにイケメンタイプだったかとちょっとどきどき。

キリアン・マーフィーは好きじゃない・・・というかあの人の顔がなんか生理的に無理なのですが。それもこれも「28日後」のせいではあるんですが、まあそれはさておきスカヨハファンとコリンファースファンは観ねばならぬでしょう。

 

 

「アラモ」

男の美学の映画。それはつまり徹底してホモソーシャルな世界の話であり、無数に表れる大砲も鉄砲もサーベルも松明も、あるいは砦の柵に使われる木々でさえもすべては男根にほかならない。

ある夫妻の別れの描き方などは(それは宗教的な安らぎに裏打ちされているからかもしれませんが)このご時世では到底容認できるものではありますまい。

これを手放しで称揚することにはためらいがある一方で、しかしそこにある倒錯した美学、理性や倫理を超越したその先にあるものをここまで過剰なスケールで描いて見せてくれるのだから酔わなければもったいないという気も。

 

アウトブレイク

このご時世ということでパンデミック系の映画を観てみる。同じくパンデミック系で最近よく観られている「コンテイジョン」に比べると軍の疑似空中戦があったり万能な新人サイドキックがいたりと、ご都合的といえばご都合的ではあるのですが無駄にキャラクターを増やしたりせず省エネ人員かつストレスフリーで観ていられるので全然あり。吹き替えがなっち(野沢那智)だったり納谷さんだったり25年前の映画ということもあって懐かしの声が聞こえたのも良かった。

スペイシー若い、フリーマンは今とあまり変わらない気がする、レネ・ルッソ若い。

これは吹き替えのなっち節の方がテンポいいかも。笑わせてくれる部分もたくさんあって「コンテイジョン」よりもエンタメ成分が多めであちらよりも万人向けかも。

 

ラスト・アクション・ヒーロー

昔々に観たのを観返してみると新しい発見があったりするわけですが、これ今見ると面白い構造をしている。

まあでも、確かにシュワちゃんファンは観ていて歯がゆいものがあるのは確かでしょうけど。明らかにアーノルド・シュワルツェネッガーのメタ映画であり、ほとんど総決算というか締めに入っているというか。

エルム街の悪夢 ザ・リアルナイトメア」と同じような感じ(こっちの方が後だけど)といった趣。

カメオ出演の人数とか、色々と過剰な物量で攻めてくるわけですが、それは当時のネッガーの持つエネルギーに比肩させるためなのではないか。

アニメとかボガードとか、あの辺の遊びは正直謎・・・ってわけでもなく、映画の歴史としての映画として考えればクラシックとして劇中劇・映画内映画の世界に顕現させるというのはむしろ映画という何でもありの媒体=可能性についてマクティアナンは意識的だったということなのではなかろうか。

というか映画というものにまつわるあれこれ(Fワードとかレーティングとか)を含めて、シュワというか映画についてのメタ映画なわけで、それを勢いと物量で攻めまくる映画が万人に受けるのかというと難しいのではないか。

当初はシェーン・ブラックらが脚本を書いていたというので、そちらもそちらで気にはなるのですが。