dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

6月2020

 

タクシー運転手 〜約束は海を越えて〜

何で日本の配給会社ってこういうだっさい副題つけるんですかね。

それはそうとアメリカの警官が黒人を殺した問題でデモ(というかもはや暴徒ですが)が起こっているときにこの映画を流すNHKの采配のシンクロニシティ。まあ「キリング・フィールド」とかも流してましたから、現場レベルだと色々と社会情勢を考えたりしながらプログラム組んでるんだろうなぁと思ったり。

これが80年の話というのも驚き。と言っても80年が40年前なわけですから、そう考えるとそれなりに歴史化されていても違和感ないんですけど。

銃とカメラの対比や私服警官に襲われるシーンの色彩、行きは後部座席なのに帰りは助手席というモロな演出など中々どうして良いではありませんか。ああいうの嫌いじゃないです。

これも実話ベースというあたり、現地に外国の記者が入り込んで〜っていうのはそういう定石として現実にあるのでしょうけど、これほどおいしい(とか書くと不謹慎ですが)バディもの定型もそうないのでは。

「TAXI」なんかよりよっぽどタクシーがカッコよく描かれているのもツボ。まあタクシーが、というよりはその乗り手であるドライバーのドラマなわけですが。

 

「クロニクル」

ずっと気になっていたのをようやく鑑賞。ジョシュ・トランクって今何してるんだっけ、そういえば。リブートのF4がこけてから何してるのか聞いてない(追ってないからですが)のでそろそろ新作を、と思ったら一応予定はあるらしいですね。ほかにも「ボバ・フェット」の監督の候補だったとかF4反省記事とか色々出てきた。

それはさておき「クロニクル」。ちょいちょい「それ本当にPOVとしてあり?」な部分もあるのですが、普通に面白いです。

しかし転倒させられることが前提の成功(の直後に訪れる増長・失敗)シーンってどうしてこうも見るに堪えないのだろう。約束された失敗、というのはそこに至るまでに陰の人であるという彼の執拗な描写からも分かってしまう。社交性が高く弁えている二人は弁別が可能だが、そうではない彼は力に酔い、己に陶酔してしまう。

無論、フラストレーションをため込んでしまうのはその家庭環境にもあることは明々白々なのではありますが、しかし結末も含めてすべてが破滅への予定調和としてあるこの物語を観客の立場として見るには忍びない。

しかしまあ超能力という設定があればPOVでもここまでカメラを動かしても大丈夫、というのはわかるにしても、ほかの人のカメラに映されるというのは(意図はわかるにしても)チョンボじゃないのかえ、トランク監督?

ああいうのは「アメスパ2」のエレクトロの方が個人的には好きですね。そういえばあれにもデハーン出てましたが。

にしてもデハーンってこのころから生え際ヤバかったんですね。

 

若草物語

おそらく「ストーリー・オブ・マイ・ライフ/わたしの若草物語」に合わせてNHKが組んだのだろうなーという。

しかし息苦しい映画だなぁ、と。それは多分、本質的にこの映画には外の世界が出てこないからでせう。この映画には西部劇映画の、ホモソーシャルの極限な映画において開けた空と大地が広がっている(それゆえの茫漠さはあるにしても)のに対し、この映画においては空は書割だしセットであるがゆえにアングルだってシットコムかのように固定されている場面が多い。

そうでなくても、シーンのほとんどが家であったり、学校であったりと、とにかく彼女たちを徹底的に内側へと押し込み囲う箱庭的な世界しか描かれない。それが「彼女」たちのおかれた世界だったのだろう。

だからとても息苦しいのだ。

 

「知りすぎていた男」

 たまにどれがどれだかわからなくなってくるヒッチコック

相変わらずうまいな、とは思うんだけどラストの勢いはちょっと笑う。

 

時をかける少女

大林版を今更。細田守版と比べるといろんな意味で幻惑的だなぁ、と。ていうかこれに比べたら細田守版てかなりSF色強めていたんだなぁ…。

大林監督の映画は家の生活感というか、日常感が良くて、そこに非日常が唐突に侵襲してくる展開とサイケな特撮編集と相まって奇妙な感覚をもたらす。

アイドルという非日常的存在を徹底して日常空間に落とし込み、芋くさくさせる(?)のもそのためなのかもしれない。いや単純にロリコンであるということではあるのだけれど、しかしそんなことを言えば程度の差はあれみんなロリコンでありショタコンなのではないかと個人的に思うのだが。

今なら堀川くんへのフォローが入ったりもしそうなもんですが、本作においては完全なる被害者であるわけで、ほとんど略奪愛の映画でもあるんてすね。演じてるのが尾美としのりというのも絶妙。

にしてもラストのズームアウトってどうやってんですかね?

 

 「サイコ」

 そういえば全編通して観るのは初めてだった。体調最悪で所々で意識が飛んでたりするとこもあったのですが、それでもまあ単純に面白い。

基本的には演出面で「ここはこうで~」という形で部分的に観させられていたので、案外というか、ストーリーラインそのものについては実は奇跡的にネタバレを回避してこれたのでかなり新鮮ではありましたし、さすがはサスペンスの神といったところでしょうか。

うーんでもなんというか、パロディばっかり見ていたせいで逆に笑ってしまったりもしてしまったり。有名なシャワーシーン以外にもがっつりパロられているんだなぁ、と。まあ主にシンプソンなんだけど。

にしても、ここまでマザコンミソジニー悪魔合体だとは。倒錯しすぎてちょっとやばいです。最後のモノローグが「母親」というのがヤバいし(「悪の教典」のハスミンってこれのオマージュだったりするのかしら)、それが翻って悲しいというのも多分にある。アングルも結構独特だったりしますよね、探偵を殺しにかかる直前のカットとか初期GTAみたいだったりしますし。

 

病院坂の首縊りの家

犬神家よりこっちの方がコミカルで好きかも。まあミステリーがそもそも苦手というのはあるのですが。

廃墟も出てくるし、黙太郎というサイドキックがいいキャラしている。しかし草刈正雄ってこうして見るとイケメンすなぁ。ちょっとアラブっぽくて濃い顔なんですが、いい具合に軽いのに戦争孤児という重い設定を付与されてたりするのも良い。

あと劇中のバンドの頭いい。

こうして書き出すと本筋と関係ない部分ばかりですね。ホントこういうの向いてないんだなぁ。

 

「フリーソロ」

理屈じゃないもの。取ってつけたような家庭の生い立ちや脳の検査も、何の参考にもなりはしない。辛うじて何かを見出せるのとしたら先達との会話のときの笑顔だけだ。

それは普通であることの証左にしかならない。

 

 

老人と海

うーん?どうもこの映画の語り口は弁解に聞こえるんですよね。

作り手自身も老人の在り方を(というか、老いて力を失っていくこと)良しとしていないというか、諦めているというか。

ほどど副音声的な説明が入るのが老人のシーン(少年単独のときはほぼない)というのは、老人自身が己の衰えを言葉とは裏腹に認めたくないからでは。執拗なまでの説明は、逆にその情景や心情を陳腐に見せる。

だからこそ一人で漁に出たのではないか。ワシはまだやれるのだ、と言わんばかりに。そんなことおくびにも出さないけれど。

要するにこれ、ジジイが最後に一発花を咲かそうとして試合には勝ったけど戦いには敗北した、それでも努力賞もらえました、という話にしか見えないのである。

なんか痛々しいです。

 

「スキン(短編版)」

サウスパークでありそうだな、と。というか似たようなネタをジンジャー差別やHIVでやってましたな。ラストのオチは違ったような気もしますけど。

要するに、どうしようもない現実問題なのでせう。

これ長編版どうなるのだろうか。

 

ファイヤーフォックス

良くも悪くも(としておきませう)ザアメリカなイーストウッドがロシア人との混血という設定であり、勝敗の決め手が敵国の言語をイーストウッドが使用するということであり、そもそも敵国の機体を鹵獲しようという、ある意味で徹底的にロシアageな映画である、というのがすごく面白い。(一方この映画の6年後にネッガーは「すまねぇロシア語はさっぱりだ」った。アメリカという国の歪み具合ががが)

 ウィキがまあまあ充実しているのもなんか面白いですが、やはりミリオタ的には琴線に触れるものがあるのだろうか。

一方、アメリカン兵士であるイーストウッドには明らかに兵士としての瑕疵=トラウマがある。加えてセリフの中でストレス障害など一般的だという事実が述べられる。

何度も擦られるイーストウッドの回想の中に出てくるアジア人の少女は、明らかにベトナム戦争の傷であるわけです。しかもそのせいで危うく任務に支障をきたしそうになったりもする。

アメリカ的価値観の相対化、という意味でイーストウッド映画には違いないのですが、なんだかSFXとかいわゆる特撮とイーストウッドの相性ってやたらといい気がするんですが、この映画のドッグファイトシーンの合成とかほとんど違和感ないしなんなんですかねこれ。

 

伊豆の踊子

 三浦友和が若い・・・。

トンネルのカットが良い。あとロケーションね。

露骨な、しかし当然のように潜む差別があまりにも日常に溶け込んでいて少しびっくり。

そして、それがもたらす恋のわずらわしさ。これってロミジュリでは?

話だけを追って入ると、そういう風には見えないんですけど、しかしやはり「私」の奥手っぷりというのは、いわゆる童貞マインド的なものなどではなくて、踊り子である彼女と己の立場の隔絶さについて自覚的だからではなかろうか。

かたや被差別民、かたや金持ちボンボンのエリート学生。無論、彼女は(「私」の主観ではあるとはいえ)そのようなことには無意識(というかnaive?)であり、だからこそ無垢である。それがまた「私」を煩悶とさせているのではないか、という気がするのです。

その無垢さ、というのを処女性と言い換えてもいいのだろう。

そう、これは穢れの概念とも結びついているのでありませう。そのような民俗学的な概念と恋愛のマッチングした映画、というか小説、なのだろうか。

 

「情婦」

全く知らなかったんですけどこれアガサ・クリスティの有名な小説が原作だったんですね。まったくトリックのこととか知らなかったのですが、割と有名な感じらしいですね。

クリスチーネが哀れすぎてかあいそう・・・。にしても登場人物のキャラがこいーです。

 

「引き裂かれたカーテン」

冷戦を舞台にしたのがあるとは思わなんだ。博物館の中のカットがすんごい良かったっす。あとやっぱりパラノイア的な感じがするんですよね、ヒッチコックって。

美女に求められることへの倒錯というか、女性に対するコンプレックスというか。それが異様な形で発露したのが「サイコ」なのだろう、と。

 

キングダム/見えざる敵

いつものピーター・バーグなんだけど、アバンというかオープニングのおさらい映像がかっこよくておしゃれ。つまり開幕10割。

近年のは実話ベースではあるんだけれど、これはベースとなる事件はありつつも完全にフィクション。

高速で移動する理由が尾行を見分けるためだとか、その辺の考証部分なんかもさらっと取り入れてたり、アクション多めだったり、フォーマットがチームものであるのでその辺も含めて何気にバーグ作品では結構好きな部類。

ていうか製作にマイケル・マンがいるからか、銃撃戦とか妙に迫真なんですけど、それがかえって娯楽性を高めてしまっているきらいもあり、終盤の銃撃戦に関してはどう観ればいいのかわからなくなってくる。

敵組織の子どもによって射殺されてしまうファーリスと、その子どもを射殺するしかなくなるロナルド。そこで生じる敵でありながらも一方では守るべき子どもを殺さなければならなかった、という問題は、ファーリスの死という(語弊を恐れず書くならば)安直な悲哀に中和させられてしまう。しかし、「俺たちの勝ちだ」という慰めにもならない空虚な慰めの言葉が、「お父さんはとても勇敢だった」と言わざるを得ないどうしようもなさが、ファーリスの死によってもたらされる悲哀すらも無化していくようにも見える。のだけど、そこはアメリカンなマインドで「君のお父さんとはいい友達だった」というセリフが恐ろしく陳腐に聞こえてくるので結局台無しになっているような。

また敵陣をせん滅したあとに「とりあえず丸く収まったね」と言いたげに流れるダニー・エルフマンのメロウなスコア。これは他のピーター・バーグ作品でも同じような感じなのだけれど、しかし、この映画においてはそのメロウなスコアをながっしぱなしにしつつも最後に明かされる両者の「奴らを皆殺しにしてやる」という言葉が、その甘ったるい音楽にくさびを打ち込んでエンドクレジットに移る。

何が言いたいのかと言うと、これ、実はかなりバランスに苦慮しているんじゃないかと思えるんですよね。

2007年といえばまだ911テロを引きずっていたころですし(今でもそうだけど)、その後遺症というか対症療法的にアメリカを鼓舞するような映画がたくさんでてきたのだけれど、しかし一方でテロの行為をテロリストにだけその責を担わせることに無理があるというのも言われていたことで、だからこの辺のばらんすがみょうにちぐはぐになっているような気もする。

むしろあえてこういうバランスにしているのかもしれない。この人のフィルモグラフィーは結構面白くて、「バトルシップ」とか「ハンコック」とかのアメリカンパワー(?)な娯楽映画を撮っている一方で「ウィンド・リバー」みたいな映画の製作もしてたりする。

まあでも社会問題に対して意識的であることは間違いないのでしょう。もしかしたら「パトリオット・デイ」とか「バーニング・オーシャン」とか大事なとこ見落としてる可能性もあるなぁ・・・。

アダム・マッケイの作風は、かえってアメリカ的過ぎて実は自分の中では楽しみつつも好きになり切れない部分もあるのですが、ピーター・バーグはもっと生真面目な感じがあって、そこがむしろ好感を持てる部分でもあったりする。

 

「彼奴は顔役だ!」「孤独な場所で」

同時上映、というかあるイベント(勉強会?)にお誘いいただいて観てきた二作品なのですが、体力的に2本連続はもうしんどいな、と。この並びで分かる人はわかるのでしょうけど、ハンフリー・ボガードが出てる映画です。資料とかも結構もらったんですけど、とりあえずの所感として読まずに書く。

「彼奴~」に関してはボガードは主演ではないのですが、ヒールとしていい役どころではあります。

これ、戦後の帰還兵が職にありつけず禁酒法を利用してギャングを組織し一儲けして落ちぶれていくという、まあスコセッシ映画(実際、スコセッシは参考にしているとか)であります。

にしても、「16歳にはなれねぇぜ(ゲス顔)」と言いながら敵を撃ち殺すボガードの倫理観の欠如は結構危うい。後半でボガードは悪玉として動き回り裏切り上等でのしあっがていくキャラクターでもあるので、そのキャラを端的に表していた、ともいえるのですが、個人的にはキャラというよりもむしろこの映画全体がまったく悪びれていないことからくる、ある種のサイコパス性みたいなものなのではないかという気がするのです。

時代的なものなのか、ともかくこの映画はキャラクターもさることながら、映画全体が悪びれていない。悪いことを描いているにもかかわらず、どいつもこいつも罪悪感というものがない。判事になった彼でさえ、過去にギャングに属していたことそれ自体には葛藤はせず、正義に従おうとする。主人公エディを筆頭に、ともかく一連の悪行を悪びれていないのである。

そうでもなければあそこまでシームレスに密輸という犯罪に手を付けないし(生存のためとはいえ)、葛藤などというものがおよそ存在しないのである。

だから、あの感動げなラストというのも、どういう風に見ていいのかわからない。いや、ピエタが云々という話も出たのだけれど、そういうことではなく。

ノワールだから、というのはもちろん逆説的な後付にしかならないわけですから、それをもって死んだ、というのは黒い白鳥でしかない。

 

「孤独~」は、もうほとんどフリークスの映画にしか観えない。ある瞬間からボガードの顔が怪物にしか見えなくなってしまって、彼を怪物として観たときにこれはもうほとんどバートン的フリークスの悲哀の映画にしか見えなくなってしまったんどえす。

フランケンシュタインの怪物のようにも見えますし、吸血鬼ノスフェラトゥのようにも見えてくる。まあ吸血鬼だとちょっと方向性が違うので、ことこの映画に関しては物語もあってフランケンシュタインの怪物に見えたのですが、そうやって見てくるとこれはむしろフリークスの映画なのではないかと。

今なら電話が間に合わず絞め殺してしまう、という決着もありえるのだろうけれど、そうではなく、あの時点ですでに間に合っていなかったのだ(と彼女は認識する)として、ボガードは自ら去っていくというのは、殺してしまうことよりもよりフリークスの悲哀を感じさせる。

 

 「グラン・プリ

これ傑作でしたね。「フォードVSフェラーリ」のときにも名前が挙がってたので気にはなってたんですけど、まあ3時間かけるだけあって描きこみが良い。

オープニングも最高だし終幕も最高。黒いバックに白いフォントで役者の名前が続々と表示されていったかと思えば、その黒は排気筒の中で、その断面の円に収まるようにタイトルが画面中心にどどんと「GRAND・PLIX」が。

そこからさらにスプリット・スクリーンでレースを描き切ってみせ、もうこの時点でめちゃんこかっこいいのですが、まあそれもそのはずでオープニング担当してるのがソール・バス!。しかもスプリットスクリーンはオープニングだけじゃなくて本編でも有効に使われていて、今見てもかっちょいいスプリットスクリーンなんですね。まあともかく画面の遊び方がおしゃれです。

またレースシーンの撮影もかなりエッジの利いた撮影をしていて半世紀以上も映画の映画とは思えない臨場感が。クロード・ルルーシュの「ランデヴー」的というか。

で、レースの躍動もさることながら、この映画の肝は人間関係といって拡大解釈しすぎであるとすれば「男の世界」の物語であることでしょう。

実際、徹頭徹尾レース=男の世界の話であり、4人のメインレーサー(そこ、「ニーノはメインか?」とか言わないこと)と彼らを取り巻く女性の、男女の物語でもあるわけですね。

まあ、男女といってもメインがレース=男の世界の話であるわけで、女性ははっきりいってスパイスとして描かれています。とはいえ、そのスパイスは最高級の手間が加えられているわけなので、観ていて面白いわけですが。

特に最後のレースにおける彼らの物語(とスプリットスクリーン使い)は秀逸。

サルティの結末はレースという世界に対する限界を感じ始めたことによる天井を見てしまう行き止まり=デッドエンドであり、走り続けなければならないレースの世界において「止まって」しまうことはイコールでデッド・エンドになるわけです。まあ丁寧な死亡フラグ立ててましたしね。

しかしいくら男の世界とはいえ、そこには男性的非情さ持つシステムに抗うような人間性を持たなければならない。それゆえに勝利の美酒に酩酊し、男の世界に過剰適応したことで女性をモノ化する視線を強化し自我を肥大化てしまったニーノは、皮肉にも己の意思の通じないところでレースから離脱せざるをえなくなる。

ここにストッダードとアロンの一騎打ちになる。この二人はレースの世界にいて、その競争原理の中に生き快楽を感じているものでありながらも、ある意味でそれに自覚的な二人なのです。だから、二人は映画開始当初の周囲の人間関係から大きく変化していくのです。アロンはチームをやめて日本のチームに入りますし、ストッダードは破綻しかけていた妻との関係を(アロンのおかげせいで)再構築することになる。

だから、レースの結果としては1位と2位という順位がありながら、その表彰台に立つ二人の間に差はなかった(という撮り方になっている)。

不動の男性的システム下において、しかし絶えず変化しつづけ不断にアップデートしていかなければレースに勝ち続けることはできない。そこに見出す快楽というのはどういうものなのか。

そして、それがあるいは空虚なものなのではないかということがラストのひび割れたコースのスタート地点を歩くアロンを引いていきながらエンドクレジットに入る。

しかし、同時に、彼の耳にはエンジンをふかす音が聞こえている。それは、レースの世界に生きる彼(ら)にしかわかりえないものなのである。

ここにおいて「フォードVSフェラーリ」が同じものを描いていたことが明らかになるわけですね。

 

人間関係≒男女関係のバランシングがそのままレースの勝敗あるいは生死にかかわってくるという描き方。そのダイナミズム。いやぁ面白い。

 

潮騒

山口百恵は脱ぐわりにはっきり見せないというもどかしさ。それがまあ処女性でもあるのでしょうが。決してスタイルが抜群なわけでもなく、むしろ芋っぽいのだけど、それがこの村社会においてよりめんこく見えるのかもしれない。

たかが婚姻でここまで大騒ぎになる、というのは正直よくわからないのだけれど、小さなコミュニティ内のもめごとと考えればなるほど理解できないでもない。

ていうか知らなかったんですけど(別に知りたいわけでもなかったし)三浦友和山口百恵って夫婦だったんですね。超納得。というか一連の映画が二人をくっつけるためのおぜん立てとも見える。