あの「ダイ・ハード ラストデイ」で悪名を轟かせるジョン・ムーアの過去作で「飛べフェニックス」のリメイクとのこと。
まあまあ面白かったです。脚本はもうちょっと練り込めたろうとは思いますが、遭難もので紆余曲折ありながら一致団結していく定番といえば定番の作り。
ただ、こういう遭難ものでありがちな身内でのゴタゴタでチームが崩れていく描写は結構少ないんですよね。や、まったくないとは言いませんし、むしろちょいちょい小競り合いは生じるんですが、そればっかりということではない。
ではどうやって観客を訴求するかというと、外部からの問題なんですな。
それはヒューマンエネミーだったり自然災害だったりするわけですが、そういった設定された状況以外の外部からの問題が小刻みに発生していく。なんか取ってつけたような感じも否めないっちゃ否めないんですけど、ラストの太陽とフェニックスでオーケーです。
「トレマーズ」
ベーコンいいよベーコン。
そういえば見たことなかったものの、B級映画としてかなり面白い部類。
午後ローでやってそうであまりやっていない、というのがもったいない。
2000年代に入ってくると粗いCGでモンスターを見せてくるわけですが、このバジェットで惜しげもなくモンスターを実物で見せてくれるのは嬉しい。
「ジョーズ」の荒野版と言ったところでしょうか。
長い。
「デトロイト」へと至る手法が散見できたりするのですが、ともかく長い。体調が悪いのも相まって前半1時間くらいしか集中できんかった。
「ハート・ロッカー」からこっち、ビグローさんは人間の人間化を行っているような気がする。ただ、その描き方が逆説的になるような題材を選んでいるためにそれが=で社会問題と直結するのだろう。
逆説的、というのは要するに人間が非人間化する状況を設定(というか事実からの引用)する。その意味では、イーストウッドの「アメリカン・スナイパー」もこの系統に入れることはできなくもない気がするんですが、あれはむしろ「それをそのまま描いたら結果的にそう見える」というだけ(つまり観照者としてのイーストウッド)でしょうが。
ジェシカ・チャスティンの前半と後半との変貌ぶりというか適応ぶりというのがつまりはそういうことなのである。
しかし、この映画を見てこうして感想を書く事で、なぜ「感情的」というワードが往々にしてネガティブな意味合いで用いられるのか、ちょっと見えてくる。
「感情的になるな」というのは、要するに軋轢を避けるためなのだろう。感情的になるということは感情を持つ人間にとって最も人間らしい反応である。しかし、それがゆえに他者との軋轢を生じさせ苦痛を受け止めなければならなくなる。
感情的になるな、というのは要するに非人間化である。誰しもが一度は思うことだろうけれど、感情というものがなければどれだけ生きやすいかという想像をしてみる。あるいは、創作などでも感情を捨てたり切り離して「神」だとか「完全」だとか呼ばれるものに至ろうとする輩もいる。
まあ、当然のことなのだけれど、その行為自体がどうしようもなく人間的なわけで、結局のところは人間は人間でしかないのだろう。
「マジック・マイク」
ソダーバーグ映画。元々はレフンが監督する予定だったとか。そちらも観てみたい気はするんですが、それはともかくとして中々面白かった。気がする。
マジック・マイクことテイタムがストリッパーとしての力量はありつつも、その仕事に対して貴賎を抱いていて、踏み台程度にしか感じていない。この状況から脱しようとあがいている。それに対して、冒頭で出会うアダムくんをストリッパーの世界に導いてから紆余曲折があるんですが、この辺の価値観のすれ違いが面白いところ。テイタムってことで、このすれ違いの感じが「フォックス・キャッチャー」ぽくもある。
当人たちはホモセクシャルではないにもかからず、限りなくそちらに近接しているホモソーシャルというのが危ない┌(┌^Д^)┐ハァハァ
一応、ハッピーエンド(正確にはここからが彼らのリスタートなわけですが)で幕を閉じるんですが、両方とも失敗しそうだと思います、わたくし。特にアダムは。
ちょいちょいカットされてる部分もありましたが、まあ楽しめましたよ。
「バットマン(1989)」
バートンバッツ。
なんというか、相変わらず愛いやつだなぁという印象。
スナイダーのバッツがほとんどコミックなのに対して、バートンがバットマンたちを見つめる視線は超人よりもフリークとしての自己に牽引している。だからキートンバッツは、ノーランやスナイダーのバッツにはない可愛げがあるのだ。
あんなに臆面もなくキスをするブルースを描けるのはやはりバートンがバッツをヒーローとは異なるものとして描いているように見える。
「アーロと少年」
ミニラとガバラの話がほとんどこれに近い感じがする。なんか動きとか、噛んで声出させるところなんかゴジラがしっぽ踏んでミニラに火を吹かせるところとダブるし。
つまり、あまりにまっとうな少年の成長譚。ガワ(恐竜と幼児)の組み合わせを除くと、あまりにまっとうすぎる。それゆえに、イマイチ盛り上がらなかったのかもしれない、世論は。
いや、映像とかとんでもないんですけどね。見慣れてるはずなのに風景とか水の描写とかどんだけ手間ひまかけたCG作ってるんだ、と思いましたし。そのハイパーリアリズムと呼んで差し支えないCGに対して違和感なくキャラクターを落とし込むセンスとか、なにげにやばいことやっているわけですが、いかんせん爆発力に欠けるというのはあるだろう。
しかし、これだけバカ正直な物語はほとんど「アイアン・ジャイアント」的と言いたくなるほどで、私はなにげに楽しんでしまいましたよ。
「ミクロの決死圏」
全編通して観たのはこれが初めてなんですが、すごく大胆な作りで驚き。
100分という短めの尺にもかかわらず前半40分近くに至るまで体内への侵入が行われない。しかし、30分にわたって描かれるミクロ化のプロセスがこの映画の魅力の半分(残り半分くらいは体内描写)だと思うので、正直ここのフェティシュに萌えられない人は厳しいかも。その割に冒頭で説明台詞なしに手早く事件を発生させてたり、終わり方も帰還してヒャッホーエンドだったり、時代もあるのでしょうが凄まじく潔い。
ほとんどあらゆる体内冒険物の元祖といって差し支えない映画ですが、ウィキさんによると手塚治虫あたりと色々あったっぽい。まあ手塚治虫が考えそうだよなぁ、とは思ったしブラックジャックで折れた注射針を取り出そうとする話なんかもちょっと繋がりありそうだしね。まあ直接のパロディとしてはTFのミクロの決死隊の話がまんまでしたが。
それにしてもこれが66年に作られたということを考えるとかなり先見の明がある描写なんかもあったりして、今見ても楽しめる。ていうかNHKでこれを放送したのはやっぱり夏休みで科学特集みたいなのをイメージしたのだろうか。
あと男性諸兄に対するサービスも地味に盛り込んでいたり(ラバーに近いスーツの女性にまとわりつく細胞とかね)
「リプレイスメント・キラー」
フークワが監督したとは思えない変な映画。変な、というかコテコテのアクション映画なんですけど、色々と変な感じ。
まず吹き替えでマイケルルーカーに島田敏だったりするのが変だし。
しかし「トレーニング・デイ」の監督とは思えない印象の残らなさ。
「キャリー」
デ・パルマ映画でキング原作。ていうかデパルマって元々数学を学んでたんですね。
デ・パルマといえば個人的には「アンタッチャブル」が好きなんですけど、これもなかなかいい感じ。
ただ、わざとなのかどうなのかわからないんですけどスーがいじめに加担してわざとトミーに誘わせたのかと途中まで思ってましてね、わたし。てっきり彼女が落とす役目なのかと思ってましたけんど、描写的にわざとそう見えるようにしているんだろうか、やっぱり。
毒親のせいで浮いてしまい、その毒親の縛りから抜け出すためにプロムにいったら結局帰宅するハメに、というのは「だから言ったのに」にという不条理を孕んでいてゾクゾクする。
印象的なのはやっぱりサイキックのSEに「サイコ」のあのBGMを使っているところでしょうか。自他ともに認めるヒッチコック好きらしいデ・パルマの遊び心のようなものが垣間見えて微笑ましい。
あとはやっぱりスプリットスクリーンでしょうか。クライマックスの体育館でのサイキック発動シーン。あれ、おそらく普通に編集するのであればキャリーの目がカッとなるカットを入れて直後にその作用が及ぶカットを入れたりするのだろうけれど、それをスプリットスクリーンで同時に描くのが面白かったですね。
しかしキングは70年代から2010年代に至るまで映画化作品が途切れないのが本当に恐ろしいですな。出来不出来はともかく。
まあ、読んだことないんだけど。