dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

2025/11

ほしのこえ」「雲のむこう、約束の場所」「秒速~」「言の葉の庭

日テレが新海誠のレトロスペクティブみたいなことをやっていたので久々に流れで一連の諸作を観る。

こして流れで観ると「雲のむごう~」から「言の葉~」までは鳥瞰のショットによる雲の上から地上を猊下するシーンがあって、それが割と印象的で一種の万能感みたいなものが溢れていた。

その万能感というのはドラマのレイヤーにおける不全感に下支えさせられているのだろうけど、その両極のどちらも「秒速~」が極大化していると思う。両輪なのでどっちもが極大になるのは必然なのだが、とにかく今のところは個人的に「秒速」がそのように見える。無論それは楽曲も含めてのことではあるし、だからこそ「君の名は。」以前は「秒速~」が新海の代名詞として語られがちだったのだろう。

庶民センシズの例にもれず「君の名は。」で新海誠という名前を明確に意識しだしたにわか(それ以前から「秒速~」は観ていたけれど)の私としては、それでも「君の名は。」の受容のされ方は妙な感じだった。

こうして振り返ってみると、その妙な感じというのは多分この「万能感」が上手い具合に老若男女が受け取れるようにチューニングされたからで、そのチューニングの仕草の陽キャ感(なんだこの雑な表現)が私の自意識に変な角度から刺さったからかもしれない。RADの起用というのも、私自身は当時も今も別に好きではないが周囲の「陽」な人間が割と好んで聞いていたという認知度・普及度のマッチング具合に、その下心にモヤモヤしたものを感じていたからなのだろう。

そのチューニングとは、万能感を誰しもが共有できる(共感、とはちょっと違う気がするが、これは私のレトリックに過ぎない)ように「どこにでもいる(田舎・都会)の高校生」にしたこと、当時から言われていたことだがキャラデザを明確に変更したこと、さらに二重の意味でクロスオーバーさせ映画のノリをドライブさせたことにあると分析される。

しかし、である。

君の名は。」以降の新海誠は、どちらかといえば空は「見上げるもの」として描いていくようになった。それが3.11を経て「君の名は。」でその傷を慰撫し、その(ある種の)代償行為として「天気の子」「すずめの戸締り」で社会にコミットし世界=自然というものをアンコトローラブルのものとして捉えなおしたからなのかどうかは分からない。

ほしのこえ」に関してはそもそも最初から宇宙=セカイの話なので「社会」や「世界」というものは眼中にない。だから「空」とか「海」とか「地」とかそういう人間の触れる=接地するレベルの概念から一歩遠いところにあるので、そういう意味では最も「隙の多い」「むき出しの」「(樋口真嗣的に言えば)パンツを脱いだ」第一作目と言えるのではないだろうか。

川村元気というメフィストフェレスと結託する以前の一連の作品について全体的な印象はそういう感じなのだけれど、個人的には「言の葉の庭」が一番コンセプチュアルで興味深かった。エセSF好き(自分が似非、という意味で)としては今となっては「空のむこう~」の一足飛び感が好ましいのだが。

といっても「火星のプリンセス」みたいな夢オチの精神分析的展開と多世界解釈のゆるふわ合体みたいなものだし、ジャーゴンジャーゴンとして以上の意味はそこまでないのだけど。だからといってハードSFみたいなことされても困るが、現実の量子力学なんかの解釈が意外とそっち方向に傾きがちなことを考えると先駆的ではあるのかもしれない。
言の葉の庭」に話を戻すと、その設計が中編ということもあるのだろうけどかなり徹底されているところが良い。

特にサウンドデザイン。ほぼ全編にわたって劇中では雨が降っている(じゃないと二人の出会いが発生しないので)のだけれど、新宿御苑で二人がやりとりをするシーンではその雨の音が遠く、むしろ鳥のさえずりや鳴き声が前面に響いている。雨音の方が前に出てくるのは不良(?)との喧嘩後に先生と御苑で会った時とそれ以降の豪雨のときだけ。そのSE(とBGMのいれどころ)によるドラマのドライブのさせ方がオハコの映像美と上手くかみ合って(ドラマ自体はしょうもない上にコテコテなのに)クライマックスでは階段で抱き着きからのカメラがぐいーんと遠ざかりながら雨の向こうに見える晴れ間の太陽を映し出して感動をもたらすという力技。

いやね、いわゆるマニックピクシードリームガール的なミソジニーを感じなくもないけれど、しかし性別を逆転させれば女性向の願望充足と同じなわけで、そもそもが監督の作家性が横溢した願望充足ジャンルと考えれば仕方のないことで。

しかし新海を「インポのナルシシズム」と評した加藤浩次のワーディングの鋭さとは何なのかと今にして思う。このワード、クリティカルすぎやしないだろうか。

しいて付け加えるならそこにはかなりマゾヒズムもあると思うのだけど。

 

それと、これはいわゆる深夜アニメ(というカテゴリも配信のおかげで曖昧になってきたが)を数だけは観るようになって思ったことの一つなのだけれど、新海誠の蒔いた種に新海誠的としか言いようのないアオハルっぽい風景イメージを借用した青春アニメが雨後の筍のように生えてきたのは承知の通りで、それは大部分が「君の名は。」に由来しているのだろうけれど、「君の名は。」以前の新海誠の発展形として実は「瑠璃の宝石」があったのではないかと今更ながら思ったり。細かいことは「瑠璃の宝石」のレビューに書いたが、新海誠も実はレイアウトなんかを観るとそういうマテリアルの存在感を展開させていたことに気づいたのだった。そもそも人物より背景にその作家性を見出されていたことを考えれば自然なことではあるんだけど。

そこに男性向けエロ/フェチ成分を抜いて、別の(ある種の)男性にコミットした欲望を盛り込んでいたのが新海誠だったのだろう。どっちもダメと言えばダメなんだろうけど、ただ「瑠璃の宝石」が極めて女性の身体を窃視的に=ポルノ的に描いているのに対し、新海はそういう描き方はしていない(「言の葉の庭」は漏れ出ていたけど)という点で、個人的にはまだ新海誠の方が批判を回避できる余地があるのではないかと。いや国民的作家になってしまったのでそれももはや難しいだろうが。

それにこっちはこっちで別種のダメさというかミソジニーが潜んでいるわけで、目くそ鼻くそみたいな部分はどちらにもあるのだけれど。ただ私は目くそよりは鼻くその方がまだいいのではないかというわけだ。

といって、単に(当時のインディー作家としての新海誠の)技術レベルの問題でしかないのかもしれないということは「君の名は。」「天気の子」あたりのフェチ表現を観ると確定的に明らかなわけだが。

 

「エルヴィス」

なんかすげぇぞこの映画。

ほぼ全カットに渡って何かしらの特殊効果が使われているんじゃないかという編集の嵐。この長さの映画なのにともかく飽きないというか、伝記映画版の「パシフィック・リム」的というか。情報量と手数でいえばベイにも並ぶのではないか。

 

サンセット大通り

なんだかんだ本編を通して観たのは初めてだったのですが、いやキッついですわこの映画。「何がジェーンに起こったか?」と同じようなテーマではあるのだけれど、自己破滅に他人を巻き込んでしまうという点でより救いがない。

かなりのメタ構造であるというのを織り込み済みで、しかし中々にキツい。こう考えると原節子山口百恵はある意味で最適解を選んでいたのだなと。中盤のモノマネとかジョーに色気出すところとか痛々しすぎて観てられないくらいですよ。

必死に体を仕上げるグロリア・スワンソン(あえて役名ではなく女優名なのはお察し)に対して「回ることのないカメラのために」とかいうこの無慈悲なパンチラインが死者たる語り手であるジョーによって添えられる。

どっちに転んでもバッドエンドしか見えないオチなのが酷い。

ラストシーンからラストカットにいたるまでのあの流れ、フォーカスがどんどんぼけていって霧散するかのように終わるエンドも残酷の極致なのにどこか救いもある(矛盾してるが)という。

 

「衛生兵 キューバとアラスカ」

NHKドキュメンタリーで。

戦時なのにアラスカは英会話レッスンをリモートで。キューバはデザイナーとして活動しており、任務の合間にパリでショーを行う。一方でアラスカは重傷を負いリハビリに。

メンタルのカウンセリング(というかセラピー?)を受ける際にウクライナという国を愛してるからではなく、自分の居場所を守るためと言う。愛国心ではない。

 

縦長スマホ撮影の臨場感。あるいは戦場でさえも自発的なセルフィーの空間となる。もちろんそれは承認欲求のためではなく、徹頭徹尾、記録(記憶)に留めておくためだ。それは至極個人的なものでもあるだろうし、戦後処理の証拠のためでもあるのだろう。

そういう映像自体はそれこそテレビのニュースやSNSで流れてくるものだが、しかし長編ドキュメンタリーの形式の中でこうも何度もインサートされると、その切実さは真に迫るものがある。などと安全圏から好き勝手に書き連ねることに後ろめたさがないわけではないのだが。

 

新幹線大爆破(1975)」

以前観たことがあったのになぜか記録に取っていなかったので。

しかし今見るといわゆるオールスターキャスト(?)な映画である。謎柔道部とか色々と勢いによるごまかしを感じさせるのも時代感。

 

ジョン・ウィック:コンセクエンス」

ギャグ映画としてメチャクチャ笑って観てた。

「それはさすがに死ぬだろ」と何度笑いながらツッコミを入れたことか。最終作(少なくとも製作時点では)として作っていたのだろうからこそここまではっちゃけたのだろうし、明らかに分かってやってるのだけど、それにしても笑うしかない。

階段から落ちるシーンとかもはや自分から転がりに行ってるだろと。ある意味で黒沢清なみのワンカット撮影の使い方ではあるまいか。

ちゃぶ台ひっくり返しまくりだったり「最初からそれやればよかったんじゃね?」とか、もはやツッコミをさせるいとまを与えないボケ倒し方で今年一番笑ったかもしれない。

みんながみんなわざわざ正面に出てきて殺しに(殺されに)行くのも、BGMから明らかなように西部劇であるからなんだけど、まさかラストで本当に決闘やるとは。

あと相変わらずお犬様第一主義なのは信頼できる。