dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

2022/7

・「劇場版メイドインアビス深き魂の黎明

え~~~なんだか反応に困る映画である。

メイドインアビス」という作品それ自体は存じておりましたが、原作マンガもテレビシリーズの方も全く触れたことはなかった……とまあ、このように持って回った書き方からもわかるように、作品とは直接関係ない部分で(というとそれも大いに語弊があるのだが)この「メイドインアビス」をーーというか原作者のつくしあきひとという人物についてだけは多少知っていた。

つまりショタコンロリコン)であると。ていうかまあ、ペドフィリアです。

ほとんどがネット経由のたわごとだったり画像のコラージュ(宮崎駿細田守or田亀源五郎と並ばされてる画像とか…源五郎先生に関しては性癖じゃなくて見た目による偏見なのでネタとしても文脈齟齬だしそれ以前に色々な意味でクソだと思うが)による「ネタ」だと思っていたのだけれど、キャプチャやらインタビューやらで本人が実際にもっと危ういことを語っているというのを知るにつけ、そういう性癖を開けっ広げに晒していく人物だということは知っていた。この映画を観るまで、「メイドインアビス」という作品のことは完全ノータッチなのに作者のヤバさだけは知っているというおかしな状態であった、ということは感想を書く上であらかじめ付記しておかなければならないだろう。

 

なぜならば、そういう作者の性癖を前提にしたうえでしか、もはやこの映画を語る視座を私はもたないからである。だってR15なんですよ、これ。私が観たのは地上波で黒いものとか光とかがあったのですが、劇場ではあれがなかったということなのでしょう?キャラクターデザインにI.Gの作画神が一人である黄瀬和哉をテレビシリーズのときか起用していたりするので、クオリティ自体は悪くない。のだが、最初に指摘しておくと序盤花畑場面のレグが振り返るカット、明らかに動画枚数足りてなかったんですが中割りどうなってんだ。この間の「エウレカ~」でもあったんだけど、クオリティチェック大丈夫なのだろうか最近の劇場アニメ。そしてよく考えたらエウレカも本編未試聴でAOから観ていたのを思い出す。やはりこういう鑑賞の仕方はノイズが多いのでちゃんと筋を追って観るべきなのだ(当たり前)。

とにかく、原作者が生粋のショタコン(の皮を被ったロリコン)もといペドフィリアであることは論をまたないだろう。それを踏まえたうえでこの映画を観ると、おそらくは原作通りなのだろうということを勘案しても、本来は映画として語るべきだのに監督だとか脚本ではなく、どうしても原作者であるつくしあきひとという人物の顔が、頭をもたげてくるのである。

ただ、こういうのをネット上のネタとして消費していいものか、というのは鋭利菊のガチ少女売春事件だとかオウムをテレビ玩具としてもてはやしてからの地下鉄サリンだとかの過去を考えると、承認欲求を危険領域まで肥大させかねないのでは、とか思ったり思わなかったり。これはこれでつくし先生に失礼極まるが。なので改めて認識を再確認しなければならぬ。「YESロリータ NOタッチ」である。この標語使ってるのLOだから説得力皆無なんだが。

 

一般的な感覚を持つものであれば、「メイドインアビス」に対して随所に見られる幼児(的)キャラクターに対する加虐趣味に嫌悪感を抱くであろう。んが、これ自体は、ぶっちゃけ深夜アニメが積み立ててきた、パッケージングされた「変態性」を逸脱するものだとは思わない。それこそ80~90年代ごろまで「くりいむレモン」を筆頭に、あるいはその界隈に身を置きなながらも一種のカウンターとして機能していたであろうストイックさを持ち合わせていた「もりしげ」だとかのペドフィリアの系譜に位置づけることも難しくないだろう。ていうか二次元だけじゃなくて「少女ヌード」とか「ロリコンランド」とか三次元を扱っていたものもあるわけで。

メイドインアビス」は、そういった前任者(?)たちがかつて欲望をそのまま描出することでペドフィリアという嗜好が否応なしに孕んでしまう圧倒的権力勾配の傾斜がもたらすサディズムの暴力性を、ある種自覚的に描いていたのとは異なり、ファンタジー・SF風味に確固たる世界観を構築した上で展開させていく。ペドフィリア向けのマンガは、往々にしてその営みは日常的空間で展開されるとすれば、「メイドインアビス」の練りこまれたハイファンタジー空間はそういった悪趣味さを隠蔽しつつ、世界とは本質的に理不尽であるという「現実」(がキャラクターにもたらす加虐性)を与える根拠としても機能する。

 

ペドフィリアが否応なく含むサディズムを巧妙に隠蔽しつつ(エクスキューズを与えつつ)、己で仮構したその舞台を使って惜しげもなく嗜好を開陳する。

間違いなく、つくしあきひとは倒錯している。少なくとも、二次エロ同人界隈が商業主義的要請か単なる性的嗜好かにかかわらずペドフィリアの欲望を甘美に満たしてくれる自己欺瞞的な薄い本を提供するのとは違っている。

欲求を満たすただそれだけならここまで世界観を作りこむ必要はない。ではなぜそこまで作りこむのか。それは、ある意味でもりしげ的なストイックさとは真逆でありつつも、己の欲望がその対象にもたらす絶対的な破壊を自覚しながらもその欲望を肯定せんとする強烈な二律背反に裏打ちされているからではないか。

自己欺瞞の陥穽に落ちないよう踏みとどまるには、その危うい均衡を保たねばならないのだと。

 

ナボコフの「ロリータ」的な、もとの意味でのロリコンは、大人の視線が幼女に投射するイノセンス(無垢)それ自体に耽溺することではなく、むしろそのイノセンスを逸脱しイノセンスの殻に回収しえない悪辣さ=大人には制御不能な奔放さこそを称揚するものであったという。今はロリコンというというと、むしろその(ありえない身勝手な)イノセンスを一方的に希求する者と見なされる。

それを考えると、つくしは本来的な意味でのロリコンでありつつ、しかし同時に巷間言われるようなロリコンでもあるのではないだろうか。

ロリコン(≒ペドフィリア)が一方的に投射するイノセンスに囚われない逸脱を望みながら、同時にその逸脱すらをも掌握可能なものとして捉えようとしている。

 

そして、再三になるがつくしはその欲望が幼子を不可逆に破壊するものと自覚している。それが劇中に登場する「成れ果て」という存在(正確にはボンドルドによって成れ果てにさせられた孤児たち)。

だとするなら、「メイドインアビス」とはつくし自身の欲望の異化として現出した創造の産物なのではないか。直截描くことによってペドフィリアの暴力性をあばいたもりしげとは別のアプローチによる告白。

そうやって見立てたとき、すでに述べた通り己の欲望に対する肯定も無論含まれている。あまり「創造性」をこういう論に収斂させたくはないのだけれど、そういった葛藤によってもたらされるがゆえの創造性ではあるかもしれない。

それによる欲望の肯定。ボンドルドをつくしのエゴそのものなのだとすると、プルシュカの誕生〜成長の回想を殊更感動的に描いているあたりやはり欲望に忠実ではある。そのバランシングとして彼女が奇形なのだろうかとも思えるが、単なる悪趣味と捉える方が無難なのかもしれない。そもそもプルシュカの胸はなんなのか。同じ頭身である主人公勢の胸囲とは明らかに異なっており、またつくしあきひとの言質から考えると大きな乳房に対する執着は薄いのでは。だとすると、彼女はペドフィリアのその欲望を支え機能させる母性として仮構させ、また物語的な要請からも主人公勢とのコミュニケーション可能な存在が必要であったことからくる、都合の良い存在としてあるのではないか。レグとの戦闘のクライマックスにおけるカートリッジプルシュカのモノローグは、ロリ巨乳という倒錯の産物を以てしてのみ可能になるということなのだろうか。

ボンドルドは一行に何をされても彼らに対しては「素晴らしい」だとか「可愛い」だとか、ともかく肯定的なことしか言わない。幼児に抱くその絶対的肯定はペドフィリアの欲望そのものではなくてなんなのか。「ロリータ」的逸脱、それすらをも絶対的肯定の下に取り込んでしまおうという果てなきつくしの「愛」。それは自分に向けられなくても愛でられるのだと。

それでも肯定されたいという願望もあるような気がする。ボンドルドとナナチの最後の会話とか、否定させつつ肯定させてるあたりとか。ナナチの視界を盗み見している、というのもボンドルド=つくしは己の(大人であることの)限界性を自覚しつつ、それでも幼児のイノセンスを通した世界を見たいということなのだろうか。大人になると天井が見える、あげくにはその天井にシミがあったりもする、というような比喩をマンガ内で用いていたのはたしか武井宏之だったと思いますが、そういえば彼もショタコンでしたな。ペドフィリアの本質とはもしや幼児そのものにあるわけではなく、その(欲望の投射対象としての)身体に逆照射される己がかつて有していたイノセンスにあるのだろうか?

レグの勃起については単なる趣味なのか、イノセンスを逸脱する可能性の萌芽なのか、正直なところ判断できないが。

 

有り体に言ってしまうと「ふがいない僕は空を見た」の田岡くん的な葛藤、と言えばいいのだろうか。いや、あそこまで綺麗でいようとはしていないか。つくしあきひとのもろもろの発言や不摂生を知ると、開き直りというか居直っているようにも見えるし、田岡くんを引き合いに出すのはフィクションの人物とは言え彼に失礼か。

ただ「黎明の~」を観るに、そういったメディア対応はある種の恥ずかしさからくるポーズなのではないかとも思えなくもないのだが……半々だろうか。作品それ自体と作者の人間性をボーダーレスに語ることの危うさは認識しているつもりだけれど。

 

などと偏見に基づくことばかり書いてきたけれど、デザインセンスとかネーミングセンスを含め設定なんかも実にファンタジーしていて普通に素晴らしいと思います。原作は知りませんが戦闘シーンも力入っているし(一か所だけ緩急のつけ方に「うん?」となった箇所はありますが)、アンブラハンズの面々のデザインも良いしボンドルドは登場時のデザインも半獣化したときのデザインも良い。ああいうコートとかマスクから獣性がはみ出てる(これをつくしの抑えきれない欲望と見立てることも可)のとかめっちゃかっこいいですし、そういう視覚的な楽しさも十分あるので、散々あげつらったようなことではない目線で観れば楽しめる……はず。

少なくとも私は原作とテレビシリーズ観たいな~と思うくらいには良かった。

どうでもいいけどメカはともかくロリショタの描き方が少し藤岡建機を思い出した。

 

「7月4日に生まれて」

さすがは欺瞞を許さぬ義憤の人、オリバー・ストーンと言うべきだろうか。彼の監督作は「プラトーン」「エニイ・ギブン・サンデー」「スノーデン」あと確か「ワールド・トレード・センター」(あまり細かいところを覚えていないが)もだったと思うが、このように片手で数えられる程度しか観ていないのだけれど、いずれも一定水準を悠々と超えてくる映画であったと記憶している。ウクライナ関連のあれは観れていないのが悔やまれる。あといい加減「オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史 」を日本人としては読まねばと思っているのだがいかんせん積ん読が。

それはさておき映画について。確か「エニイ~」に関してはちゃんとここにも感想を書いていたと思うが、「7月~」とはテーマや描き方もほぼ共通している。それはマスキュリニティ、マチズモ、マッチョイズム的なものが極大化する状況を切り取るということだ。

「7月~」の舞台はベトナム戦争であり、戦争映画として真摯であろうとするならばすべからく描くべきである人間性(の変容)を、オリバー・ストーンは「エニイ~」において、スポーツ「マン」シップの発揮される資本主義市場上の団体競技に見出した。

てらいなきグロテスクな描写という点では、むしろ「戦場」とは異なる「フィールド」上で見せられるので「エニイ~」の方がよりショックがでかいというのはあるだろう。

 

ただ、当然と言えば当然なのかもしれないが「7月~」の方が救いがない。少なくともラストの20分ほどまでは。

冒頭のパレードは言うまでもなく観客に対する予告であり、ロニーにとっての予感である。

7月4日に生まれてしまったロン・コビックは、その日付が示すように独立記念日というある種の呪いの元に生まれてしまった。ほとんど「オーメン」のダミアン的な、と形容してしまいたくなる、その日付のもたらす愛国主義的意味合いの呪い。それを下支えするのは他ならぬ「良きアメリカ国民」であり、その象徴的存在としてあるのが彼の母である、というのが面白い。これは「エニイ~」においても男性だけでなく女性すらもマチズモを担っていたことを思い出す部分だろう。そしてそのマチズモの根源にあるのは、アメリカという国家と分かちがたく結びつくヘゲモニーとしてのキリスト教である。

その保守本流(?)である厳格なローマカトリックの家庭に生まれた(ウィキ参照)ということが、説明的セリフはなしに冒頭からこれでもかと描かれる。主に母親の行動から。

異常なまでに息子のエロ本所持を咎める=性的なものへの嫌悪がその好例だが、あれだけの人数の子どもがいるということそれ自体も避妊を禁じるカトリック教会の教え、その価値観を母親が激烈に内面化していることがうかがえる。

加えて、コーヴィック家の父親の機能不全もそれに拍車をかけている。しかし、その(保守的な意味での)父性の機能不全は、母親の暴力的マチズモ(かつ右翼的イデオロギーと信仰の歪な融和)と対置して描かれている。戦場、そして病院(この病院の描写が幾重のレイヤーによる差別構造を内奥していて、戦場とは異なる地獄であるのがまたすさまじい)から帰還したロンに対する二人の対応の差からも歴然としている。さもありなん。第二次世界大戦を経験した父は、もはや戦場がトキシックマスキュリニティを極大化させるだけさせ、敵も味方も悉く滅ぼしていくだけなのだと知っているのだから。

けれども、家庭内での家長の座を母親に奪取された彼の言葉は事実上封殺されており、それゆえに息子の蛮勇を止めきれない。ここで描かれるは男性優位の家父長制を、そのジェンダーロールを逆転させることによる異化作用に他ならない。

ベトナムの戦線に配置されるまでのロニーの葛藤を、トム・クルーズは見事に演じていて、序盤の時点はすでに「オヨヨ…」となっておりましたよわたくし。

母親の価値観を内面化しながらも、どこかでそれに抵抗しているロンの心の機微を表情で伝えてくるトム・クルーズはさすがである。

最近はもっぱらアクション俳優としての煌めきが称えられるので隠れがちですが、そもそも名だたる名監督作に主演している時点で推して知るべし、なのである。

 

レスリングのあのスパルタ練習描写によるマチズモの強化(教化)は、しかし試合の結果からわかるように、ベトナムに赴く前にすでに敗北しているのである。そして、内面化していたそのマスキュリニティの挫折を埋めるのが、より強力なマスキュリニティ=右翼・軍国的価値観であるという負の連鎖。私が「オーメン」を引き合いに出した意味がおわかりになるだろうか……。ムーンリバーからのシームレスな戦場へのトランジッションの心理的・物理的な距離感の喪失など、その不可分さにハッとさせられる。

人間が非人間化される状況。生物としてのヒトが、その状況に適応しようとすることで非人間化していく様相。生理学だとか心理学だとかコルチゾール云々だとか語るまでもなく、直観として誰もがわかるのがその証左だ。もともとヒトは過度なストレスに長期間耐えられるようにはできていないのだから。

 

戦場から帰還したロニーの荒み方ったら見てられまへん。自身が(自己欺瞞的に)信仰していた男性性(ペニス)がその機能を果たす前に不能になってしまう現実。その現実を前に、ベトナム帰還兵というある種のアイデンティティポリティクスを実行することでしか自分を保つことができないロニーは、遂には「不能」となった男性性の自己回復のために娼婦を漁るまでになる。この辺の堕ちていく様は、共感者・共犯者であるデフォーの登場も相まって観ていて面白い。デフォーとトムの喧嘩など、笑ってしまうほど陳腐で愚かしいのに、物悲しさでいっぱいになる。

マスキュリニティによってできた国体を維持するために喧伝される国家のプロパガンダは、ウィルソンの死すらも欺瞞・偽装する。それは誤って彼を殺した自分自身に対する欺瞞の並列であり、国体に依拠することでしか自分を保つことができなかったロン自身でもある(これはほとんど現代的ネトウヨ、オルトライトの思想と同じではなかろうか)。無論、メキシコを訪れるより前から彼はその自己欺瞞には気づいていた。気づいていながら、しかし既述したようなアイデンティティポリティクスとその場しのぎの慰撫の他に寄る辺がなかったのだ。

しかし、象徴としての醜悪な自分との対峙(=VSデフォー)を経て、彼はようやく決心する。ウィルソンの遺族に真実を告白(confession)し、彼の妻から「私はあなたを許さないが、神は赦すだろう」と言われるこの場面は、マチズモ的宿痾を内在するキリスト教とは異なる、人道主義としてのキリスト教の可能性だ。

そこから先は反戦主義者に転じたロンが一気に大統領選にまで駆け上っていく。思想が当初の真逆になる終盤はーーというか戦場を経て時間経過とともに伸びる髪の毛ーー彼の長髪が少しヒッピーぽくなっていたり、表現上も彼の身体と思想の相互作用が徹底してる。半身不随も含め、その意味でこの映画は身体的であるともいえる。

 

今の時点から振り返ってみると、スター=大衆の「こうあってほしい」という欲望の器としてのトム・クルーズと、同じく空虚さを埋めるために足掻いたロン・コーヴィックという人物がダブるのですが。もしやその空隙を埋めるためのサイエントロジーなんじゃ……というのは冗談としても、どことなく親和性があるような気がしなくもない。

 

音楽の使い方含めかなりエモーションを掻き立てる部分もあり、そのわざとらしさをあげつらって批判することもできなくもないだろうが、そもそも「プラトーン」のときからオリバー・ストーンってそういう人じゃなかったか?という気はする。自伝とかをベースに組み立てはするけれど、基本的にはエモーション優先の人だと思うし。

個人的に言わせてもらえば、ダイナミックなカメラワークとかもそうだけれど2時間以上の映画に集中力をもって最後まで観させてくれるだけで上々だと思うのだけれど。

 

キャスリン・ビグローの近作と並べて観たい映画ですな。

 

高慢と偏見とゾンビ

とっとと観とけばよかった案件。もう3~4年前にBSで録画していたのを今更になって観たのだけれど、当時の私は変に真面目だったため、『「高慢と偏見」という不朽の名作(?)をまず先に読んでおかないとならんのでは』という、いらん義務感に駆られておったために、原作(の原作)を読むまではと観るのを先延ばしにしていたのであった。アホですね。どう考えてもそんな高尚な映画じゃないというのはタイトルから明らかだというのに。だってゾンビですよゾンビ。5ちゃんねるの「ことわざの一部を~~に変えたら~」と同じノリである。たとえば「赤毛のアンとゾンビ」「白鯨とゾンビ」「蠅の王とゾンビ」というタイトルの映画があったとしたら、まず間違いなく「はは~ん?さてはバカ映画だなぁ?」と今の自分ならば一目で看破できるはずなのだが、当時は色々な意味でnaiveで愚直だったのだ。で、今になってそのことに思い至り、結局は原作小説も読んでなければ原作の原作である「高慢と偏見」も読んでいないのである。

やけにウィキペディアが充実しているのが笑うのだが、それはさておきこれはバカ映画である。

富める者は日本で武術を学び、賢い者は中国で武術を学ぶ。はい、これ劇中で出てくるセリフです(細かい部分は忘れたが)。強くなければ生き残れない、という意味合いなのだろうが劇中の登場人物がともかく肉体言語ばっかなのも笑う。かといってアクションが際立って良いというわけではないのだけれど、全く見れないというわけでもない。というか、全体的にノリがバカ映画なので良くも悪くも期待を裏切ってこないのですよね。

蠅とかは割と良いアイデアだと思いますけどね、「遊星からの物体X」的なあれで。

「モービウス」にも出てたマット・スミスがこの映画でもいい感じに低俗で笑うし、役者はみんなどっかで見た顔の人たちで、ある意味で安心する。

 

ラストでWキスシーンからの牧師の顔アップからの花びらが舞う空にトランジッションしてからカメラが下がっていって~の同じ構図でまたWキス!。このキスの天丼で締めるというね。もう笑うしかないじゃん。しかもクレジットの途中で「俺たちの戦いはこれからだ!」的なラスト(というか「ガメラ3」か)で、そういうのも含めてちゃんとバカ映画していて良い。

こういうバカ映画、嫌いじゃないから!

 

「栄光のル・マン

どうしてもあの傑出した「グラン・プリ」と比べてしまうのだけれど、あちらが「そういう生き方しかできない男たちの孤独の道」としてレースを描いていたのに対し、こちらは「競技としての」レースの域を出ることはない。そこに付きまとう危険やちょっとした人間模様のようなものはあるにはあるが、セミドキュメンタリーな周囲の撮り方はマックイーンたちのただでさえミニマルな物語を矮小なものにし平板にしてしまう。

両者のラストを見比べれば一目瞭然だが、一人孤独にコース上に佇む男と、入賞し表彰台に登り周囲に人が集まっていく様。

レースのあれこれ(事故とか接戦とか)にしても、結局はそれがレースの域を出ないために(ていうかスローモーションがなんだかなぁ)「なんか事故った映像」でしかない。そんなこの映画の中にあって、一番よかったのはやはりそのドキュメンタリー風の撮り方をされているレース場の周囲の風景だろう。

遊園地にせよ巨大なレース場にせよそこに集まる人々(カップル、子ども、所在なさげにしている人etc)の、画面中に横溢する密度感。

ル・マンというレースが日本でいうところの「ハレ」であるという感覚がビシビシ伝わってきて、その非日常っぷりは退屈なレースそのものにはない興奮がある。

 

「KINGDOM」

思ったよりは素直に楽しめた。邦画の娯楽映画として観れば全然良いと思われる。

というか、10年以上前の「GANTZ」から佐藤信介監督は一貫してこの手のビッグバジェット漫画原作映画を(おそらく)意識的に撮ってきた人なので、その辺の努力がようやくCG技術も含めて結実してきたということなのだろう。

 

「悪い種子」

事前の予想に比べてあまり面白くなかった。絵作りも話も全体的に間伸びしている印象。

説明的なセリフが多い。特にリロイ(まあこれはキャラクター性とも言えるなだが)。会話シーンなどは特にカット割らずに横から長く回すものだから冗長なシットコムを見せられているような気分に。そういう意味では映画というよりも演劇に近い感じかもしれない。ホーテンスさんのドランク訪問の天丼あたりはシットコムだった完全に人工笑いが挿入されていたに違いない。

あと昔の価値観だからとはいえ盲目の子が云々のセリフのナチュラ差別意識とか冗談じゃなくヤバいです。

とはいえ靴のくだりの伏線などは上手いと思いましたし、靴を焼却炉に入れるとこのカットなんかは良かったのですが。

ヘイズ・コードの影響もあるとはいえ、結末そのものもそうだけど最後のあの文言は無粋がすぎる。まあ当時はどうだったのかわかりませんが、今の目線で観ると衝撃的といえばそうだけど、「えぇ?」という困惑に近い。

ラストの尻たたきは要するに「女王の教室」のEDと同じ作用を、ということなのだろう。

 

「フリーウィリー」

先にサウスパークのパロ回を見ていたせいで変な笑いがが。あちらは最後月に打ちあげて死ぬ(のちにトムクルーズも赴くことに)わけですが。

いや、なんか夏休みの午後ローに観たらいい感じな気がするけど、スピルバーグとかゼメキスあたりがプロデュースしてるのかしら?と思ったらリチャード・ドナーでしたか。

 

「スキャンダル」

普通に面白かったのですが、体調が悪すぎるときに観たせいでケイラの告白のくだりとかでゴリゴリとメンタルを削られてしまった。

この手の映画の割にウェットは少なく、それでいてウィットがありながら真面目かつ感情を先走らせない。なんとなくベテラン感があるなぁと思ったら「オースティンパワーズ」の監督なんですな。もちろん、事実ベースであるがゆえの合理さなのだろうしキャラクターに寄り添っていないわけではない。

正直、このての映画については字幕にして新聞紙などに実際にはどう記載されているのか、どういうセリフを口にしているのかを確かめたいのだけれど(セクハラという訳語のもたらす一種の『軽さ』の問題とかあるので)、しかし吹き替えのおかげでメイン三人の区別がつきやすいというのはある。いや、もちろん普段から映画を観ているのであればセロンとニコキとマーゴットの区別は年齢もそれぞれに離れているし容易につくだろうけれど、「スレンダーなブロンドの白人女性」であるために――そしてそれこそがロジャーの典型的なレイシズム&セクシズムを言外に伝えてくる――少し混乱をきたしかねなかったので。まして体調が絶不調で頭くらくらしていたので、本田貴子とか敦っさんのおかげで混同せず観れましたですよ。

この映画、もちろん権力者によるセクシズムを描いている映画なのですが、正直そういう話よりもレズビアンの多幸感(と、それを通しきれないFOXという現在の立ち位置から見た「当事者」の視座による諦観)や直接的なかかわりはなくともアイコンタクトだけで通じ合うウーマンスの魅力、ロジャーの権力に傅く女性との内部抗争など、「告発の行方」的なエッセンスを軸に展開される女性版「アウトレイジ」なパワーゲームものと言っても遠からずな魅力を持っている映画だと思う。

白状すると、ロジャーはもっとビジネス的な意味合いからのセクシズム(つまり徹底した視聴率主義による)だと思っていたので、ただのスケベじじいである三流の悪役であることにちょっと萎えた部分もあったのだ。つまり、徹底した市場理解・社会構造の把握から来る合理性の発露としてのセクシズムだと思ったのだけれど、全然そんなことはなかったのだと。巨悪でもなんでもない、権力を持っただけの雑魚だったわけだ。しかし市場理解、とは書きましたが女性キャスターの足を見せれば視聴率が上がるというのは個人的な心情としてはわからんのですよね。ネットの反応などをみるとそれによって盛り上がる層が一定以上いることは私も理解しているけれど。

とはいえ、ジェスのラストの行為が示すように、そういった巨悪はきちんと用意されている。ロジャー・エイルズなどではなく、それはルパート・マードック。メディア王と呼ばれ、シンプソンズのスタッフに揶揄されながらも本人役として吹き替えをする胆力。そういった人物が新たな玉座に座るということ――もっとも、最初から陰で鎮座していたのは彼だったのだろうが――による革命の綻びを感じさせる不安なエンド。

まあルパートは御年91歳なので事実上の掌握は無理だと思うけれど、不穏を残しつつメーガン、グレッチェン、ケイラの前向きな「私たちの戦いはこれからだ!」はやっぱりわくわくするものがある。

 

「ブラック・ライダー」

ある意味、何の変哲もない西部劇映画ではある。

BGMに使われている楽器から醸し出される、ある種の民族性というか「メインストリーム」としての西部劇に対する特異性みたいなものが滲みだす。

インディアン(ネイティブアメリカン)とのマイノリティの絆は、しかしそこには追いやられたマイノリティ同士のピュアな結びつきではなくそこには金銭の駆け引きもある。ともすれば、マイノリティ同士であるというだけに寄りかかった欺瞞に覆われそうなところだが、そうではないことによって「リアリティ」を持たせられている。しかし、という気持ちもないでもない。