dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

(このクソみたいな世界で)君たちはどう生きるか

観てきた。「君たちはどう生きるか」。ジブリ弱者にもかかわらず。

思えば、劇場でジブリ映画を観た記憶がないことに思い至り、おそらくは宮崎駿の劇場公開の長編アニメとしてはこれが最後になるであろう作品でジブリを劇場(ほぼ)初体験という。

だというのにジブリ映画は大体の作品について観た記憶があるというのは、それだけジブリというブランドが人口に膾炙しているということの証左であり、それがほんの30年前までアニメに対する偏見がある中でもジブリやディズニーは別という治外法権の扱いを受けるだけの力があったということなのでせう。

つまり、アニメーションの力というだけでなく「教育的によろしい」という、ある種の政治的な在り方の下(そこには彼の才能だけではなく時流や徳間の戦略も多分にあるはず)でそのように受け取られたという見方もできるのだろうが、その実、宮崎駿の世界観というのはもっとグロテスクに現実を捉えるものとしてあるはずで、それはもちろんアニメーションのダイナミズムとも密接に繋がっていることは確かなのだろうが、今回の「君たちはどう生きるか」を観て改めて思ったが、宮崎駿のアニメには毎度毎度かなりおどろおどろしい描写がある。

また、宮崎駿という男が半ばネタ的にロリコンと揶揄されることもあるのだが、火のない所に煙は立たぬわけで、山本直樹などを例に挙げるまでもなく、深夜アニメ的な少女趣味の根っこ部分には間違いなく宮崎駿の撒いた種があるわけで、その辺を乖離して受容する世間の在り方というものにはまあ色々と言いたいこともないわけではないのだが。

でもジブリ弱者の自分はまともにジブリ映画観た記憶ないというか、襟を正して通して観た記憶というのはないので、その手の客層と一緒ではあるという自覚はしています。なので以下に書く文言はほとんど戯言だと思ってもらいたい。

 

にしてもである。これどういう映画だ?

歴代の宮崎アニメで一番近いのは「ハウルの動く城」かとも思うが、トンネル(道)を通り抜けると異界というモチーフは(別に彼の専売特許でもないクリシェではあるが)「千と千尋~」ぽくもあるといえばそうだろうか。もちろんそれは表層的な表現の部分であるのだけれど(あと妙にババアが生き生きとしているというのも通じている気がする)、しかし私がこの二作の名前を挙げたのは無論それだけではない。

というのは、その二作というのはそれまでの宮崎駿のアニメとは違う異質なものだったからだ。どう異質なのか、と言われると困るのだが、それは伊藤の「ハウル~」についての評を読むと納得できると思うので賢明な諸兄にはぜひそうしてもらいたい。

そこへ来ると「風立ちぬ」というのもよくわからない映画なのだが(押井守に言わせれば「どう見ても大人のための映画」)、しかし「千と千尋~」「ハウル~」「ポニョ~」と並べた後で、あくまで戦時下の日本という歴史的現実を描き、その中で死の世界を全面展開させたあとの「君たちはどう生きるか」という並びで観ると、いよいよ限界突破したなという感じがする。はっきりいって、物語的な整合性というか説明など一切排している。

上昇・落下によって連なる空・地上・地下というのは初期から通底する宮崎駿のモチーフだが、それと同時に別の位相で夢(の世界、あるいは虚構もしくは異界)と現実というモチーフがあり、特に「もののけ~」までは現実ベースではありながらハイファンタジー的世界観であり現実と夢(魔法とか怪異)が同居していた。

それが「千と千尋~」以降になると、それらは扉や通路といった明確な境目によって分断されるようになった。「ポニョ」は細かい部分をほとんど覚えていないのでアレだが、「風立ちぬ」では夢をそのまま堀越二郎の夢として描き、本作でも塔を通じて異界に行くというプロセスは同じ。なのだが、婆さんたちが語るように、塔は(おそらく)地球外からの落下物であり、かつアオサギが塔の外において言葉を発するように、実のところ夢の世界と現実の世界が地続きのものとしてある。それはとりもなおさず、生と死の世界が地続きのものとしてあるということだ。

宮崎駿作品における死の世界と夢の世界は等値線で結ばれた、ある種のユートピアだ。そのユートピアを下支えするのが、ルロワ=グーランの理論において「~洞窟それ自体がすでに女性であることから説明され、そうであるとすれば、その胎の中に動物と人間をかかえる洞穴とは、動物と人間を生み出し、その死をも生によって克服するところの自然、「大いなる母」のシンボル」として機能する女性の身体、母胎であり母性なのである。というのはすでに指摘されるとおりだ。

そうはいっても完全な理想郷ということではなく、むしろグロテスクな存在としての生命が戯画的に躍動する生の世界でもある。逆に、日常としての現実は眞人の父親や千尋の両親に代表されるような「つまらない」世界としてあり、ここに夢=死の世界こそが生き生きしているという逆転が生じる。それを成立させているのが生命の象徴としての母性なのである、というのは既述のとおりだが、もちろんそのもっと根本部分には宮崎駿が天才的なアニメーターであり世界観を創造することができる才能を持っているから、ということも忘れてはならない。

宮崎駿が女性を描けないというのは散々指摘されているとおりだし、それは性的なモノとしてまなざされるアニメ界隈の少女表象に通じるものであることも確かであるから、フェミニズム的に批判されてしかるべきではあろう。ぶっちゃけ、「バブみ」のルーツって宮崎駿にもあるだろうし。海外では「強い女性」像として逆に称揚されるというねじれが生じていたりもするのだが、それはある意味で宮崎駿の作品がそうであるということの補強として見ることもできるのかもしれない。

面白いのは、高畑勲が死の世界を取り付く島もない徹底して無慈悲な世界として描いたのとは逆、というところだ。高畑の怜悧でありながら倫理的であるところは、だからこそ「かぐや姫~」でフェミニズム的再解釈として受け入れられたのとは宮崎駿はむしろ真逆だったのではないかとすら思える。その正反対ぶりというのは、宮崎駿が監督である前にアニメーターという「無いものに命を吹き込む」性分だからではなかろうか。そして、その才能があるからこそ夢=死の世界をアニメーションできるのだ。そこにこそ高畑はアニメーションの勝機を見出し乗っかったのだろうし。

そういった矛盾を成立させてしまうアンチノミーの作家、宮崎駿は、それだけでなく思想としても自己矛盾を抱えている。ロリコンでありマザコンであるところ、反戦思想なのにミリオタなところ、子供向けといいながら大人を喜ばせる作品を作ってばかり(押井守談)というところなどなど、言われれば得心するものばかりだと思うが、最後の部分に関しては高畑の思想が大いに影響している気もする。

 

話を戻すと、これまで宮崎駿はそのユートピア=夢=異界=死の世界との調和を描いていた、と言える。まあそれは、落としどころを見つけるというようなものであったかもしれないが。

ポニョにしても、重要な要素としての「水(海とか波とか)」という点で繋がりがある。宮崎駿の描く水は物質的で透明感といったものよりも「重さ」を感じさせる絵になっている。そこには「美しさ」といったものはなく(というと語弊があるが)、せいぜいそれにもっとも近しいものとしては「畏怖」くらいなものだろう。しかしその畏怖というのは、「死」が誘発するものにほかならない。元々、イシスのように大地と生命を象徴するものは同時に死を象徴するものでもあると考えれば、それは必然なのだが、「もののけ」におけるだいだらぼっちの水の質感が放つ死の臭いからもそれはわかる。「風立ちぬ」において「空」がそのまま死の世界であることと同じように、なればこそ観客はそこに感情を揺さぶられるものを見出す。

反対に「火」は「生」的に描かれ、本作ではそこに宮崎駿のマザコンかつロリコン趣味を一人で満たすことのできる少女化した母親という一粒で(駿的には)二度おいしい属性すら付与されたキャラクターがお出しされる。それによって、これまでの宮崎作品において「強い女性像」として出てくるものの実は母胎回帰的な欲望によってのみ存在させられていた「機能美」…つまり世間が思うような深夜アニメ的な少女像まんまのキャラクターが登場しさえすることになるのだが。

だけでなく、それに加えて真人の父の後妻になる叔母(!)が登場する。これをどう解釈すべきなのか全然わからない。身重であるという設定も、救出される対象であるという役回りも、従来の女性キャラクターのポジションと一見すると変わりないように見える。

一方で、唯一といっていい物語的要素を担うのもナツコだけだったりする。死んだ母親を忘れられない眞人が、後妻であるナツコを母親として受け入れるという部分。が、普通ならその二人が冒険を通じて関係を構築していくというのが本当だろうが、別にそういうわけではないのだ。そもそも死んだ(とされる)母親が少女の姿で出てくるのも意味不明といえば意味不明だろう。説明もされないし。よく考えたらキリコの存在も謎ではあるんですよね…なんで若返ってるんだよとかどこからきたんだよとか、別人格っぽかったのに帰るときは一緒で帰ってきたらまた婆さんに戻るのかよとか、ともかく整合性という部分を気にしだしたらまともに観てられなくなります。言うまでもなく、そういうことを気にさせずアニメーションに没頭させるだけの力が宮崎駿にはあるので、観ている間は気にならないのですが。

そういう意味で、この映画は「ハウルの動く城」(と「千と千尋~」に似ているとはいえるのだけれど、これまでの宮崎映画とは決定的に違う点が一つだけある。

それは夢の世界の崩壊だ。先に書いたように、これまでは夢=死の世界と現実と折り合いをつける形で両者の均衡を保ってきていた。それが、今回はその夢の世界の維持を明確に自分の意志で拒み崩壊させるに至る。そうして現実に回帰した眞人は、たいくつな「父」(CV木村拓哉なのが笑う)に迎えられ、モノローグによって第二次世界大戦終戦し二年経過したことが告げられる。

最後のカットで父と後妻と幼い子供(おそらく弟?)に合流する眞人を映し、映画は終わる。

これがどういう意味なのか、そもそも意味があったのかどうかすらわからないのだけれど、これが宮崎駿の終活だったのではないかと考えると何となく納得できる部分もあるかもしれない。弟の存在というのも、彼なりの倫理だと解釈できなくもないし。

 

いつも以上にまとまりを欠いた文章だが、この映画自体がそういう感じなので……。

批評が出そろったらもしかしたら追記するかも。しないかも。