「青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない」
なんというかこう、ゼロ年代後半~10年代前期の空気感とキャラデザ(と劇場版とは思えない低コストな作画)で、それだけでノスタルジーが刺激されてしまうのですが。
よく考えたらこういうラブコメ(コメ?)って20年代に入ってからどれだけあるのだろうか、という感慨もあって、ラブコメ自体がそもそも減っているのではなかろうかとか思ったり。若者の恋愛からの後退というのはよく言われるし、それ自体が人間性にかかわる問題として取り上げられることもあるが、それはさておくとして、ここまである種の決断主義的なことを主人公が迫られるというのは最近の日本アニメでは観てない気がする。少なくともテレビシリーズでは。
量子力学については「それってそういうことか?」と思わなくもないが、やってることはいわゆるタイムリープものやBTTFとかのあれに近く、終盤からラストにいたる展開についてもまんま同じのをどこかで観た気がするのだが思い出せない。
この映画の描いていることというのは、要するに「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」「ザ・フラッシュ」のような「自己決定」による「運命の受容」に連なると思うのだが、しかし本作では量子力学を取り入れているにも関わらず周到にマルチバース的な並行世界の概念を隠蔽している。それこそがBTTFにおける「「いま、ここ」の否定」問題となるわけだが、あくまで「青春ブタ~」においては徹底して「いま、ここ」として描き続ける。いや、多分これだけではなくそれこそが日本アニメ的な特徴なのではないか。
それは、この映画(および原作)のタイトルの「青春」というキーワードがもたらす思春期の若者の自意識への固執によるものなのではないかと思ったり。細田守の「時をかける少女」にギャルゲー的想像力を注入したのが本作とするならば、私が感じたジュブナイル風味も頷ける。
まあ、ある種の決断主義の完徹にもかかわらず、ちゃぶ台返し的なラストはどうかとも思うが、ハッピーエンドとしては満点な気もする。そのせいでどっちを取るのかという問題が再発生しているのだが、それも隠蔽されているあたりは周到である。
で思い出したけど「メモリーズ・オブ・ノーバディ」だこれ。
「プリンセス・プリンシパル(第1章・第2章)」
架空年代記のイギリス舞台のチャーリーズエンジェル…にしては割としっかりエスピオナージュぽくしてて、なおかつスチームパンク風味という。
ただテレビシリーズがあったことをまったくこれっぽっちも知らず、侍従長のあたりとかキャラクターの設定とか全然わからなくて話についていけんかったです。
「リッブヴァンウィンクルの花嫁」
疑似家族というか似非家族というか、何なんだこの感じは。前半はなんかもう見るに堪えないというか、岩井俊二ってこんなSっけあるんか?というくらいメンタルダメージが。観てるこっちが辛いというか、共感性羞恥というか、黒木華のたどたどしさや幸薄さに対するいら立ちに似た何か(それは自分を顧みてのことでもあるのだが)などなど、ともかく感情が揺さぶられまくる。まあ学校でのこと以外は綾野剛がかなり関与しているっぽいが…ていうか綾野剛の胡乱でうさん臭い感じ半端じゃない。そのくせ最後まで関与し続けるわラストに至ってはなんかさわやかな(服装の色味が前半と後半で違うのは割と意図してるのだろうが)感じなのもかえって得体の知れなさが増すという。真白の母親の前で泣いていたのもあれは演技なのかガチなのか。ともかくこいつの存在感が半端ない。このうさん臭い綾野剛を見れただけでも割と満足感高い。
しかし「シャニダールの花」での二人を先に観ているとこれはなんか変なものを見せられている感覚が。
あと、明らかに観客に対して窃視の共有のようなものを意識させるような造りになっている。まんまAVの構図やんけ、というホテルでのくだりは、本当に綾野剛がカメラを仕掛けていたわけだし、中盤で真白が「天井で誰か見てたりして」という発言があってからの、二人のウェディングドレスベッドインをまるで天井からのぞき込むかのように真上からの俯瞰ショットで長回しでズームしたりアウトしたりというように。
そうでなくとも、このカメラワークはどことなくドキュメンタリータッチでもあり、それがより「見ている」感覚を増幅させている。
Coccoと黒木華のレズビアン(ではなく、限りなく百合)の関係性の尊さは本当にてえてえのだが、ああいう形でしか描けないというのが弱さでもあるという気がする。
いやでも面白かった。
「プックラポッタと森の時間」
やはり八代監督は良い。無論、彼が初めてというわけではないのだろうが、ストップモーションの撮影上、屋外での撮影の場合だと現実の時間の流れ(雲、影、日差し)が被写体となる人形の時間と異なる。なのだが、それこそが被写体である人形が、我々とは異なる身体を持ち、現実と異なる時間を「生きる」ANIMATEDされた存在であるということをそれだけで見せてくれる。それをモノローグで語ってしまうのだけれど、その語り自体はあくまで「語り」であり説明的ではないのでアリアリだし、子供向けであることを考えればこれくらいがちょうどいい塩梅。
本来はそれは悪手なのかもしれないが、精霊(とは言われてないけれど)的なsomethingを描くのにはその方がむしろリアリティがあるとすらいえる。
途中でセイヨウタンポポをプックラポッタが斬首するシーンがあるのだが、そこで糸(というか針金)が消しきれてなかったのが惜しかった。
「30年後の同窓会」
さすがリチャード・リンクレイターといったところ。少し鈍重な感も否めなくはないが、そこはフィッシュバーンとカレルとクランストンのおかげで問題なく観ていられる。ていうか、サルがブライアン・クランストンだとは全然気づかなかった…この人こんな野蛮さが表に出る感じのイメージがなく、もっと内向的というか自己省察的な感じの役柄のイメージがあったので…なんならブラッドリー・クーパーにすら見えていたくらいなので。フィッシュバーンについては暴言を吐きだしてからはもう「よ、悪罵屋!」といった風でもう定食屋の定番メニューみたいな安心感が。
まあ、とにもかくにもこの三人のアンサンブルの勝利。「さらば冬のカモメ」の原作の続編を原作にした(ややこしい)映画ではあるのですが、映画の方の「さらば~」とは繋がりがない。とはいえ、やはりオマージュしたようなカットは散見できる。あれもあれでかなりの傑作でござんした。
個人的にグッと来たのはベトナム戦争とイラク戦争を一作の中で繋いだことだ。どちらの戦争も米国の欺瞞によるところが大きいことについての一兵卒(軍曹だけど)たちのポリフォニー、ナラティブを通して、しかし最後はそれでもなお亡き息子の意志を(結果的に)尊重する父の、マチズモの肯定と否定、戦うことそれ自体の意義(イーストウッドイズムである「国のためではなく仲間のために戦う」ということ)への言及。
ベトナム戦争時の売春宿の話などは、もちろんリンクレイター自身も倫理的に許されざるものであることは理解しているだろうが、それでもあの四人の楽しく話す様をどうして否定することができるだろうか。それはオリバー・ストーンが戦場や疑似的な戦場(スポーツ)において描いてきたものの延長線上にある。
だから、同じ過ちをおかしながら、その生き証人としての老兵とその息子の死によって紡がれるベトナム戦争とイラク戦争の「いたみ」を、その多面性を臆面もなく、メタな分析的な視点ではなくその当事者たちの声として(もちろんフィクションとしての劇映画ではあるけれど)描いたことは一つの達成なのではないかと思う。
「メメント」
今更。なるほど、これは確かに巧みな脚本で前情報なしで観ていたこともあってかなり混乱をきたしました。しかしWikipediaが妙に力入ってるんだけどなんだこれ。図説まであるし。ノーランは映画と時間、というよりも映画の時間(をどう切り取るか)を常に問い続けてきた映画作家だと思うのですが、もちろんそれは映画を扱う上で多かれ少なかれ誰もが行うことだとは思うのですが、遡って観ている感じになるのでキャリア初期からこういうことをやっていたのだな、と。
それが裏目に出てしまったのが「ダークナイト ライジング」だったんだな、と。
「落下の王国」
ターセム・シンだったのね、これ。
ロングロングアゴーからわかるように、「映画」を、おとぎ話の中のおとぎ話とい体裁で語る映画のように見えた。
ある意味で映画史の映画であり、しかもそれをおとぎ話の産物として、アクション、映像としての映画として称揚するという。
衣装も含めプロダクションデザインの勝利としかいいようがない。
「テリー・ギリアムのドン・キ・ホーテ」
夢の継承、というより物語の肯定。制作の困難さを考えると、この映画自体がこの映画の制作過程そのものなのだろうと思わざるを得ない。
それでもなおギリアムは現実を超克する物語の強さを信じ続ける。というのがとても熱い。今はその「物語」がとても弱い立場に(というか、ヤバい方向に強烈に)作用してしまっているのだけれど。そういう良し悪しや善悪という部分に回収されない物語の強度をギリアムは信じ続ける。