dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

攻殻機動隊2045

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観てきた。

CGはそこまで気にならなかったかな。冒頭のアメリカの山の背景がちょっと「やばくね?」と思ったけんども、京都の集落とかは作りこまれてたし。トグサの顔アップのときなんかヒゲの細かさすごかったし。とはいえリギングに対してモデリングはもうちょいクオリティアップできなかったのかという気はしなくはないかなぁ……あとカット単位で観るとクオリティにちょっと差があるようには感じたかも。

 

あとこの劇場版、ちょっと特殊なつくりになっておるのですな。

テレビシリーズ(というかネトフリの連続シリーズ)を再編集したもので、そちらは20分のが12話で大体4時間超であるからして、それを120分に収めているのでかなり削られたところもあるでしょう。とはいえ昔からテレビアニメシリーズの総集編的なものはありましたし、それ自体は別段珍しいものでもないとは思うんですが、劇場版の編集を「新聞記者」などの藤井直人監督という実写畑の監督が務めていて、なおかつ彼はアニメに関してはほとんど素養がないという話。観ていてどことなく「実写映画っぽいつなぎだな~」なんて思ったりしたのですが、なんとなく納得。つっても神山健治も短編入れれば実写撮ってますが。

んで、私はネトフリの方を観ていない(というかサブスクサービス一切加入していないという生きた化石ゆえ)のに加え、攻殻シリーズに関してもほとんど無知に近い(SACは何話か観てるし押井守のも観てはいたけれど)ので比較なんかもできないし、そうでなくとも無学でちゃらんぽらんな自分はテレビの方のSACで素子のモノローグとかに「???」となりかけたりもしてたもんで、観るまでは話についていけるか割と不安だったんですけど、割と大丈夫でしたよ!(白目)

パンフ読んだ感じだと藤井監督(攻殻機動隊をほとんど知らない)が結構大胆に構成を弄ってるっぽく(まあ実質半減させてるわけなので)、それが初見の自分のような観客にはかなり上手くハマっているのではないかと思う。

少なくとも私は問題なく見れた。とはいえ、これまでの攻殻機動隊シリーズの用語の意味合いなんかはある程度知っていること前提ですが。

あと思ったよりアクションシーンが多い上、CGであることを利用してカメラがすげー動くんで結構疲れました(いやまあ、CGでも大変は大変ですが)。この辺はまあ単話で観ればちょうどいいアクションシーンの配分なのでしょうし、そのアクションも観ていてつまらないというわけではないので全然いいのですが、朝イチで観るもんじゃなかった。

 

というのが劇場版観てのの所感なのですが、公開から一年経過してる作品の劇場公開編集版をネトフリの方との比較もなしに語ることにどれだけ公共的な意義があるのか分からない(劇場公開2週間だけなのにもう1週間経過したあとだし)ですが、まあ感想書くこと自体自己満足だし、必ずしも劇場動員のために書いてるわけでもないので。

 

話のコンセプトとしては「幼年期の終わり」(のテーマ)を大きな軸に、そこにMGS4的なコントロールされた戦争やテレビシリーズから通底する(インター)ネットにおける人間の心理をつなぎ合わせた感じ。だろうか。あと人類の中から人類の倫理や思想を超越する超人類が誕生・それをめぐる政治ゲームという意味じゃスタージュンの「人間以上」や高野の「ジェノサイド」と並べてみてもいいかも。

そんなわけで、序盤の戦闘シーンの背景なんかはMGS4のそれを想起させる。というか、現実の内戦地域などを参照するとそうなるのかな。あと神山さんが劇半をオファーした戸田・陣内の作曲ユニットがそのものずばりMGS4の音楽を作っているあたり、かなり狙ってる気がするんですが。まあシミュレーション志向という超大雑把なくくりでいえば小島秀夫神山健治は共通していますが。

今回の劇半は良い意味であまり印象に残らないというか、その時々のシーンのシチュエーションに溶け込んでいるというか。もっとありていに言うとちょっと前のハリウッドSF大作の重低音な「ブォォォン」を控えめに鳴らしてたり(この二人、ハンス・ジマーのラボとも制作してたりするらしい……なるほど)、なんというかですな、音楽も含めて全体的に表現主義的に見えるというか。

 

で、本題。

今回のシリーズで目下の敵対者(まあ敵ではないんだけれど、厳密には)として仮構されるポストヒューマン。トグサが今回は(も?)彼らに近接する存在なんですが、なんでトグサなのか、というのは多分これまでのシリーズを追ってる人ならわかるかもしれないですが、それは彼が公安9課の中で最も人間性の残っている存在(そのメタファーとしての電脳化率の少なさ、あるいは傭兵として参加していないや家族写真の描写もそうだろう)だからなのかなと。いや知らんけども。

というのも、今作の重要な存在であるポストヒューマンは、ああ見えて実のところ極めて倫理的……というか倫理の限界突破した存在である(かもしれない)からだ。

そして、そのような極めて倫理的な存在であるポストヒューマンに対して、既存の人間はどうあるのか。

本作で描かれる(大衆としての)人間は控えめに言ってクズである。というのは、一つには既存のシステムの維持のためのサステイナブルウォーという戦争を継続させていることがある。建前として、一種の経済活動としての戦争でありプロは死人を出さないようにしている、というのは劇中で言明されるのですが、戦争それ自体が悪であるという共通見解があるのは論をまたないことであるし、劇中の戦闘描写を観ればそれが欺瞞であることは一目瞭然だろう。

あるいは公安9課のメンバーが日本に戻ってきて、ポストヒューマンの一人である矢口サンジを追う中で明らかになる移民労働の問題や、シンクポルによって引き起こされたソーシャルジャスティスウォリアー(以下SJW)的事件など。これは明らかに現代社会(日本)の持つ問題であり、創作を現実(社会)とどうコミットメントさせるかというのは神山健治の持つ問題意識なので、このモチーフ自体はご愛嬌といったところでしょうか。

ただ、比喩ですらないこの直截的な描写から、ポストヒューマンと既存の人間の対立軸が浮かび上がってくる。

そもそもこのシンクポル(「1984」の思想警察由来)は、シマムラタカシというポストヒューマンが構築したシステムであるわけですが、彼自身は一度使ったあとは放置してしまっており(おそらくは倫理的な葛藤から)、劇中のSJW的事件を引き起こしたのは一介の高校生だったことが判明する。これが表しているのは、端的にいって、問題はシステムそのものではなく運用する人間の方にこそあるということでせう。

このへん、オルテガの「大衆の反逆」やル・ボンの「群集心理」の問題でもありましょう(100分de名著脳)。

 

そしてその問題はサステイナブル・ウォーともつながってくる。

既存の社会制度を維持するためにこの戦争があるわけですが、ポストヒューマン(いい加減長いので以下PH)はそれを壊そうとしているわけです。

これは、実はかなり倫理的な、ヒューマニズムの問題でもあることが、映画の後半でPHになる前のシマムラタカシが実は倫理の問われる場に二度直面していたことで、明かされる。

これ、パトリック・ヒュージとゲイリー・ハーツの描写までではよくわからない、というかむしろ、それこそこれまでのSF映画で描かれてきたような人工知能的な行動(身体動作という意味でのアクションも含め)をとるわけで、ゲイリーの核発射未遂なんてのは「ターミネーター」そのまんまですし、要するに彼らのどこに人間性ひいては倫理なんてものがあるのか、という風にも見える。

のですが、日本国内のPHを追っていくことで、実は彼らPHの行動の動機というのが極めて倫理に基づいたものであることがわかってくる。前述のシマムラタカシの過去の体験しかり、そして矢口サンジの撲殺対象から導出される彼の動機しかり。

 

そうなると彼らがエイリアンではなく、人類から進歩した超人類であるということが重要になってくるように思える。

なぜなら「超」人類であるがゆえに、PHの倫理は既存の人間の倫理を超えるものではあれ、まったく別のものではないから。だから、極めて倫理的であるからこそ、非倫理・非人間的なサステイナブルウォーというシステムの破壊を目論んでいるのではないか。戦争それ自体あるいは殺人それ自体が非倫理的なものであるという意見は論を待つまでもない、とは既述のとおりであるわけで。そしてそれを終焉させることができるのであれば、その最も効率のいい手段が核の発射であれ殺人であれ、彼らはいとわない。それが「超」「人」たるPHの倫理なのだろう。

そう考えると、ゲイリーが、パトリックが、人間としての倫理を試される軍人であってこと、サステイナブルウォーを支えるテクノロジーに深くかかわるブラッド・ロボティクス社のCEOであったことも偶然ではないのかもしれない。

つまり、衆愚=倫理の欠如した既存の人間の在り様と、それを超越するポストヒューマンの存在の対置が本作のキモ。まあ、ポストヒューマンを肯定するか否定するかはまだ完結していないシリーズゆえわからないところですが。

ただ、戦争や殺人を絶対悪(という観客の倫理)としながら、PHは超倫理的であるがゆえにそれを遂行(パトリック・ヒュージ、矢口サンジ)し、かたや既存の人間は非倫理的であるがゆえにそれを行っている(G4、ネームレスキングの高校生)、というのはすごく面白い。

また人外、というか人工知能を搭載したロボットでしかないタチコマがなんだかいつも以上に人間味ある描かれ方をしているような気もして、その辺も「人間とはなんぞや」という点から考えると面白いものが見えてきそうです。

 

あとキャラデザね。今回の少佐、顔面のアップで映るとちょっとハッとするほど妖艶でヤバイのですが、そういった個人的な癖は別として、本作のテーマと結構面白いシンクロをしているように見える。

これはどこまで意図されているのか分からないのだけれど、イリヤ・クブシノブ(この人、「プラチナエンド」のOPのアニメーターもやってたり、今作とのなんとなくの繋がりでいえば小島秀夫とも親交があったり(?)するんですが何者なの)の絵柄の特徴自体がそうなのですが、これまでの攻殻機動隊シリーズに比べるとかなりネオテニー化しているように見える。特に女性に関しては。(いやまあ、彼の画集の「モーメンタリー」読むともうちょっとバラエティあるんですけど)

そもそもが、この人の描く女性キャラクターの顔はパーツ単位だと割と類型的で、というかまあそうでなくともマンガなんかに出てくる可愛い・美しい女性キャラクターというのは男性キャラクターに比べてその類型が乏しく、その女性キャラクターの表象の少なさ自体が性差別の構造を含んでいるのではと思ったりするのだが、一方でそういった男性目線の性差別的構造の美少女キャラクターの特徴(ネオテニー)の持つ可能性ーー子どもの感覚が感じることのできるものーーがあったりして、それはそれでカウンター的に機能させられそうだとは思うのだけれど、話が脱線しかけているので切り上げる。

などと書きつつ、実は完全に脱線しているわけではないような気もするのだけれど、こればかりは本作がどういう風に進むのかということによって全然解釈変わってくるので何とも言えない。

ただ、一つの解釈としては女性キャラクターデザインのネオテニー化とは、女性こそが前述の「幼年期の終わり」におけるオーバーマインド的な進化の方向性であり、男性的なそれはオーバーロード的な進化に向かうのではないかとか、そういうのも一つアリかなーと思ったり。一方でそういうルックに囚われないためのトグサだったり、とか。

キャラデザだけでなく、メインの女性キャラである少佐(まあこの人は正確には性別不詳なんですが、逆にだからこそともいえる)や江崎プリンの、なんというかこう、それこそゴーストに忠実な感じもこの妄想を補強してしまう。

まあそれでいうと少佐がネームレスキングに言った「ピュアなのね」というセリフがすごく気がかりで、このセリフがどういう意味合いで口にされたのかによって上の解釈全然違ってくるんですが。

 

そもそもまだシリーズが完結してないので何ともいえないけれど、これ小林泰三の「脳喰い」みたいな落ちになったりするのかしら、とか思ったり。

まあ「ポストヒューマン」というくらいだからポストヒューマニティズの話になってくる気もしますが、その辺の哲学談義に付き合えるほどこっちに学はない。無念。

 

余談ですがパンフの情報がちと薄いのはちょっとアレ。1100円でこの内容は物足りない。特別興行料金で割引効かない1900円の観賞料金と合わせて3000円ですよ。

まあ1年前に出来上がってたアニメのパンフだし情報はだいたい出尽くしてて書くことそんなにないのかもしれませんが、であればこそもっと細かいとこ書いてくれても良かったと思うんだけどなぁ。

 

更に余談なんですけど、パンフの表紙の写メ撮ろうとしたらポストヒューマンのシマムラタカシだけ顔の認識されなくて笑ってしまった。さすがポストヒューマン。

 

さらにさらに余談だが、なんか今年観てるアニメにやたら林原めぐみがメインだったりキーキャラクターで出てきてるのですが、なんなんだこれ。しかも大体が人類の外の存在。でも最初は林原めぐみだと気づかなかったし、やっぱ上手いですな。

や、私が知らんだけで出ずっぱりだったのかもしれませんが。アニメはここ数年まったく見てなかったから知らなんだ。