dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

シルトラマン

観てきた。「ドクター・ストレンジMoM」の感想をなんとか書き上げたそのままの足で劇場に行って。

や、普通に面白かったです。

ゴジラに比べればウルトラマンへの思い入れはほとんどないに等しいのでイースター・エッグを楽しむというようなことはほとんどなかった(といいつつ冒頭のどろどろ背景のオマージュとか、ゴメスの明らかなゴジラモデリング流用とか「そんなとこパロせんでいい」とかツッコミ入れたりしてましたけど)のだけれど、まあそもそもそういう類の映画を撮るタイプでもなし、そこは心配してなかった(シン・ゴジラの初日の初回に観に行く前は基体半分不安半分といったところだったが)のである意味安心して観に行けた。

でまあ、監督樋口真嗣と言いつつもクレジット観たら案の定、庵野秀明がっつりかかわっており、編集、絵コンテ、選曲、果てはモーションアクションアクター(要するに中の人をやりたかったのだろう。どことなく挙動の怪しい部分があったのでゾーフィあたりではないかと睨んでいる。まあそれ自体庵野秀明の学生時代の自作のセルフオマージュともいえるのだが)とかほかにも色々やっていた。それにしてもこの庵野ノリノリである

とはいえ、仮面ライダーやらエヴァやらで忙しかったのかパンフレットのインタビューも、庵野はなしで監督の樋口真嗣と助監督の尾上克郎だったし、どれだけ庵野秀明が関わっていようと監督としてのクレジットが樋口なのであればその責任は樋口が負うべきなのであろうが。その割には喧伝されるのは庵野の名前ばかりなのでもう少し樋口真嗣をフィーチャーしてやってもいいのではないかという気がしなくもない。あ、だからメディアの矢面に立たされているのか。

 

久々にパンフレット買ったのですが、あんまり面白い内容はなかった感じ。むしろ、わざと情報を小出しにしているというか、「ああ、シン・ゴジラのときみたいに後々のパブで開陳していくのだろうな」というにおいがプンプンしております。公開初日には行けなかったのでデザインワークス買えなかったのが痛い。今回、個人的にメフィラスのデザインのリファインがとても良かったのでこれも欲しい。おそらくはパンフレットよりも充実した内容が載っていると思われる。値段も倍以上だし。

 

余談はともかく本題。

私はあまり特撮の批評や社会あるいは民俗学的なあれこれについてはほぼ何も知らないので、極めて表層的な見方しかできなかったのが少し惜しいところではある。とだけエクスキューズじみたものをあらかじめ付記してみる。

まずもって本編に入る前の段階で気になる要素をぶちこんでくるあたり、相変わらず意地が悪いというかなんというか。なぜ本作のタイトルの直前に「シン・ゴジラ」のタイトルがでてくるのでしょう……?

いきなり観客を困惑させようとしてるのか、考察厨への撒き餌なのか知らないけれど、事前情報一切なしかつ鑑賞後もこの感想文を書き終えるまではほかのレビューなども観てない身からすると「なんじゃそれ」である。いや別に腹を立てているわけではないのだけれど。

まあ、忖度すれば別に世界観が同じというわけではなく(クウガとアギトくらいはあるのか?キャスティング的にも)、今回の「シン・ウルトラマン」は時系列的には本編開始以前からすでに怪獣が数回に渡って出現しているという設定なわけで、「シン・ゴジラ」のようにゴジラという真に未知なる存在との初遭遇という段からスタートするわけではない。その意味で、未知なる存在との初遭遇(「シン・ゴジラ」)をすでに済ませた、ポスト「シン・ゴジラ」以後の社会であるという意味合いとして、「ULTRAMAN」のタイトルの前に「シン・ゴジラ」のタイトルを持ってきたのかもしれない。

 

頭から怪獣ダイジェスト(もといDIEジェスト)で掴みを持ってくる、という作劇は「シン・ゴジラ」と同様で、そこから現在へと飛んで目下怪獣への対応を、というところで謎の外星人としてのウルトラマンが登場という流れ。

この時点で神永は死んでいる、というかコラテラルダメージ(ですらないのだが、実際。しかし、「着地しただけで人間は死ぬ」というのは、それ自体がすでにからしウルトラマンの超然性である)によって死んでいるのだけれど、この時点ではそれがわからず、戦闘後に場面が変わり長澤まさみ演じる浅見が合流し、どうも神永の様子が変である(しかし他のキャラクターは特に指摘したりはしない)、ということを観客が読み取れるようなセリフ回しや話し方を斎藤工がするのである。

 

そして次なる怪獣の登場。ここで「おお~」となったのが、ウルトラマンの赤い色の意味。これが原典からしてそうなのかは知らないのだけれど、本作のウルトラマンの体色の赤を、ヒトの血の色として見立て人間と融合したことを端的に色だけで視覚的に表現しているところは面白い。実際、初登場時の人間神永と融合する前のウルトラマンの体色は銀色オンリーなのである。

このように、今回は(も?)人物の描き方がかなり比較的スマートである。基本的にはセリフそのものは「それいらんよね」なものも含め説明的なものばかりなのだが(あとは状況に対するリアクション)、人物の横顔や細かな表情のカットイン、セリフの発し方によってその心情の変化やキャラクター自体を描出することに成功している。実相寺を意識してるのかやたら珍妙なカメラアングルが登場するのは気になったけど。イマジナリーラインを平然と超えてきたり、「お前は小津か」と変な笑いが出たり。

まあ、とはいえ滝くんのあれは「ジェバンニが一晩でやってくれました」案件すぎて、「シン・ゴジラ」のときのようにチーム全体で徐々に解析していくハッタリの楽しさに乏しい上にご都合がすぎるのであるが。また、キャラクター単体を抜き出せばともかく(いやまあ、キャラ付けとしてどうかという部分も結構あるが)、それぞれの人間関係があまり見えてこず(なして神永の変化に誰も気づかんのかとか、現場にいないことを不自然に思わんのかとか色々)、それが結局のところラストを筆頭に本作のテーマの訴求を弱めているということは言えるだろう。

ただお忘れの方もいるだろうが、樋口真嗣が実質的な監督をした「進撃の巨人」のキャラクター描写がアレだったことを考えるとだいぶ練られていることは間違いない。少なくとも樋口真嗣が監督としてクレジットされている映画としてはかなり良い方である。

 

ところで今回のウルトラマン(を筆頭とした外星人)は、かなり異質感が強い。それはザラブのびんぼっちゃまスタイルほど露骨ではないにせよ、すべての外星人がおそらくCGのモデリングのレベルで意図的にライティングを通常とはやや異なる当て方をしているものと思われる。その差異は怪獣ともまた違っている。

この辺のセンスは、オリジナルの製作話の時点で欧米とのセンスの違いが明確に出ている点であると言える。ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』からまんま引用すると

アメリカの或るシナリオライター実相寺昭雄に対して、ウルトラマンの銀色の表面は衣装なのか皮膚なのか、なぜ空を飛べるのか等と次々に質問したが、まともな答えが得られないことに苦笑してこう語ったという。「アメリカじゃ、子供だましでもいいから、最低のエクスキューズを用意しておく。たとえば、スーパーマンのマントとか。……理屈がつけばいい。さもないと根本から得体の知れないものになってしまう」。ウルトラマンにはまさに「得体の知れない」穴があいており、そのイメージの来歴についても理にかなった説明を拒絶するところがあった。その結果、この謎めいたアイコンはたんなる科学の象徴を超えて、さまざまな連想の横滑りを引き起こすことになる。例えば、その卵型の頭部デザインについて、実相寺はジョルジュ・デ・キリコの影響をあげたが、しかし当のデザイナーの成田亨はそれをきっぱりと否定している。

~中略~

実相寺が後に「ゲテものの生命力が和製の特撮にはあった」と述べながら、そこに「傾く特撮精神」を見出したのは、ウルトラマンシリーズの本質を鋭く突くものである。ハリウッドのSFXがいかにも本物らしい壮大な人工世界を作ろうとするのに対して、「和製の特撮」はどうしても生の風景や人間というノイズを打ち消せない。だからこそ、偽物を偽物のまま本物と言い張るための見立ての技、つまり「かぶく」芸や大見得を切るパフォーマンス──実相寺ふうに言えば「児戯に類する話」「チャチと言われるのを恐れぬ造形」「コマ撮りに頼らぬ縫いぐるみ」等──が必要になってくる。

~この不完全な「嘘」の世界をチャーミングに見せようとするところに、特撮の賭けがある。

 

ということなのである。三宅も言っていたが、私たちがいわゆる特撮を観るとき、ハリウッドのリアルなCGのように、それを本物と見紛って観るというセンス(感覚)は働いていないように思える。(が、聞いたところによると今回の「シン・ウルトラマン」の予算はだいたい9億円くらい(!!???)らしいので、かなりの制約があったものと思われる。ネームバリューに比べて予算規模があまりにも少ないのだけれど、いいのかそれで。いや、予算がどうというのをあまり言い訳として使うのもよろしくはないと思うが、どう考えても企画に対して予算が少なすぎやしないか)

あるいはその挙動。オリジナルでは人形であるがゆえに「そういう動きしかできない」という制約を本作でもあえて導入することによって、むしろ「人間の理解の外」であることを示せている。それを、前述の引用にならって「かぶいている」と形容してもいいかもしれない。

まあ、それでもVSメフィラスのシーンの背景はせいぜいがPS4のグラフィックぽくてファイティングレボリューションを観ているような気がしなくもなかったけれど、ハリウッドでさえこの手の映画で戦闘を夜に行わせて誤魔化していたことを考えれば、大作とはいえ所詮は邦画レベルのバジェットでは頑張ってはいるだろう(嫌な擁護の仕方だが)。パンフレットのスチール(?)だとそんなに違和感ないですし、メフィラスのところ。メフィラスのとき、まどマギのキュウベエが出てたんだけれど、あいつの役回りを考えるとメフィラスって本作のテーマにおけるかなり重要な気が……というかメフィラスの元ネタの元ネタがメフィスト・フェレスなことを考えれば、さもありなん、なのか。

それにしてもメフィラスのデザインはいい。多分、ライティングを意図的に減らしてペンタブラックのような感じにしているかもしれないけれど、いい……。「使徒じゃん」とかいうツッコミはなしの方向で。

あと人間態のときの山本耕史のうさん臭さと理知的な感じのバランスも良い。戦闘が始まってからでさえ最後まで合理主義を貫くところも良い。その引き際の良さで以てゾーフィの強者感すらも引き立ててくれるし。というかゾフィー(ゾーフィ…という名前、と劇中での行動が誤植じみたものが発祥というあたり、庵野の面倒なオタクスピリッツが炸裂している)、本作ではやってることは人間から見るとアレだけれど格を保ち続けているのは立派である。オリジナルでは兄弟から「ゾフィーのことなんかいいよ」と言われていたというのに。

 

ことほどさように、ウルトラマンを筆頭とする外星人というのは「シン・ゴジラ」におけるゴジラほどではないにせよ(あれは劇中での巨災対の名が示すように、原子力という制御不能性を含めた上での災害なのでそもそもからして身体を持つ他者ですらなく、あえて言うならばシステムそのものである)、理解を拒む絶対的他者として描かれている。そして、それはウルトラマンが当初「神(に最も近い存在)」として形容されていたことからも明らかだ(そもそもが「外」星人である)。外星人が揃いもそろって人型でありながら一目で人間ではないと分かるシルエットをしているのも、そういうことだと意味を与えることもできる。(庵野、神という形容を多用しすぎ問題)

けれど、これは決してウルトラマンという神の物語ではない。むしろ、これは神殺し=神の否定による、人間の善性と智慧の賛歌の話といってもいいのではないか。

本作において、絶対的な神として顕現したウルトラマンは、しかしその余波から弱者を守って死んだ神永と融合することによってその神性・絶対性を失う(それに伴い、メフィラスに指摘される通り地球上での活動制限ができたりするなど、明らかに能力的な弱体化がなされる)。そして、人間の持つその善性(とされる)行為こそがウルトラマンをという絶対的他者を触発し、神永=人間を理解しようとし融合による蘇生を実行する。

ほかの生物が必ずしもそういう行動をとらないとは思わないが、少なくとも人間の善性の象徴として本作では自己犠牲を厭わずに他者を救済することがある。それは神永だけではなく、西島秀俊(好き)演じる田村が、ゼットンへの特攻を、ウルトラマン/神永の身を案じて却下する(それはすなわち自分を含めた人類の死である)ことからなどもわかるように強調して描かれる。やたらとスムーズに進んでいるからわかりづらいが、浅見が単独で神永の救出に行ったのも同様の行為以外の何物でもない。

 

そして、ゾーフィとゼットンという天使と神(あるいは悪魔)を思わせる連中の登場、その裁定・審判との対峙によってウルトラマンの存在はダメ押しと言わんばかりにおとしめられる。VSゼットンのシーンのカットを観ればわかるとおり、文字通り画的にもウルトラマンは矮小化されている。ていうかゼットンでかすぎ。

その後の展開自体は、正直言うと前述のとおり滝のジェバンニ化で「それどうよ?」感もなくもない(というか、ドラマパートは結構しんどい部分もある)のだが、ともかく神に縋って祈るのではなく(「困った時の神頼み」というセリフが劇中にあるが、当然ながらこれは反語である)人間の智慧と、人間化したウルトラマン(半神半人)によってゼットンを退けることになる。

ここで重要なのは、ウルトラマンの攻撃それ自体はゼットンからの防衛に一切寄与していないところだ。ゼットンの撃退に必要だったのは、あくまでベータカプセルの機能であり、ウルトラマンに要請されたのはその機能を使うタイミングを調節するための貶められ不完全な(人間の)超越的身体でしかない。暴力的・破壊的な神に対し、矮小な火力しか持たない人類(神永/ウルトラマンを含む)の攻撃が通用しないのは自明である。

であればこそ、神を退けるのに要求されるのは武力ではなく人間の智慧(の正しい使い方)なのである。人間の善性から始まった神(ウルトラマン)と神永(人間)の物語は、ここにおいて人類最大の発明である「科学」を必要とする。

そもそもが「神」自体、人間の発明の産物に他ならず、その神による人間の抹殺という話自体が一種の人間に対する楔(もとい教訓)であり、人間の手を離れた、過ぎたる神に対し同じく人類の発明である科学(を人類という他者のために用いて)で相克するというのは至って自然な流れではある。

 

掌握不能な大きな外部に人間の智慧で対処する、というモチーフは「シン・ゴジラ」と同じであるが、今回の「シン・ウルトラマン」ではそこに「絶対的他者の身体(への恐怖)」という、いわば庵野秀明私小説的な「エヴァ」で扱ったテーマを外挿している(というより、ウルトラマンを扱う上ではそうせざるを得なかったのでは)。

庵野秀明はSFオタクであるし、「科学」(それこそ、特撮自体が科学の表象そのものである)というものを信じている人間ではあるだろう。だからこそ、疑似科学=オカルト要素の強いエヴァンゲリオンという、ある意味ではその科学が人間の意思によって汚される物語を描きえたのだし。だから、市井の人々が出てこないとかいうのは、そもそも庵野秀明が人間不信ぽい(まあ過去を思えばわからいでもないが)ということを考えれば当然なのかもしれない。だからダメ、と言うつもりはないけど。むしろ、最近はヒーロー映画などを観ていても「市民の視線がないからダメ」とかで評価を下げる人が多くて、それもそれでどうかと思うが。そもそも、それってどういう意味合いで使われているのか。ヒーローなどの超然性の補強としての意味合いなのか、ヒーローがパンピーのことを考えていないからだめだということなのか。

もっとも、その指摘から分かるように、おそらく庵野秀明は科学は好きだけど人間はそこまで好きじゃないのではないだろうか。だから人間の善性をテーマに掲げながら根っこの部分で人間を信じ切れていない(シン・エヴァもあれは対父親なのでう~ん)ために、ディスコミュニケーションを含めたコミュニケーションが描けず、状況に対処する個を描くしかないのである。

奇しくも途中まで「シン・ゴジラ」の脚本にかかわっていた神山健治が「攻殻機動隊」において荒巻に「我々の間には、チームプレーなどという都合のよい言い訳は存在せん。有るとすればスタンドプレーから生じる、チームワークだけだ」と言わせていたセリフの裏返しになっている。これは、人間不信の対極にあるものだろう。

というか、「シンゴジ」に対して政治劇を含めて状況そのもののディテールの書き込みが甘く精彩を欠き抽象的になっているので、全体的に色々とふわふわしている。まあ、異星人を導入したらそうならざるを得ないのだろうが、時々刻々と状況が変化していく「シン・ゴジラ」に対し、テレビシリーズのように一つ一つにとりあえずの呼吸が置かれる本作では、ちょっと趣が異なる。

 

「シン・ウルトラマン」におけるウルトラマンが戦う相手というのは、それぞれに位相が異なっている点も結構面白いのだけれど、面倒なので書くのは諦める。

 

色々書いてきたけど、鷺巣さんのスコアは相変わらず良いし、SFオタクらしい庵野秀明のテキトーなサイエンスジャーゴンの使い方(マルチバースってそういうもんじゃないのでは)とかも含めて、笑って楽しめますよ、ええ。庵野秀明の提示してくるSF要素って見掛け倒しなところがあるので、その辺に一々目くじらを立てるほどの気力など私にはありませんし、ウルトラマンのことも大して知らないのでギャーギャーわめきたてるようなことも特になく。むしろ久々の和製怪獣プロレスものでもあるし普通に楽しめましたよ。へんてこりんな部分も含めて。

ただまあ、「シン・ゴジラ」に感じた以上の興奮はなかった。ウルトラマンのデザインはエロくていいと思ったけれど。このエロさがフェティッシュなのか、あるいは「子供を宛先とした『ウルトラマン』のような商品からうっかりセクシュアリティを形成してしまった存在として、つまり「欲望を誤って受信してしまった青年」として定義」されたオタクとしての庵野秀明(まあ悪い意味でオタクっぽさがにじんでいる部分はたくさんあったが)が出ているのかどうか。

ウルトラマンシリーズの本編そのものはあくまでこのような「青年」の危険な欲望を遮断し、非性的な「少年」との共生を選んだ。内容的に言っても、このシリーズの中心には「子供の世界認識」があった」とすれば、庵野秀明が真に向き合うべきは子どもたちなのではないだろうか。

某氏が半ば冗談で「子供向けにテレビシリーズ撮ればいいんだよ(笑)」と言っていたが、大人にとっての絶対的他者である子どもに向き合うということが、庵野秀明に求められていることなのかもしれない。よく考えたら本作には子どもは一応出てくるが、そもそもあの子の生死すら不明ではなかったか。見落としているだけかもだが。そういうところに、庵野秀明が子どもに向ける(向けていない)視線のおざなりさがある。

などと偉そうなことを書いているが、別に庵野さんに説教をするつもりなど毛頭ないし、普通に楽しみましたし仮面ライダーも観に行きますよ。ええ。

 

あとこれは冗談なのだけれど、東京独身男子の記者会見で斎藤工があるエピソードをダシに高橋一生のことを「一生さんは本当に神がかった方です。地球に舞い降りた神なんじゃないかと思っています。神が主演です」と弄っていたのだけれど、楽屋落ち的に考えると高橋一生ウルトラマンの声だったというのも頷けるのである。冗談だが(二度目)。