dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

12/2020

「砂漠の鬼将軍」

 ロンメルマジヒーロー

 

「天国は待ってくれる」

口説けるかどうは虫の数で決まる。金言ですな。

しかしまさかボッシュートを映画で観るとは。

 

「こんな夜更けにバナナかよ」

 今更になって三浦春馬の死を実感してしまった。この人真面目な役ばっかやってる印象。松岡茉優とやってたドラマくらい軽いのって結構珍しいのでは、とか。

しかしみんな上手いですね。高畑充希のイライラ演技の口調とか表情とか声の震えとかマジにしか見えなんだし、大泉洋の腹立つけど天性の人たらし感があって周囲を惹きつける存在感とか、マジで素晴らしいと思います。ただ役者ではない大泉洋としてみるとそれを自覚して織り込み済みで対応するのが鼻につくこともあるのですが、やはり役者としては素晴らしいです。何気に韓英恵出てましたね。

春馬と大泉の長回しとか、回想シーンのモノクロストップモーションとか面白い演出もさることながら、鹿野の自宅のドアがバリアフリーになっていたり、講演会でおそらく聾啞である人にマンツーマンで手話通訳していたり、しかしそういうのを殊更強調しない品もありながら、悲哀を強調したりもしない。

性に関することは「パーフェクト・レボリューション」で主題として取り上げられていましたが、リリーフランキーのような嫌な生々しさもない大泉洋の陽気な感じは金ロー向けではありましょう。

ぶっちゃけ「60セカンズ」よりも全然好印象です。

 

 

「半世界」

坂本順治監督ゆえ(失礼)と知り合いのゴローちゃんファンが「微妙」という評価だったので警戒していたのですが、思った以上に良かったでござそうろう。まあ、キノフィルムズが好きそうな映画だなぁ、とは思いましたが。たしか香取君が主演の「凪待ち」もここの配給だった気が。

カメラワークがちょっと独特で、やたらと人物の「背中」から(背中を、ではなく)から撮っていたり(これは明確な意図を持っていることが途中で人物のセリフで明かされ、ラストシーンの長回しで対比的に使われたりするのでかなり意識的ではありましょう)長回しを多用していたり、それがどことなく黒沢っぽくもあったりして、それが独特に感じられたのやも。序盤の池脇千鶴とゴローちゃんの食卓での横から撮っているシーンで、ちょっとした会話(この映画、部分部分を除いてかけ合いの妙が良い)の流れでゴローちゃんが苛立って立ち上がるシーンがあるのですが、そのときゴローちゃんの顔から上だけがカメラに映らなくなる感じとか、ともすればその直後にゴローちゃんの顔のアップでリアクションを見せたりしそうなものなのですが、そのまま場面転換していたり、その辺の割り切りというかつなぎ方もあまり邦画ではない感じ。少なくとも大作では。

 

 この映画は全体的にホモソーシャルとそれに連なる暴力性を「美学」的に描き出しており、その旧態依然としたものを前提にしていることにそれ自体に無頓着な気がしなくもないのですが、しかしそういうホモソがいまだに温存されているがゆえに、それをスムーズに描き出すためにあえて田舎町を舞台にしている可能性もあり、なかなか厄介な問題ではありそうなのです。

いや、やはり無頓着というのはないだろう。そうでなければ元自衛隊であるという設定もコンバット・ストレスの問題に言及することもないし、脚本の流れとしても長谷川博己が明に護身術(という名の暴力性のメタファー)を継承させようとする場面の後に長谷川博己自身がその暴力性(の中心地である戦闘地域での経験の傷跡。少年兵への言及なども考えるとイラク戦争に派兵された過去があるのかもしれない)を発露するという極めて自己言及的なつくりになっている。

あるいはゴローちゃんが父親から愛の鞭()を受けていたことや、それが継承されていたような痕跡が所々の明への対応からも垣間見える。

一方で、三バカのやりとりなどは明らかにホモソで遠慮のない(つまり配慮のない)心地の良い空間として機能させている。

かといって全面的に感情移入させるようになっているかというと、前述の暴力性の部分からもそれはあり得ないし、三バカが夜の海に繰り出しおしくら饅頭をする場面など、夜の海をバックに収め遠めから撮ることでその滑稽さを伝えてくれる。もちろん、このシーンでは三バカに寄り添うようなアングルもあるわけで、全否定だったり全肯定だったりというものではない。

 

思うに、この映画はホモソーシャル的な時代錯誤な「美学」をどうにかして昇華させようとしているのではないか。だからこそ(素行不良であったとはいえ)「父」から殴られていた(接し方がど下手~)、「父」であるゴローちゃんが死ぬことでその連鎖が断たれ、ホモソの部分極限空間(つまり暴力性だけが純化された)たる戦闘地域で傷を負った長谷川博己は破滅を免れる。そう考えると、当初、長谷川博己がゴローちゃんたちと距離を置いていたのもよくわかる。(この主題自体は、仮面ライダークウガとその直系である響鬼の敗北によってストレートにはもはや通用しなくなっていたことを10年以上前に示していたわけなので、直截的に描くのが不可能だったのでしょう)

ゴローちゃんは父親への反発から家業を継ぐ(それによって生活は苦しい)。しかしラストにおいて明は父親と全く同じカメラワークで仕事場に入ってきながら、その家業を継ぐのではなく自らの夢として掲げるボクシングの練習場として使用する。

つまり高村家の時代にそぐわない家業(=ホモソーシャルの暴力性)の継承を否定し連鎖を断ち切り、その暴力性によって傷を負った沖山のその傷(=戦闘地域への適応による過剰な暴力性)をそのまま受け取るのではなくボクシングという夢へと(心理学的な意味合いに近い意味で)昇華させる。

 

ある物事を単純に良い悪いと割り切るのではなく、なるだけ総合的俯瞰的(この言葉に他意はないですよ、ええ)に見ようとしたのではないか。とはいえ、天秤でいえば肯定に傾いているのでしょうが。

 

演出も面白いですし、まあまあ良い映画だと思いまする。

 

とはいえ、気になるところも結構あって、明くんのいじめの問題の解決方法が「バットマンVSスーパーマン」における「マーサ!」並みに「おいおい」てな感じで、しかも葬式に来てたのが(グラサンは謎)ちょっといい感じになっていて(村田くんの表情の絶妙な塩梅自体はいいのですが)、「いや、そのりくつはおかしい」とちょっと萎えるポイントではありました。いや、本筋を考えればホモソ的暴力性の正の側面として機能させたかったというのはわかるのですが、こっちははっきりいって上手くいっているとは思えませんでした。

あとは中坊を恫喝するシーンとか、長谷川博己にそういう怒鳴らせかたさせるのはあまり迫力にかけるというか、この人はもっと静かに狂ってる感じの方が合ってる気がするのです。それと長谷川博己の暴走シーンの音楽も、もうちょっとなんか別の感じにできなかったのだろうか。コンポーザーの問題というよりはこれはやはり監督の采配によるミスな気が。同じ池脇出演作品で「そこのみにて光輝く」とか素晴らしい音楽使いをしてたので、あれくらいやって欲しい。

それ以外にもゴローちゃんがコダマみたいに森の中でたたずむ夢幻的なシーンとか、所所でセリフの過剰さが目立つ部分もあり(それこそ「背中」の意図を語らせるセリフはもうちょっとスマートにできそうな気もします。それでもカバーしようという意識は観えたのですが)。池脇千鶴と支配人のかけあいも「話の論点が~」はいらないかなぁ。というかあのくさいくだりはいらないと思う。まあ個人の好みの問題なのだろうけど。

 

俳優陣はみんなよござんすよ。ゴローちゃんの肌が綺麗すぎて「こいつ本当に田舎もんかえ?」と思ったりはしましたけれども、「うざくて理解のない父親」感じはよく出てましたし、長谷川博己もちょいちょい演出による「んー?」な箇所はあったにせよそこまで瑕疵にならないのはさすがですし。

池脇千鶴はしかし「そこのみ~」から考えるとまた別の色気というか家庭的な感じが出てきていい具合に年を重ねてきていると思います。

 

言いたいことはあるけれど全体としてはまあまあいい映画だと思う。

 

 「フル・メタル・ジャケット」

通しで観るのは初めてだったのですが、さすがキューブリックというべきでしょうか。

ディスコミュニケーション(とそれがもたらす惨禍、あるいは滑稽さ)というのはキューブリック映画に通して見られるものではありましょうが、ベトナム戦争を題材にしたことでそれがかなり全面展開されている気がする。

普通の映画なら微笑みデブがハイライトになっていてもおかしくないにも関わらず、それは前哨戦にすぎず、微笑みデブの末路それ自体がベトナム戦争(ひいては戦争全体、あるいは戦場)における非人間化の極致を見出させる。

私がこの映画で一番そら恐ろしかったのは、戦場におけるマスキュリニティを通じてしか成り立たない会話の上滑りがディスコミュニケ―ションの極北として描かれていることである。しかしそんな彼らがインタビューを受ける際には、やはり戦争や戦闘に対する疑問、自由という建前のもとに行われる単なる殺人(Slaughter)に対する本音が見え隠れする。一方、戦場に参加してこなかった報道部のラフターマンは戦場を知らないがゆえに(ディコミュニケーション)アメリカの正義をインタビューにおいても掲げ続ける。

そんな彼がラストにおいて行う(劇中で描かれる限りは)最初にして最後の殺人。この殺人に至るまでの状況それすらがマスキュリニティをあざ笑っているのですが(ブービートラップによる隊長の死亡、それを引き継ぐものの力量不足により隊員を死なせてしまうカウボーイ、乱射する部隊、強敵がいると戦車を要請するカウボーイ、結局は自身も殺されてしまうカウボーイ、 それらを引き起こしたのがたった一人の女性スナイパーであるという滑稽さ。それまではあっけなく死んでいた兵士たちが、このシークエンスにおいてのみスローモーションでその死に際が際立たせられる=逆説的な滑稽さが誇張される)、遂にアメリカの正義を掲げ敵を「殺した」後のラフターマンのバストショットにおける顔は、明らかにほほえみデブのそれであった。

長回しシンメトリックな絵面、血を引き立たせるための白いタイル、アンビエント調な音楽、狂言回しであるジェイムズのあだ名がジョーカーである遊びなど、その辺はやはり抜かりない。

 

正直、ベトナム映画ものでも群を抜いている。戦争映画とは、つまるところ非人間化を描くことにならざるを得ない(今はその旗手はキャスリン・ビグローなのだろうか)のだろうけれど、しかし表現の野蛮さという点においてはやはりキューブリックはすさまじい。

 

「ミッション:8ミニッツ」

ダンカン・ジョーンズの二作目。今のところ全四作ですが、一応前作は観ている程度のにわかな私ですがこの人中々手堅い作品作りますな。

前作に続いて「極めて」限定的な生からの解放=(疑似的な)死というモチーフは続いている。ジレンホールから監督に持ち掛けた、というのが中々面白いのだけれど、しかしジレンホールにしては真っ当に正義漢な感じ。とはいえ、病みぎみというか、世界に対する違和感を持っている(あるいはジレンホールの役柄自体が世界に対する違和感である)といった部分は相変わらずな感じ。

いわゆるループものであるわけですが、最終盤までは「単に記憶の中をリピートしてるだけです」という説明が(だとしたら行動によって記憶が変わるというのがそもそもおかしい)されるわけですが、それが開発者の思惑を超えた機能を持っていたことが明かされるわけです。まあ、量子物理学とか言ってる時点で当然と言えば当然だし、主人公の行動に意味を持たせるという意味であれは作劇上の意味があるわけですが。

でも無意味でもやる、というのでもよかったとは思うんですけどね・・・。

中々いい感じのよござんす。

 

「僕はイエス様が嫌い」

この、小学生の「僕」から見た神への疑義という問題それ自体はサウスパークで10年以上前に観たなぁという印象。

ところでこれ監督・脚本・編集・撮影を一人でやってるということなのですが、まあ一応証明の人もいるようではあるのだけれど、ほとんど自然光で撮ってるんじゃないかというほど暗いシーンが多い。特に屋内。

これほとんど人物のかけあいの妙というか、演技っぽくないエチュード的な感じを堪能する映画のような気がする。だからこそちびっこキリスト(以下チビスト)がコミカルな動きをするのではないだろうか。

ていうかチャドに似てるチビストが出るたびに「チャド・・・?」となったのですが。本当にチャド・マレーンだったとは・・・。

閉塞感がどうとか、鶏とか(キリスト教におけるニワトリは罪への警告の象徴とされる)まあそういうディテールからして、というかすでに述べたようにサウスパークでその話は(もちろん最終的にはギャグに回収されるのだけど)履修済みだったがゆえに、彼が死ぬことは自明でしかなかったわけで。ではそもそも、彼があの帰路に着くきっかけとなった由来の早退はどこから来たのか。それは直接的に言明はされないけれど、すさまじいシンクロニシティで自分にもまさに同じような(別に人死にがあったわけではない)ことがあったし、小学生のころ、まさに同じようなことがあったのでわかるすぎるくらいに由来の気持ちはわかるのだけれど、それは意地の悪い言い方をすれば独占欲に基づくものだしルサンチマンに傾きかねない。

無論、由来は転校してきたばかりという状況、そもそも彼は小学生だということ、キリスト教系列の学校というアウェイであることなどなどを考慮しなければならないのだけれど。

ああ、そう考えると自戒による赦しでもあるのかもしれない、この映画は。それこそ監督自身の。

 

 「レプリカズ」

午後ロー案件な気がする、これ。明らかに予算が大作のそれとは違うし。内容やオチまで含めてB級精神だし、扱ってるSFのテーマも手あかまみれ。

ただしこの映画は序盤のキアヌの倫理ブレイカーっぷりがかなり面白いというか、責任というものに対して(まあ理由はわかりすぎるくらいにわかるのですが)まったくコミットしておらず、友人に任せまくるというのが実に観ていて滑稽で面白い。

滑稽、と言いつつまあ全然笑えないんですけど自分を顧みると。

しかしそういうテンパり具合は観ていて面白いです。

 

怪獣大戦争

だいぶ前にレンタルして観た記憶があるようなないような、ということで再見する。

シェーってこれでしたか。いや、マットペインティングとか所々で目を見張るものがあったりして、侮れないというか。

しかしこんなに怪獣の出番少なかったかな、と思うほどあまり怪獣出てこないなぁ・・・というのは最近の(特に)ドハゴジに毒されてるような気がする。