dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

ジヨン

「82年生まれ、キム・ジヨン」を観た。

原作が邦訳されて日本でも話題になったときから気にはなっていたものの、原作は未だ未読なのですが、もしかして映画の最後の語りって原作にもあるのかしら?

だとすればほぼ自伝というか私小説入れ子構造みたいな感じだと思うのだけれど、どうなのでせう。

しかしまあ辛いナラティブ映画ではある。題材自体が卑近な社会障壁であるがゆえに感情移入もしやすいだろうし、母子愛ものでもある(なので客層も比較的高齢のおばさまが多く、ジヨンのお母さんが泣き崩れるシーンではちらほら鼻をすする音が聞こえもうした。それとも韓国映画で、ジヨンの夫役のコン・ユ目当てで観に来たのだろうか)し、お隣の国で儒教思想が強くまた町並み自体も比較的日本と似ているという「光景」がより身近に感じさせるのかもしれない。

ジヨンが、というかこの映画の切り取る世界が常に何かしら不安定であるということが、さりげなく揺れるカメラによって絶えず意識させられる。フィックスでいいじゃろうという何気ない会話の場面にいたるまでほぼずっとゆらゆらと揺れていることから、それは通底している。というのも、映画開始時点でジヨンは子育て(を筆頭にしたセクシズムからくる種々の社会的抑圧)による心労で少し様子がおかしいということが示されているからである。これは演出もさることながらチョン・ユミの(元から体の線が細いのもあるが)疲労をたたえた、やつれた表情によるところも大きい。

コン・ユ演じるデヒョンのnaiveさというかデリカシーのなさっぷりも腹立たしくて良い。デヒョンがジユンのことで泣き始めたときなんか「泣きたいのはこっちじゃボケェ」と言いたくなる感じで。いや、そういう場面でないことはわかるし、監督の意図としてはあれはデヒョンの思いやりゆえのだと思うのですが、しかしやはりジユン(に寓意される社会における女性)からすれば「泣きたいのはこっちだよ」なのである。

というか、デヒョンは割と最後までそういう唐変木なところが変わらないというか。回想での「子どもを作るか作らないか」の話題も含め、実のところ彼自身には大きな変化というのはない気がする。ジヨンを愛していることは間違いないし、ジヨンからはその決断の重さを具体性を帯びて認識できてはいない(会社の研修時に、同僚との話題で育休を取った男性社員が昇進できなくなったという話をデヒョンは聴かされ、それでも育休を取るという決意のこと)とはいえ、彼の行動とは何より自分のためではなくジヨンのためだ。

しかし、だからといって彼女の辛さを本質的に理解しているわけではない。ラストシーンに至っても、二人で横断歩道を渡っていく開けたカットとは裏腹にデヒョンの表情は笑みを浮かべながらもどこか煮え切らないものがある。いや、真っ当にみれば夫婦二人で助け合いながら生きていくという前向きなエンドではあるのですが。しかし同じく女性のセルフケア映画である「タリ―と私の秘密の時間」のような密接さは、撮り方も相まってどことなく横からタクシーが突っ込んでくるのではないかというフォビア(というか個人的なオブセッションかも)を想起させるカットになっている。それもうギャグなんですけどね。

「タリ―と~」を引き合いに出したのは、「82年生まれ~」も同じく主人公による主人公のためのナラティブでありながら、その語り口は第三者性を帯びているところが似ていると思ったからである。「タリー~」の方は、これは盛大なネタバレになるが要するにイマジナリーフレンド(≒多重人格)ものであるわけで、一方でこの映画においてジヨンは抑圧された自分自身(=規範に押し込めれる女性性)を、同じく抑圧されてきたであろう女性たち(祖母とか)を精神症状の発露として「憑依・語」らせることで表出させる。

だからこれは「タリー~」と同じ女性のセルフケア映画なのである。であるがゆえに、ジヨンを救ったのはジヨン自身であり、彼女の中に息づく抑圧された女性たちなのである。そう考えればデヒョンのnaiveさというのも得心がいくし、妻がなぜ吹っ切れたのかということも根本的に理解しているわけではなさそうだということにも納得できる。無論、彼自身は変わろうと努力しているし、それ自体は悪いことではないが、しかしそれはやはり「男性が育児をするとイクメンと称えられる」問題と同じなのだ。

 

何か大きな悲劇があるわけではない。ただソレらは、毒のように女性を幼子のころから、あるいは生まれた瞬間から蝕み続け、女性の心身がそれに耐え切れなくなったときに頽れるのだ。言うまでもなく、それは女性に限らないことではあるが、「女性が」という言葉を殊更に強調することは何らおかしなことではない。

それがこの映画で描かれることだ。トイレでの一件も”ガラスの天井”もそうだが、女性の方が客体化されやすい、というのは社会構造によるものなわけだし。

どうでもいいが、チーム長が会社にいたときはメイクが濃くハッキリした色合いであったのに対し、自分で起業したあとの彼女のメイクの違いを見比べてみてもなかなか面白いものが見えるだろう。

 

ところで「FはファミリーのF」というベトナム戦争後のアメリカ社会に住むある家族を描いたアニメがあるわけですが、このアニメでも女性の社会進出が拒まれることや過剰適応しなければならないことが描かれていて、劇中の韓国は90年台後期から10年代中期までを描いているはずなのだけれど、どこの国のどの時代でもこういうセクシズムやトキシック・マスキュリニティはあるのだなぁと嘆息してしまいます。まあ「F~」の方は基本コメディではあるので笑えはするのですが。

 

余談ですが、この映画を観て近日出版予定の浜田敬子「男性中心企業の終焉」を読んでみたいと思いましたまる