dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

これこそが「トウソウ」だ

6月はほかに観たい映画が目白押しなこともあり当初はまったくアンテナに入ってなかったのですが、さる人の勧めで観ることに。ちょうどポイントも溜まっていたし休みも重なったタイミングもあって朝一番で観てきた。

どうでもいいが、コロナ禍以降めっきり劇場に足を運ぶことが少なくなったというのに今月はやたらと観ている映画が多い。まあシネコン限定だけれども。

そんなわけで特に観るモチベーションがあったわけでもなかった「ウーマン・トーキング 私たちの選択」を観てきた。

邦題の「それいるか?」という副題をつける宿痾というか痼疾は相変わらずだが、PARCOは地味に良い映画もとい意識高い映画を配給してくれるので文句は言いますまい。この映画にしたってアカデミー脚色賞にこそ輝いているものの、うちの近所のシネコンではかかるかどうか怪しいラインだったはずだし、実際に箱も取れてないし回数もほかの大作や邦画に取られている。「SHINJIDAI」までお出ししてくれた「クリード」に至っては上映終了も近いという始末。テレビ映画に枠をやるならこっちに回してくれよと思う今日この頃。

 

しかし、そんなこととは関係なしに、この映画は傑作である。
これが、この映画で描かれていることこそが真に「たたかう」ことなのだ、とすら言っていいのではないか。いや、そのような物言いではレトリックとはいえ「たたかい」という暴力性の発露に回収されてしまうことになる。たかがレトリックだが、しかし言霊を軽んじることのツケがどれほどのものなのか、誰しもがそれを日々目の当たりにしているはずだ。

であれば、この映画の女性たちが「闘争」ではなく「逃走」を選び、さらにそれを映画の文脈の中で徹底的に議論を突き詰め(あるいは観客としての私自身が)「去る=Leave=出発」とパラフレーズすることにより、彼女たち自身の選択を彼女たち自身がその主体を以て肯定したことのたくましさがいかなものかは推して知るべしである。

暴力は直接的には描かず、その名残でもって暴力を暴くことは、昨今の「(物理的に)強い女性」表象という既存のマチヅモと同じ土俵で戦うことでかえってトキシックマスキュリニティを温存・反復し、むしろ暴力性を肯定しかねない表現とは一線を画す卓抜した、ドラスティックな問題的の手法といっても過言ではないだろう。
もちろん私自身はアクション映画は好物だし、こういう映画よりもむしろそういった映画の方を好んで観るタイプではあるけれど、同時にそうではない可能性を追い求めてきた人間なので、このような映画が作られたことに本当に感動しているのでせう。

しかし、今までそういう映画がなかったかと言えばそんなこともないだろうし、ポリティカリーコレクトネス的に過剰な表現が控えられることはむしろ表現の敗北だろう。バイオレンスやポルノグラフィは、それ自体が反体制的な意味合いを持つものだが、だからといってそれだけに耽溺することも、開けっぴろげに見せるだけのエログロナンセンスに居直ることもまた思考放棄の甘えに他ならない。
だからこそ、直截のバイオレンスやエロだけではない描き方を発見することこそが映画であれ小説であれ表現であり、そのメタファーやアレゴリーによって、「描かない」ことでこそ「描く」よりもはるかに強烈な印象をもたらすこともある。直接に描かれるよりも見る者読む者聴く者の想像力を刺激し、想起させることが表現なのではないか。そしてそれは作り手が受け手を信頼していなければできないことであり、また作り手にそれを達成するだけの技量がなければできないことであり、この映画をそれを実現している。

一言で議論といったが、映画内で描かれる議論は言うほど軽いものではない。そもそも、この映画において画面上で展開されるのは基本的に女性たちの対話だけだ。それ一本のみで2時間を牽引することの凄まじさ、物語に寄りかからずお約束に決して甘んじない強靭な意志とそれを実現するための強度を持つことがどれほどのものなのか、素人の私では考えるに余りあるが並大抵のことではないだろう。

サスペンスを演出するために、男たちが帰ってくる2日間というタイムリミットを設定していることなどもその一つだし、特に時間の演出についてはただでさえ色調をぐっと抑えた中でも(だからこそ)強く意識させるつくりになっている。プロダクションノートで撮影監督のモンテペリエは「たそがれと日没の間を撮影する」という時間的制約の解決法のためにスタジオに納屋のセットを二つ組んだと言っていることからも、あるいはランタンにしてもそうだが、時々刻々に進んでいく短い時間を意識させるような演出がなされていることは確かだろう。

また過度にウェットにならないことも貢献していると思う。女性のナラティブというと、あまりに人物に寄り添いすぎてべたべたになってしまう危険性もあるが、この映画は彼女たちに寄り添うことはない。ただ、彼女たちのあるがままを切り取るにすぎない。実際、サラ・ポーリーはこの映画について寓話的・叙事詩感にこだわったという。叙情ではなく叙事であるということ、それによってもたらされる普遍性というものは間違いなくある。言い換えるならば、この映画は三人称的に彼女らの語りを捉えるのだ。そして、それはある女性のナレーションによって補強される。この映画は「誰か」の物語ではなく「皆な」の物語であるとするならば。

そして問いかけにさらなる問いかけを重ねていき、議論がさらなる議論を呼び込み、無限後退ともいえる問いかけの連鎖によって彼女たちは絶えず考えを深化させていく。それはひとえに信仰心から湧き出るものであり、同時にそれこそがまた彼女たちを縛るものでもある。

三つの選択のうち、「赦し」だけは最初の段階で排除される。しかし、観ればわかるとおり「赦し」を選択した女性の数が極めて少数だったということではない。それはあくまで相対的に少なかったというだけだ。

その縛りからついぞ逃れることのできなかったのがスカーフェイスなのだが、彼女をマクドーマンドが演じているというのが役者の文脈の読み替えというか反転的で中々秀逸ではありませんか。
「赦し」を選んだスカーフェイスは、その選択しが退けられたために強烈な存在感を放ちながらも映画の序盤で退場し、終盤までほとんど姿を現さない。だからこそマクドーマンドだったのだろう、とも思う。姿を画面上に見せずとも、彼女の演じたスカーフェイスという人物を、退けられこそしたが彼女のとった「赦し」という選択を絶えず意識させるために。「赦し」は信仰によるものであり、信仰は彼女たちのアイデンティティの大部分を占めているのだから当然だろう。実際に、劇中で「闘う」か「去る」かの議論の中でも都度都度(特に年長者が)「赦し」について語っている。
スカーフェイスの選択は彼女の娘をも縛る。それでも、最後の最後に娘たちだけは去ることができる。スカーフェイスの選択した信仰からくる「赦し」という実存と娘たちが留まることで受けるーーかつて自分が受けたーー苦痛を思い、その葛藤の末に娘たちだけは行かせることを選択した。彼女が躊躇なく「赦し」を選んだことは、それ以外の道が己のこれまでの信仰とともにあった人生を否定することにほかならないからだ。
ならば娘にも「赦し」を徹底してほしいというのは彼女の心情としては偽らざるところだろう。けれど彼女は娘たちを行かせた。娘は彼女のモノではないからだ。彼女たち自身に選ばせたのだ。その点において、村の女性たちをモノとして扱ってきた男たちとスカーフェイスは決定的に違っており、斎藤綾子の見解と私のそれは異なる。そもそも、そんな単純なことではないのだと、マクドーマンドの表情を観ればわかるではないか。


他方、「闘う」と「去る」の議論も決して一筋縄ではいかない。彼女たちは意見をぶつけ合わせこそすれ、対立しているわけではない。まして、理論武装によって相手を言い負かそうというわけでもない。
本作がある宗教の(ていうかキリスト教の)ある宗派(メノナイト)におけるコロニーで起きた事件の話である以上、「ゆるし」を巡る話であるのは必然であり、その教えを啓蒙する「神」についてのナラティブが出てくるのも当然であり、ある女性が全能のパラドックスを持ち出し(神はそもそも取引しないが)怒りを顕わにするのも自然なことなのだ。心無い者は彼女を「感情的な女」と見なすだろう。あるいはメジャルの発作のシーンにしても、あの描き方の意味は単なるPTSD(ダメージ表現)ではない。

それは大文字の主語としての「女性」の語りに陥らないように、各人物が被った傷を決して一元化することなく描き出すために必要だったものだ。
ここに、先に書いた「(暴力を)描かない」ことによって細部が紡ぎ出される逆説が発生する。被害そのものの陰惨さは描きつつ、その加害者を抽象化(誰が誰をレイプしたのかを曖昧にしているだけでなく、この映画では「男性」の顔が直接描かれることはない)することでレイプという加害性だけを抽出し、均質化することで彼女たちの痛みそれ自体は同一のものとして扱うことで、「被害者」としてくくられる彼女たちの中にもスペクトルが生じる。つまり、「レイプ被害」として括られる同じダメージでも人によって受けるダメージは異なるということを言外に示している。

そして、そのしょうに異なる傷の在り方・癒し方を描きつつ無数の問いかけの中で彼女たちは「赦し」が相互性を伴うことを喝破し、平和主義によって闘いを避け、「去る」ことを選択する。
語りの一つ一つ、暴力の名残り、身体による紐帯。それら議論を構築するものすべてが結末に結実する。

「たたかう」ことなく、暴力を描くことすらなく、むしろ「たたか」わないことでこそ「男性性」の加虐を逆照射してみせるこの映画の持つ「語り」を重ね合わせることの力はそうそう観れるものではありますまい。
デイドリーム・ビリーバーが劇中曲からBGMへ後景化していく演出やエンドロールの「沈黙」めいた音の演出にいたるまで作りこまれている。
もう一度書くが、この映画は傑作である。

ただ、オーガストとメルヴィンに関してだけは、サラ・ポーリーと私の中に決定的な断絶がある。というか、この映画を取り巻く「語り」を含めたものに、だろうか。この映画を巡る言説の中では、両者があまりにも零れ落ちすぎている。「すべての人に(大意・意訳)」という聞こえの言い言葉は使っているが、パンフレットを読んでもネット上で読めるライターの記事を読んでも、大半が結局のところ「女性」にしかフォーカスしていない。この映画をどの視点に依って観るかは各人の自由だし、「ウーマン・トーキング」なのだから女性こそがこの映画について語るべきであるというのはよくわかるし、そもそもこれは女性がその主体性を取り戻す話ではあるので。それについては私とて完全に同意する。

しかし、この映画の有する豊饒さは、まさに女性だけでなく、面白みのないコメントを寄せるそれらの人々が口幅ったく言うような「すべての人」をインクルージョンしているのだから、この映画の「中心」である「女性」だけでなくその「周縁」を形作る人についても語るべきではないだろうか。様々な制約上、「誰」かが「何」かを語ることで見過ごされるものがあるとするなら、そういう人たちが取りこぼしたものに目を向けることだって大切なことだ。

だから私は最後にオーガストについて、サラ・ポーリーのとった「選択」とは異なる意見を提示したい。
もちろん、映画での描かれ方を観れば彼女がそこに無頓着などということはあり得ないし、特にメルヴィンに関しては劇中での描写はトランスジェンダーの封殺された声(とりわけキリスト教コミュニティ内では)の表象としては、むしろ巧みだと思う。だからあれは、同一の身体性を持ちこそすれ、当事者ではないサラ・ポーリーのある種の倫理であると考えれば誠実に扱ったのだと言える。

だがオーガストはどうか。彼に関して言えば、あれは「有害な男性性」の変奏と受け止められかねない危険性を孕んでいる。彼は何度か自分の思いを女性たちに伝えようとするが、そのたびに彼はその言葉を飲み込み、村に残り男を教育することを請け負う。
そう、サラ・ポーリーはその描き方からもわかるように、オーガストの望みを十分に理解しており、それでいて彼の「語り」を封殺しているのだ。彼がまさに劇中で言われるように。そして、それを言われたからこそ彼は自分の言葉を飲み下さざるをえなかったのだろう。ここには男性性によって殺された女性がその傷でもって同じく男性性によってその声を封じられてしまったという加害の入れ子構造ができている。

それが意味するところは「社会変革に必要な犠牲」なのだろう。サラ・ポーリーにとっては。言わんとするところは理解できるだけに、リアリズムの先を行ってほしかった気持ちがないといえばうそになる。
あるいはオーナが彼の手を取ることができれば違ったのだろうが、ここに見れる関係性は「制圧と収奪のプロセス」が想定されうるので、それはそれで難しいところではある。
などと書き連ねてはみましたが、ないものねだりでこの映画を貶めるようなことを書くつもりもない。

なんであれ、この映画が傑作であることには変わりないのだから。