dadalizerの映画雑文

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マイルスの物語

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期待値マックスで観てきた冒頭10分で期待値を余裕で超えてきた。
傑作どころか大傑作。いやさ超傑作といっても良いのではなかろうか。

宣伝文句としてFOX-TVのJake Hamiltonの「全アニメ映画史上、最高傑作!」 という文言があって、かつて「アベンジャーズ」公開の時に「日本よ、これが映画だ」並みの傲慢さを感じたり「いくらなんでも誇大すぎるだろ」とも思ったのですが、実際に観てみたらなるほど、そう言いたくなる気持ちは十二分に理解できてしまう。ていうか同調している自分がいる。

いやちょっとこれに関してはもう「観ねば死」というほかにない。なんならソニーからコロンビアのロゴのバグり表現でもう感極まりつつあった。そこからグウェンのパートが始まるわけですが、開幕10割で終幕までもう涙腺ゆるゆるでございましたよ。

嘘っぽく聞こえますが冒頭30分のグウェンパートのアクションや音楽、色彩、それらすべてをひっくるめたアニメーションの素晴らしさだけで感動のあまり落涙しましたよ。自分でもどうかと思うのだが、それくらいガツンともらってしまった。ドラミングの表現のバッキバキのカッコよさから始まりヴァルチャー戦までのその30分はCG表現を取り入れたアニメ史の現時点でのハイブリッドの総決算的な、それでいてディズニーやピクサーのようなフォト・シュール・リアリスティックとはまた異なる表現を「スパイダーバース」からさらに発展させた到達点として、その映像的快楽に鳥肌が止まらなかった。視覚効果監修のマイク・ラスカーが冒頭25分のシーンは映画の中でも最も難しいレンダリングスタイルの一つと言っていたので、それだけの技術力と人力が投入されているわけで、それも当然なのでせう。目から嬉ションである。
驚くべきは、二時間越えのこの映画で最後までそれが持続するということ。この映画だけでは完結せずシリアル的に次回に続くわけなのだが、まったくもって長く感じないどころか、久方ぶりに「え、もう終わり?」となるくらいひたすら楽しい。

認めてしまうと、自分のような凡夫はこの映画を語るのがかなり無理筋で、というのもあまりにも映像的な楽しさ、それもどこか抽象的で原アニメーション的な面白さ・楽しさに満ちていながらコラージュ的異質さも備え(スパイダーパンクがまさにその体現でもある)、それを言葉として伝えようとするのは根本的には不可能だからでせう。
それでも、この映画に対する感動を言葉にして書き起こそうと奮起させるほどこの映画は傑作なのである。

マンガ(というかアメコミ)のコマ割りを意識したスプリットスクリーンの巧みな使い方といいコマ芸も相変わらずで、コミックをアニメーションに置換するということへのたゆまぬ思考っぷりは、そういったスクリーン上に現出する視覚情報だけではなくこの映画の志向する本質の在り方にもつながっているように見える。

故スタン・リーが言っていたように「マスクを被れば、誰もがスパイダーマンになれる」という精神の体現が前作の骨子であった。つまりスパイダーマンになる話だった。本作では、そこに「マイルス・モラレス」というヒーロ―性ではない個人性の持つ他者との関係性による葛藤が描かれる。言うまでもなく、そのような葛藤はこれまでの実写版スパイダーマンなどでも近年でも描かれてきたことだが、本作ではそれが一種のセカイ系的様相を見せる。というより、逆セカイ系だろうか? 

そして、面白いのはその「犠牲」こそがスパイダーマンスパイダーマンたらしめるイニシエーションであり「正史のイベント」=カノンであるということ、それがスパイダーマンの運命であるということ、そのメタ的な自己言及であることだ。「犠牲なくして勝利なし(No sacrifice No victory)」ならぬ「犠牲亡くしてスパイダーマンなし」だ。

これはある意味で、スパイダーマンというキャラクター創造における作り手の贖罪意識とも言い換えられるかもしれない。アメコミのように同じキャラクターを何度も使い倒し、そのたびにオリジンをやりなおす方式は、実写映画のスパイダーマンにおいてすら我々は目にし、「またかよ」という気持ちを抱いたはずだ。それは「スパイダーマンだから」という安易で便利なドラマツルギーとしてのベン叔父さんの犠牲という、スパイダーマンの数だけ立てられ、それを受容した受け手によって共作された安普請の墓標でもある。

想えば、それは一種のループものでもあるのだ。「スパイダーマン」というキャラクターは、大衆から求められる限り(産業的価値がある限り)そのループから抜け出すことはできない。

ゆえにマイルス・モラレス≒スパイダーマンはその運命に反旗を翻す。何のために?父親を救うために。もちろん、物語上はそうだ。しかし、その本質は「スパイダーマンを救うため」だ。スパイダーマンによる「スパイダーマン」の(自力)救済。そうしてみると「Self Love」という楽曲の意味合いも、少し変わって見えてくる。つまるところ、それはキャラクターに対して真摯であろうとすることにほかならない。
これはある意味で「ウォッチメン」的発想かもしれない。誰がヒーローを監視するのか、ならぬ誰がヒーローをケアするのか、という話。メタヒーローの話としての。

そして、そのケアを(まさにヒーローであるマイルズが)ないがしろにした結果として生まれるのが「ヴィラン」であり本作におけるスポットなのだと喝破してみせる。彼の能力であるポータルの生成は、基本的に戦闘においては相手の攻撃をそのまま返すということに主立っている。ここの映像表現の面白さもさることながら、その意味合いを考えると彼の存在そのものがヒーローとしてのスパイダーマンアルターとしてとらえられる。彼のビジュアルがほかのヴィランと違ってどこか素体的であり、そのポータルがブラックホールダークマター)と形容されるのも、「スパイダーマン」というキャラクターを内包せしめるヴィジュアル的説得力と不気味さを与えられているのも面白いし、実際彼の登場しているシーンは面白さと不気味さ、最終的には「こいつやべぇ」感としっかりラスボス感まで醸し出すのだから凄まじい。

フィル・ロードクリストファー・ミラーコンビが手掛けた(主に製作だが)作品群には、キャラクターに対するメタ的な受容の視座が見える。監督作の「LEGOムービー」もそうだったし、「レゴバットマン」にしても面白おかしくもしかしバットマンの本質を抉り出す傑作だった。

スパイダーマン」を物語るにあって、実のところ死ぬのはベン叔父さんだけではない。本来、マイルズというスパイダーマンはカノンイベントとして叔父をすでに失っているし、ライミスパイダーにしてもアメスパにしてもトムホスパイダーにしても、そのシリーズ作品が作られる都度に親しい人間の死に直面している。
スパイダーマン」はその陽気さの足元にそれだけの犠牲を踏みしめているのだ。

しかしマイルズはそれを拒絶する。犠牲の上に「スパイダーマン」というスーパーヒーローが成り立つのだという「カノン」を否定する。スパイダーマンとして「スパイダーマン」の在り方を否定する。それはもはやアンチスパイダーマンと言っても過言ではない。

エバ・ヨークでスパイダーマン軍団に追われているとき、彼だけが(そして彼の友であった特定の「スパイダーマン」だけが)マスクを外していることは、演出上の分かりやすさや手間というコスト的な側面だけではなく、マスクに覆われた個人性の暴露であることの証左だ。

繰り返すが、これは「スパイダーマン」というキャラクターの救済の物語に他ならない。それをマイルズ・モラレスというスパイダーマンの手で行うということ、彼の個人の物語を紡ぐことでそれを成さんとすること。スパイダーマンの中の人としての語りから「スパイダーマン」を革命すること。
これまでの「スパイダーマン」は、その個人性とヒーローとしての自己の葛藤(によって生じる犠牲)によって物語を紡いできた。しかしマイルズはそれを葛藤させるのではなく、一本の糸に綯い交ぜにすることで統合し語りなおそうとしている。マルチバースという設定は、ある意味そのためにこそあると(少なくとも本作においては)言ってもいい。

その結果がどうなるのか、スポットとは別の明確なアルターエゴとしてのプロウラーはどうなるのか、「ビヨンド・ザ・スパイダーバース」が今から待ちきれない。

 

参照

「スパイダーバース」が3DCGアニメーションをいかに進化させたか - GIGAZINE

『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』:アニメの概念を更新せよ、映像体験の最前線(nippon.com) - Yahoo!ニュース

高橋ヨシキが『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』に見た映像の革新。 解体された因果の先にある、新しい〈一貫性〉|Tokyo Art Beat